僕と上司と拾い猫

人生に楽しい事は自分の目に見える範囲、手の届く物だけであればいい。
ジェイド・リーチにとって、例えばそれは他人との付き合いや、仕事で認められる……という事には興味などは無かった。それこそお金というのものは程々あれば良く、しゃかりきになってまで集めたりする必要など不要という発想だった。
程々に、目立たず、普通に。
ガツガツと上昇志向剥き出しで、有能さをアピールし、キリキリ働く、そんな……目の前の彼女のような事をしたいとはとても思えなかった。
「ジェイド、こちらの案件どうなっていますか?」
刃物のような鋭い声がジェイドの耳に届き、彼はいつものよそ行きの笑みを浮かべて
「はい、そちらの件でしたら、先日先方へご連絡して、直接お話をして納得頂いております」
「……それで向こうは納得したと?」
「ええ、こちらの提示した当初の物から、予算内で、報告に書いたとおりの内容に変更して」
アズール・アーシェングロットは、ジェイドも含めた五人程度のチームのチームリーダーだった。彼女は……ジェイドが忌憚無い意見をと言えば、能力はある。しかし部下の力の限界を測るかのような、常に出来るかどうかギリギリのレベルの物を割り振り、出来なければ泣いてようが尻を蹴飛ばしてでも完遂させようとする容赦の無い上司、と言うだろうか。
幸いにしてジェイドは上手く立ち回っていて、常に目立たない程度の程々のところで逃げているが、仕事人間とは言った物で、誰よりも早く来て誰よりも長く職場に居るアズールを見ていると、正直何が良いのか彼には分からなかった。楽しみなどどこかに捨ててきてしまったようにしか見えなかった。
彼女は、ジェイドをしばらく睨むように見つめてから、やがてふっと息を吐いて
「分かりました。この案件は間違えればとんでもない炎上案件になるような物でしたが……。素晴らしい手腕ですね。ジェイド」
「お褒めにあずかり光栄です」
ジェイドは、思わず瞬きしてアズールを見つめた。ひっつめたようなギチギチにまとめたシニヨンから後れ毛が垂れ下がり、彼女の目はどこか生気に欠けていた。そういえば、別のメンバーが具合を悪くして倒れてから、彼の案件は全部アズールが巻き取っていたのを思い出した。
それも、倒れた理由は仕事がきつかったから、なんて物では無く、生牡蠣にあたった食あたりだ。
荒れそうな予感に皆震えていたが、彼女は案外それについては怒らず、次からは生牡蠣を食べるなら休みを事前に調整してから臨めと、優しいのかよくわからない叱咤をしていた。
食あたり自体はどうしようも無い物だから、と彼女は肩をすくめていた気がする。
ただ、元々誰よりも案件を手元に抱えているのだ。更に、メンバーでどうにもならなくなった案件のサポートも常にやっていた筈である。もう既に抱えられる腕はないはずだ。
「あの……少し手が空いたので、何かあれば」
「次に来る案件をあなたにやって貰います。そちらもそれなりに要注意の物ですから、あなたはそっちに注力してください」
ばっさりと切り捨てるように、アズールは言って視線を再びラップトップに移した。
「そうですか」
言葉の通り、夕方頃にやってきた新しい案件はジェイドに回された。アズールは彼が開いているラップトップのモニターを見ながら
「書いてあるとおり、この顧客は低予算のくせにやたらに文句を言ってくる面倒な客です。あまり我が儘を言うようなら報告してください。上に言います」
「分かりました」
ちら、とジェイドは、皺も殆ど無いスーツのアズールに視線を向けた。一体いつ家に帰っているのか分からないが、それでも彼女は隙の無い格好で、そういえば漏れ聞こえる彼女に関する噂話の中には、人間じゃないとか、妖怪などとまことしやかに囁かれていた気がする。
歯に衣着せぬ社員達の評価は、守銭奴、高慢ちき、可愛げが無い、パワハラ一歩手前と散々で、総じて男女ともにアズールという人間に大してはあまり関わりになりたくない、見た目と体は良いがそれ以外は最悪、など散々な評価だった。
「ジェイド、何か問題でも?」
「いえ、特には」
視線を逸らし、ジェイドは仕事に取りかかり、定時になると片付けをして退社した。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
アズールは顔を上げなかったが、返事だけして、仕事を続けていた。
アズールの元で働いているチームメンバーは入れ替わりが激しい。それでも、そういえば彼女の元で働いていた人間で、ストレスや精神的に参って仕事を辞めた人間はいなかった。大抵、別の仕事にステップアップしたとか、やりたい仕事に就いたとか、独立するといって辞めていったのが殆どだった。
――そういえば、定時で退社しようと、途中で帰ろうと、成果を出せばあまり文句を言う人ではないな
残業も、チームのメンバー達で見れば実はそこまでやっているわけでもなく、そういう意味で言うならアズールは管理者としてある意味行き届いているとも言える。
――多分、管理能力を疑われるのは避けているからでしょうが
評価がマイナスになるような事は彼女はしないだけなのかもしれないが、上手く彼女の性質を理解してかみ合えば、ジェイドのように長く仕事をする事も可能ではある。彼からすれば、飲み会に参加を強要されない、やる事をやれば定時で上がろうと文句も言わないアズールとの仕事はやりやすかった。
買い物をして家に帰り、自分が働いたお金で揃えた立派なキッチンに立ったジェイドは、ウキウキと包丁を手に買ってきた肉を切って調理を始めた。
「ただいまー」
丁度食事を一通り作り終えたところで、兄弟のフロイドが帰ってくる音がして、ジェイドは洗い物の手を止めて玄関に顔を出した。
「お帰りなさい。フロイド。今日はどうでしたか」
「はー、疲れた。もー最悪」
「そうですか。次はその人の依頼は断ったらどうです?」
「そーする」
フロイドは、わずかにがっかりしたような顔でリビングに入り、ジェイドの作った料理に目を向けるとぱっと表情を明るくした。
「うまそー」
「ええ、今日はフロイドの好きなのにしました」
「やったー」
機嫌を直した兄弟にほっとして、ジェイドは席に着いた。ずっと彼が寝る間を惜しんで作った作品を、それをきちんと評価する依頼人の手に渡らないのは悲しい物だが、世の中そういう人間ばかりなのだろう。仕方の無い事ではあるが。
「ジェイドは最近どう? 例の怖ーい上司、まだ一緒に仕事してんの?」
「え? ああ、そうですね。確かに怖いですけど、僕もいくつか転職して思いましたが、今の上司が一番合っている気がします。こうして定時に上がっても、成果を出せば、本当に自由ですから」
「ふーん? 珍しいよねぇ。そんなに長くジェイドが仕事できるなら、うちに招待してやったら?」
招待?
ぴた、とジェイドは手を止め、アズールのあの冷笑を思い浮かべる。思わずそれはないな、と首を振る。
「いえ、プライベートとかに踏み込まれるのは彼女も嫌いみたいですからどうでしょうね」
「あ、女なの」
フロイドはそれなら止めた方が良いねー、とあっけらかんと答えてジェイドの作った料理を食べ始めた。機嫌の直った兄弟の様子にほっとして、ジェイドも食事に目を向けた。
何となくジェイドは、アズールの、化粧をしても隠せていなかった目の濃い隈を思い出した。
他人で、関係はないとは言え、そのうち倒れたりしないのだろうかと、ジェイドはそんな事を思っていた。

翌日は休日で、ゆっくりと起きたジェイドは、先に起きていたフロイドの用意した食事を取って、今日は何をするかと考えた。
「フロイドはどうするんです?」
「オレは新しいデザイン考えたからー、ちょっといろいろ試したい。工房行ってくる」
「そうですか。じゃあ少し散歩でもしてきますかね……」
ジェイドは、ついでに買い物にも行ってくるかと、小春日和の気持ちの良い外に出た。出かけてみると案外色々と見たい物は増えてくる物で、新しいテラリウム向けの本や、新しいカフェに入ってみるかとふらふらと足の赴くままジェイドは散歩を楽しんでいた。
ふと、彼は静かな細い路地に目が入り、たまには違う道を通って帰るかと、ひっそりと静かな路地に足を踏み入れた。昔は家が建ち並んでいたのだろうが、古い土地なのか今は区画の整理か世代交代のためか、古い家は崩され、ポツポツと空き地が広がっていた。
ととと、と数匹の、恐らく兄弟か家族か、似た柄の猫達が空き地でじゃれているのに気付いて、ジェイドは思わずスマホを向けて写真を撮り、ニコニコと彼らを見つめて居た。あとでフロイドにも見せてやろうと、立ち上がって路地を歩き続ける。
「おや?」
さっきの猫の兄弟達と違い、その猫は随分と具合が悪そうだった。と、と、と、と歩き方は覚束なく、また、ロシアンブルーと言うには少し色の薄い、灰色に近い毛のその猫は、ジェイドに気付くと立ち止まってつん、と顔を背けて気にしないでください、と言うように綺麗にその場に座り、じっと立ち止まった。
「あなた、随分具合が悪そうでしたよ」
思わず、声をかけると猫はぱし、と尻尾をイライラとふり、ふーっと威嚇してきた。
薄い空色の瞳のその猫は、どこか見覚えのある誰かを思い起こし、ジェイドは困りましたね、と首をかしげた。
放っておこうと思ったが、毛並みの良さに反して首輪や見て分かる飼い猫らしい物を示す物が見当たらないのだ。脱走してきたのだろうか。
とん、と猫はジェイドを無視して塀の上によじ登り――。
どうやらジャンプの高さが足りなかったらしい。爪が塀の上に引っかかった物の、無情にも身体は地面に落ちて、ぴたん、と着地にすら失敗をしていた。
「……」
じっと、眺めていると猫は落ち着かせるためか毛繕いを始め、ジェイドはいよいよ心配になってきた。
――この高さのジャンプも失敗した挙げ句に受け身も取れてない……
やはり病気なのではなかろうか。
そう思ったジェイドは、さっとジャケットを脱いでその猫にかぶせた。
ぎゃあぎゃあふしゃーっと暴れる猫を、ジャケットで包み、まずは一度家に連れて帰ろうと、ジェイドは急いで路地を走って自宅に向かった。

家に帰ったジェイドは、箱の中にジャケットごと猫を入れて、空き部屋の一つに箱を置いた。
戸締まりも確認して、意を決してジャケットを取ると、猫はばっと飛び出してドアに向かい、カリカリと爪でドアを掻いた。
「元気そうですね」
にー、と今度は哀れさを誘うように可愛らしい声をあげ、猫はジェイドをの側に来て、首をかしげて両手を着いて座った。
「病院に行く必要は無いでしょうか……」
「んー」
すり、とジェイドの膝にかおをこすりつけ、猫はそうですよ、と言うように答える。ふわふわ、つるっとした毛並みは心地よく、ジェイドは思わずその猫の身体を抱き上げて腕に抱えた。
「貴方の目、僕の知ってる人によく似てますね。綺麗な空色」
「……に」
何故か視線を逸らされ、猫はくるんと身体をよじってジェイドのあぐらをかいた膝の上に、ぽて、と落ちてすっぽりはまった。ジェイドの大きな手で撫でると、猫は何故か最初抵抗するようにもぞもぞとしていたが、やがて目を細めてふうっと膝の、丁度良さそうな所に移動して手を伸ばしたままくてっと寝始めた。
飼い主は心配してないだろうか。あの辺りにはチラシなどもなかったが、探していないだろうか。
そう思いつつ、膝の上で寝ている猫は可愛らしく、フロイドも喜びそうだと、わずかに惜しくなってきていた。既にこんなに僕になれているのに、とジェイドは猫の顎を指先でさすり、猫はうっとりと気持ちよさそうにして顎を伸ばした。
ずし、と突然膝に重たい感触がのしかかった気がして、ジェイドは思わず目を瞬いた。
自分はおかしくなったのかと、思わず頬をつねってみたがそれは現実で、ジェイドはどうした物かと固まった。人はびっくりしすぎると身じろぎできずに固まるらしい。
膝に眠っていたはずの灰色の猫はどこかに消え失せ、代わりに膝の上には薄い、何と言えば良いのか、部屋着というのか、そんな物を纏った女がジェイドの膝に眠っていた。
「……え、っと」
いつもは絶対に乱れさせないとでも言うようにきつく押さえつけている銀色の柔らかな巻き毛が、ジェイドの膝にクルクルと広がり、眼鏡の下の、化粧で隠せてなかった隈の見える目は閉じられていた。
――ああでも、隈はやっぱり酷いですね
いっそ変な方向で冷静になり、ジェイドは彼女を見下ろしてそんな事を思った。そういえば、昔子どもの頃だったかに、動物に変化できる人間の話を祖母から聞いた記憶がある。そんな人間いないと思っていたが、こうして見ると案外その辺に居たりするのかもしれない。
正直何を疑えば良いのか分からないまま、ジェイドはそんな事を思った。
「ん……」
アズールは自分の姿に気付いていないのか、猫のように腕を伸ばして、くうっとジェイドの膝に身体を預けて、ゆっくりと瞬きをして目を開けた。見上げた先にいるジェイドに、眉を寄せて、さながら困った、という顔をしたアズールは、足を伸ばそうとして、はっと自分の腕に目をやり凍り付いた。
「えーっと」
ジェイドが声をかけた瞬間、アズールは声にならない悲鳴を上げてジェイドの膝から転げ落ち、這うようにしてドアに手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいアズール。落ち着いて。その格好では」
「う、るさい!」
ばん、とドアを開け、アズールは廊下を駆けて玄関のドアを開けて外に出た。
「アズール!」
ジェイドが外に出たときには、あの灰色の毛並みの猫が、よその家の塀の上をよじ登って逃げていく後ろ姿で、ジェイドは思わず車に轢かれなければ良いが、とハラハラとその去って行く後ろ姿を見送るしかなかった。

「おはようございます」
その日、ジェイドは朝、かなり早い時間に会社に入った。いるだろうと思った人物は、珍しい事にまだ来ておらず、彼は仕事を早めに始めて彼女が来るのを待った。
ようやっとアズールが部屋に入ってきたのは重生から一時間以上経ってからで、何が起きたのかと部屋の中がざわついた。彼女はいつものように表情を変えないまま、自分の席に来ると、手にしていた段ボールに荷物を放り投げ始めた。
「あの、アズール」
「後にしてください」
とりつく島のない冷たい声で、アズールは荷物を段ボールに収めるとそのまま部屋から出て行った。
「待ってくださいアズール。それじゃあまるで辞めるみたいじゃないですか」
慌てて廊下で呼び止めたジェイドに、アズールは一瞬立ち止まり
「辞めるんですよ」
「それは、僕があれを知ってしまったからですか?」
「……別にどうでも良いでしょう」
明らかに狼狽えたような声に、ジェイドはですが、と声をかける。
「別に、あなたからすれば丁度良いでしょう。皆僕と仕事をするのは嫌だったはずです」
「僕は、正直あなたとの仕事はやりやすかったです。なので、出来ればこのまま居て欲しいです」
「……あなたは優秀ですから、次の上司がもっとうまくやってくれるでしょう。気付いていたと思いますが、今の物や、少し前からあなたにはかなり難しい案件を振り分けていました」
「ええ、それは気付いていました。でもそれを当たり前に受け取ってあまり騒がないでくれていたので僕としては助かっていたんです」
「……あなたの問題点はただ一つ。そのなるべく目立たないようにしようとするところですね。やろうと思えば、僕、私よりもずっと上手くやれるでしょう」
アズールは、わずかに初めて感情が滲んだ目で
「得体の知れないやつに使われるより、ずっと良い」
と、ひび割れたような声で呟いて、きびすを返して歩き去っていった。

それきり、あの猫を見た付近の路地に何度か行ってみたが、ジェイドはアズールを見かける事はなかった。
チームはアズールの指示に従いある程度落ち着いたところで解散し、別のチームに合流した。
「ジェイド、どこに行くんだ?」
帰宅の準備をしていたジェイドは、チームのメンバーに声をかけられて片付けの手を止めて微笑んだ。
「すべき事が終わったから帰るんです」
「ならちょっと付き合えよ」
「申し訳ありません。用事があるので」
微笑んだジェイドに、彼らは露骨に嫌そうな顔をしたのをジェイドは面倒くさいと思いながらも無視して頭を下げた。喫煙スペースで彼らが笑顔が嘘っぽい女遊びの激しいやつ、と言っていたのを思い出し、ジェイドはそろそろここも面倒だな、と歩く道すがら考えた。
アズールはどうやら街から出て行ったのか、話もぱったり聞かなくなって一月は経っていた。
居なくなってしばらくしてから、何度もしつこく言い寄ろうとしていた男達が誰のせいで居なくなった、みたいな話をしていたが、真相を知ってしまったジェイドは黙ってその様子を、冷ややかに眺めていた。
あれらに関わらないように、自分の本性がバレないようにと心を砕いて生きていれば、ああも冷たい人間にもなろう。
それすら彼女には失礼なのかもしれないが、ジェイドは、次の場所では彼女が上手く行けば良いと、何となく祈らざるを得なかった。
会社を出ると外は氷雨の降る夜で、ジェイドはフロイドはちゃんと食事を取っているだろうかと考えた。何しろまたここ最近何か思いついたのか、工房にこもってしまっていた。集中すると数日倒れるまで物事に打ち込む性格ゆえ、この時期は本当に心配になる。
そんなの、いい大人なのだから放っておけば良いだろう。
うっかり兄弟の話をしたときに、そう今の上司は言った。あの瞬間、この男とは仕事をしたくないと、ジェイドは笑顔のまま思ったのだ。
――転職をしよう
ぼんやりとそう考えて、ジェイドは歩いていた。
同じ事を、アズールもそういえば聞いた事があったのだ。あの時の彼女は、少し考えてから
「なら、定時内に仕事を終わらせる努力をしなさい。こちらもある程度時間については配慮しましょう」
と、言っていた。思えば、恐らく自分も持っているプライベートな部分に触れられたくなかったから受け入れたのかもしれないが、それがありがたかった。
雨が降り続く中、ジェイドはさて次はどういう仕事にするべきか、とぼんやりと考えながら歩いていた。雨のせいか道を歩く人影は少なく、街灯の明かりも薄暗かった。
どこかで、猫の鳴く声がした。
かなりしっかりと降る雨の中で猫の声が聞こえるだろうかと思ったが、ジェイドは辺りに目をやり、いつも素通りする公園へと足を踏み入れた。
子どもの遊具が少しと、砂場、東屋というのか、ちょっとした屋根のあるベンチだけの質素な物である。
ジェイドは気のせいかと思ってベンチの方に歩いて行くと、どこかで見た事のある灰色の猫が茂みからゆっくりと姿を現した。気のせいか、以前と違ってどこか薄汚れ、足を引きずっているようだった。
「……アズール?」
そうで無ければいい、と思ったが、猫は空色の目をゆっくりと閉じてから開いて、か細く鳴いた。
「……どうして……。怪我まで……」
咄嗟に濡れそぼった猫を抱え上げ、ぐっしょりとコートを汚しながら慌てて家への道を急いだ。濡れたままの傘を玄関に適当に置いて、コートもそのままに空き部屋の一つにはいると、フロイドの声を背後に、バタバタと何枚ものバスタオルと毛布を持って部屋に入った。
「ジェイドー? どうしたの?」
「ああ、ちょっとその」
「あ、猫じゃん」
ジェイドの腕に身を預けている灰色の毛のそれに気付いて、フロイドは手を伸ばした。
「あ、あー、フロイド。その、お湯というか、ペットボトルに人肌に温めたお湯を入れて持ってきてくれませんか」
「んー? 良いよー」
フロイドは、小さな猫を見下ろして頷いて、キッチンに入っていった。兄弟を騙すような気がしたが、流石にこれは仕方が無いだろう。
ジェイドは、タオルでアズールの灰色の毛を拭いてやり、ヒーターの温かな風が当たる場所に寝床を作ると、そっと毛布の上に猫を乗せた。
「ジェイドー? これでいい?」
「ええ」
部屋に入ってきたフロイドは、猫を見下ろして、ちっちゃーい、と見つめてとろんとした目で前足を指でなぞった。
「どっか怪我してるの?」
「そう見えたのですが……」
ジェイドは、本人に聞いた方が良いだろうかと少し躊躇って、猫のアズールの頭を撫でた。
「なんか食べるかな」
「温めた牛乳とか……」
「……え、牛乳って大丈夫だっけ?」
ささみならあるけど、と言われ、ジェイドは火を通したやつをお願いしますと、答えた。
「ジェイドも、着替えたら飯食いなよー。用意してあるから」
「ああ、すみません」
ぱたん、と戸を閉めてフロイドが出て行くと、チラリとジェイドは毛布の上に横たわる猫に問いかけた。
「怪我は?」
「……打ち身ですよ」
瞬きしている間に、広げた毛布の上にアズールが膝を抱えて座っていた。前より更に痩せたのか、頬がくぼみ、髪はボサボサで生気が無かった。
「どうしてあんな所に」
「……時々あるんですよ。元に戻れないときが」
アズールは、そう言って暗い顔で俯き、足を抱えた。
「取り敢えず、打ち身の足を見せてください。動物病院は嫌でしょう」
「放っておいてください」
「なら、なんで僕の前に出て来たんです?」
ぐっとアズールの表情がゆがみ、口が開いた。
何か言うのだろうかとジェイドは構えたが、結局アズールは黙りこんで、諦めたのか疲れたのか、くたびれたようなシャツを捲った。丁度膝から真ん中くらいの桃の部分が変色した肌を見つめてジェイドは首を振った。
「これは酷いですね」
「石をぶつけられただけです。少しすれば治ります」
シャツを戻し、アズールは無感情で答えた。野良猫や野犬へ石を投げつける人間がいる事は知っていたが、その被害に彼女が遭っていたのと思うとひどく胸がむかついた。
「そうですが、しばらく安静ですね。家は?」
「……」
「まさか無いとは言わないですよね」
「……荷物を引き払った日にこうなったので」
「はあ……。では、荷物は?」
「……貸倉庫に。もし何かあっても二ヶ月は契約が継続するようにしてあるからまだ大丈夫なはずです」
「そうですか。では部屋が決まったらそれはどうにかするとしましょう。ここの部屋は空き部屋なので、好きに使ってください。フロイドは昼間は居ませんので、もしシャワーを浴びたりしたいなら昼間やってください」
廊下から足音が聞こえて、アズールははっと気付いて、やはり瞬きしている間に猫の姿に戻り、毛布の裏へ裏へと潜ろうとし始めた。
「ジェイド、はい」
「ああ、ありがとうございます。どうも気が立っているようですからそれはここに置いて、僕らは出ていましょう」
「んー、そっかぁ。ねえこの猫飼うの?」
目をキラキラさせているフロイドにジェイドは胸を痛めつつ首を振り
「飼い主がいるようなので、探してお渡しですね」
「なんだー……」
がっかりした顔で、フロイドは皿を部屋の隅に置いて、ちらりと猫を見つめた。
ジェイドも立ち上がり、部屋から出てフロイドと並んでリビングに入り、汚れたコートを畳んでソファに掛けた。
「これはクリーニングですね」
「そーだね。オレ、明日は早く出るわ」
「ああ、そうですか。何かありましたか?」
「発注が少し入ったからそれちょっとやる。クリスマス前だからだってー」
「ああ」
あくびをかみ殺しながら、フロイドは部屋に戻り、ジェイドはフロイドの用意した食事を取って、片付けをしてからもう一度部屋の様子を見に戸を開けた。
部屋の中では、毛布の中に潜って猫がすうすうと寝息を立てていた。少し食べ物も食べたのか、フロイドが小さくちぎっておいたささみは少し減っていた。
面倒な事にならなければ良いが、とジェイドはわずかに眉を寄せてドアを閉め、自分の部屋に戻っていった。

家の中が寝静まったのか静かになり、アズールはそっと毛布から顔を上げた。
さっきの感覚を思い出して、元の自分をイメージする。
次の瞬間、自分の手と足を見下ろしてほっと息をつく。これは自分の手足だと、納得させるように動かす。
こんな身体なのは恐らく母方の遺伝なのだろう。
祖母の祖母もそうだったと、聞いた事があった。アズールが最初に変化したのは生まれて一年ほど経った頃だった。
気が付いたらベビーベッドの上で子猫の姿でうずくまっていたらしい。
それ以来、何かのきっかけかは分からないが、時々猫に変化するようになってしまった。特に思春期の頃はひどく、学校に通えない時期もかなりあった。大人になって、ある程度落ち着いて自分でコントロールできたと思ったのだが、それでも偶に数日猫になってしまって会社を無断欠勤したと言われて、辞めざるを得なかった。
あの場所が一番上手く行っていた筈だったのに。
仕事を終わらせ、倒れるように家に帰って眠りについたら、気が付いたらまた変化していた。疲れが悪いのだろうかと、半ば諦めて部屋から外に出ると、少し散歩をしようとぽてぽてと道を歩いていたのだ。
その時、最悪な事にジェイドに見つかってしまった。
くしゅ、と薄いシャツでは寒さが堪え、もう一度瞬きをすると再び猫の姿に戻り、毛布の中に潜り込む。
ジェイド・リーチは優秀な男だった。それに、雑念も何も無くただ仕事を黙々とこなしてくれるから、本当に、珍しくアズールにとってはやりやすい相手だった。本人は程々で良いとあまり前に出ないが、その気になればどんな事だって出来るだろう。
勿体ない、と思わずうずうずと尻尾が疼いて、落ち着かせるように前足の毛繕いをして誤魔化した。
よりによってその彼に、自分の本性がばれるとは。
逃げようとジャンプをしたとき目測を誤ったのは、自分の過失だ。これは認めよう。そのまま無様に地面に落ちたのも、まあ自分のせいだろう。普段はちゃんと降りるくらい出来る。確か。
それを異常だと心配してジェイドが自分を抱え込んで家に連れて帰るとは完全に誤算だった。
しかも、膝に乗せてやけに撫でたりなんだりしてくるのだ。猫にそういうのは良くない。実に。
顎を撫でられて、案外ちゃんとしたなで方でうっかり気が緩み、勝手に変化が解けるなんて初めてだった。
いや、もうこれ以上は考えない方が良い。
猫の状態になると思考もどうにも緩慢になるし、寝てしまえばいいやと楽観的になるのは良くない。良くない、そう思いながら、アズールは、どのくらい久しぶりの屋根のある寝床と、柔らかい毛布と暖かな部屋だったかを思い出して、ふうっと身体を伸ばして眠りについた。
難しい事は寝て起きたときに考えれば良い。
あの日仕事を辞めて、茫然自失に近い状態で家を引き払った時の事を思い出す。気が付いたらいつの間にか姿が変わって、元にどうやって戻れず、助けを親に求める事も出来ずにさまよい続けた。
毒餌らしい物をよこす人間や、むしゃくしゃしていたからと石を投げてくる人間から逃れて、他に行く当てもなく、気付けばあの公園で雨に濡れていた。
冷たい。寒い。いつ以来ものを食べていないだろうか。
茂みの奥から眺めていると、あの見覚えのある背の高い男の姿が目に入った。随分昔のような気がして思わず鳴いた声に、彼は立ち止まって辺りに目をやった。
そんな事をしてどうなるかも考える余裕がなく、気付けばアズールは彼の前にふらふらと姿を現していた。
逃げると思ったのに。
ふうっとアズールは前足を伸ばして、目を閉じた。

「ジェイドー。あの猫は?」
出かける間際、フロイドはそう言えばと問いかけた。朝、まだ日が昇って少ししてからの時間で、普通の猫であれば起きている頃合いである。
ジェイドは、あー、と視線を逸らしてから
「寝ているようですね。フロイドが帰ってくる頃には元気になってそうですが」
「そっかぁ。ねえ本当にあれ手放しちゃうの?」
「ええ」
フロイドは残念そうな顔を一瞬したが、ジェイドが決めた事だし、と気を取り直して
「飼い主見つかると良いねー」
と、手を振って出て行った。兄弟を騙しているようで本当に胸が痛い。隠し事は基本的にしないと言うのに。
ジェイドは、ため息をついて時計を確認し、アズールが寝ている部屋の戸をノックした。
「アズール、フロイドが出かけましたから今のうちにシャワーを使ってください」
「……」
毛布から灰色の猫が顔を出し、つん、と顔を上げてジェイドの足下を通って廊下を歩き出した。ととと、と歩く様は人の時とどこか変わらない印象で、思わずジェイドは苦笑いを浮かべた。
「あの、アズール。申し訳ありませんが風呂場はこちらになりますので」
「ぎゅ」
妙な声を上げて、アズールはぬるりと向きを変え、ついでに爪を出したままジェイドの足を踏んで彼の指さすシャワールームに入っていった。
「あの、結構痛いんですけど」
「ぎぃ」
猫らしい鳴き声はしばらくする気は無いらしい。尻尾をイライラと床に打ち付けて、アズールはたしたし、とシャワールームのドアを前足で押した。
「……あのアズール。問題があるのですが」
「ぎ」
「服とかがないので、取り敢えず僕らのスウェットとかでも良いですか? もし人の姿で何かしたいなら、そういうのがあった方が良いと思いますが」
「ぐう」
肯定と受け取る事にして、ジェイドはシャワールームのドアを開け
「では、部屋に服を一式置いておきますので」
ぱたん、とドアを閉めると瞬く間にシャワールームの向こうに人影が見え、ジェイドは目を思わず擦った。どうにも慣れないが、時計を見ると自分もそろそろでなければいけない時間だった。
「アズール、僕は出かけますので。タオルはここに置いておきます」
「ええ」
シャワーの音を聞きながら、ジェイドは風呂場の扉を閉めて、急いで鞄を取ってジャケットを羽織った。
行ってきます、と声をかけ、ジェイドは家から出てドアを閉めて、急いで職場に向かって歩き出した。今日は仕事をついでに辞める事を伝えなければ、とその足取りは軽かった。

フロイドは、頭をかきむしりながら、ため息をついて家の扉を開けた。
「はあ。だっせーな」
作業をしようと思っていたのに、必要な道具の一部と、デザインの案をまとめたノートを部屋に置きっぱなしにしていたのを作業場に入って思い出し、やる気を相当に削がれながらフロイドは家の中に入った。
「……? ジェイドー? 仕事休みなの?」
人の気配に、フロイドは首を捻りながら廊下を渡り、さーっとシャワーの音がするバスルームで足を止めた。
「ジェイドー?」
がら、と疑いも全く持たず、フロイドはドアを開け、シャワーを浴びていたアズールと鉢合わせた。
「…………だれ」
思わず呟いたフロイドに、アズールは思わず後ずさって派手に頭を壁にぶつけた。その、衝撃のせいだったのだろうか。
「は?」
アズールが持っていたシャワーヘッドが床に落ちて、フロイドと、灰色の猫の毛に容赦なくシャワーのお湯がぶち撒かれて一人と一匹の悲鳴が上がった。
「びゃあああ」
「あ、ちょっと待てこの猫! 濡れたまま廊下に出んな!」
パニックになったのだろうか、あの灰色の猫はシャワールームから飛び出して、バスルームから飛び出し、廊下に出た。つるつると濡れた毛と肉球が滑るのか腹ばいで滑っていく様に、フロイドは耐えきれずにゲラゲラと笑い、シャワーの水を止めてタオルを持って、玄関でびしょびしょになって縮こまっている猫を抱え上げた。
「つかまーえた。ねえ、名前なんての?」
たらん、と前足の脇部分を抱え、フロイドは猫と鼻先を合わせて、にまーっと微笑んだ。
「に」
瞬きして視線を逸らす猫に、あはは、とフロイドは上機嫌に笑い
「ま、風邪引くから乾かさないとだけどねぇ」
と、アズールをタオルでくるんだまま運んで、日差しが降り注いでいるリビングの窓際にタオルを広げた。
「猫じゃねーんなら、ドライヤーも平気って事だよね」
「ぎ」
不満らしい鳴き声を無視して、フロイドは廊下の水をモップで拭いてから、ドライヤーを持って窓際に戻ってきた。
「はい、後ろ向いてー」
フロイドは、ドライヤーで濡れた猫の毛を乾かし始め、猫はぴたん、と不機嫌に尻尾を床にたたきつけ、ぐううっとうなり続けた。
「ジェイドはさぁ、きっと知ってるんでしょ?」
「…………」
「さっきあの部屋に行ったら着るための服っぽいの置いてあったんだよねぇ。ジェイド、よく気が付くから」
――どっちも似たような物だ
ぱし、とアズールは尻尾を振って毛を乾かされながら、どうしたものかと途方に暮れていた。
「ねえ、名前はー? 猫じゃ伝えられないならちょっとくらい人間になっても良いよー?」
誰がなるか、という意思表示を尻尾で表すと、じゃああとでジェイドに聞くし、とフロイドは軽く肩をすくめた。
「あ、じゃあ猫ちゃんさ、オレの工房来る? ジェイド来るまで詰まんないでしょ」
「んー」
いらない、と伝えると、そこは都合良く分からなかったのか、フロイドはオッケーじゃあ決まりね、と乾いてふわふわになったアズールの毛を撫で、アズールの猫の額――は無いのだが――に音を立ててキスをして、抱えて立ち上がった。
「ぎにゃ」
「えへ、なにー?」
肉球でぱしぱしとフロイドの頬を押すが、フロイドは気にしないのか、部屋に入って道具やら紙切れを取ってから、機嫌良く口笛を吹きながら家から出た。
「あ、そうだ。猫ちゃんさー、ジェイドになんかしようって思ってんなら吊すから」
にこー、と笑顔のままとんでもない事を言うフロイドに、アズールは思わず尻尾がぴたっと巻き付いて耳がぺたっと垂れた。
抱えられたまま、アズールは今年って厄年だったかなーとどこかで聞きかじった異教の風習を思い出し、ふうっとため息をついていた。

ジェイドの足は軽かった。
ここ最近の残業も、仕事を辞めると伝えて一気に仕事を振り分け終わらせ、後はよろしくお願いします、と立つ鳥跡を濁さずの精神で引き継いで、流れるように段ボール箱に荷物を入れて、郵便で家に送り届ける事にした。
定時で上がって、彼はお祝いでもしたい気分でシャンパンや何やらを買い、何故か通りがかった時に目に付いた、家にある物と同じタイプのグラスを一つ、皿などもいくつか買ってジェイドは家路を急いだ。
フロイドはまだ工房にいるのか、家の中は暗く、ドアを開けてジェイドは荷物と買ってきた物を置いて、アズールの様子を見に部屋に入った。
「アズール?食事はどうしますか?」
部屋の中は暗く、畳んだ毛布の上にあの毛玉のような猫の姿も、人の姿も見当たらなかった。
「……アズール⁉」
家具の裏やクローゼットの隙間を慌てて探してみたがどこにも姿が見えず、ジェイドはアズールの名前を呼んで廊下に出た。最後に見かけたバスルームの戸を開けると、タオルや何やらがぐちゃぐちゃに置かれ、どういうことかと頭を悩ませた。
まだ身体は本調子ではないはずで、用意した服も部屋にあった状態で外に出るだろうか。
出ていってしまったのだろうか。
不安、心配、何故かそんな感情がとめどなく溢れてきて、ジェイドはまずは近くを探そうと思い至った。
「ただいまー」
ガタガタと玄関で音がして、ジェイドはのろのろと廊下に出て、フロイドを出迎えた。
「ふ、フロイド!その……腕のは」
目に入ったフロイドの姿に、思わずジェイドは目を瞬き、呆然と見つめた。フロイドは、灰色の猫を抱えてニコニコと機嫌良く、
「あ、これ?一応なんかあったら困るから、工房に連れて行ってた。ねー猫ちゃん」
すり、と頬をすり寄せるフロイドに、アズールが前足でぱし、と頬を押さえてふーっと威嚇した。
「そ、そうでしたか」
ジェイドは、バスルームのぐちゃぐちゃ具合に、思わず視線を向け
「あ、バスルームは片付けるの忘れてた」
「え、あ……」
どく、とジェイドの頬が引きつり、アズールがフロイドの腕からばしっと爪を立てて降りた。
「いってー!今爪バリっていったんだけど!」
パタパタとアズールは部屋の前に座って、ジェイドの方にかを向けて、開けろ、と言うように見上げた。ジェイドがドアを開けて明かりを付けると、アズールは中にするりと入り
「ジェイド、その男にある程度説明をしてください。僕は寝ます」
とだけ言って、パタン、とドアを閉めた。
「……ひでー」
「念のため消毒しておきましょう」
「むー」
二人はそのままリビングに入り、フロイドは救急箱を開けて、消毒液を付けて絆創膏を貼った。
「ジェイドが出た後、忘れ物があったから取りに戻ってさぁ」
「ああ……」
その言葉で、何があったかを察してジェイドは思わず首を振った。
「びっくりした。バスルームにジェイドがいると思って開けたら知らない女だし。しかもそいついきなり猫になるし」
「猫に」
「頭壁にぶつけてびっくりしたのか猫になって、持ってたシャワーが床に落ちてオレとそいつに掛かってびっしゃびしゃになってさ」
「ああ……」
たやすく想像できるその騒動に、ジェイドは思わず目頭を押さえた。そこに居たらさぞ楽しかった、いやそうではないか。
ジェイドはそこまで思考が飛びかけて慌てて首を振って、食事の支度を始めようと立ち上がった。
フロイドは、救急箱を片付けてそんなジェイドの方に目を向け
「ジェイド、あれ、誰?」
と問いかけた。
「……僕の、今日辞めた職場の、上司でした」
そう答えるしかなく、ジェイドは困った、と眉を寄せて答えた。

「……上司ねぇ」
細くドアを開けて、空き部屋の中を覗き込んだフロイドは、同じように覗き込んでいるジェイドを見上げた。
「……上司」
「だった、です。僕が知ったらすぐに辞めてどっかに行ってしまったので」
ジェイドはそう言いつつ、毛布の中で丸ま、らずに両手足を奔放に伸ばしてグーグー寝ている猫をしばらく見守り、そっとドアを閉めた。一応女性がお腹を出して寝ているところを見るのは良くないだろう。猫だが。
「言ってた滅茶苦茶怖い上司ってじゃあ、あの猫ちゃんの事?」
「……凄く誤解のある言い方になりそうなんですけどそうです」
「怖いってより抜けてない?」
「いえ、仕事場では凄く怖かったんですよ。誰よりも働いて、それぞれの適正にあったギリギリのレベルの仕事をさせてきますから」
「ふーん」
フロイドは、わずかにジェイドの目が遠くを見るような、普段見せる笑みとは違う顔をしているのに気付いて、思わずもやっとした気持ちが湧いてきて、ソファの上で膝を抱えた。仕事は大変だと言っていたのは知っていた。上司が随分働く人だと言っていた。それが女の人だというのもついこの間知った。
――でも、あんな感じなんて聞いてない
フロイドは、猫に戻る前の彼女を割としっかり観察していた。猫の時よりも更に色の薄い銀色の髪に、空色の目。疲労と飢えのせいなのか心配になる細さの身体に、足には変色した打ち身の跡もあった。
「名前教えてくれなかった」
「え、ああ、それはだってシャワーを浴びていた所なら、喋るのはちょっと無理では」
しごく真っ当なジェイドの言葉に、フロイドは
「そうだけどー」
とふくれっ面をして手元のクッションを抱えた。
「まあ、説明しておけと言ったのだから良いと思ういますが、アズール、という名前ですよ」
「アズール、ねえ」
目の色と同じ名前なのかと、フロイドは何となく考えた。
「それで、工房でのアズールはどうでした?」
食事の支度が調い、皿を並べてジェイドは問いかける。新しい皿に、もう一人分食事を盛り付け、それをラップで包んだのを、フロイドは黙って眺めて、置いてある瓶を開けてグラスにシャンパンを注いだ。
「んー?借りてきた猫だった」
「おやおや」
おかしそうに笑うジェイドに、フロイドは眉を寄せ
「ジェイドさ、あれ普通の猫じゃないなら連絡とかしなくて良いの?親とか」
「……」
ジェイドは、人前ではあまり見せないが有能なのはフロイドはよく理解していた。ざっと聞いた説明で、あの猫の人間と言えば良いのか、彼女は一月も猫になってさまよっていた事になる。人が一人、一ヶ月居なくなったらどうなるか、ジェイドであればすぐに理解するはずだ。
「それは、その。良くある事だそうなので、僕が何かするのはと」
「……皿とさ、グラス、なんでもう一つ買ってきたの」
「ああ、壊れたときのために、よく使うのに似たものは買っておいた方が良いかと」
ジェイドの言葉に、フロイドははあ、とため息をついた。
「ジェイドってさぁ、嘘つくとき視線がオレの方向かないよね」
がしゃ、と食器が音を立て、ジェイドはそうですか?と微笑んだ。フロイドは、これは相当に根深そうだ、と眉をひそめ、取り敢えずその話は一旦置いておく事にした。
「工房でさ、アズールずーっとオレの作業見てたなそういえば」
「ほう、興味があるんでしょうか」
「さあ」
わかんない、とフロイドは答え、アズールが棚に飾ってあった出来上がった靴や、染めた革を並べているのをじっと眺めていたのを思い出した。ただの猫ではない、ましてやジェイドの事をキリキリ使っていたという彼女が何を思って工房の中で過ごしていたのか、フロイドは気になっていた。
「そうだ、ジェイドはもう明日から家に居るのか」
「ええ。それこそアズールの事もありますし。部屋を探して、彼女の荷物を早く移さないと」
「なるほどねー」
そんなことできるのだろうか。
ジェイドが、他人に興味を持つなんてそもそも相当に珍しい。誰に対しても、それが自分が楽に過ごせるならばある程度気を遣ってやるが、それ以上の心などこもっておらず、数時間もすれば忘れてしまう程度の物だ。
――そもそも。
フロイドはもぐもぐと目の前の食事を咀嚼しながら、ジェイドをチラリと見やった。
――何かあるとアズールのこと、滅茶苦茶働いてるとか、身体壊さないんだろうか、とか言ってたんだよな
あまり興味が無かったフロイドは何となくジェイドが話題にあげている人間のことを聞き流していたが、覚えている限り引っ張り出して、むうっと眉を寄せた。
何も無ければ良いが、何しろ心配だった。
ジェイドは別に薄情な人間ではない。むしろ、懐に入れた人間への愛情は、恐らく。
――深海並みに深い……とか
そんな彼の事を果たしてあの猫、もとい彼女は分かってくれるのだろうか。
それに何より自分もあの猫は気になる。いや人間状態でもだが。
そんな事を考え、フロイドはジェイドとひとまず当たり障りない会話をして、食事を続けた。

食事を終えて部屋に戻る途中、ちらりと様子を見ようと猫のいる部屋の戸を開けようとすると、ジェイドが顔を出して
「どうしました。何か問題でも?」
「んー?いや、様子見た方が良いかと」
「あれで一応女性ですから……」
わずかに眉をひそめて、ジェイドは扉をノックして、そっと覗き込む。
「どうー?」
「寝てる、のかな」
なんとも言えない顔と声で、ジェイドは中を覗き込んで呟く。脇からフロイドも顔を覗かせると、小さな固まりがベッドの上に転がっていた。
「小さい、のにやけに場所とってね?」
「尻尾まで綺麗に伸びてますねぇ」
感慨深げに呟いたジェイドは、人間ならば大の字だろう伸びきった寝姿の猫に毛布を掛け、小さな額をそっと指先で撫でた。
「ジェイドってさ、アズールの事好きなんだ」
「は」
廊下に出て、フロイドはそうジェイドに問いかけたが、問われた方は凍り付いたように固まって、フロイドを見つめた。
「何気付いてなかったの」
「……えーっと、フロイド……」
こんなにジェイドがポンコツになるなんて思わなかったかもしれない。フロイドは凄い物を見た……という顔でジェイドを眺めたが、すぐにまあ違うなら良いけど、と手を振った。
挙動不審のまま何かされても困る。
「じゃ、オレ寝るー」
「ちょ、ちょっと待ってくださいフロイド今の発言は」
ばん、とフロイドが部屋の戸をジェイドの鼻先で閉め、混乱したままジェイドは呻いて首を振り、部屋に戻っていった。
――仕方が無いのでは?猫というあの生き物じゃどうしても気になるのは?
ブツブツと呟いて、ジェイドはふと思い立ってお腹を温めるには何が良いだろうかと思考が飛んでいた。

「僕を一体何だと思っている」
ふわふわのフリースが敷き詰められ、人肌くらいのお湯を詰めたペットボトルが置かれていた寝床を見下ろし、アズールは明らかに不機嫌な声をあげた。
「お腹が冷えたらと思って」
真面目に、真剣に答えたジェイドに、アズールは尻尾があればバシバシと振っていただろう不機嫌な調子で、
「ぐ……ふっぶふ……」
様子を眺めていたフロイドは余りの光景に吹き出さないよう背中を丸めて口を押さえていた。
「大体、仕事はどうした。そろそろでないとまずでしょう」
「ああ、辞めました」
「……は」
耳が横に倒れそうな幻覚が見えて、ジェイドはアズールの前に食事を並べてから
「取り敢えず、朝食は久しぶりにしっかり作ったので食べませんか」
「……い、良いですか、ジェイド・リーチ。前々から思っていましたがあなたのその仕事へのスタンスはですね」
「はい。あ、パンはすぐ側のパン屋の物なのですが、かなり美味しくて評判で」
ぐう、とお腹を鳴らして思わずふらふらと席に着いたアズールは、もぐもぐとクロワッサンのサンドと卵を食べながら
「ん、た、確かにこのサクサクの食感……。サンドの具材もかなり良い物を……。卵の火加減も完璧ですね」
思いのほかしっかりとしたコメントを呟き、アズールはみるみる機嫌良くなり、食事を頬張り始めた。
「ジェイド、料理得意だからねぇ」
「これは……!商売になりますね!」
どうやら機嫌があっという間に回復して、アズールは出されたお茶を飲んでぽわ、と頬をほころばせた。
「商売って……」
フロイドは思わず眉をひそめたが、アズールは血色の良くなった頬を赤くしてびしっと二人を指さし
「あなたたちは余りにも!勿体ないんですよ」
と、何故か拳を握りしめて答えた。

良いですかフロイドの革細工のレベルは大した物です。ええ僕これでも靴にはこだわりがありましてなんです猫だから革に反応していると思っていますかひっかきますよ?いえそれはともかくあの技術力を持ってしてあんなクソみたいな客の対応をするのは自分のレベルを下げる……って聞いてますかちょっと

立て板に水とはこれか。と二人はソファに座ってぼんやりと部屋の中をウロウロと歩き回りながらしゃべり続けるアズールを眺めた。あんなにしょぼしょぼしていた可愛らしい猫はどこに行ったのだろうと、ジェイドは若干目が泳ぎ、フロイドは目がしょぼついていた。
「スティックパイ焼いたのあるので食べますか」
「食べたら大人しくなると思ってませんぐ」
「一ヶ月もまともに食べてなかったんでしょ?少し食べないとやっぱ駄目だと思う」
「んぐー……」
ジェイドからお菓子を口の中に放り込まれ、アズールは不満顔でもぐもぐと口を動かし始めた。
――僕の威厳、なんか消し飛んでないか
と、腹の中では思った物の、猫になったりお腹出して寝ていたのを見られている時点で威厳があるわけは無い。悪意は無いのだろうが、ふわふわのお腹だったのでつい、と伸びきって寝ていた猫の自分の写真を撮っていたジェイドには正座してこんこんと説教をした。が、写真を消したかは不明だった。
「いえ、聞いていますよ。確かにフロイドの事では本当に頭を悩ませていたのは確かです」
ジェイドはそう言って座ってお茶もどうぞ、とアズールを促し、アズールはソファに座ってそうでしょう、と頷いた。
「一日工房をチェックさせて頂きましたが、時折来る上客になりそうな人間はフロイドに恐れを成して逃げてた、のもありますし、気を遣って声をかけずに出て行ってしまうとか、そんなのばかりでしたね。あれらを掴まえられないのはもったいなさ過ぎです。身なりからかなり発信力の高そうな人間もいました」
「よく見てたねぇ」
気付かなかったなぁとぽわ、と呟くフロイドにアズールはぽんと猫の姿に変わって、と、と、と、とフロイドの身体に飛び乗り前足で彼の顔をバシバシ叩き
「いや、結構痛い……。爪……」
ふん、と鼻を鳴らしてフロイドが抱き上げようとするとぬるりと逃げてアズールはソファに戻って元に戻り、何事も無かったようにお茶を飲みながら
「とにかく!フロイドの工房の脇には少しスペースがありましたね。あちらに展示と、それに軽くお茶などを出せるブースを出して、説明するスタッフを置くんです」
「はあ、なるほど。確かにそうするとフロイドの気分乗るの時と乗らないときでの対処も可能ですね」
「どうせ暇をしているなら、試しにジェイド、あなたが立ってみたらどうです。兄弟の作品の良いところは分っているでしょう」
「まあ、そうですね。ええ……。そういうのは……得意です」
ジェイドは呟き、アズールを見つめてため息をついた。
「よく思いつきますね」
「あなたは有能なのに、そういう面ではあまり気が回らないですね。だから勿体ないというのに!」
「まあ、お金儲けとかあんまり考えてないからねぇ」
「何という宝の持ち腐れ……!」
頭を抱えるアズールに、ジェイドとフロイドはそう言われても、と瞬きしてお互い見つめ合った。
「まあ良いでしょう。恩に報いるのが我がアーシェングロット家の家訓です。一宿一飯とはあれですが……、この件は僕に任せなさい」
胸を張るアズールに、ジェイドとフロイドは取り敢えず面白そうな事になりそう、という事は理解して、拍手してアズールを眺めていた。

アズールは、はあ、と工房に顔を出して思わずため息をついた。
「……そろそろ腹が立ってきますね」
「えー」
ペンキの缶を片付けていたフロイドは眉をしょぼつかせ、奥から出て来たジェイドはどうしましたとにこやかな顔で二人に声をかけた。
「お茶を入れたので二人ともカウンターへどうぞ」
お疲れ様ですと、ペンキと木くずだらけの二人に声をかけたジェイドの顔は気のせいかとてもほくほくしていた。
「ジェイド、オレなんかアズールに理不尽な怒りをぶつけられてるんだけど」
「何させても大体うまく出来るのに腐らせているからですよ」
「理不尽……!」
「アズールも後に塗った方は大分綺麗に出来ていますよ。コツを掴むのが早いんですね」
「……おだてても誤魔化されないですからね」
「お茶と試作のフルーツケーキがあるので試食してください」
にこ、と微笑んだジェイドに、アズールはむうっと思わず眉を寄せて、仕方が無いですね、とわずかに足取りを軽くしてぽんと部屋の中に入っていった。
しっとりした生地にフルーツの甘みと酸っぱさがほどよく、お茶との相性も良いと、口に入れてアズールは評価した。何より。
――こ、この所二人の作る食事に慣れてしまってる……
気付けば部屋の一つを占拠したように居座っているようなアズールだったが、何しろ居心地が良すぎた。
実家と良い勝負である。それだって、猫に時々変化してしまうと家族中やはり大騒ぎになるのに、ジェイドとフロイドはあまり気にしないようだった。
時々妙な寝相の自分の写真を出されたときには悲鳴を上げそうになったが。
ジェイドに至っては消せと文句を言うとこの世の終わりのような顔をするのだ。まるで自分が酷いことしている気がしてくる。
「だって、こんなに顔をぎゅっとして丸くなって寝ているのに……」
「いくら猫でも僕ですよそれ……。現実ちゃんと見て言ってますか」
アズールというフォルダが出来ていたときにはいっそスマホを取り上げるべきか真剣に悩んだが、一部人間の自分の写真も分けられていていよいよ分らなかった。
「……あとは実際お客さんが来たときにどうなるかですね。その辺を見届けたら僕の仕事も一旦おしまいですね」
汗をかいて作業し、一通り問題はなさそうだという開放感でアズールはどこか晴れ晴れとした気分で呟いた。ただ、やりきったのは本当だが、なんだか寂しいという感覚が拭えず、すぐにお茶を飲んでその感覚を飲み込む。
「しかし、その……アズールはどうするんです。この後」
カウンターの向こうでジェイドが問いかけると、フロイドもわずかに思うところがあるのか黙って視線を向けてきた。
「それは、まだ考えていないですけど。まあ、一度実家に帰りますかね……」
連絡をした母は好きにやればいいと相変わらずだったが、そう言われても身体の事を考えればすぐに何か出来る物でも無かった。
「……そういや、結構ここのカフェとかの設備やら、衛生管理とかのやつの手続き、あっという間にやってたけど、そう言う仕事やってたの?」
話を変えるようにフロイドが問い、アズールはお茶を飲みながら首を振り
「実家は確かに飲食店を経営してますが……、その、昔調べたことがあって。自分で店を持つためにはどうすれば良いかとか」
「へえ……。なんでやらないの?こんなにあっという間に出来たし、アズールも料理美味いじゃん」
「いつ猫になるか分らないのに、飲食なんて出来るわけがないでしょう?ただの気の迷いですよ」
そう言いつつ、貸倉庫の中に眠っている、未だに処分できないメニューのアイディアノートを思い出して、アズールは苦い思いを飲み込むようにケーキを口に入れた。
甘酸っぱい味でわずかに気分が落ち着き、ふうと息をつく。
「これは良いですね。見た目にも華やかです。でもそうですね……お皿にぽんと置くよりは少し見た目も工夫を凝らして……」
「少しベリーのソースとか、果物を実際添えてみるとかも良いですかね」
「ああ、それはいいですねえ」
「オレ生クリーム付けて食べたい」
「……なんて高カロリーな……。ですが確かにクリームがあるとよりこう……気分は上がりますね」
ジェイドはなるほどと、メモを書き付け
「では、実際提供するときにはそれで対応してみます」
「ええ、あとはチラシやネットでの広告でどれだけ人が来るかですね……。一度話題になればあとはある程度なんとかなると思うのですが」
「まあ、そこは実際やってみないとじゃん?今日はもう疲れたしー、風呂入って寝たい……」
疲れたー、とカウンターにべたっと突っ伏すフロイドに、アズールは軽く小突いて行儀が悪いと小言を言った。
「さあ、もう一息ですよ」
「はーい」
埃や木くずを掃いて、片付けをして家に帰った三人は、シャワーを浴びて打ち上げと称しておのおの作ったものを持ち寄って乾杯し、そのまま部屋に戻った。

眠れない……。
疲れていた筈だったがアズールは目が冴えて、起き上がって両手を見下ろした。ここの所少し落ち着いているせいなのかは分からないが、突然姿が変わるようなことはなかった。
まだ人間の手になっていることを確認して、水を飲もうと部屋から出る。
台所には明かりがついていて、ジェイドが一人で何か作業をしているのに気付いた。
「……何をしているんです。ジェイド」
「あ、ああ。アズール?どうしました?」
「いえ、水を貰おうと」
「ああ、丁度冷えてるのがありますよ」
冷蔵庫からジェイドはボトルの水を出してアズールに渡し、アズールはそれを手にしたまま、カウンターに近づいた。
「それは?」
「ええ、っと」
わずかにどうしようという顔をするジェイドは、やがてわずかに恥ずかしがるように
「実は、昼言っていたメニューを少し。仕込みだけしておこうと思って」
「随分、研究熱心ですね」
思わず呟いたアズールに、ジェイドは少し躊躇うように頷いてから
「その、アズール。どうでしょう。あの工房のカフェスペース。もう少しいずれは場所を大きくしてみる、というのは」
「……どういう意味です?」
「あの、僕達とこの先も続けていかないかと……」
徐々に小さくなるジェイドの声に、アズールはしばらく黙りこんでから、手で口元を覆ってくつくつと笑い始めた。
「ふ、ふふ……、そんな今にも泣きそうな声初めて聞きましたよ」
「笑い事では……」
しょげるジェイドに、アズールは息を整えてから手を振って
「ええ、すみません。何というか、思いがけなかったのでつい」
「そうでしょうか。僕達にとってもみんな納得できる提案だと思ったのですが」
「……」
視線が揺れてアズールはボトルを持ち替えソワソワしながら
「それは、まあ、その。魅力的では、ありますけど」
「僕達は二人ともアズールの体質を知っていますし、どう対処すれば良いかもある程度把握出来ています。調理は得意ですから、アズール自身が厨房に立つ必要も無いですし。むしろオーナーとしてなら常に店にいる必要も無いですし」
畳みかけるジェイドの言葉にアズールはかなりこころを動かされたのかボトルを抱える手に力が入る。
「僕が、オーナー……」
呟いて、考え込んだアズールは首を振り
「でも、それは僕は良いが……。別にジェイドとフロイドだけでもやっていける、だろう。別に僕がいなくても」
「そんな事は無いですよ。僕もフロイドも、何しろ商売っ気というのが足りないと、父からもよく言われていましたから。それに、僕は……あなたにいて欲しい、と」
「あんなに嫌な上司だったのに、か?」
思わず、ジェイドの頬が緩み、アズールに手を伸ばす。一瞬後ろに引こうとしたアズールは、少し考えてそのまま受け入れることにしたのかジェイドの腕の中に収まった。
「まあ、仕事はきつかったのは本当でしたけど。でも、やりやすかったのも事実です。それに、あんな、雨に濡れて今にも死んでしまいそうな姿を見るのは嫌ですし」
だから、どうか、と懇願するようにもう一度どうでしょうか、と問われ、アズールはため息をついた。
「僕の荷物は結構多いですよ。どちらにしろ一度整理をしなくてはなりません」
「……ええ」
「そうですね、三日あれば多分。大丈夫な筈なのでその……改めて伺います」
「ええ、お待ちしています」
ジェイドの腕から離れて出ていくアズールを見送り、ジェイドは大きく息をついた。少しすると、部屋にフロイドが入ってきてジェイドに視線を向けた。
「話、ちゃんと出来た?」
「……ええ、フロイドのおかげです」
「オレは別に、ただジェイドの重ーい腰を蹴っ飛ばしただけだから」
欠伸をして手を振り冷蔵庫を漁って水の入ったボトルを手に取ってから、フロイドはひらひらと手を振り出て行く。その様子を少し眺めて、ジェイドはゆっくりと部屋に戻っていった。

機嫌が良い時のフロイドの鼻歌が工房の奥から聞こえてきて、ジェイドはお茶を入れながら様子を眺めていた。
「こちらの色と革でしたら、こういうデザインも今年のトレンドですよ」
タブレットと革の見本を並べて呻くように考え込む客の前に座ったアズールの声がテーブルの方から聞こえてくる。うっかり見学に来た、おとなしめな女性は、フロイドが気まぐれに作ったパンプスにすっかり目が行っていた。
この様子だと多分あと二十分後には仕立ての予約票を書くことになるだろう。
「お客様の好みや今持っているバッグなどを考えると、この辺りでまず押さえるのも良いと思いますね」
とんとん、と色とデザインを見せると、女性はため息をついた。
「どうぞ、お茶をご用意しました」
「ああ、ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
そう言ってジェイドはカウンターの向こうに戻ると、これにしますと言う客の声が聞こえてきた。
「はい、ありがとうございます」
輝くような営業スマイルを浮かべたアズールの声がしてきて、ジェイドは苦笑いを浮かべて工房の方に顔を出した。
「またアズールがお客さんを捕まえましたよ」
「えー、マジで?昨日も一人新しい客来たよね?」
フロイドは顔を上げ、オレは別に良いけど、と仕上げていた靴を机において眺めてから、それを棚に並べてラベルのついた紙を差し入れた。
「まあオレは今のところ変な客の相手しなくて良いけど」
「表に並べていたパンプスが気になっていたお客さんだそうです」
「ああ、あれ。なんかアズールの足に合うやつとか考えて色々試作したやつだったんだけど……。売らなくても良いから飾っとけってそういう事かぁ」
「……相変わらずですねぇ」
面白がる二人のいる部屋の向こうからは、どうやら買う事を決めたらしい客とアズールのやり取りが聞こえてきていた。
「まーた忙しくなりそう」