猫少女とつまらない世界の少年

 
 子どものうちはまだ良かった。自分のしたいことをして、怒られたら……兄弟と一緒に頭を下げて、また忘れてちょっと冒険をして。やりたいことをやって、やりたくないことはしない。当たり前のことだ。
 なのに大人になるとどうやらやってはいけない、したくない事の方が増えていくらしい。
 息が詰まりそうな話だ。
 
「あー……」

 寝転がって空を眺めて、思わず空気が抜けるような声を出す。
 暇だ。より正確には暇では無いけれど、それをしたい気分では無かった。
 フロイドはゆっくりと起き上がって、足下で部活に精を出す生徒達を見つめ、ふらりと歩き出した。塀の細い足場から階段の手すりに向かって飛び、一回転して床にしゃがみ込む。階段を下りて非常階段からそのまま外へ。
 ――結構うまく出来るようになってきたかも
 動画を見ながら練習してみた甲斐があったと言う物だった。正しいかは知らないが。
「よっと」
 壁に片足を掛けてそのままジャンプしてよじ登り、誰も歩く事の無い塀の上を駆け、ジャンプで飛び越える。本来はやってはいけないと、親からも散々口を酸っぱくして言われたのだが、フロイドは気にすることなく駆け抜けて行った。
「よっしゃ!」
 新しい技も良い具合に決まり、塀からどこかの建物の屋根に飛び移る。
 ――あ、流石にこれはまた怒られる?
 家の屋根からは丁度どこかのアパートの非常階段が見えた。そこに、一人誰かが立っていた。
「……?」
 フロイドは、別に他人にそこまでの興味を持たない方だった。それでも、その人間はどうしてか目に付いた。随分苦しそうにしゃがみ込み、手すりに掴まって呼吸も苦しそうだった。
 具合が悪いのだろうか、とフロイドは今立っている場所からその非常階段の所まで、パルクールで移動できるかを瞬時に判断した。
 ――多分、いける
 フロイドは少し下がってから反動を付けて非常階段の手すりに掴まってよじ登り、側に近寄ろうとした。
 ――どこの制服だろ
 それはどう見ても女の子で、見たような気もする制服を着ていた。苦しそうにうずくまっている彼女に声をかけようとすると、それは突然起きた。
「……は?」
 ふっと少女の姿がかき消え、服だけがその場に残された。
「え?」
 思わず見つめていると、服がごそごそと動いて、灰色っぽい毛の猫がゆっくりと服の間から顔を出した。
「え……猫になった……?」
「……ニッ!?」
 文字通り、まっすぐ上に飛び上がったその猫は、一瞬だけフロイドの姿を見たようだったが、そのまま階段の手すりの隙間から身を乗り出して、ぴょんぴょんと逃げていった。
「……ふーん」
 にやぁ、とフロイドは思わず笑みを浮かべ、先ほど跨いだ手すりから降りて、逃げた猫が通った細い塀の上を走って行った。
「ねえー、待ってよー」
 声をかけると、ふうっと一息ついていた猫がびゃっと妙な音を立てて再び走り出した。
 フロイドは待ってー、と声をかけながらウキウキと猫の後を追いかけた。
 人間が猫になるなんて明らかに不思議過ぎる。そんなの、面白いに決まっている。
 それに、こうして塀の上や細い路地、見たことも無い場所を駆け回るのなんてもう随分やっていない。
 ――ジェイドもいたら良かったな
 片割れがいたらもっと楽しかったのに、とフロイドはあの灰色の猫を追いかけ、細い路地を抜けて知らない家の庭先を通り、坂を登って小さな林の奥を通り抜けた。
「あれ……」
 見たことも無い閑静な住宅街にたどり着き、フロイドは辺りを見渡した。人の気配などもなく、静かな道路に夕日が差して、軒先にある花や植木を照らして長い影を落としていた。
「……おーい猫ー」
 呼んだところで出てくるわけは無いのだが、思わず声をかけてフロイドは歩き出した。
 そもそもここはどこだろう。こんな場所、来たこと無かったはずだった。
 ――移動した時間考えるとそこまで遠くねえんだよなぁ
 スマホを出して位置情報を確認してみると、案の定自宅からもそう遠くない場所が表示されていた。
 隣町にこんな場所があるとは知らなかった。フロイドはぐるりと辺りに目をやって、ふと気付く。あの少女は人間だったときに服を着ていたはずだった。制服類はそうそう無くすと困るはずだ。ならばあの場所に戻るはずである。
 慌てて、元々居た場所を頭の中で立体地図を作ってトレースし、フロイドは最短ルートで急いで戻った。
 果たして、彼がたどり着いたときには、あの非常階段に散らばっていた服はどこにも見当たらず、フロイドはやられたーっと思わず頭を抱えていた。
「ああーもう」
 久しぶりに走り回って動き回って、身体は疲れていた。それでも。
 ――すげードキドキしたな
 家に帰り、機嫌が良いまま部屋に入ると、先に帰っていたジェイドがおや、と顔を上げた。
「何か面白い事でもありましたか」
「んー。実は」
「……それは良かった」
 ここの所あまり機嫌が良くなかった兄弟を心配していた彼は、機嫌が良さそうなフロイドを嬉しそうに見つめた。
「ですが、なんだか随分埃っぽいですね」
「ああ、あちこちパルクールで追いかけたからなぁ」
「おや、それは?」
 フロイドは、女の子が猫になったという所は黙って――何しろ夢と言われてもおかしくはないので――、猫を追いかけて隣の町に行ったことを伝えた。
「あ、でさあ、ジェイド。こういう感じの制服の学校知ってる?」
 一瞬見かけた制服のデザインを、フロイドはさらさらと紙に書いてジェイドに渡す。彼は少し考えて
「確か、隣町のA高校の制服だったと思いますよ」
「ふーん」
「というか、今度の大会で隣町の高校もいくつか来るはずですが」
「あれぇそうだっけ?」
「ええ、確か。そこの生徒も来るはずですよ。何か気になることでもありましたか」
「んー、ちょっとねぇ」
 ありがとう、とジェイドに手を振ってフロイドはシャワーを浴びに部屋を出た。
 廊下を歩いてバスルームに入り、フロイドはお湯を頭から被りながらじっと意識を集中させて記憶を呼び起こした。
 ぱっと一瞬だけ見えた、猫になる前の少女の姿をコマ送りのように記憶を巻き戻していく。覚えようとすればその時点を鮮明な写真として、或いはその気になれば立体物として俯瞰で見る事も出来る。やる気が無ければ全く使わないので普段は宝の持ち腐れとも言える。フロイドはぱっと少女の顔が見えた瞬間で巻き戻しを止めた。
 柔らかい髪、猫の時と同じ色味の薄い銀髪に、うっすらと青い目の、少女の顔。
 面白い事になりそうな予感がして、フロイドは思わず胸が高鳴るのを感じて鼻歌を歌い始めていた。

 

 ジェイドの言っていた大会というのは、近隣の学校の運動部を集めた記録会のような物だ。何しろスポーツが盛んだとか言う街なので、箱物は沢山ある。ようはそれを使う必要があるのかもしれないが、フロイドにはどうでも良い事だった。
「……はあ」
「ちょ、ちょっとフロイド先輩ー」
「なぁに、カニちゃん。おれ今ちょーっと機嫌悪いんだけど」
「見りゃ分かりますって」
 赤茶の元気よく跳ねている髪を押さえ、エースははあ、とため息をついた。
「ここまで来ただけマシとは思いますけどー……。どうしたんすか一体」
「んー……」
 フロイドはスマホを弄りながら壁により掛かってぼんやりと客席の方に目をやる。
「ねえカニちゃんさぁ、色々他の学校のこととか詳しいよねぇ」
「え? あ、まあ兄貴とかがよく合コン? してたし、友達学校跨いで多かったから何となくは」
「ふーん、じゃ、あの隣町のA高校ってどこら辺にいる?」
 エースはフロイドの意外な問いかけに思わず、えっと声を上げた。
「え、せ、先輩が他校のこと気になるって……?」
「良いからさぁ、教えろよおら」
「あ、止めて首は絞めな……いやマジで締まっ……! しまってますフロイド先輩!」
「んー、締めてるから当たり前じゃん」
「しぬー! コロされるー!」
「殺さねーよ。カニちゃん締めてもつまんねーし」
「つ、つまらないでオレの命助かってるの……」
 エースはフロイドの筋肉の付いた腕をたたき、一方向を指さした。
「あっち、あれ見てください先輩」
「……んお。マジじゃん。あの制服。すげー! カニちゃんやっぱこういうとき便利ー」
「べんり……?」
 ぱっと手を離して、フロイドはエースが指さした先に向かって歩き出した。
「え、ちょっと先輩! 次! オレたちそろそろ試合っすよ!?」
「適当にやっててー」
 軽やかに階段を駆け下りて外に出ていくフロイドの背中に、エースの悲鳴が聞こえてくる。
「いやああ! うそでしょー!? ちょ、ちょっとジャミル先輩ー!」
 フロイドは果たして目当ての相手が居るか、わずかにドキドキしながら走り出していた。
 いくつかある出入り口の一つに向かうと、その制服の生徒達からの視線がばっとフロイドに向けられ、ひそひそと囁き越えが聞こえてきた。煩わしい物が大半で、フロイドは面倒だなと考えながら制服の一段の中に目当ての姿がいるかをぱっと探した。
「いねえし……」
 思わず呟いて、彼はため息をついて外に出ようと、きびすを返した。
「C組はこちらに集合してください」
 中から声がして、生徒達がざわざわと体育館の中に入っていくらしい音がした。何となく振り返り、フロイドは、あっと声を上げた。
「あー!」
「は……、っ!?」
 フロイドは長い足でぽんぽんと一気に距離を詰め、その生徒の前に立って見下ろした。
「見付けたぁ。この間のね」
「――っ! あ、あああお久しぶりですね! ちょ、ちょっとすみませんが代理お願いしても良いですか!」
「え、あ、はい。アズールでも、もうすぐ……」
「すぐ戻りますので!」
 近くに居た別の生徒に声をかけ、アズールと呼ばれた少女はフロイドの手首を掴んでぐいぐいと外にフロイドを連れ出そうと引っ張り出した。
「えー、オレ外に出たい気分じゃねーんだけど」
「……では中でも構いませんが、とにかく人の居ないところで話をしましょう。それと、僕のことをその、ねのつく生き物の名前で呼ばないでください」
 ひた、と冷たい目で彼女はフロイドを見上げ、フロイドは少し考えてから、良いよー? と笑みを浮かべた。
「でもさぁ、オレ、ね~ほにゃほにゃのしかわかんねーし。なんて呼べばいいの」
 少女はあからさまに顔を引きつらせたが、眼鏡を押さえて息をついて、フロイドを見上げて答えた。
「僕はアズール。アズール・アーシェングロットです」
「ふーん、アズール、ねぇ」
「さあ良いからさっさと歩く!」
 ずるずるとアズールに引きずられながら、フロイドはアズール、と彼女の名前を反芻するように唱えていた。

「で、いくら欲しいんですか」
「はあ?」
 外に出たアズールは、ずるずるとフロイドを引きずって体育館から少し離れた灌木の植え込みまで来て、そこで立ち止まって開口一番そういった。
「何それ」
 不満を顔に出してフロイドは呟くが、アズールは爪を噛みながら
「僕が普通じゃ無いと分かった上で、こうして探してきたのなんてそれ意外に何があるんです? 一応言っておきますが、金を受け取ったら二度と僕の正体の話は」
「別に金なんて要らねーし。つか、他人から無心してまで金無いように見えるわけ?」
「……」
 アズールは、思わずフロイドを上から下まで見つめてから、うう? と首をかしげそうになって、慌てて睨み付ける。
「そ、そんなの。お金があるかどうかでやる物でも無いでしょう」
「まあ確かに」
 物のカツアゲはそれこそ部活の後輩相手にしょっちゅうやっていた気がする。一々覚えてはいないが。
 しかし、とフロイドはアズールを見つめてわずかにもやっとした気持ちで彼女を見下ろした。
 何となく、この猫娘にそういう風に思われるのは癪だった。あんなにドキドキして楽しい事があるかもしれないと弾んだ気持ちはどうなるというのか。
「なら、一体何が望みですか」
 胸の前で腕を組むのは、相手に対して戦いを挑んでいるのと同じ、とかジェイドが言っていたような気がする。フロイドは、胸を反らせて自分を見上げてくるアズールを、じっと見つめた。柔らかくウェーブした銀髪、一房だけ長いサイドの髪に、編み込んでいるらしい髪型は楚々としている。多分、そう見せたいのだろう。さっきの生徒達への態度から、生徒会か何かしらに所属している可能性もある。
「……口の所ほくろあるんだ」
「は……?」
 黙りこんでいたフロイドが突然そんなことを言ってきて、アズールは思わず瞬きをして口元を手で覆って
「何を訳の分からないことを言ってるんです」
「だって、この間はちゃんと顔見れなかったし。ずーっと猫ちゃんだったしねえ」
「……っ」
 ぐうっと呻いて、アズールは俯いた。
「何、猫嫌いなの?」
「好きとか嫌いとかじゃ無い。馬鹿にするのも大概にしろ」
 ぐすっと若干涙声になったアズールに、フロイドは思わず狼狽え、アズールの肩に手を掛けて顔を覗き込んだ。
 ――なんでびっくりしてるんだろオレ
 泣いてはいないものの、わずかに赤くなった目がフロイドを睨み、ふくれっ面でフロイドの手を払おうとする。
「僕を強請るのか」
「なんで? ていうかさっきから、なんでオレがそういう事する流れな訳?」
「なんでって」
 顔を上げたアズールは、怒りや苛立ちが引っ込み、困惑した顔でフロイドを見上げていた。
「他に何があるんです? サーカスに売るとか、研究所に売るとか……?」
「いや、なんでそういうのしか思いつかないわけ……? もうー! オレは」
 ぐっと両肩を押さえてアズールを見つめ、フロイドは思わず言っていた。

「アズールと付き合いたいって思っただけなのになんでそういう話に持ってく訳?」
 
 あれ、何か違う?
 ……いや、やっぱりそう違うと言うわけでも無いな?
 フロイドは己の口から思わず飛び出た言葉に自分でも驚いてから、まあでも間違ってないな? と考え直した。
 だってあんなに面白かったのだ。アズールを追いかけていたときは。猫のアズール、ふわふわで柔らかそうで、目の前のアズールもやはりふわふわで柔らかそうだった。
 今はなんだかゆでた蛸みたいに真っ赤になっていたが。
「は、え……?」
 今にも血圧の上がりすぎで倒れるのでは無いだろうか。フロイドは、真っ赤になって口をパクパクさせているアズールを見つめて思わず吹き出しそうになって口を押さえた。
「そんなに驚くこと?」
「だ、だって……僕は!」
 ふ、っとアズールは黙りこんでゆらりと前に倒れ込んだ。
「うわっ! え、ちょっと!」
 ばさ、と倒れ込んできたアズールを抱えようと手を伸ばすと、服がばさっとフロイドの手に落ちてきて、そのまま地面に滑り落ちる。
「あー……」
 服の中でもぞもぞ動くそれをつまみあげると、フロイドは腕の中に収めてふわふわの毛を撫でた。
「大丈夫アズール?」
「なあああ!」
 微妙に不満! という声のようだが余り気にしないことにして、フロイドはアズールの服を拾い集めて体育館の方に目をやった。
「……猫じゃぁ体育出来ないし、代理居るからいいよねぇ」
「なー!」
 そんなわけ無いだろ! と言っている気もしたが、フロイドは鼻歌を歌いながらひなたぼっこに良さそうな場所が無いかを求めて歩き出した。
「なあに? ひなたぼっこしたい? いいよぉ」
 フロイドは上機嫌のまま、アズールを撫でながら猫の鳴き声に返事をしていた。

 
 
 物心ついた頃からそれは母方にあったらしい。
 それは呪いだとか、あるいは何かしらの特異体質だとか、言い方は色々あるが事実は変わりは無かった。どうしてそうなるのかも、実のところよくわかっていないのだという。
 それこそ、昔から伝わっているのは、強欲だった母方の先祖が悪魔に魂を売った結果得た、或いは押しつけられた物、というのが一番ありそうな話だとアズールは考えていた。
 ただ、その呪い故なのか、とにかく商売に対してのツキ、あるいは勘は良く当たる一族だった。だからこそ、金に物を言わせてこの呪いを解くために昔から一族は奔走していた。
 ――結局、それもこの現代でも全く分かっていないけど
 その日のことを思い出そうと、アズールは規則正しくゆっくり動くものの上で無い眉を寄せた。
 あれは、住んでいるアパートの手前で異変を察し、慌てて人のいなさそうな非常階段に逃げたとかだった気がする。
 相変わらず、胸が塞がるような苦しさ、目の前の身体が人でなくなる様を見ながら、どうにもならないそれを呪いながら自分の指先が毛深く丸みを帯びた形に変化し、やがて身体が縮んで行く最中。
 金属の音がして誰かが声をかけてきたような幻聴を聞いた。
 その場所は人はいなかったし、上からも下からもすぐに人が来ることはない場所だ。人の声などするはずがない。そう思って身体に合わなくなった服の間から顔を覗かせると、知らない男と目があった。
 大体こういうとき、思考は殆ど猫と変わらない、と思う。
 頭が真っ白になって思わず垂直に跳ねて逃げ、屋根や細い塀の上を選んで走り抜けた。
 と言うのに、どういう理屈か嬉々として追いかけてくるあの顔。
 最悪なのに出会ってしまったのでは?
 アズールは日向で寝ている男の上で立ち上がり、そろりと身体から降りた。男の拾っていた服に頭を突っ込むと、丁度身体が元に戻り始め、制服を着た状態でアズールは芝生の上にしゃがみ込んでいた。
「はあ……」
 遠くから聞こえてくる歓声に、どうやら既に大会は終わりに近づいていることに気付いてアズールはため息をついた。
 サポッた理由をどう言い訳しようか、気が重かった。
「この……気持ちよさそうに寝て……!」
 寝息まで聞こえてくる横の男に思わず腹が立ち、アズールは男を見下ろし、何か持っていないかとポケットに手を伸ばした。
 ジャケットの胸ポケットに無造作に突っ込まれていた手帳を引っ張り出すと生徒手帳が――何度か洗濯されたのか微妙にくしゃっとなっている――を、広げてカードの名前を見つめた。
「フロイド……リーチ?」
「何?呼んだ?」
 ひゅっと喉の奥から妙な声が出て、アズールは飛び上がるようにフロイドからばっと離れた。
「……何その反応。くすぐったいから普通に起きるに決まってるじゃん」
「あ、いや。起こすつもりは」
「んー?名前知りたいなら聞けば良かったのに」
 驚いた拍子に草の上に落ちた手帳を拾い上げ、フロイドはやはり無造作にポケットに突っ込んだ。
「なんで洗ったみたいになってるんです」
「なんか、パンツのポケットに突っ込んでたの忘れてて」
 無いと教師がうるさいから入れてるんだけど、とむくれてフロイドは立ち上がり、大きく肩を回した。
「じゃーかえろ」
「いや、普通にまだ大会終わってないが」
「良いじゃん別に。ここまで来たら居ても居なくても変わんねーし。それに、また猫になったら困るんじゃねーの」
「ていうか、お前は良いのか出なくて。その感じだと部活とか」
「んー?一応バスケ部だけど。今日は気分じゃないからやだ」
「……は」
 欠伸をしながら身体を伸ばし、フロイドはふらふらと歩き出した。
 ――こいつの方が猫みたいだ
 思わず後を追いかけて、アズールはなんとも言えない気分でフロイドの背中を眺めて思っていた。

 その日から気まぐれにフロイドはアズールの前にふらりと姿を現した。
 本人の言うとおり、気分でないとアズールの学校の方まで来ないのか、その頻度もタイミングもバラバラで、何が目的かもよくわからなかった。
 とにかく。
 細い塀の上を飛び越え、雑草で見えなくなっていた側溝、川、そんなのを飛び越えて屋根を飛び越えた先まで来るとアズールは立ち止まって行儀良く足を揃えてチラリと振り返った。
「なんか、どんどん難易度上がってない?」
 髪についた葉っぱを払い、あちこち適当に叩いて汚れを落としたフロイドは、それでも気にしないのかアズールの側に座り込んだ。
「すげー、結構遠くまで来たねぇ」
 恐らく、ミニ開発をし続けてた丘陵地帯の一部なのだろう。どこの家や土地にもならずにぽつんと残った小さな四角い空き地は眼下の街を見下ろすように視界が開けていた。恐らく知っていれば大回りをしてもいける道があるが、あえてアズールは最短ルートを通ってきていた。何しろその方がフロイドは楽しいらしく、ウキウキとついてきていた。
 ――本当についてくるとは
 座ったフロイドは汗を拭ってからアズールに手を伸ばし、抱え上げて膝に乗せて撫で始める。
 猫の性か、あるいはフロイドが扱い慣れているのか、アズールは思わず反射的に腕を伸ばして膝の上の収まりが良い位置に身体を沿わせて顎を膝に乗せた。
「具合はどう?」
 とろりと身体を預けているアズールに、フロイドは思いのほか柔らかい口調で問いかけるが、アズールはうとうと目を閉じて尻尾を返事代わりに揺らした。
 悪くないと、伝えるつもりで発した声は猫の甘えたような声しか出ず、アズールは不満、と慌てて表すように尻尾でフロイドの膝を叩いた。
「気持ち良い?」
 ぐり、と猫の額、と言うべきか、耳と目の間を指先で軽くカリカリと撫でられ、アズールは思わずもぞもぞと足を動かした。いろいろと考えることや状況なんかを考えなければいけないはずだが、猫の身体はどうにも猫の思考によるらしい。温かいクッションとマッサージがあるとどうにも人間らしい思考というのは難しく
 なあ、と思わず声が出て、アズールはまずは元に戻ってからでないと話にならないと思わず呻いた。

 大分暗くなった頃、猫のまま抱えられたアズールは、フロイドに運ばれて自分の家に戻った。
 アパートのドアを開け、部屋の中に服と一緒におかれ、彼がじゃあねーと言って出て行く。
 少し経つと身体が元に戻って、素っ裸のまま思わず床をのたうち回って猫の間の自分の甘っちょろい態度を自分で罵る、という事が続いていた。
 あの男の目的は正直全く分からなかった。
 何度問いただしても、面白そうだからとしか言わないフロイドは何と言うべきか、アズールからすれば不気味、とすら思えた。
 ――人間なんて無償で何かするなんてありえない……
 フロイドが変わっているのは分かるが、それを差し引いてもアズールにはいまいち分からなかった。
 服を着替えて食事を作りながら、アズールはうーんと首を捻り、分からない……と一人呻いていた。
 

「……一体、何なんです」
 ポテトが食べたくなかったとふらりと勝手に入ったファストフード店で、アズールはついにフロイドに問いかけた。
「何?アズール全然食べないねぇ。はい」
 カリッとあげられた部分を差し出され、アズールは思わずいりません、とイライラ手を振り一人でたっぷりと詰まったケースの中のポテトを消費するフロイドを睨んだ。
「僕は間食はしません。太りますし」
「えー、良いじゃんちょっとくらい。丸い方がフォルム的にも良いと思うけど」
 明らかに猫のフォルムを指で描くフロイドに、アズールは思わず足を蹴り、フロイドは大して痛くもない声でいたーい、と声を上げた。
「カリカリのポテトって嫌い?」
「す、好きですけど……。そういうのはちゃんとカロリーとかを考えむぐ」
 思わず咀嚼して、アズールは口元を押さえてううっと呻きながら飲み込んだ。
「あは、良いじゃん今も十分痩せてんだし。ていうか手とか全然だしもっとあっても良いって」
 ためらいなくアズールの手を、驚いた事にちゃんと手を拭いてから掴み、細い指先をつまんで首を傾げた。
「……随分慣れてるな」
 思わず呟くと、フロイドは何が?と首を傾げ
「あ、触られるのやだって事?」
「え、気持ち悪くないか。生ぬるいというか……」
 アズールの言葉に、更に不思議そうにフロイドは眉を寄せた。
「アズールの手?別にー」
 フロイドはそう言っておれのも触って良いよーと手をテーブルの上に差しだした。
 思わず、サイズ感の違いへの興味からフロイドの手のひらを見つめ、アズールはあれ、と手のひらに出来た角質化したような部分を見つめた。
「これ、バスケとかで出来ます?」
「あ、これはそう言うんじゃ無くてハンマーとか……?」
「大工仕事でもするんです?」
「んー、革靴作りたくて色々やってるからそれじゃねーの。紐とか、こう……ぎゅってやるときに結構力いるから」
「へえ」
 意外そうに呟いたアズールは、ふとフロイドの手の平に指先が触れていた事に気付いてさりげなく手を膝の上に戻した。
「……って、そうじゃなくて!フロイド。いい加減本当の目的をですね」
「……なに?」
 あからさまに不思議そうに――思わずちょっと可愛いかもしれないと思った自分を抑え、アズールはフロイドを睨んだ。
「目的?なんの話」
「とぼけても無駄ですよ。見返りも無しに人の世話を焼くなんてあり得ません」
「またその話ー?本当さ、アズールそんなに嫌な目に遭ったわけ?」
「……僕が、と言うより過去の彼女たち、ですけど。ええ、そうですね」
 スマホを取りだし、アズールは机においてコツコツと指先でそれをつつきながら
「もうあなたに隠すのも意味が無いから言いますが、僕のこれはそんな面白いモノでは全くありません」
「そうだろうねー」
 ポテトを休むことなく食べながらフロイドは相槌を打ち、アズールはやりにくいなと思わず眉をひそめつつ
「り、理解が早くて助かります。原因は不明、由来ももはや不明となってしまいましたが、少なくとも魔女狩りが横行する時代にはあったという話は残っています。こんな呪い、体質が当時バレればどうなるかなど火を見るよりも明らかというモノです」
「まあ、現代でも良く分からないんじゃ、当時じゃ魔女って言われてもどうにもならないだろうねぇ」
「……その通りです。不幸中の幸いと言うか、別の理由かは分かりませんが、一族はどうやらある程度社会的地位に就くだけの金、権力を手に入れる事が出来たようです。それがこの体質に関わっているかはまあ分かりませんが」
 飲んでいたお茶のカップをストローでぐるぐると回しながら、アズールは一息入れた。
「とにかく、こういう問題については大抵金があれば話はシンプルに終わります。それだというのに……」
 フロイドはあははーと気の抜けた笑みを浮かべて
「オレは最初に言った通りだし」
「……はあ、結局元に話が戻るんですよね……」
 げんなりとした口調でアズールは呟くと、ちらりと視線を横へと流した。やけに視界の端にちらつく影があるような気がしたのだが、フロイドが軽く机を指先で叩き
「あー、少し待って」
 と囁いた。ざわつく店内ではそれで十分だったが、アズールは一瞬だけ眉を寄せて視線を戻してフロイドに目をやった。
 ほどなくして、フロイドはポテトを食べ終えるとトレイを持って立ち上がった。
「いなくなったから今のうちにかえろー」
「……あ、ああ。よく見てなかったけど何だったんです」
「さあ?よくわかんねーけど、今気分じゃないから相手するのも面倒だったし」
 肩をすくめるフロイドに、アズールは気分だったら喧嘩でもしたのだろうかと眉をひそめ、面倒に巻き込まないでくださいよとだけ答えた。
「止めないんだー」
「別に。突っかかってくるのはいますし」
「あは、何アズールもそういうのあるの?」
 何故か目をキラキラさせて屈んで覗き込むフロイドに、アズールはノーコメント、と言って店から出た。
「というか、ポテトを液体みたいに流し込むの初めて見ましたよ……」
 大口で最後は一気に飲み込んでいたフロイドに、アズールはなんとも言えない顔をしたが、フロイドは肩をすくめる程度で
「あれくらいならいけるよ。ジェイドもなんかあっという間に食うんだけど」
「……誰?」
「オレの兄弟」
「ああ」
 なるほど、とアズールは思わず呟き、それから何故また並んで歩いているんだろうと思わず眉をひそめ、思わず抗議しようと口を開き

「おい」

 先を越されて思わずアズールは黙りこんだ。
「……知り合いですか?」
「え、しらねーし」
「でも制服同じじゃないです?」
 声をかけてきた五人程度の男子はフロイドの制服と同じもので、アズールは面倒事に巻き込まれたなーとわずかに視線が上を向いた。
「それじゃ、僕はこの辺で」
 きびすを返してフロイドを置いて去ろうとしたアズールは、背後にも立っていた男子生徒二人を見てからため息をついた。
「僕、関係無いんですけど」
「彼女にも関係ある話だからちょっと来て貰うぜ」
「……は」
 誰が彼女だと嫌そうな表情を露骨に浮かべたアズールはじりじりと近づいてきた生徒から離れてしょうが無くフロイドを並んで前を歩きだした生徒についていった。
 路地裏を少し行った先にある駐車場のようなスペースまで来ると彼らは取り囲んでフロイドとアズールを見つめてきた。
「いや、本当に僕関係無いんですけど」
 手を上げて抗議するアズールに、笑う声があちこちからしてくる。
「なんだよ、お前でも振られる事あるのか?」
「はあ?つーかお前ら本当何?用無いならオレら帰るんだけど」
 気のせいかアズールをかばうような位置に立ち、フロイドは苛ついた声をあげる。威圧感に思わず生徒達の数人が黙りこんだが、リーダー格らしい生徒が声を荒げた。
「お前!この間のこと忘れたんじゃねーだろうな?いきなり人を吹っ飛ばしやがって!」
「……あー?あ?」
 何かしたっけ?とフロイドは首を傾げてから
「全然覚えてねー。テメーが邪魔な場所に立ってたとかじゃねーの?」
「横暴すぎるだろ……」
 思わず顔を引きつらせるアズールに、フロイドは覚えてないからしょうが無いじゃん、とむくれたように言い返す。
「オレ興味無いこと覚えてられないんだよねぇ。あとさぁ、あんまり気分じゃなかったから話聞いてやったけど、なんかやっぱ気が変わった」
 肩を回し、ふらりとフロイドは生徒の一人に近づいておもむろに拳を振り上げた。
 悲鳴と共に他の生徒達がフロイドに飛びかかり、一人に対して一気に殴りかかっていった。アズールは、このまま状況を見て場合によってはとっとと逃げようとしていたが、駐車場の出入り口はちゃんと逃げないように立っている――というよりは痛い目に遭いたくないから頃合いを見て逃げようとしているのかもしれない――生徒の存在にさてどうしたものかと考えた。
 何しろ勝手に人の近くをうろついていた人間で自分には関係の無い話である。
 それにそもそも手足が長いのもそうだが、とにかく多勢の筈の生徒達の方がぽんぽんといっそ小気味良いくらい吹っ飛ばされている。眺めているだけで終わりそうだ。
 そう思っていたアズールの視界が瞬き、ゆらりと身体がふらついた。
 ――あ、まずい
 身体が変化する前兆が現れ始めていた。まだすぐと言うほどでは無いが、このままだとあまり宜しくない。
「……っ」
 離れようとしたアズールの腕を、生徒の誰かが掴みあげねじり上げた。
「いったー!」
 思わず叫んだ声に、フロイドがはっと動きを止めた。その瞬間に一人がフロイドの頬に向かった拳が入り、よろけたフロイドに数人が掴みかかって引き倒した。
 暴れるフロイドを押え込む生徒達に、腕を掴まれたアズールは声を上げた。
「その辺にしておきなさい。いくら何でも気道を押え込んだら下手をすると死にますよ」
「うるせーな。動けなくなるまで何するかわかんねーんだよ」
 明らかに暴れる動きが緩慢になってきたフロイドに、アズールはため息をついた。
「……はあ。仕方が無い、か。一つ、貸しにしておきますよ」
 そう言ってアズールは、腕を掴んでいる生徒の方に身体を向けた。
 鈍い音がして、アズールを取り押さえていた生徒が膝から崩れ落ちて地面に倒れ込む。
「……え?」
「は?」
 理解が及ばず、呆然とフロイドを押え込んでいた力を緩めた生徒達は、転がっている生徒とアズールを見比べた。
「猫科の動物のパンチ力やキック力って、結構バカに出来ないんですよ。知ってますか。元々狩りをするのに瞬発力をメインで使っていたせいなんですけど」
 アズールは何でも無いようにパタパタと制服を払い、にや、と微笑んだ。
「それと、僕はちょっとばかりそういう心得もあるんですよね。実は」
 押さえつけられて息が出来なかったフロイドは、霞みかけていた視界に映るアズールを見上げて思わず瞬きをした。
 やけにキラキラまぶしい視界の中、嬉々として自分よりも身体の大きな男子達を踏みつけ蹴り飛ばしていくアズールに、フロイドは。

「ふふふ」
 不気味とすら言える含み笑いを浮かべてアズールは自分が伸した男子達の生徒手帳を集めて名前をメモしていた。
「良いですねぇ。誰も彼も中々使えそうじゃないですか」
「アズールー」
 呼びかけられてはっと気付いて、アズールは咳払いをしてからフロイドに向き直った。
「な、なんです?」
 フロイドは気のせいか更にふわふわとした目付きで、転がっている男子生徒達の間を――時折邪魔なのは蹴ったりしながら――アズールに近づき手を伸ばして来た。
「なんです」
「んー……」
 暴れたせいか長く柔らかな銀髪が一房乱れて肩から滑り落ち、それをフロイドは指先に絡めて屈んだ。
「オレねー。アズールの事好きだなーって」
 髪に口付けるように頬を寄せてにこ、と屈託無く笑ってフロイドは言い放った。

「は」
 
 思わず動きが止まったアズールは、身体の異変に気付いて慌てて駐車場から外に飛び出した。
「アズール?」
 追いかけたフロイドは、少し行った先で抜け殻のように服が散らばっているのに気付いて、急いで服をかき集めた。辺りに目をやると、少し離れた屋根の上を銀色の毛並みの猫が駆けていっているのが見えて、慌てて塀を跳び越え追いかける。
「アズール、ちょっと待ってって」
 夕暮れの薄暗い路地裏や隙間を縫うように銀色の猫を追いかけてフロイドはどうにか見慣れた場所までたどり着いた。案の定というべきか、自分の家のドアが開けられずに途方に暮れたように背中を丸めて立つアズールの側に寄ると、手にしていたアズールの服から鍵をとってドアを開けた。
 部屋の中に入り、いつものように服を置いて出ようとするフロイドの服の裾にアズールが飛びつき、フロイドは思わず「あぶね!」と呟いて立ち止まった。
「……なあに?」
 なあ、と返事が返ってきてフロイドが見ている間に元に戻り始めたアズールは、ジャケットを羽織った状態で床に座り込んだ。
「平気?」
「ええ。少し兆候があったのですが……うっかりしていました」
 疲れた顔をしたアズールに、フロイドはわずかに眉をひそめた。
「オレのせいだったりする?」
「……そういう訳じゃないですけど……。その話、今しますか」
「んー、オレは別にいつでも良いけど」
「どうせ、その、一時の話でしょう」
 飽きっぽいって言っていただろう、と指摘するアズールに、フロイドは否定はせず
「まあねー。飽きるって言うか、なんつーの、永遠とか、そういうのって嘘だと思うし」
「ええ、そうですよ。全くです」
 アズールは頷き、フロイドは思わず面白がるように目を細めて力を込めて握りしめていたアズールの手を取った。
「あ、でもさぁ。今オレがアズールの事好きってのは本当だから」
 じゃあねーと立ち上がって手を振って出て行ったフロイドを、呆然と見送ってアズールは床にそのまま突っ伏した。
 猫になるという特異体質を持っていることを知られ、成り行きとはいえかなり助けられている面もあった。自覚もしていた。どうしようと頭を抱えてアズールは考えた。
 こんなにも深入りされ、挙げ句いないと困るような状態になってしまったというのに。
 好きと言われてあっさり喜んでいる自分にどうしようもなく愚か者と理性が騒いでいた。