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やがて花開く君へ

今日もばたばたと賑やかな姉と妹のやりとりを、りんは朝食をとりながら眺めていた。いつも思うが、どうして女というのはこんなに毎日賑やかでないといけないのだろうか。
部屋からスカートのファスナーを半分あげた状態、キャミソール姿という半端な恰好でりょうが出てきて
「りくちゃん、私の服持ってかないでよ、それ今日着るんだから」
「ええ、りつ! あれって乾いてたっけ?」
慌てて畳まれていた服をばさっとひっくり返す姉にりつが悲鳴を上げ
「りょう姉、ちょっと髪ゴム貸してー。また切れちゃったな」
髪を纏めようと悪戦苦闘していたりながりょうを呼び
「ちょっとりな! 私の制服じゃんそれ!」
二階の部屋からりょくが叫んでいる声が聞こえる。
「……にゃー、えーっとりくちゃんの服……あ、ごめんちょっと素材がデリケートだったみたいだからデリケート洗いにしちゃって……まだ多分乾いてないかも」
りつはとりあえずぐちゃぐちゃになった服を片付け、一枚服をりくに渡した。
「私の服着ればいいにゃ」
りくは渡された服を眺めて難しい表情をし
「……りつの、胸んところがでかいから私着ると見えるんだよな」
ぶつぶつ言いながらりつから服を借りてその場で着替え始める。
大体いつも似たような感じだ。
髪がまとまらないから何かないか、服がどこかに消えた、制服をお互い寝ぼけて間違えた、化粧品を間違えて使ってしまったなど枚挙にいとまがない。
以前、自分をうらやましいなどと言っていた同級生がいたが、一日でも立場を変えれば絶望するだろうきっと。
りんはごちそうさまと手を合わせて食器を流しにおいて自分の分を洗い始めた。
「あ、いいのよりんちゃん。私やっておくから」
「忙しそうだし、いいよ別に」
りつにそれだけ言って自分の分だけをとりあえず終わらせ、りんは嵐の去った洗面台に立って歯を磨き始めた。
「行ってきまーす」
りなとりょくがリビングに向かって叫んで外に飛び出し、りょうもバッグを肩にかけて慌ててパンプスを突っかけて出て行った。。
「んじゃ、りつ。後よろしくな」
「はいはいにゃー」
車のキーを持って出て行ったりくを見送り、りつはやれやれと肩を回した。
「毎日賑やかよねー」
「まあ、静かよりはいいんじゃないか」
「そうよね……。りんは学校遅刻しないの?」
「うるさい教師が校門から居なくなるのがあと少しだからもう少し待つ」
口をゆすいで顔を洗って、男の子としては少しばかり長い髪を器用に結ぶ。
おそらくその髪を切ればいいのでは、と思うが、りんが髪を切るのを嫌がる理由を知っているだけにりつは触れない事にした。
それに、少し最近弟の様子が気になっていた。
――これは試しにカマかけてみるかにゃ……
「それだけ?」
「それだけって?」
りつの問いかけに、りんは表情を崩さずに姉を見つめた。
「何でもないにゃー。外で作業してるから、遅刻しないようにね」
りつはりんの肩をとんと軽く叩いて勝手口から出て行った。
少し静かになったリビングで、コーヒーを飲んで時間を確認して頃合いを見てりんも外に出た。
一瞥し、りつが作業をしている様子を確認すると、りんは角を曲がって学校に向かった。その、後ろ姿を見送ってりつはふうっと息を吐いた。
大きくなってからというもの、素っ気ないそぶりが多くなってきているがそれでも姉の目はごまかせなかった。
――あんなに嬉しそうに出かけるなんて……好きな人でも居るのかしら
りつは、そろそろ開きそうな蕾を見つめて考え込んだ。

わかばは鼻歌を止めてふと時間を確認した。
「あれ、もうこんな時間か……」
温めていたスープを器によそい、きれいにテーブルに並べて、良しと頷く。
エプロンをソファにかけてぱたぱたと二階の主寝室のドアを開けた。
一番広い寝室は、主の部屋となっている。どうやら昨日もかなり遅い時間まで何か書き物をしていたのか、机の上には何かの文書と、辞書と文献が海のように広がっていた。この惨状で果たして論文など書けるのだろうか。わかばには分からなかった。
「博士ー。もう、いつまで寝てるんですかー?」
ベッドに転がる物体を一瞥し、わかばはカーテンを引いて問答無用で窓を開ける。ふわりとまだ夏になる前の朝の少しだけ冷たい風が部屋に流れ込んできた。
「……うぅ……。ちょっと寒いよ……」
もぞもぞとミノムシのようにベッドの上で丸まった物体が動き、ひょこりともじゃもじゃの髪が飛び出した。そのままずるっと頭を出し、毛布の中から亜麻色のような色合いの色素の薄い髪色に、眠たさでしょぼつかせた焦げ茶の瞳の青年がのっそりと出てきた。
「もう、とうに朝ご飯の時間ですよ。起きないと、取り上げてりりさんにあげちゃいますから」
「それは勘弁……。もう、ちょっと待って……」
億劫そうに、青年は大きく伸びをして起き上がった。
「おはよー……」
博士と呼ばれた、ほぼわかばと同じ顔立ちの青年はわかばの頭を撫でて、気の抜けた笑みを浮かべた。
「はい、おはようございます。博士」
つられて同じように笑みを向けるわかばに、青年はその言い方はちょっとなぁと言いながらわかばの後ろをついていった。
食事の席に着くと、二人は向かい合って、手を合わせていただきますと声をそろえた。
「今日のご予定は?」
「えーっとね……。遠隔地の研究者と電話会議が……十一時頃にあるかな。多分お昼跨いじゃうかも」
「それなら、サンドイッチとか用意しておきましょうか」
「うーん、そうしてもらえると助かるよ」
悪いねえ、と少し眉を下げて青年は呟く。
「好きでやっている事ですから」
わかばはわずかに、ほっとしたようなくすぐったそうな笑みを浮かべて答えた。
どうやらまだ半分寝ぼけている青年はゆっくりと咀嚼しながら食事をし、わかばは時間が気になるのか時計を時折見ながらスプーンを動かした。
「ごちそうさまです」
先に食事を済ませると、わかばは箒を持って外に出た。
わかばは、大体朝の八時ころになると庭に出てポストをチェックしつつ、庭や家の前の掃除をするようにしている。
どうやら家の向こうに学校がいくつかあるようで、学生たちが通学する様子が見えるからだ。
「えーっと……」
ポストの中を開けると、数枚のはがきと手紙が入っていた。取り上げてすべて宛名を確認し、エプロンのポケットに押し込む。
庭の草や木の葉を掃いていると、ちりん、と自転車のベルが鳴り、弾けるようなかわいらしい声がわかばの耳に届いた。
「おはようわかば!」
「おはようございます。りりさん」
セーラー服姿の少女が自転車を家の前に横付けし、わかばに声をかけた。
「ワカバはいる?」
りりは首を伸ばして家の方に目を向け問いかけた。
「ええ、まだ朝ご飯を食べていますよ。半分寝ているようなものですが」
「あはは、わかばも苦労するよね」
「りりさんは、今日は帰り寄って行かれますか」
「うーん……何もなければちょっと寄ってってもいいかな……?」
そういうものはあまり分からないわかばでも、りりがワカバ――博士を慕っているのは明らかだった。朗らかで明るいこの少女の事を気に入っているわかばとしては、彼女の細やかなお願いは叶えてあげたかった。
「ええ、もちろん。博士も喜びます」
わかばの言葉にりりは嬉しそうに、そうかな、と笑みを浮かべた。
じゃーね、と手を振って自転車を漕いで、角を曲がるりりをわかばは見送った。
この街に越してきたから数か月経つが、りりのおかげでかなり周りともうまく行ってきているようだ。
もっとも、わかばはこの街に来るまでの記憶がほとんど朧気で何も覚えていないのだが。
りりの姿が消えて、さらに少し経ち登校する学生たちの数がまばらになった頃、わかばはふと掃除の手を止めてふらふらと視線を漂わせた。
「……あ」
どこの学校の制服かは分からないが、年代的に高校生くらいだろうか、少し硬い表情を浮かべた学生がふらりと脇の道から出てきた。どうやらそれなりに長い髪のようだが、変わった形にまとめており、ポケットに手を突っ込んで、漫然と歩いてきた。
わかばはあまり見てはいけないと思いつつ、ちらりと学生の様子をうかがいながら箒を動かしていた。
ほんのり、赤みの強い髪色に同じように少し変わった色味の目をした青年である。
ワカバはあまり筋肉がつかないんだよねー、と悲しげに呟くほどに線が細く顔もあどけない印象だが、こちらの青年は歳よりも大人っぽく――あるいはそう見せたいのか――硬い表情をしていた。
青年は何とはなしに、というような様子で家の方に目を向け、少し歩く速度が遅くなった。
庭にはわかばやワカバが育てている研究用の植物や、単純に以前の持ち主が植えたものと思われる低木があり、いずれもわかばが手入れをしていた。今の時期は薔薇が良く咲く時期で、庭の薔薇も小さいながら香しく咲いていた。
青年はふと、誰も見ていないと気が緩んだのだろうか、庭の花を見やり、一瞬だけ表情を緩めた。
本当に一瞬の表情の変化だ。
よく見かける人だと眺めていたわかばは、少し前にその表情の変化に気付いて、何となく毎日様子を眺めるために外に出る習慣がついていた。
学生はふと、こちらを見ている事に気付いたのか視線が動いてわかばと目が合った。気のせいか、わかばを見てさっと顔色が赤くなったようだった。
都合の悪いところを見られて恥ずかしいのだろうと、わかばがにこりと笑いかけようとする間もなく、慌てた様子で青年は家の前を横切って姿を消した。
「……はあ」
またしても、声をかけ損ねてしまった。
何故か少しがっかりしたような不思議な気持ちになり、わかばは思わず息を吐く。
リビングから様子を眺めていたのか、ワカバが庭に降りてきた。
「また失敗?」
「はい……。いつもあそこでお花とか眺めているんで、興味あるならいくつかお渡ししようと思ったんですけど」
ワカバは何とも難しいという表情を浮かべ
「……うーん、まああの年の子は色々とあるからね」
「色々?」
「そ、いろいろ、ね」
大きくのびをしながら部屋に戻るワカバを、言っていることがいまいちわからず、わかばは不思議そうに見送った。

りんは角を曲がってわかばの視界から見えなくなった事を確認してから大きく息をついた。
りんがその家に人が入った事に気付いたのは、実のところつい最近であった。

両親が亡くなって、六人家族の中で一人の男子という事は、今のご時世でもやはり大なり小なり気を張ることが多かった。それはたとえば姉たちが一般常識からするとすこしばかり、相当、かなり強いが、それと世間一般から求められている物は別である。
何より、大きくなってあまり素直に表に出す事はなかったが彼にとって姉妹達はもっとも大事で愛すべき存在だった。
それ以外には正直なところ心に波風を立たせるような物も存在せず、漠然と早く就職した方がいいだろうと考えるくらい、淡白で執着のない人間だった。

ちょうど寒暖の差が激しい春の時期だった。
珍しく体調を崩したりつに、自分はどうすればいいかを悩み不安を覚えていたりんは、学校に向かう途中、ふと、嗅いだことのある匂いに気付いて思わず視線をさ迷わせた。
風が吹いてきた方向へ目を向けると、随分長い間空き家だったはずの荒れ果てた庭がいつの間にかきれいに手入れされている事に気付いて、りんは思わず立ち止まっていた。
――いつの間に、こんなに花が?
花や植物は正直良く分からないが、姉がどれほど手間をかけて植木を育てているかを知っているりんは、わずかに気分が明るくなった。目にとめた花は姉が好きなバラのような花だった。もっとも、似たような花がいくつか並んでいるのでバラのように見える、というレベルでしかりんは判断できないが。
ガタン、とバケツを落としたような音がして、りんははっと音のする方を向いた。リビングの掃き出し窓から家主らしき人物が箒をもって外に出てきた。
りんに気付いた様子はなく、何か口ずさんでいるのか口元が小さく動き、上機嫌に掃き掃除を始めた。
正直、ぱっと見た限りでは少女とも言えるあどけない表情の女性だった。
体が動くたびにふわふわと柔らかな髪が揺れ、サイズが合っていない服が時折体の動きに合わせてきゅっとカーブを描く体の線が現れた。体つきから察するに、少女ではなく、りんと同じか向こうが年上……なのかもしれない。
掃き掃除をしながら彼女は庭の方――りんが立っている柵の方に移動してきて、そのとき初めて家の前に立つりんに気づいたのか、ふっと息を吸うような声とともにりんに視線を向けた。
とん、と突然りんの鼓動が跳ね上がり、頬に赤みが差してきたのか自分でも分かった。
――何で?
戸惑い、思わず凍り付いたように突っ立っているりんを彼女は不思議そうに見つめ、何か言おうとしたのか口を開きかけた。
りんはきっと不審な自分に対して警告を口にするはずと思いつき、慌てて逃げる様に走って角を曲がって彼女の視界から隠れた。
彼女から冷たい言葉を言われるのは嫌だと思う考えが浮かび、冷たい目で見られる事を想像し、りんは思わず頭を抱えた。
その感情が何かは分かっている。姉妹達がよくそういう話をして自分をからかうし、お互い話し合う事もある。しかし、なぜ自分がそうなってしまったのかが分からなかった。

「……はあ」
ため息をついて、りんはベンチに腰を下ろした。
あの家の前を通り、毎朝家主――とりんは思っている――彼女を見かける様になってすでに何週間か経っていた。
最初の一週間は、それがただの思い過ごしと思うために彼女がいそうな時間に家を出た。次の一週間で、顔を見る位なら別に何も問題ないと考え、翌週は立ち止まって花を見る振りをして、更に翌週にはひょっとしたら向こうから声をかけて来るのでは? とわずかに期待するようになっていた。
何をやっているんだ。
りんは自販機で買ったジュースを蓋を開けてぐいっとあおるように飲んだ。
まるでやさぐれたおっさんのようである。
「まーたため息ついている」
隣の中学校の敷地側からひょこっとりりが入ってきた。
「ななー、最近ずっとこんな感じなんだな」
りりの後ろからジャージ姿のままのりなが現れ、同じようにベンチに腰を下ろした。
「別に、ついてないぞ」
嘘ばっかり、とりりは言いながら
「さっきしっかり聞こえたよ。ほら、お弁当」
りりはバッグから可愛らしい柄の包みに入れられた弁当箱をりんに渡した。
「ああ、悪い。……りょくは?」
「りょくちゃんは今日委員会の日だから来られないな」
以前りつの体調が優れないときに作ってもらっていたが、りつが作ることが出来るようになってからも、りりがりんの分も一緒に作るようになって、こうして持ってきてくれていた。どうやらりなと一緒に作ったり、メニューを考えているようで三人の弁当はほぼ同じ物がかわいらしく詰められていた。ただし、りなは自分の分のお弁当を含め買っていた菓子パンをいくつか膝に載せて、パンにかぶりついている。
「いい加減、教室とかで食べれば?」
「……落ち着いて食べられないから嫌だ」
りんは苦々しそうに呟き、包みから弁当を取り出して手を合わせた。
りりは、りなと顔を合わせて肩をすくめた。
実のところ、二人ともよく羨ましいと言われたが、りんはそれなりにりり達の中学や、近隣の高校などでも人気がある。らしい。
幼いころから知っているりりやりなからすると、表情が出やすく面倒事も背負いこむ困った兄、であるが、外から見るとぶっきらぼうながら女子にやさしく――単に姉妹が多いから慣れているだけだが――格好いい、らしい。
今も何か分からないが百面相しているりんを観察しながらりりも自分の分をバックから取り出して、包みをあけた。
「……お前達こそ、友達と一緒じゃなくていいのか。別に付き合う必要ないぞ」
相変わらず、妹たちを気遣うように問いかけるりんに、
「うん、別に気にしないよ」
りりは事も無げに言いながらブロッコリーを口に放り込んだ。
「でも、ほんとにどうかしたの? ここ最近結構ぼーっとしていること多いよね。何かあった?」
「いや、別に……」
もそもそとばつが悪そうに卵焼きを食べるりんの横顔を、りりはじっと睨みつけた。りなは特に何も言う気は無いのか、もくもくとお弁当を食べ終わってデザートのパンに手をつけている。
「んー……その感じ……。だれか気になる人がいるとか」
適当に当たりをつけてみると、りんが大きくむせてせき込んだ。
本当に、嘘のつけない兄である。
そんなんじゃない、と慌てたようにジュースを飲んで落ち着かせたりんは、
「……通学路の途中の……家にある花、姉さんが喜びそうなやつだなって思って」
と、言って顔をそむけた。
顔を見られると付き合いが長いだけ、何かバレるとわかっているからだろうが、りりの方からは耳が赤くなっているのが見えてバレバレである。
りなとりりはアイコンタクトをして頷き、ひとまず気づかないふりをしてそのまま話を続けることにした。
「通学路って……えーっと……どの辺?」
りりは地図を頭の中に描きながら問いかけた。
「……この間まで空き屋だったあのちょっと庭の広い……」
「ああ、じゃあわかばの家? ひょっとして」
りりは脳裏にわかばを思い浮かべて納得した。
あの辺りで他にりんが気になりそうな女の人は彼女くらいしかいないはずだ。
ひとまず、今はりんを警戒させないために話を合わそうと、わかばの事は黙っておくことにし、りりはりんに向き直った。
「誰?」
聞いたことのない名前にりんは眉をひそめた。
「少し前に、空き家だった広いおうちに引っ越してきたんだよ。よく遊びに行くの」
「へー……りなちゃん全然気づかなかったな」
「だって、あの辺りなは通らないでしょ。歩きだし。自転車通学してると、あっちの方から行くと駐輪場にすぐ行けるからみんなそっち通ってるんだよ」
りりは、そうだと手を叩き
「今日帰りに顔見せるつもりだったからついでに一緒に行こう。お花も少しもらえるか、私から聞いてみるよ」
「それがいいな! な! りんちゃん!」
有無を言わせない表情で二人に迫られ、りんは思わず頷いていた。

夕方、りりは自転車を引きながらりんと歩いていた。
りなは部活に呼ばれてしまったため、りりとりんだけである。
「なあ、りり。やっぱり、迷惑になると思うからやめないか」
普段学校や外では見せない、自信のなさそうな顔のりんに、りりはため息をついて指をさした。
「情けない! そんなふにゃふにゃな態度でどうするの? りつのためでしょ」
ぐうっと呻くような音を発してりんは黙りこんだ。
正直、心の準備も何もかもが出来ていなかった。そもそもいつも女子から声をかけられる方であったから自分から言うシチュエーションを全く想定していなかった。当然シミュレーションも全く出来ていない。

いや、そもそもりりの言っている人物がりんが見かけた人物かどうかも分からない。はたと気づき、そうに違いないと思って納得しかけたりんは見覚えのある、低い木製のフェンスで囲われた家の前で自転車を止めたりりに、りんは思わずりりの自転車を引っ張った。
りりはそれを無視をして、自転車を柵に立てかけ玄関前に立ち、後ろで何か言っているりんを無視してチャイムを押した。
『はい』
「あ、こんにちは、りりですけど」
『はーい、すぐ開けますね』
女性の弾んだ声が応答し、すぐに玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、りりさん。……それと……あれ?」
顔を出したわかばは、りりと、後ろに立っているりんに気付いて、にこりと微笑んだ。
「あ、こんにちは。いつも前を通っている学生さんですよね」
りんは、思わず首をすくめるように頭を下げた。
「あ、わかばも知ってるの?」
りりの問いに、わかばは知っているというか、と少し首を傾げ
「いつも、家の前を通るときに庭のお花を見ているようだったので……」
そうですよね、と同意を求められて、りんはまあ、とか、はあ、とか呟いた。
「りりさんとお知り合いだったんですね。せっかくですから中に入ってください。博士も喜びます」
りりは、思わず顔をひきつらせたりんを見て
「うーん、今日は二人で来ちゃったからいいや。ただりんがちょっとお願いがあって」
りりは軽くりんを小突き、わかばはりんの方に目を向けた。
「どういうご用件でしょうか?」
まっすぐ目を見つめられて、りんは
「あ……その……」
かあっと頬を赤くした。わかばは不思議そうにりんを見つめたが、ふと思いついたのか
「わかりました、今日の朝眺めていた花を分けてほしい、という事でしょうか」
「え? あ、ああ」
頷いたりんに、わかばはやっぱり、と手を叩いて嬉しそうに
「きっとそうじゃないかと思ってたんです。ちょっと待っててくださいね」
軽い足取りでわかばは庭の奥へ行き、剪定用のはさみでいくつかりんが見ていた花をぱちぱちと切って小さな花束を作って、戻ってきた。
「……今日の朝見ていたお花をいくつか切ったんですけど……、これくらいで大丈夫ですか?」
「あ、あり、がとう……。いや、姉がこういうの、好きだから……その、助かる……」
りんの言葉にわかばはどういたしましてと笑みを浮かべた。
「これくらいなら、いつでも言ってください」
花を受け取ったりんは、どうにか頭を下げた。
「それじゃ、ワカバによろしくね」
りりは突っ立っているりんを再度小突きながらわかばに手を振った。

「それじゃ、りん。明日ちゃんとまともなお礼言ってね、一人で」
りりは言いながら、りんの抗議ともとれる呻きを無視して、自分の家の中に自転車を押して入っていった。
りんはりりが家の中に入ったことを確認してから自分の家の中に入った。手に持った花はまだ瑞々しく、ふわりと華やかな香りがしていた。
――名前、わかば、って言ってたっけ
りんは、思わず大きくため息をついて玄関の戸を開けてただいまと声をかけた。
奥から出てきたりつは
「おかえりにゃー。にゃ? どうしたのりん、その花」
「りりの知り合いが育てて、少しもらった」
要点だけを切り出して答え、りんは無造作にりつに花を渡した。
りつはりんの差し出した花束を受け取り、ほうっと息をついた。
「すごいきれいに咲いてる……。本当にもらっていいものなのかにゃ……くれた人にお礼、言ってほしいにゃ」
「あ、ああ、伝えておく」
りつは、一瞬ぎくしゃくとした動きになった弟に目ざとく気づいていたが、特に何も言わずに上機嫌で花瓶を探しにいった。

「ねえ、りょくちゃん」
「何よ」
二段ベッドの上から顔を出したりなに、机に向かって本を読んでいたりょくは顔を上げた。
「最近のりんちゃん、何とかならないかなー」
りなの相談に、りょくは本を閉じてため息をついた。
「何の話?」
「なー……最近のりんちゃん、ちょっと変だから」
「……あれね」
何かあったのかという点はりりから大体聞いて知っている二人は、こっそりりんの部屋をのぞき見た。
うろうろと檻の中の猛獣のようにウロウロそわそわ動き回るりんに、二人は目配せし合ってそっと部屋から離れる。
「で、何であんな風になってるの?」
「ななー……。えっと、りつねえねにりんちゃんが持ってきたお花、りんちゃんの好きな人からもらってきた物なんだって」
「それは聞いたけど……それが何でああなるの……」
りょくは思わずめがねのフレームをいじりながら呟く。悩むりんを慮ってりりが機転を利かせてわざわざ会話のきっかけまで作ったというのに、状況がよくなっていないように見える。りなも何とも言いがたい表情でベッドに片肘をつき
「どうやってお礼すればいいか分からなくて、もう何日もあの状態なんだなー」
「あほ兄……」
りょくは思わず眉間をぐりぐり押した。
「普通に言えばいいじゃん」
「なー……りりが一緒に居た時の感じだと会話がまともに出来ないらしいナ」
「別に女子と会話できないわけじゃないのに、何してるんだかあの兄は」
「りりが言うには特別な人だと難しいかもねーって」
りょくは鼻で笑って本を脇に置いた。
「とは言ってもうちらでも対案は無いしなー」
「しゃべるのが苦手なら、なんか、お手紙書いてみるとか……。お花渡してお礼するとかすればいいんじゃないかな」
りなの提案にりょくは少し考え
「確かに、とりあえず物に託すってのはありかも。花ならりつにあげたからお返しって感じで、まあ変ではなさそうだし。家にあるお花ならりんもまだハードル低くなるか」
りょくは少し頭の中で問題が無いかを考え、よしと頷いた。
「それなら、アホ兄に話つけてみるじゃん」
りょくとりなはバタバタと音を立ててりんの部屋に向かい、ドアをノックした。
「どうした?」
気のせいか若干目の下に隈があるように見えるりんが顔を出した。りなとりょくは無言でぐいぐいと兄を押して無理矢理部屋の中に入った。
「なんだ一体……」
妹たちに甘いりんは二人にされるまま椅子に座った。
「何だは無いじゃん。兄貴が面倒な事になってるみたいだからアドバイスしようと思ってんの」
「……あのなあ」
額に手をやり首を振りながらりんは面倒そうに二人を見やった。りなはまあまあと手を振った。
「りんちゃん悩んでるみたいだし、りくちゃんに気付かれる前に何とかしてほしいな」
りくの名前に思わずりんの顔が引きつって思わず座り直した。こんな状態の弟などりくからしたら恰好の遊び道具である。もちろん弟が嫌い、などというわけではなく彼女やりょうからすればりんは未だに抱っこをねだっていた可愛い少年なのである。
「で、何を言いに来たんだ」
りんが話を促すとりょくは腰に手を当て兄を指さした。
「お礼に悩むなら、物とかに託してしまえばいいって話よ。会話できないんでしょ」
りょくの話にりんはため息をついて
「それはもう考えた」
りょくは思わずえっと声を上げりなは不思議そうに首をかしげた。
「え、そうなのな? じゃ、なんで悩んでるな?」
りんは口をむうっと難しげに閉じて黙っていたが
「何を贈ればいいか思いつかない……」
二人は一瞬視線を合わせて、ゆっくりとりんを見つめた。
「え、なんで?」
「別にお礼の気持ちなんだから何でもいいんじゃないかな」
二人の言葉に、りんはそういう物なのか? と疑わしそうな顔をした。
「それこそ、花をもらったわけだから、うちで育てている花とか、いいと思うじゃん」
りょくはまだ首をひねっている兄の手を引っ張り
「ほらほら、善は急げって言うじゃん」
「庭の花、りつねえねに聞いてみるのな」
「そうねー……。私花は……そこまで詳しくないし」
「りなも食べられるやつ以外はあんまり興味ないなー」
りなもぽんとベッドから飛び降りて、りんの手を引っ張った。
「ちょ、ちょっとま……」
抗議の声を上げようとしたりんは、じろりと妹たちに睨まれて思わず口を閉じた。
りょくとりなに半ば引きずられるように部屋からでたりんは、庭で作業をしているりつに声をかけた。
「……姉さん」
「にゃ、どうしたの? りん、とりょくちゃんとりなちゃんも」
サンダルをつっかけて出てきた三人に、りつは首を傾げた。
「りんちゃんが、この間りつねえねにあげたお花の人に、お礼にうちのお花あげようかなって」
りなの説明にりつはええ、とりんに目をやり
「まだ言ってなかったの?」
「それは……」
うっと痛いところを突かれて下を向く弟に、よしよしと頭に手を置き
「りんは、ほんと真面目に考えすぎにゃ。昔もホワイトデーのお返しに悩んで知恵熱出したし」
りつの話に思わず妹たちはりんを見上げ、りんは姉さん! と思わず声を上げた。
「それで、結局どうするの?」
「なー、お花もらったからお花で返すのがいいと思って」
「りん、まともに会話も出来そうに無いみたいだし」
弟の代わりに答える妹たちに、はいはい、とりつは頷いた。
「りんは、それでいいの?」
りんは頷いて
「毎日花の手入れを姉さんみたいに楽しそうにしてたから、好きだと思うし、いいかなとは、思う」
庭木の世話をしていたわかばの様子を思い返し、りんは答えた。
「……そういうことなら、わかったにゃー。あの立派なバラと釣り合うものってのは少し難しい気もするけどー……そうねー……」
りつは庭の花々を見ながら
「送りたい相手の印象とかから選ぶといいっていうけど、どういう感じの子?」
りんは脳裏にわかばのイメージを思い浮かべる様に、視線を上方にさ迷わせた。
「……全体に……ふわっとしていて……髪の毛とかなんかふわふわしてて。柔らかそうっていうか……。線も細いし……」
ふと、りんの目にちょうど咲き始めたほんのりピンク色のきれいな花に目を留めた。
「……なんか、こんな感じ……な気がする」
りつはりんが指さした花を見つめ、なるほど、と呟いた。
「芍薬の花なら、女の子が貰ったら嬉しいと思うにゃー。ちょっとまって」
りつはりんが指さした花と合わせて白の花も数本切って、りんに渡した。
「はい。しっかりね」
りんは、ばつが悪そうに一瞬目を伏せた。

半ば追い出されるように出てきたりんは、いつものようなすたすたと躊躇いのない足取りからは程遠い、引き摺るような足取りで歩いていた。
どうやって声をかければいい、から始まり、今りんの頭の中ではありとあらゆるシチュエーションが駆け巡っていた。
角を曲がって印象的な庭と他とは違う建築様式の家が目に入り、りんはいよいよ口から心臓が飛び出そうな気分で家に近づいた。

何というタイミングか、今まさにリビングの掃き出し窓からわかばが出てきていた。
まだ挨拶も決められていないりんは、角から出る所からやり直そうと踵を返そうとしたが、ぱちっとわかばと視線が合った。
「……あ」
りんの所まで声は聞こえなかったが、口の形からそう言っているように聞こえた。
わかばは手を振って柵のそばに寄ってきて、りんは、こうなればやけだとでも言うようにわかばに向き直って歩み寄り、ぐいっとわかばに袋に入れた花を押し付ける様に差し出した。
「……?」
「その、うちの庭にあったきれいなやつ、もし良ければと思って」
差し出された袋を開けて、わかばは声を上げた。
「ピオニーの花、ですか……」
りんは思わず首を傾げた。姉が言っていたのはもう少し和風な名前だった気がする。そう伝えると、わかばは耳をくすぐるような声で笑い、
「……日本語では芍薬ですけど、英語だとピオニーというんですよ。より正確にはもう少し長い名前ですけど……。でもどうしてこれを? バラと違って、時期を過ぎると中々無いんですよね」
いいものですよね、とわかばは花を顔に近づいて香りをかいだ。
「……いや、何となく……。雰囲気が似てたから」
りんはわかばのふわふわと軽やかに揺れる髪と幾重にも重なって咲く芍薬の花を指して言った。
「……ええ、似てますか?」
そうかなーと、まんざらでもないのか口元をかなり緩ませてわかばは笑った。
「どちらかというと、りん、さん……でしたよね」
名前を確認するように問われ、りんは頷いた。
「ああ」
「りんさんの方が似ている気がしますけど」
どこが? と訝し気に眉を寄せるりんに、わかばはこく、と首をかしげて逆に問いかけた。
「ピオニーの有名な花言葉知ってます?」
「……いや?」
思わずつられて首をかしげるりんに、わかばは小さく笑った。
「恥じらい。はにかみ」
りんは、はあっと不思議そうに息を吐いた。
「恥ずかしがり屋の妖精が恥ずかしさのあまり、ピオニーの花びらに隠れ、花も赤く色づいた、という古い民話があるそうです。本当かは分からないですけど……」
わかばは持っていた花の茎を指先で回して
「……ほら」
ピンク色の芍薬の花を一本取りりんの頬の傍に近づけた。
「りんさん、恥ずかしがり屋なんですねー」
そっくりです、とふわりと可笑しそうに、声を立てて笑った。
りんは一拍分の間を開けて意味を理解し、更に顔を赤くした。それと同時に、無意識のうちに口をついて言葉がこぼれていた。
「好きだ」

一瞬、わかばはきょとんとしたままりんを見つめ、沈黙が降りた。少しするとわかばは数回瞬きをし、意味を理解したのか今度はわかばの頬にみるみる赤みが差してきた。
「えっと……」
何か言おうと口を開き、また閉じてわかばはりんを見上げた。
「あ、いや……その今のは……」
りんは思わず手で口を押さえて
「いや、ちが……わないけど、ああ、今日言うつもりは無かったって言うか……ああもう」
頭を振ってりんはわかばの両肩に手を触れ、少し頬は赤いものの真面目な表情に変わり
「い、いきなり言われても困るだろうから、その……今すぐ、いうのは……いいから」
りんはそれだけ言って、踵を返してもと来た道を走って行った。

部屋の中から眺めていたワカバは、わかばが帰ってきたときには何事もなかったように、ソファに座ってお茶を飲んでいた。
「何かあった?」
「え……、あ……」
上の空だったわかばは何となくもらった花束をそっと体の陰に隠して呼吸を整えるように胸を押さえ
「あの、ちょっと猫が通りがかっていたので……」
「……そう……顔が赤いみたいだけど風邪でも引いた?」
「え……えっ? 気のせいですよ!」
わかばはバタバタと自室に戻っていき、ワカバははあ、とため息をついて腕を組んで額に押し当てた。
これが娘を持つ父親なのか、とワカバは心の奥底から安堵ともに寂しさを感じていた。

期末テストが終わった開放感を覚えながら、りんは駅前の賑やかな繁華街を歩いていた。本当は学生たちはうろついてはいけないのだが、今日は誰も気にしないで寄り道をしている生徒たちがちらほら見えた。
姉妹たちに何か買っていっていこうか、と、ふと思いついてりんは繁華街の中を通って、りつがよく買っているケーキ屋の前まで来た。
すうっと冷たい風が吹き抜け、思わず空を見上げた。
そういえば天気予報でところによってはひどい雨や雷が鳴るだろうと言っていた気がする。
姉たちが傘を持っていくか、スカートにするかパンツにするかと論争しながらクローゼットを引っかき回していたのを思い出して、りんは少し悩んだ。最終的に、どうせ後は家に帰るだけだし、買い物をして帰るまでなら大丈夫だろうと判断し、戸を開けようと手を伸ばした。
――あれ?
ケーキ屋のガラス扉にちらりと見知った姿が映ったように見え、振り返った。
どこかに向かうのか、行ってきたのか、わかばは小ぶりのバッグを手に歩いていた。りんがいることには気づかないまま、彼女は角を曲がっていった。
りんは思わず後を追いかけた。
実のところ、わかばからははっきりとした答えをまだもらっていない。
思いを伝えた翌日からわかばは朝庭に出てこなくなり、そのままりんはテスト勉強などで出る時間が変わってしまっていて顔を合わせることがなかったのだ。
特にどうしたいという考えはなかったが、りんはわかばがあまり人通りのない道に入ったことを確認し、後を追いかけて声をかけた。
「わかば」
「え」
わかばは、うわっと声を上げて驚いて、振り返った。
「あ、りんさん。今日は学校は……?」
「期末テスト最終日だから早帰り。何してたんだ」
「博士が封書を送るのを忘れていたみたいで……。郵便局に行ってたんです……」
わかばはそろり、とりんを見上げた。
「あの」
「あの後、何かあったのか」
りんの問いに、わかばは恥ずかしいのか顔を赤くして
「すみません……。その……ちょっと熱を出してしまってて」
りんは思わず驚いた声を上げてわかばを見つめた。
「大丈夫、なのか」
「はい。あの……三日くらいで元に戻ったので……ごめんなさい。ご連絡できなくて」
わかばは頭を下げ、
「りんさんから言われたことをずっと考えてて……それであの……寝付けないというか……頭が熱くなってしまって」
お恥ずかしい、と顔を赤くしてわかばはうつむいた。
「言われたときは頭が真っ白になってしまって……でも……とても嬉しかった。これは、きっとりんさんと同じ……という事なのかと」
「それは……」
りんはわかばの言葉の意味が徐々に脳に浸透したのか、ゆっくりと顔色が赤くなっていった。
「あの、りんさんの事……好きです」
わかばは胸のつかえが取れたような晴れ晴れとした笑みを浮かべりんを見つめた。
「あの、大丈夫……ですか?」
わかばは無表情になったりんに思わず問いかけた。
「ああ、別に、平気」
片言の日本語で、かくかくと頷いてりんは答えた。

ぽた、と大きな雨粒がりんの頬に当たり、りんは思わず空を見上げて呻いた。
「まずい、雨降ってきた」
「本当だ。しかもこれ……」
パラパラと音を立てていた雨粒は、すぐに音が変わって滝のように激しく降り出してきた。
「り、りんさん。とりあえずうちの方が近いので雨宿りしていってください」
りんはわかばに自分の鞄でひさしを作ってやっていたが、わかばに引っ張られるようにして後をついて行った。

かなり急いだものの、二人は上半身がずぶ濡れの状態でわかばの家にたどり着いた。わかばは玄関から廊下、居間など通る部屋のすべての電気をつけながらりんを居間に通して、タオルを数枚持ってきてりんに渡した。
煌々と明かりがついたものの、家の中は気のせいか人気がなく、しんと静まりかえっていた。
「あれ、誰もいないのか」
「はい、今日は博士は会合に参加する必要があるそうで」
わかばはふうっとため息をついて
「本当は私が熱を出した日にやる予定だったそうなのですが……私の看病をするために日付をずらしたんです」
がっかりとした表情を浮かべるわかばにりんは首をかしげ
「まあ、家族なんだし……そこはしょうがないんじゃないか」
「それは……でも、厳密には私博士に保護されただけなので家族かと言われると」
「……双子のように見えるのにか」
りんは思わず呟き、わかばはまあ、と言葉を濁した。
「詳しい事は実は分からないんです。ただ、気がついたら博士が明るい場所に連れ出してくれた……ような、ぼんやりした記憶があるんですけど」
わかばは、濡れたりんを見上げて
「うーん……着替え……博士ので入るかな……」
ブツブツ考え込み、やがて頷いた。
「とりあえず、着替えがあるか見てきますね」
ぱたぱたとわかばは二階に駆け上がって、クローゼットをあさっているのかゴトゴトと天井から音がしてきた。
りんは、わかばの言っていたことを思い返しながら、タオルで髪を雑に拭いた。
余計な事を考えてはいけない。雨で服が張り付いて思いがけず露わになっていたわかばの体の事など自分は見ていない。
思いのほかメリハリがあったという事も考えてはいけない。
「すみません、りんさん」
「う、わっ」
戻ってきたわかばに驚いて妙な声を上げたりんに、わかばは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに手に持っていたシャツをりんに渡した。
「これ、一応……着られるか試してもらえます?」
おそらくワカバのものだろうシャツを受け取り、りんは案内された風呂場の脱衣所に入った。
りんは制服のシャツを脱いで、わかばに渡した。わかばはそれを洗濯機に入れて乾燥をセットした。その間にシャツに袖を通していたりんを見て、わかばはうーんと呻いた。
渡されたシャツはそこまで小さいという事はなかったが、首回りや胸のあたりが若干足りず、第二ボタンあたりは止める事ができなかった。
「やっぱり……博士よりここの筋肉があるからちょっとキツいですよね」
つ、とおそらく特に深い意味はないのだろう――りんの鎖骨から下に指を走らせ、わかばは呟いた。
「乾燥まで時間がかかりますので、お茶入れますね」
わかばは一人百面相しているりんにはどうやら気づかずにそのまま脱衣所から出て行った。
りんは、頭が冷えるのを少し待って落ち着いたところで居間に戻った。
「ちょうどお茶入りましたよ」
わかばはカップをりんに渡してソファを勧めた。
「……まだ雨止んでないのか」
外ではかなり雨音が激しく、時折雷の光が光り、雷の音が響き始めていた。
「はい、さっきテレビ見たら二時間程度で止むような事は言ってたんですけど」
わかばがテレビをつけようとリモコンをとった途端、一際明るく外が光り、直後に地響きのような振動と音が鳴り響いた。
これはどこかに落ちた、とりんが思ったと同時にふっと部屋の明かりが消えた。
「停電……? ここだけ?」
りんは立ち上がってリビングの窓から外を見ると、まだ日が陰る時間ではないがかなり暗く、周りの家々の明かりもすべて消えていた。どうやらこのあたり一帯で停電になったようだ。りんは振り返ってわかばに声をかけようとして、
「……どうした?」
わかばは力が抜けたように床に座り込んで、浅い呼吸をしていた。暗がりで分からないが顔色も悪いのではないだろうか。肩に手を置くとかすかに震えているのに気づいた。
「す、すみません」
引きつったような笑みを浮かべ、わかばは咄嗟にすがるように肩に置かれたりんの手に触れた。
「まあ、結構でかい雷だったから」
わかばは少し首を振り
「暗いところが……どうもだめで」
そういえば家に入るときも電気をすべてつけて回っていた事をりんは思い返した。
「寝るときとか、どうしてるんだ」
「最初の頃はそれこそ博士にくっついてないと眠れなくて……今は明かりをつけたまま寝てます」
わかばはどうもしっくり来ないのか、そろそろそと隣に座ったりんに体を寄せてきた。
「あの……もうちょっとだけ……近づいていいですか」
「…………ああ」
若干の間を置いてから頷いたりんに、わかばはようやっとほっとしたような表情になり、りんの体に少し寄りかかるように向きを変えた。
ふわりとわかばの髪がりんの首や頬をくすぐり、りんは顔がかっと熱くなるのを感じた。
「……その……さっき言ってた」
「はい」
火照りを誤魔化すように軽く咳払いし、りんは言葉を続けた。
「厳密には家族じゃないってのは、あいつが言っているのか」
「いいえ、博士はもっと普通でいい、と言ってくれるのですが……」
「なら、別にいいんじゃないか」
「そうは言いますけど、やっぱり私を引き取った事で、その、責任とか、いろいろどうしても負わないといけないじゃないですか」
「負わせたくないのか」
「……迷惑になりますし、引き取ってもらった事でもう十分なので」
りんは、なんとはなしに天井の方に目を向けてぽつりと
「りりも、最初の頃あんまり馴染まなくて俺の事遠巻きに見てて……。後で聞いたら迷惑になるかも、とか思ってたって言ってたな」
わかばは何か言おうとして口を開き、ふっと息を吐いてりんを見上げた。
「責任は、まあ確かに負う事になるけど……妹たちみたいに兄さんと呼んでくれたのはやっぱり嬉しい」
「そう、なんですか」
「頼られたら、まあ、嬉しい。兄として向こうが扱うって事は、信用とか、頼ってくれていると言う事だから」
りんの言葉をわかばは考え込むように聞き、やがて何かを思いついたのか
「博士も、呼んだら喜んでくれるでしょうか」
「え、兄さん、とか? まあ、あの感じだと喜ばないって事はないと思うが」
りんの答えにわかばは嬉しそうに小さく笑い、りんの肩に頭をぐりっと押しつけた。
「りんさんはすごいなぁ」
「何……なにが」
若干裏返った声に一瞬なり、りんは咳払いして言い直す。
「暗いところに居るのに、今はあまり何とも思わないんです」
「そう……か」
りんは少し躊躇ってからわかばの頭に手を置いて撫でた。

ワカバは急いで玄関の戸を開けて中に入った。案の定、中は暗く静まりかえっている。
「ただいま。ごめん、遅くなって。大丈夫?」
何かあったときのためにと用意していた大きめのLEDランタンを玄関の戸棚から出して明かりをつけ、ワカバはランタンを持って居間に入った。
「え……っと?」
ワカバはどう反応すればいいか分からず、うたた寝しているりんと、隣にくっつくように寝ているわかばをしばし眺めて立っていた。
ちょうど、停電も回復したのか明かりがついて居間や、廊下が一斉に明るくなった。
「……えーっと、お二人さん?」
明るさと、呼ばれた事で飛び上がるようにりんが跳ね起き、りんの動きに合わせてわかばが目をこすりながら起き上がった。
「あ、博士、お帰りなさい」
「ただいま」
わかばの頭を撫でて返事をすると、ワカバは首をかしげてりんを見つめた。
「あの……雨宿りさせてもらってて」
「ああ、あの雨に当たったんだ。災難だったね」
「あの、博士の服貸してしまってるんですけど」
「別にいいよ。でもうーん……」
ワカバはりんを見つめて、何か思うところがあったのか悲しげに首を振った。
「まあいいや。でも……彼の服は大丈夫?」
「ああ! 乾燥が……」
わかばは慌てて洗濯機を見に走って行き、呻くような声を上げた。
「ああ、停電で止まってる……。すみませんりんさん、アイロンかけて見るんで、ちょっと待ってもらえます?」
わかばはばたばたとアイロンを引っ張り出してきて半乾き状態のシャツにアイロンをかけ始めた。
「あの、一応借りた服、洗って返すので」
ワカバにりんは頭を下げたがワカバは手を振って
「気にしなくていいよ。ところで、何もなかったよね……?」
笑顔のままのワカバの問いにりんはこく、と頷いた。
「そんな怒ってないよ。ただ順番は守ってほしいだけで。今日は一人でなくてよかった」
ありがとう、とワカバはりんの肩を軽くぽんと叩いた。

どうにかりんにシャツを返し、帰るりんを見送ったわかばは居間に戻った。
「今日はどうでしたか」
わかばの問いに、ワカバは楽しかったよ、と言ってお土産のお菓子を指さした。
「バタバタしてたから言えなかったけど、りり達が来たらみんなで食べよう。彼もね」
「そうですね」
わかばは頷き、少し間を置いてワカバに声をかけた。
「あの……いいでしょうか」
「何?」
「もし、嫌でなければ何ですけど」
ワカバは広げた学会誌を脇に置いてわかばを見守った。
「りんさんが……言ってたんです。頼ってくれると嬉しいって。……偶にはその、呼んでもいいですか?」
「ん、なんて?」
「兄さ、ん」
ワカバは一瞬きょとんとした表情でわかばを見つめていたが、徐々に相好を崩して
「偶に……だけ?」
「あ、えーっと、時々……」
慌てるわかばに、ワカバはえへへ、と擽ったそうに笑った。
「お兄さんかぁ。僕、一人っ子だったからなぁ」
喜ぶワカバの様子に、わかばは初めてここまで嬉しそうにしているように見え、ほっと息を吐いた。

次にりんに会ったときにこの事伝えよう。明日は来るだろうか。来てくれたら……なんて言おう。

わかばは弾む足取りでキッチンに向かった。

雨に降られたりくはブツブツ文句を言いながら洗濯かごに服を入れようとして、あれと首をかしげた。
りんも雨に降られて濡れたと言っていたが、それらしいシャツが二枚、しかも気のせいか片方のシャツは若干サイズが違うように見える。好奇心に駆られて引っ張り出していると、二階から下りてきたりんと目があった。
「りく、帰ってたの……か」
「んー? さっきな。ところでさー、りん。これ誰の?」
りくはにっと笑みを浮かべて弟の肩をトントンと叩いた。りんは、思わず視線をそらして
「友達……の兄弟のシャツ……借りたから」
「友達なら別にそいつから借りればいいだろ? わざわざ兄弟の物借りないだろ普通」
恐ろしい事に、この姉はこういう時なぜか勘が鋭かった。りくは冷や汗を流す弟ににこやかな顔と、とびきり優しい声音で言った。
「で、そのお友達ってのは可愛い?」