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躑躅屋敷の女達 第二集

白露の折 本邸

夏の暑さも落ち着いて、日の光が夏の勢いある色から、徐々におとなしい秋の色が映えるようになってきた頃だった。
よく晴れた日で、窓を開け放って秋のからりとした丁度良い心地の風を入れながら、姉妹達は居間で寛いでいた。
「ねえ、りん。いつになったらそれ止める?」
「それって?」
はっとりんの動きが止まってりょくを振り返った。
「あきれた。気付いてなかったの」
りょくははあっと息を吐いてりんを指さした。
「さっきからカレンダーの前うろついてて鬱陶しいじゃん! なんなの一体?」
「ご、ごめん」
ソファに座ってみたものの、やはり落ち着かないのか手近にあるクッションを手に取ってぼんやりと触るりんに、りつはお茶を入れて苦笑した。
「にゃー……、りんったらいい加減覚悟決めたら?」
「な、何のこと?」
「わかば君と会うんでしょ? 行きたいと思ったときが吉日にゃ」
りつの言葉にりょくが思わず納得したように頷いた。
「ああ、なーるほど。また考え込んでたんだ……。もう、悩む暇があったらさっさと行けば良いじゃん」
「そ、そうは言うが……邪魔をしてしまうかもしれないし……それにあっちは忘れてるかもしれないし」
丸いクッションが円筒形になるほど潰しながらりんはブツブツ呟いた。
「忘れてたら頭叩いてでも思い出させれば良いでしょ」
過激な妹の発言にりんは少し咎めるような表情になり、りょくはふんと向こうへ顔を逸らした。
「幸いここのところ天気も良いみたいだし、明日辺り試しに行ってみたら?」
何事も、動かなければ何の意味も無いでしょ? と指摘され、りんは思わず俯いた。そしてカレンダーを見つめ、やがて頷いた。
「そうする」
りんはりょくとりつに礼を言って部屋に戻っていった。
「……全く……考えすぎなんだよりんは」
「まあ、昔からあの子はそんな感じだったから……」
ティーカップを傾けて考え込みながらりつは呟く。りょくはそうやって甘いから、とりつを睨む。
「そうは言うけど、りょくちゃん本当にりんの事心配なんだにゃー。しょっちゅうたきつけてるし」
「そんなんじゃないってば」
りょくは顔を赤くして幾分乱暴に足音を立てて広間から出て行った。入れ替わりで部屋に入ってきたりなは首をかしげながらりつへ目を向け
「どうかしたのな?」
「んー、りんちゃんの事でねー」
「なー……りんちゃんまだもじもじしてたのな?」
「本当にみんなよく見てるのにゃ」
りつはりなの分のカップを棚から出しながら思わず呟いた。

翌日りんはわかばが働いているという大学へ来ていた。車を用意するとりょうから言われたがりんは断り、電車とバスをどうにか使って学校の前まで来た。慣れない物を使ったためか道を間違えたり切符をなくしたと思って探したりと冷や汗をかいたが、ようやっとたどり着いたと息を吐いた。
辺りは森が広がり、時折鳥の声がする程度で静かな物だった。りんは出入り口はどこだろうと赤煉瓦の門の橫を歩き、下り坂の途中に見かけた守衛の立っている門の前に立つと、守衛が珍しげにりんを見つめてから頭を下げた。
「こちらはこの研究室があるところで間違いないだろうか」
問いかけてわかばが渡した名刺を守衛に見せると、彼は訝しげに名刺を手に取って裏返し、はい、と頷いた。
「ああ、そうです。丁度……」
守衛は手を伸ばして門の向こうにある建物のに一つの窓を漠然と手で指した。
「あの辺りがそうです」
「あの……」
りんは言われた場所に目を向けて、窓に寄りかかっている人物に気付いた。確か軽井沢でわかばと一緒に居た先輩のように見える。りんは守衛に礼を言って中に入ろうとすると、偶々外に目を向けた彼と目が合った。わかばの先輩はにこやかに手を振り、部屋の中に顔を向けた。どうやら中の誰かに声をかけているらしい。
「りんさん?」
ガタンとかなり大きな音と声が構内に響いてりんは思わず周りを見渡した。窓から身を乗り出したわかばは、相当に驚いた様子で、りんの姿を見つめすぐに奥に引っ込んだ。
「ああ、ここで待っていた方が良さそうですよ」
のんびりと守衛が椅子を出しながらりんに言った。しかし、同じ研究室か違う所かは不明だがわかばの声と様子に物見高い見物人が部屋の奥からわらわらと顔を出してきていた。
一度外に出た方が良いだろうか……
恥ずかしいという事もあり、りんは少し考えたが、転がるようにわかばが外に飛び出してきたので踏みとどまった。
「り、りんさん、あの……す、すみませんちょっと」
肩で息をするわかばに、りんは思わず
「いや、すまない……いきなり迷惑だったみたいで」
りんはわかばの様子を見つめて呟いた。以前会ったときと同じようにくしゃくしゃの髪に、軽井沢ではきっちりとしたシャツとベストを着ていたが、今は草臥れたようなシャツに、とりあえずその辺にかけていた羽織るものを引っかけてきたような状態だった。気のせいか若干やつれているように見える。
「あ、全然迷惑じゃないです!丁度一段落してたんで……ただちょっとびっくりして研究室の中の物ひっくり返しただけです」
「それは……」
大丈夫なのか? と思わず言いかけたが、わかばは気にする様子もなく
「それで、今日は見学ですか?」
「あ、いや、その……」
りんは言葉に困り、どうしたものかと視線を彷徨わせた。
「その……少し、会えないだろうかと……思って」
言葉通りの意味で言ったのだろうりんの発言に、わかばは、思わずはっと気の抜けたような声を上げてあたふたと周りに目を向けた。
「あ、えっと……そ、そうなんですか……。あー……」
わかばはとりあえず、と門の外を指差して
「それでしたら、ちょっと外出ましょうか。ここ、あの……色々面倒なんで」
「? そうか」
足早に外に出ようとするわかばに促されて、りんは赤煉瓦の校門を出た。わかばは後ろにチラリと目をやり、窓から一人楽しそうに眺めている先輩と、他の研究室の窓から落ちそうな勢いで身を乗り出して様子をうかがっている野次馬から逃げるように坂を下る道を先導した。
――今日はもう研究室戻れないな
わかばはふっと少しため息をついた。

わかばにつれられてりんが来たのは最近流行っているという珈琲店だった。
「こういう所、大丈夫ですか?」
「別に平気だが……」
入ったことはないと、少しばかり興味深げに店構えを見つめているりんに、わかばは意外そうな表情を浮かべた。
「銀座よく行かれるのでは? あそこらへんは多いですよね」
「一応りょうの買い物の付き合いで偶に行くが……こういう所は行かないし、りょうも忙しいからあまりゆっくりしないな」
「ああ、まあ。お忙しそうですよね」
ドアを開けるとチャイムが鳴り、給仕の若い女の高い声が「いらっしゃいませ」と応答した。
「あら、わかば君。今日はどうしたの」
どうやら見知った顔らしく、わかばの顔を見て給仕の一人が声をかけた。その視線が値踏みするようにりんの方に向き、りんはわずかに表情を固くした。わかばはそのような視線のやりとりには気付いていないのか、にこやかな表情で
「ちょっと色々。珈琲二つで」
「ふーん……、ゆっくりしてってね」
にこりと営業用の笑顔を浮かべて給仕はりんに答え、わかばの肩に軽く触れて去って行った。わかばは奥にある二人席にりんを促して向かい合うようにして席に着いた。
「よく来るのか?」
「ええ、まあ。先輩や研究室の人と。僕あんまりこういう、食べ物のお店とか詳しくないので」
わかばはあちこちのポケットを探ってタバコを出して口にくわえようとして、ふと気付いてそのまま元に戻した。
「失礼、タバコとか駄目ですよね」
「いや、別に気にしない。りょうも時々吸うことがあるし」
「そうですか、それじゃ失礼して」
わかばはタバコをくわえて慣れたように紙マッチを擦ってタバコに火をつけ、ふうっと息を吐いた。ふわりと紫煙と、独特の匂いが漂い、店の中の珈琲の匂いと混ざり合った。
りんはタバコを吸うわかばを思わず見つめた。正直な所どこか少年のような雰囲気を持ったこの青年がタバコを吸う様はどこかちぐはぐなようで、しかし、どこか惹かれる物があった。
「どうかしました?」
首をかしげて問いかけるわかばに、りんは思わずいや、と首を振って咳払いをして誤魔化した。
「……軽井沢の時もそうだが、よく、その、あちこち行ったりするのか?」
「ええ、あちこちの植物の標本を採ったりとか……山登りは正直苦手なんですけどねー」
わかばは軽い調子で笑って答えた。
「珈琲二つ、お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
給仕が珈琲を二つ運んできて二人の前にそれぞれ置いて、礼をした。ふと、彼女はりんに目をやって
「あのー……もしかして、雑誌に出ていたお嬢さんじゃないですか?」
「雑誌?」
わかばはきょとんと給仕の方に目を向け、りんは一瞬目を瞬かせてからううっと呻いた。
「やっぱり、ほらこれ」
出された雑誌は店に置いてある物で「主婦の華」というタイトルで女の一枚絵が描かれた表紙の物だった。パラパラとページをめくった先には、朗らかな表情で椅子に足を組んで座るりょうと、その横に立つりんの姿の写真が写っていた。
「わー、本当だ。凄いですね」
「いや、それは……あの……」
困惑と恥ずかしさからか狼狽えるりんに、わかばは立ち上がって給仕を向こうに下がらせた。
「有名人なんだから、折角なら何か記念になる物貰えないかしら、わかば君何とかならない?」
給仕の女はわかばの腕に手をやり問いかけるが、わかばは首を振り
「なりませんよ。あまり困らせないでください」
「あら、冷たい。まあお金持ちのお嬢さんと仲良くなる機会だものねぇ」
「はい?」
わかばの表情に給仕はあら、と首をかしげて
「あきれた。本当に朴念仁なのねえ」
幾分荒い足取りで奥に引っ込んだ給仕の背中を見やって、わかばは肩をすくめて席に戻った。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ」
りんは持っていたバッグからハンカチを出して軽く汗を拭い、
「だから嫌だったんだ……あんなものは」
「……まあ、でも、人によっては羨ましいでしょうけど」
「元々は姉の……りょうの取材に来ていたんだ。私はあくまでも……添え物というか、ついでだ」
珈琲を口に含んで、りんはうっと顔をしかめた。
「砂糖、入れた方が良いですよ。ここの結構苦いので」
わかばは自分のカップに一つ角砂糖を入れてかき回しながら、りんの方に砂糖の壺を渡した。
「ついでというのは?」
「……そのままだ。りょうは何しろ会社経営者だからな。あんな風な取材とかの依頼が結構来るんだ。実際身内の私から見ても凄いと思うのだから、興味を持つ者が居るのは分かる」
砂糖を入れて少しずつ味を見ながら、りんは言葉を続けた。
「私には、特に何も無いからな。他の姉妹達は、父がいつもしたい事をさせてやろうと、興味のある事に色々やらせていた。りょうは武道や、それこそ経営について面白がっていたから少し教えていたようだし、りくは刺繍の職人への弟子入り、庭木や植物に一番関心があった姉さんや、妹たちにもそれぞれやりたい事がある」
りんは、スプーンで珈琲をかき混ぜながらぼんやりとカップを見つめた。
――本当に、自分は何も無い。
取材に来ていた雑誌の担当者達から浴びせられた質問にも満足に答えられなかった。今の趣味は何か、何をして時間を使っているか、姉のように何かなす予定はあるのか……。
わかばはすうっとタバコを吸いながら天井に向けてふっと息を吐いた。
「なるほど……。でも……ここの店に入るときとかちょっと楽しそうでしたよね。りんさん。軽井沢の時も」
「あれは……ちょっといつもと違う事をしていたから……」
「今日の、ご自分で研究室まで来た事も?」
「まあ」
わかばはなるほどと少し考え込んでから
「そうですね……、思いつかないのであれば、これから新しい物を見たり、行ってみたりしてみるのはどうでしょう? いずれそこから何か気づける事もあるんじゃないでしょうか」
わかばは言いながら、珈琲のおかわりを通りかかった給仕に注文した。
「遅すぎないか、今からなんて」
「そんな事無いですよ。いつでも思い立ったときが始め時ですよ。僕の研究室の教授なんかはそれで色々あちこちの人と会ったりしてますし」
二杯目の珈琲がわかばの前に置かれ、わかばはそれをそのまま飲み、息をついた。
「しかし、急に言われても思いつかないな」
りんは首をひねりながら呟き
「うーん……僕も結構偏ってるので……ああ、そういえば」
わかばはポケットから手帳を取り出して、
「今度、世界的に有名な学者さんの講演があるんですよ。僕も専門外で全く分からない分野で……言ってしまうとりんさんと同じ新しい世界ですね。あ、でもその……苦手と言う事でしたら無理にとは……」
わかばは小さく折りたたんだチラシのような物をりんに恐る恐る差し出した。チラシには聞いた事の無い外国の博士の名前とぼけた白黒写真が写っている。
「なぜ、この写真はこんな表情なんだ?」
「さあ、ちょっと変わった先生だそうで……この相対性理論というのが凄い発見なんですよ。僕も今講演に向けて本とか読んでいるんですけど、これが難しくてさっぱりで」
ニコニコと嬉しそうに語るわかばに、りんは幾分気が軽くなってきて表情を緩めた。
「難しいのに嬉しいのか」
「ええ、知らない物というのがまだ一杯で。楽しいです」
「そう……」
りんはチラシを見て考え込みながら
「いつ、やるんだ?」
「十月です。場所はあの帝大の大講堂でやるんです」
「そうか、その頃は多分落ち着いている頃だから大丈夫だと思う」
「本当ですか?」
わかばは少しはしゃいだような表情で手帳にメモして
「それじゃ、迎えに行きますよ。おうちはどこでしたっけ」
りんは自宅の住所を伝えて
「躑躅の木がたくさんある家だから多分見ればすぐ分かると思う」
「躑躅……」
わかばは少し考え込んで、何かに気付いたような表情を一瞬浮かべたが、すぐに元に戻し
「分かりました。多分大丈夫です。もし聞きたい事があればこの電話番号に電話してください。先輩か僕か……誰かしら研究室で寝泊まりしてるんで」
りんは手帳の切れ端を受け取って、バッグの中にしまった。
「仕事は忙しいのか……?」
「ええ、まあ……楽しいんですけど、つい熱が入るみたいで気がつくと床で寝てたりとかしちゃうんですよねー」
あははと軽く言うわかばにりんはあきれたような顔で見つめた。

「へえ、なるほどねえ」
晩酌をしながらりょうはりんの話に耳を傾け、話し終わったりんを見つめた。相変わらず表情の読めない、飄々とした顔である。その実、声にわずかに面白がっているような雰囲気を感じて、りんは少し待った。
部屋は大分肌寒くなってきており、りんは部屋着用にした縮緬の黒地に絞り染めの花が描かれた羽織に、セーターとチェックのスカート、少し寒いので厚手の靴下に、父が外国で買ってきたモカシンを履いていた。
それでも少し寒く、温かいお茶の器で手を温めながら、りょうを見やった。
父が気に入っていた濃い色の結城を男のように着付けて楽にしているりょうは、吸わないシガーホルダーを回しながら
「私もその……何とかって有名な人が来ているってのは会社でも聞いたけど。面白そうだし、楽しんで来なよ」
「……りょうは、その、調べたりしたんだよね。わかば、の事」
わかばの名前を言い慣れないのか不明瞭なりんの言葉にも、りょうは頷いて
「ん? まあそこそこね。聞きたい?」
「いや……いい」
「そっか、うん。その方が良いと思うよ」
りょうは笑みを浮かべてグラスの酒を飲んだ。
「それにしてもりょくが聞いたらまた煩そうだねぇ」
りんはため息をついて
「まあ、そういうの好きだからな。ただどちらにしろ平日だからあの子は学校だ」
「そういやそうか。勝手についてく! って言いそうだけどね」
「ありえそうだから止めてくれ……」
りんはうめき声を上げて頭に手を当てた。りょうはにこにこ笑顔のまま
「あはは、ごめんごめん。さてと、じゃあ私また早いから先に寝るわ」
「ああ、その……無理はしないで」
「してないよ。まあ、元々ちょっと興味あったからさ、ついね。色々やっちゃうんだわ」
「ああ、彼も似たような事を言っていた。楽しいから……倒れるまで作業をしてしまうと」
りょうはなるほどねえと頷いて
「好きな事しているとつい時間忘れるわなぁ。……ああ、最近体動かしてないからそっちもちょっとやりたいし……やりたい事一杯で困るわ」
「まったく……無理はしないでよ」
りんはしようのないという顔でりょうに言った。

霜降の頃 本邸

「困ったな」
バタバタと日常を過ごしているうち、気付けば予定まで数日という段階になって、りんはクローゼットの中やタンスの中を開けて引っ張り出して何を着ていくか、頭を悩ましていた。
まず、派手な物は駄目だろう。そもそも講演というのがどういう物なのかよく分からない。
洋服や着物を広げて考え込んでいると、りょくが部屋に入ってきた。
「うわ、何これ……どうしたの」
「ああ、いや」
りんはどう言えば良いのか悩み、少し言い淀んだ。
「あの学者と一緒に出かけるのは知ってるから」
「いや、あの……りょく」
「別にいいんだから。大人になって自分で行けば良いし……別に気にしてないし……」
恨みがましい目で言われてもあまり説得力は無い。
「りょく、その、一緒に」
「行・か・な・い! 駄目じゃんそこは二人で行かないと」
「……え、あ、うん」
りょくはりんが引っ張り出してきていた服を眺めてむっと眉間に皺を寄せた。
「これじゃ地味じゃん」
「いや、でも派手なのは……あ、ああ……」
りんはバタバタと歩く音に気付いて頭を抱えた。程なくしてりなとりくが何を聞きつけたのか、りんの部屋を覗き込んできた。
「お、やってるやってる!」
「りんねぇね、ほら、りなの帯揚げとか、持ってきたよ!」
「あ、ありがとう……」
「ほら、さっき仕上げた半襟もあるぜ。どうよこの柄! 可愛いだろ?」
「り、りく……あの、他の人の依頼分は?」
「ちょっと休憩しただけだからいいのいいの、まだ時間あるし」
「りん、ちょっと下の衣装部屋から色々持ってきたにゃ!」
恐らくりつがバタバタと衣装部屋を漁っていたから気付いたのだろう。りんはわいわいと自分の部屋でああでもないこうでもないと服を並べて議論する姉妹達を少し遠くから眺めて立っていた。収拾がつく気がしない。
「やっぱり、秋だしこういう柄とか……」
「うーんでもそれとこれだとちょっと合わないんじゃ無いかナ」
「ちょっと地味すぎじゃね?」
「そうは言うけど講演会だからあまり派手なのも浮きそうだし……色を抑えてみるのは?」
「うーん……それだったら時期的に羽織とかで……」
「あの……みんな」
りんが収拾させるために声を上げると、四人が顔を上げた。
「あ、りんちゃん。どっちが良いと思う?」
りつが出してきたのはこっくりとした紫地に似た系統の赤や灰色が使われた縞柄で、所々蔦模様が描かれていた変わった物だった。母がりんのためにと取っておいた反物からつい最近仕立てた物だった。もう一つは青地に花が散った豪華な物だった。
「……えっと、紫」
「やっぱりそういうと思ったにゃ」
「そしたら、この襟と……あと帯はどれが良い? うちら的にはこの辺が良いと思う。羽織り着たら見えないだろ」
りくが出してきたのは当世風の洋花の太鼓柄の黒繻子の帯で、他に白繻子地に楓が刺繍された帯と臙脂色に手書き友禅の芒が描かれた帯が並べられていた。
「色的には黒いやつの方がりん的には落ち着くかなとは思う。太鼓の部分見えないなら少しここら辺派手でも良いんじゃ無い?」
りょくの言葉にりんは確かにそうだなと頷いた。
「羽織はよく着ているこれなら、地味すぎないし丁度良いんじゃ無い?」
りつは薄紅色に蛍ぼかしの入ったこの頃だと地味な羽織を出してきた。
「ああ、これなら良い感じだな」
りくは言いながら頷いてから、少し考え込み
「……でもなあ、袖とかなんか寂しくね? ここら辺にちょっとこう……模様とか刺繍したらよくね?」
「自分で仕事増やすなアホ姉」
りょくに一喝されてりくはちぇっと口をとがらせた。
「りくちゃん、また作品展に応募するんでしょ? 結構依頼も入って居るみたいだし……」
「まあそうだけど……。じゃ、そのうちやってからよ、りん」
「無理しちゃ駄目だよ。また指痛くなったら元も子もなくなるよ」
りんはため息をつき、姉妹達は肩をすくめた。
「そうそう、りょうちゃんがあまり羽目は外さないようにね、だってにゃ」
りんははあ、と曖昧に頷き、りくは可笑しそうにニヤニヤ笑っていた。

家の前に止まった車にりんは首をかしげた。そして、中から出てきた人物を見て一瞬固まり、慌てて玄関に向かった。
チャイムの音が鳴り、りんがドアを開けるとわかばがおはようございますと頭を下げた。
パタパタと音に気付いてりつが奥から出てきて、わかばを見て声を上げた。
「わかば君、珍しい恰好にゃね」
「あはは、そう見えますか」
少し照れたように頬を掻いたわかばは、袖を指先ですっと押さえて後ろに振りを払った。ひわ色――少し暗めの緑色に網代模様が織りで描かれたかなり値の張りそうな艶のあるお召しに、紬地に縞柄の袴を履いたわかばに、洋服姿を見慣れていたりんは思わず三度上から下まで見つめた。
「あの……りんさん。そんなに変ですか」
「ぅえっ……いや。ちょっとビックリしたというか」
わかばはまた軽く笑って
「ああ、何しろ外国からのお客様なので、こっちの方が喜ぶということらしくて……。父の物だから似合わないだろうとは思っていたんですけど」
「いや、あの……変じゃなくて……似合ってる」
りんの言葉にわかばは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、やがてゆっくりと相好を崩した。
「ありがとうございます。そう言われると嬉しいですね」
「二人ともーそこでずっとそうしてるのー?」
りつの声にわかばはそうでしたと頭を掻いて
「それじゃあ、順調にいけば夕方にはお送りする事出来ると思いますので」
「よろしくお願いね、わかば君。まあ、あんまり急ぐ事も無いから楽しんできてニャー」
姉に見送られて、りんはわかばが乗ってきた車に乗り込んだ。
「この車は?」
運転席に乗ったわかばは、
「自分の、といえれば良いのですが。教授の物です。殆ど僕と先輩が運転してるんですけどね。今日はちょっとお借りしました」
あとで労働奉仕しろって言われてるんですよねと、さして困ったような風で無く言いながらわかばは車を動かした。
わかばは屋敷を出て躑躅の植え込みの橫を走らせながら
「それにしても、懐かしいな。数年前日本に帰ってきてから一度この近辺に来た事があるんですよ」
「そうなのか」
「はい、先輩と一緒にあっちの方にある山の調査で」
わかばの運転はりょうのそれとは違ってかなり慎重で、時折舗装の怪しい道でもそこまで身の危険を感じる事が無かった。性格の差なのだろうか。
「随分……運転上手いんだな」
りんは思わず褒めると、わかばは
「いやー……何しろ気難しい人を乗せますからねぇ。かくしゃくとしてますが、やっぱり年齢に伴ってあちこち痛いらしくて……。ちょっとでも揺れると尻が痛いとか膝が痛いとか……」
「そう、か」
「りんさんは運転とかは?」
「姉に勧められてはいるが……。姉が何しろ荒っぽい運転だから教えると言われても……」
「ああ、りょうさんは……中々……」
わかばは何かを察したのか思わず頷いて
「冬までは僕も結構暇なんで、僕で良ければ付き合いますよ」
「それは……良いのか。というか、りょうの事、知っているのか」
「え! あ、ああえっとっその……」
わかばは一瞬困ったような表情を浮かべてから、諦めたように
「いえ、すみません。実は少し前にばったりお会いしまして……その、その時にですね」
ちょっと送って貰ったんですよ、とわかばは小さな声で言った。思わず、りんはすまないと顔を手で覆った。
「い、生きてて良かった」
「いえ、あの……ちゃんと迷惑にならないよう普通は走っている感じでしたし……。ただあの……人が居ないというかそういう所だとちょっと運転が野性的というか、中々攻めますね」
かなり軟らかい表現を探しながら話すわかばは、しかし思わず顎の辺りの冷や汗を拭った。
「ああ、そろっと着きますよ。良かった、結構すんなりいけましたね」
わかばは学生達が行き交う道路を進ませながら、大学の構内に入る場所を探した。ようやっと見つけた車が通る事が出来る門に来ると、中に入って他にも数台止まっている駐車スペースとおぼしき場所に止めた。
「話には聞いていましたが、結構人が居ますね」
りんの乗っている席のドアを開けて手を差し出しながらわかばは言った。あちこちうろついている学生達はどうやらこの学校の学生以外にも居るようで、そぞろ歩いていた。
「早めについて良かった。下手したらこれ立ち見ですね」
わかばばは近くにあった案内板を見つめて場所を確認して頷いた。
「行きましょう。ここ、結構構内が広いので少し歩く必要があるんです」
「来た事あるのか」
「ええ、まあ。学会とかで」
わかばはあちこちきょろきょうろと見渡して
「ああ、あっちですね」
歩き出したわかばの後を追ってりんも石畳の道を歩き出した。

「はあ」
りんは頭が痛くなるのでは無いかと思いながら、目の前の珈琲をぐるぐるとかき回し続けた。
全編英語というのは分かっていた。言っては何だが女学校時代に英語の成績はかなり良かったので、喋っている言葉自体はある程度把握できた。ただ、話している内容はまるで分からなかったが。
「あんなに何も分からないのは初めてだ……」
「いやー僕も全然でした」
本当に嬉々とした表情で、わかばはタバコに火をつけた。
講演の会場からほど近い、大学の側の喫茶店で二人は座っていた。講演が終わって、車で帰るには人でごった返していた道を見てわかばは少し休憩しないかと、喫茶店で時間を潰す事を提案してきた。
疲れていたりんはありがたく了承して、珈琲の香りを嗅ぎながら座る事にした。似たような事を考えている人間は多いようで、あちこちで学生やその道の研究者と思われる人間達がぼそぼそと興奮した様子で喋る声が聞こえてきている。
「特殊相対性理論ならまあ何とかと言う所ですが、その先になると僕のような者にはさっぱりですねえ。博物学とはそもそも系統が違う。面白いなあ」
「……わかば、タバコの灰、落ちるぞ」
「っと、危ない危ない……」
火をつけたものの放置していた指先のタバコから灰が零れそうになり、わかばは慌てて灰皿を引き寄せた。灰を落として、ようやっと一服してふうっと息を吐いた。
「ありがとうございます。危うく袴に穴開ける所でした」
「はあ……分からないのにそんなに面白いのか」
よく分からないと首をかしげるりんに、わかばはそうですねえと、つられたように首をかしげて
「分からないと何でかなあとか、考える過程が楽しいというか……どうしてでしょうね。……あ、りんさん、ひょっとしてつまらなかった……でしょうか……?」
はたと気付いて、わかばは恐る恐るというような面持ちでりんを見つめた。
「いや、なんと言えば良いか……詰まらないという事無いんだけど……考えた事が無かった物を聞いて何だか不思議な気分というか」
わかばは、なるほどと頷いて
「なんだかいつもと同じ景色なのに居心地が悪いような……変な風に見えると言う事でしょうか」
りんは少し考えてから
「多分。あえて口に出そうとするならそんな風だろうか」
「そういうのは子どもの頃僕もありましたよ。父が最初に僕に買ってくれた本を読んだときとか。確かニュートン力学について纏められたものだったと思います。アレを読んだときはもう訳が分からなくて……でも、どうしようもなく惹かれてずっとそれを読んで考えていました。そのうち、どうして家の庭木は水だけで育つんだろうとか……朝顔がいろんな色になる理由とか……そっちの方に興味が行ってしまったんですけどねぇ」
わかばは頬を掻きながら、物理学は縁が無かったですと笑った。
「なるほど……、お前が……わかばもそういう事があったなら……私もいずれはそれを楽しいと言えるのだろうか」
「ええもちろん。というか、本当につまらなければ、そこで説明されたとしても何も感じないのでは無いでしょうか。それこそ詰まらん、と一言で切って捨てる人も居ますよ」
「そういう、ものか」
「えーっと、多分……」
りんはわかばを見やってから少し考え込んだ。角砂糖が溶けた珈琲を少し飲んで、ふと思った事を口にした。
「今のところよく分からないが……なんと言えば良いか……わかばが楽しいというのを見るのは、少し面白いな」
がちゃ、とわかばが手に取ろうとしたカップがソーサーに派手にぶつかって音を立て、わかばは慌てて持ち直した。
「あ、はは。そ、そうですか? それならそれはそれで……よ、良かったです」

店を出て車を走らせ始めた時点ではかなり日も高く見えたが、落ちる影は長く夕方のそれだった。
屋敷の門を通る頃には辺りは暗くなり始めており、まだ街灯も少ない屋敷近辺の暗がりでは、お互いの顔はほんのりと残る夕陽が輪郭を浮かび上がらせる程度だった。
玄関の戸を開けようとしたりんは、躊躇うように手を掛けたまま振り返って前庭の車を止めた場所に立つわかばを見やった。
「いいのか、これ。結構値の張る本のようだけど」
「ええ、僕は読みましたから。それに僕は学校の方でも読む事は一応出来ますから。もし興味があるならりんさんが持っていた方が良いと思います」
りんは少し迷ったような表情を浮かべて
「ありがとう。その……大体私は屋敷に居るから……」
「ええ、運転覚えたくなったら言ってください。電報とかでも平気ですから」
「そう……」
りんは他に言う事が無いか考えあぐね、やがてため息をついて、玄関の扉を開けた。
「それじゃ。……今日は、楽しかった……」
りんの言葉にわかばは明るい声で
「それなら、良かったです。楽しそうなりんさんを見るのは僕も好きなんで」
手延べガラスがはめ込まれた屋敷の玄関扉の歪んだ景色の向こうに写る影を、りんは思わず振り返った。
「暗くて、何も見えないじゃ無いか」
手を振り車に乗ったらしい影を見つめ、思わずりんは呟いた。

躑躅屋敷の女達 第一集

りょう 長女。父が残した会社を一時的に経営中。
    普段はチャイナドレスにコートとかジャケット肩にかけるスタイル。
りく  次女。祭りで神輿担いでそうだが名の知れた刺繍作家。
    普段は作務衣だったり洋服だったり。
りつ  屋敷の切り盛りを一手に引き受ける。りょうの右腕ポジション。
    庭木について一番詳しい。普段は洋服が多め。
りん  女学校卒業後花嫁修業。ただし相手は決まっていない。
    普段は和服が多め。
りな、りょく  女学校在学中。普段は制服や洋服生活。

わかば 植物学の研究者。新人なので使いっ走りが多い。留学経験あり。
仕事などでは英国仕込みの洋服。下宿先、プライベートなどでは和服派。
先輩  わかばの先輩。行く当ての無いわかばに職を紹介したり家に住まわせてくれる。
    同郷の出身。(見た目は同人版の若葉)。ものすごく気の強い婚約者がいる。らしい。

前口上

東京の真ん中、より少し離れた郊外に躑躅屋敷と呼ばれる屋敷がある。
明治のころに建てられた洋風建築と継ぎ足された日本家屋という当時よく作られた形式の屋敷で、開国によって諸外国と植物の輸出入によって財を成した男によって作られたものだという。
やり手であったようで、明治を少し過ぎたころでも日本の植物は西洋においてはまだ珍しいもので、興した会社はよく栄え、事業は一代にしてそれなりの規模の財閥になるほどまでになっていた。
そのようなわけで、件の屋敷は当主の趣味と、栄えた元となった珍しい花や樹木、それに古くから親しまれた花なども集められていた。特に、春になると様々な色の躑躅が屋敷の周りで咲き誇り、少し離れた道の向こうからもその赤紫がよく映えていた。その後も初代から二代目三代目と代が変わった後も勤勉でよく働く当主の下で事業はより多岐にわたり、財を成していったという。
しかし、数年前今の当主が細君とともに旅行の帰りに海難事故で亡くなり、その当時大きな話題になった事があった。
残されたのは、女ばかり六人の子供たちだけである。
当時の新聞や雑誌や口さがない噂好き達の大方の予想を裏切り、娘たちは群がる突然増えた親戚たちの手に遺産を渡すことはなく、事業は粛々とそれぞれの会社で行うことを取り図った。女子供風情の浅知恵と、苦々しく思う者たちも多くいたようで、そこからしばらくは親戚間での会社の金の横領を訴えたの、娘の一人が言い寄る見合い相手に切りかかったのとかなり世間を騒がせたような話題に事欠かない有様であった。

話はそれから更に数年たち、先代が亡くなった当時まだ女学校にいた四女のりんが、卒業してから数か月がたった頃だった。

夏至の頃 本邸

その日、数年ぶりに家族会議を開いたりょうは、相変わらず飄々とした様子であった。
屋敷の洋間に置かれたオーク材の磨き上げられた円卓に、ぐるりとめいめい座った五人の姉妹たちは、りょうが話始めるのを待った。
ただ、ここ最近家に帰ることも稀であった事や、新聞などでも喧伝されていた恐慌の話から、集まった姉妹たちがそれがあまりいい話題でないことをある程度予感していた。
「で、もう面倒だからさ、さっさと前置きとか良いから話せよ」
りくが促すと、りょうは軽く笑って頷いた。
「いやー……お姉ちゃん色々頑張ったんだけどさ……。やっぱちょっと厳しいわな。とりあえず、会社の方は何とかやってくれているから、潰れるってことはなさそうなんだけど……。ちょっと色々整理しないとって話になっててさ」
りょうはいくつか書類を出して、テーブルに置いた。
「横領していたあの親戚からの賠償とかは望めないの?」
りょくの問いに、りょうは難しいわな――と肩をすくめた。
「すぐに現金が得られるわけじゃないし、あの感じだと全部資産は海外に逃がしてるわな――。それにお金の問題もあるけど、こんな状況で働いてくれている人たちの手前、うちらが最初にきちっとケジメつけないと」
「そうにゃね、時代が変わっていっているのに、今までと同じようにとはいかないし」
りつはお茶を飲みながら頷いた。
「りょうが言うなら私は構わない。具体的には?」
りんの問いかけにりょうはぱらぱらと書類をめくった。
「とりあえず、不動産関連から見直してるんだけど……。手始めにこの軽井沢の別邸かな」
「夏にしか行かない屋敷だったし、別に大したことないナ」
りなは事も無げに言いながらテーブルに出されていた饅頭に手を伸ばした。
「すぐに売却ってわけじゃなくて、一応うまい事利用できないかはホテル部門が考えてくれてるんだわ。もしそれでも採算合わなそうなら手放すしかないけど。それ以外だとお父さんが買い集めていた美術品とか骨とう品とかかな」
「どうせ俺らじゃ価値分からんし、それは別にいいんじゃねーの」
「うん、一部は美術館とかが欲しがってるみたいだから、その辺もちょいちょいとやっていく感じかな」
りょうは鉛筆で資産の一覧にチェックを入れて行った。
「んじゃ、この辺ちょっとまた相談してみるわ」
りょうは少しほっとしたのか額をぬぐい、書類を手元の文箱に入れた。
「あ、そうだ。軽井沢の別邸さ、まあ多分今年で見納めだろうからせっかくだしみんなで久しぶりに遊びに行こうか」
りょうの提案に、りなは手を叩いた。
「わーいやったナ!」
「いつくらいにする?」
りょくはカレンダーをぱらぱらとめくった。
「りょうとかりくは仕事的にお盆のころくらいしか休めないんじゃない?」
「まあ私はそのくらいに行く感じだけど、先に行ってていいよ。ただなー、管理人とか今雇っていないからすぐに泊まれるかわからないんだけど……」
「じゃあ私が一足先に行って準備しておくにゃ」
りつが言うとりながぴょんと手を挙げて声を上げる。
「りなも手伝うな」
「私も手伝うよ」
「涼しいなら私も行く」
りんとりょくも手を挙げる。
「俺は今依頼されてる分終わらないと盆休み返上になりそうなんだよな……」
りくは肩を叩いてぶつぶつ呟いた。
「作品展に出品するのに依頼受けるのもどうかと思う」
りょくの指摘にしょうがねーだろとりくはむくれる。
「作品展の締め切り勘違いしちゃってたんだものなー。りくちゃん時々うっかりさんだわな」
「時々ってか割としょっちゅうじゃん。まあ、私がその辺管理してあげてもいいけど」
「お前の管理、秒単位だからヤダ……」
りくは青い顔で呟いた。
「じゃ、今日の会議おしまーい。お疲れ様」
りょうが手を叩くと姉妹たちはめいめい立ち上がって洋間を後にした。
りつは体を伸ばすりょうの肩を叩き、大丈夫? と声をかけた。
「平気平気。面倒な事はほとんど他の人がやってくれてるからねー」
りょうは軽く答えたものの、やはり疲れが見て取れる。
「今日は早めに休んだほうがいいと思うにゃ」
「そうするわー。ちょっと一息ついたしね」
二人は洋間を出ると、りなとりょくの賑やかな声がする居間に向かって歩き出した。

大暑の折 軽井沢

りんは日暮れで薄暗くなってきた道を一人歩いていた。

暑いとはいえ、この時期の軽井沢、日が落ちればどちらかというと肌寒い。
薄いブラウスに、木綿のもんぺでは時折吹く風はかなりこたえた。
これは早く用事を済ませないとまずいと、りんはあたりに目を凝らした。
提灯を手に持っているものの、まだつける必要はなさそうで、下駄をからころと鳴らしながら水田の横を流れる川を時折覗き込んだ。
今年で最後の別邸での夏休みに、蛍を見に行きたいというりなに、外に出ないで済むように取りに行こうと考えたものの、りんはどうしたものかと頭を悩ませた。
昔小さいころに父が蛍のいる場所まで一緒に連れてきてくれたことがあったが、それがどこだったか思い出せない。
虫取り網を持ってきたものの、りんは時折森の方に目をやり、光がないかを見ながら少しばかり途方に暮れていた。
記憶を頼りに、りんは水田から離れて足元の悪い森の中に踏み込んだ。
時折野犬と思われる遠吠えがするような気がして、りんはあたりを見渡した。
ふと、ちらちらと奥に蛍の細い光が見えた気がして、りんは思わず歩みを進めた。
「危ない」
後ろから誰かの声がしたと思ったとたん、一歩先の地面を踏みしめる感覚が消え、りんは大きく前に倒れこんだ。
腕を何かに引っ張られたがりんはそのまま下に滑り落ち、尻もちをついた。情けない声を上げて横に転がってきたのはりんを引っ張ろうとした人間のようだった。
「一体……」
「いやーすみません……。そこ、急斜面になってるから声をかけたんですけど……」
間に合わなかったですね、と青年は言って持っていた提灯の火をつけ直した。
「怪我とかはないですか?」
灯をりんに向けて青年は問いかける。
りんは立ち上がろうとして、足首に痛みを感じて押さえた。
「……軽くひねったみたいですね……。お宅はどこですか」
りんは屋敷の住所を教えると、青年はその辺なら知っていると頷いた。
「無理をするとひどくしてしまうので……おうちまで負ぶっていきますよ」
「い、いい。自分で歩く」
「この辺道が悪いので、その足だと朝になってしまいますよ」
青年の言葉にりんは思わず言葉に詰まる。
りんは青年の背中におぶさり、青年はりんに提灯を渡した。
「すみません、灯がしばらくないので……」
「わかった」
提灯の明かりで道が照らされると、青年は二人が滑り降りた坂を周ってわずかに草が生えていない道を進んで森を出た。すでにかなり日が暮れて月がほんのりと水田が続く道を照らしていた。
「あの、このあたりに住んでる、のか」
りんは青年に問いかけた。ろうそくの火で照らされた青年はどこか線の細さがあり、灯のせいかどこか異国の人のようにも見えた。
「……ああ、すみません、名乗ってなかったですよね。わかばといいます。こっちには先生の仕事の手伝いとか諸々で少し前から滞在してるんですよ」
ちらりと振り向いて青年は笑みを浮かべて答えた。

「……私は……りん」
「住所的には別荘地ですよね。避暑ですか」
「ああ」
わかばはそれ以上は詮索はする気はないのか、やっぱり東京は暑いですからねと頷いた。
「でも、なんで虫取り網なんてもって一人で森に入ったんですか?」
「妹が蛍を見たいと……。昔父が教えてくれた場所が森の方だったと思って探したんだが……」
「確かに、あの辺少し前まではきれいな水場があったそうですが……ここ最近水が枯れてしまったので……今年はその場所では蛍は見ることはできないかもしれないです」
「……そうだったのか」
りんはがっかりして肩を落とした。
やがて、別荘が立ち並ぶ通りに出ると、わかばはあたりを見渡し、りんは
「あっちだ」
と指をさした。りんが指さした先にわかばは目をやると、灯のともる屋敷と、その前でうろうろと明滅する灯に気付いた。
「りん!」
わかばが近づくと、提灯を手に屋敷の前で右往左往していたりつがわかばとりんに気付いて駆け寄ってきた。
「帰ってこないから心配してたんだから。いったいどうしたの?」
「ちょっと、その、転んで……」
「りんねえね、大丈夫?」
屋敷から音に気付いて飛び出してきたりなが、おろおろとりんを見上げた。
「軽くひねったようなので、冷たい水とか、用意できますか? それと、包帯とか」
「わかったにゃ、ああ、よかった……。ご迷惑おかけしてしまって……」
「いえ、向かう方向一緒だったので、大したことじゃないです」
「とりあえず、中に入って」
りつは門の戸を開けて、わかばを通した。表側の洋館のドアを抜け、応接室に通すとわかばはりんをソファにゆっくり下した。
「足は動かせますか」
「ああ、ちょっと痛いくらいで」
わかばはちょっと失礼と声をかけてりんの足に触れて、足首の腫れがないか確認した。
「少し腫れてるようですが……冷やして明日痛みが和らげば大丈夫ですね。もし明日ひどいようならお医者さんに診てもらってください」
ばたばたと水を持ってきたりなと、救急箱を持ったりつが応接室に入ってきた。
「これでいいナ?」
「はい、ばっちりです」
不安げな顔のりなに笑顔で答え、わかばはたらいを受け取り、手ぬぐいを濡らして患部に当てた。
「氷嚢とか、氷枕はありますか。その方が効率がいいんですけど……」
「これでしょ」
ひょこっとりょくが顔を出して、氷枕を手渡した。
「どこにあったのにゃ、そんなのあったっけ?」
「昔使った事があった気がしたから」
事も無げに言っているが、スカートの膝部分に埃がついているのに気づいて、りつはよしよしとりょくの頭を撫でた。
「さすがはりょくちゃん。物覚えがいいにゃー」
「別に、これくらい普通だし……」
ぶつぶつと呟いてりょくはじっとわかばの方に目をやる。どうやら彼のやっていることが気になるようでりんが座っているソファの背後に立ってうろうろと眺め始めた。
わかばはてぬぐいをたらいに置いて、用意された包帯を手早く巻き始めた。
「ひょっとして、お医者さん?」
「いえ、簡単なものだけ教えてもらったんで。専門は別なんです」
「ひょっとして学者なの?」
りょくの目が輝いて、わかばを興味深げに見つめた。
「ええ、まあ」
包帯を巻き終えると、わかばは氷枕に水を入れて金具で止めた。
「これでとりあえず様子を見てください」
りつは礼を言い、わかばは手を振った。
「それじゃ、僕はこれで」
わかばは頭を下げて立ち上がる。
それから、少し何か言うか悩むような様子だったが、りなとりんの方に声をかけた。
「あの、もし興味があったら、なんですけど。今度向こうにある教会の夕涼みの音楽祭があるんです。蛍が見られるところも近くにあるので、もしよければ……」
りなはぴょんと顔を上げて目を輝かせた。
「そんな催しがあったのにゃ。初耳だにゃ」
「ええ、もともとは避暑に来ていたカソリックの人だけしか入れなかったんですけど、ここ最近は地域交流の場にしたいという事でだれでも参加できるようにしたそうです。僕、その辺の手伝いもあってこっちに来ているんです」
「カソリックなの?」
りょくの問いにわかばは手を振り
「いえ、そういう訳ではないですけど。留学していたので通訳なんかを兼ねて手伝ってほしいと」
「りゅ、留学? どこに?」
りょくは思わずわかばに詰め寄った。
「いや、あの……英国……ですが……」
「国費留学って事? そんな優秀なの?」
そうは見えないけど、と言いたそうにりょくは上から下までわかばをしげしげと見やった。
「……いえ、国費ではないです。国費だと大体独逸なんで」
わかばは大して気にもしていないのか笑顔で答える。
「いつ頃なのな?」
りなの問いかけに
「来週の土曜の夜の六時から八時です。ちょっとした食べ物とか飲み物もありますよ。もし参加されるのでしたら当日夕方にご案内します」
「りつねえ、りんねえ……」
ちらりとりなはりつとりんに懇願するように見つめた。
「……来週なら、りょうちゃん達もこっちに来ているから、みんなで行こうか」
「りなや姉さんたちがいいなら私は別に……」
りんはそれだけ呟き、わかばに目を向けた。
「色々、その、ありがとう」
「いえいえ。大したことじゃないですから」
それじゃあ、と頭を下げてわかばは出ていき、礼を言いながらりつが一緒に出て行った。
「りん、何ぼーっとしてんの」
ソファの背後から眺めていたりょくは、りんの頬を軽くとんと指でつついて、にっと笑みを浮かべた。
「ふーん、ああいうのがいいんだ」
「何を言ってるんだりょくは」
ため息をつくりんに、脇からりなも畳みかけるようにうなずいた。
「なー、りんねえねってば顔ずっと赤かったなー。わかりやすいなー」
「え……」
思わず手で頬に触れるとほんのりと指先に熱が伝わってきて、りんはあたふたと頬を叩いた。
「にゃー、良い人がいてくれてよかったにゃ……」
戻ってきたりつはほうっと息をついて居間に入ってきた。
「りん、一人でどっかふらついたらだめでしょ。わかば君がいい人だったから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたか……」
「ごめん、姉さん」
「りつねえ、もともとはりなが無理を言ったせいだから……」
りなはりんをかばうように呟いた。
りつは仕方がないと肩をすくめて
「ちゃんと来週わかば君にお礼言わないとね」
「……う、うん……」
りんは妹たちの視線から目をそらし、首をすくめた。
りつはその様子に知ってか知らずかあえて触れず、手を叩いた。
「さてと、お出かけするんだからちゃんとした恰好しないとにゃー。りょうちゃん達に服を持ってきてもらわないと……」
りなはぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ね
「りつねえね、りょくちゃんとりな、もう大人と同じで良いんだナ? ナ?」
りょくも少しそわそわしながら
「そうだよ。もう十三参りとうに終わったし、私たちも本裁ちでしょ」
「そうそう。だから二人の夏のお出かけ着と浴衣、ちゃんと用意してあるんだから。思ったよりも早く卸せるにゃー。私は今の時期だし、あれを持ってきてもらうとして……りんちゃんは何にする?」
りつの問いに、りんは少し悩んで肩をすくめ
「別に特に無いけど……」
りょくは指を振り
「甘いじゃん。勝負時なんだからちゃんと考えないと」
「なー……。りんちゃんいつも地味なのとか縞ばっかりだし……。たまにはお花とかの柄のがいいと思うなー」
「あんまり派手なのは……」
「まあ私もごてごてした最近の好きじゃないけど……。でもりんのは地味すぎ。……あ、そうだ。りくが昔着てたの借りればいいじゃん。ほらあれ、りくが自分で流水紋の刺繍した、桔梗と撫子の柄のやつ」
りょくの言葉にりつもなるほどと頷いた。
「確かに、あれならちょうどよさそうにゃ。りくちゃんが良いって言ってくれればそれで……、それに博多ならそこまで派手じゃないし良いんじゃない?」
「ま、まあ……多分……」
姉と妹たちに気圧されりんは頷くしかできなかった。
「そうと決まれば明日さっそく電報うちに行かないと!」
りつは何か随分張り切った風に腕を振り、明らかに軽い足取りで出て行った。

お盆の折 軽井沢

姉妹たちは和室に集まりバタバタと準備に追われていた。
すでに日はかなり傾き始めており、六人は鏡台を取り合い、腰ひもが足りないと騒ぎながらバタバタ右往左往していた。
「はい、これりなちゃんの。しつけは取ってあるはずだけど、一応見ておいて」
りょうから手渡された長着を、りなは広げて嬉しそうに掲げた。
りなの本裁ちの揚げのない初めての夏の長着は、すっきりとした空色の紋紗に白い鳥が羽ばたいているような抽象柄が描かれた小紋で、帯は紫である。りょくも同じ空色の紋紗だが、こちらはりょくの好みに合わせたのか蔦模様のなかに花喰い鳥が描かれた少しだけ大人っぽい柄に同じ紫の帯が合わされていた。
「いやー、お姉ちゃん選ぶのすっごい悩んだわー」
りょうはりなに長着を着せながら
「りくちゃんがやたらあれこれ引っ張り出してくるんだからねー。いずれは自分で選びたいだろうに勝手にそろえるのもなぁ」
「りくは可愛いもの好きだから……」
横で自分で長着を着ていたりんが苦笑いを浮かべる。
「だってさー、良い色ってなかなかないんだぜ。やったら地味なやつばっかり押し付けてくるしな」
「いい年なんだから落ち着いた色を着ろって事でしょ」
りんは背中に回した紐を取ることが出来ずにいるりくに紐を手渡し
「大体、りくは少し派手好みじゃないか」
「これくらい普通だろ」
りくは羽織っている長着を翻して答える。黒い絽の長着には色とりどりの花が描かれており、そこに物足りないからと自ら一月かけて刺繍でふっくらとした鳥を数羽さしてある。どうしても動物は外せないらしい。
「みんなどんな感じにゃ?」
すでに着替えを終えていたりつが和室に顔を出す。いつもは時流に乗っておろしている髪を、今日はきっちり結わえて、銀の透かし彫りに珊瑚がついている髪飾りをしている。お気に入りの緑地に秋草の絽の長着に絽縮緬の花紋が描かれた白い帯に、長襦袢の流水紋が動くたびに長着からふわりと浮き上がる。
「りなちゃんは、これでおしまい。りょくちゃんは……」
りょうはちらりと一人で着ているりょくを眺めて
「帯直したら終わりかなー」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いやー、だって後ろ捻じれてるよ」
「え、あれ?」
「まだ一人で名古屋は難しいんじゃないかな」
りょうはりょくの後ろに回って捻じれた帯を直し、帯を締めて
「りょくちゃん、後ろに引っ張るからちょっと踏ん張って」
と言いながらぐいっと後ろに帯を引いた。
「きつくない?」
「平気」
帯締めを締めて、形を整えるとりょうは良しと頷いた。
「じゃあ私も着替えるかなー」
りょうは自分の着替えを手早く済ませて、おさげにしている髪をくるっとまとめて鼈甲のかんざしで押さえた。
「はいはい、じゃあみんな準備完了でいいかな」
長女らしく落ち着いた墨色の絽には、流水に芒がさらりと描かれている。白地に菊の花のような柄のつづれ帯は母から生前譲られたものである。
「はー、一運動したわな」
団扇で扇ぎながらりょうは居間に戻ってソファに腰を下ろした。
「間に合ってよかったにゃー」
「さすがに全員で出かけるってなるとほんと、毎回バタつくんだよな」
「最近は殆どみんなでお出かけ出来ていなかったしね」
「最後にこんなにバタバタ準備したのは一周忌の時じゃないっけ」
「そうだったっけなぁ。覚えてないわなあ」
りょうは天井を仰ぎ見て呟いた。
「あの時は正直どれもこれもばたばたしてたし、りょうはあちこち飛び回ってたし、仕方がないと思う」
りんの言葉にりょうは
「まあ、色々経験出来たから悪い事ばっかりじゃないわな。あとは私よりも強い人がいればいいんだけど」
「切った張ったはもう勘弁だぞ……」
うんざりとりくが呟く。
「あれは不可抗力だわな。あれからはやってないから大丈夫大丈夫」
軽く笑う長女を妹たちは思わずお互いに目配せして何も言わないことにした。
ふと、玄関から誰かの声がして、りつが立ち上がった。
「誰か来たみたい」
りつが出ていくと、玄関先でこんばんは、というわかばの声が聞こえてきた。
「お時間大丈夫ですか」
「みんな準備できているから大丈夫。あれ、わかば君。門のところにあるのは……」
わかばはにこやかに
「いやー、皆さんをお誘いしたって言ったら、教授が知り合いから貸してもらったそうです。少し歩くはずだったので、ちょうどいいと思って」
門の前に止まっている乗合馬車をさしてわかばは答えた。
「わあ、馬車だ」
様子を見に来たりながぱたぱたと下駄を鳴らして馬車に近づいた。姉妹たちも居間から出てきた。
「それじゃ、皆さん乗ってください」
わかばは馬車のドアを開けて、踏み台を置いてドアの前に立った。そして乗り込もうとするりなに手を差し出した。
「な?」
「りなちゃん、レディはこういう時は手を取るんだよ」
りょうに促されて、りなは慌ててわかばの手を取って、すました顔で中に乗り込んだ。
りょくは少しぎくしゃくとした動きで、同じようにわかばの手を取ってから中に入っていった。りつとりくは慣れた様子で中に乗り込んだ。
「あ、りんさん。足は大丈夫でした?」
「あ、ああ。次の日特に問題なく……」
「それならよかったです」
わかばに促されて中に乗り込み、りんはふっと息をついた。
「君がわかば君? 私長女のりょうってんだ。妹を助けてくれてありがとう」
「いえ、大したことではないですから」
「なんか、悪いわな。ここまでしてくれて」
「お気になさらず。皆さんが来るのを教授も、楽団の人たちもすごく喜んでいたので。さ、乗ってください」
りょうが乗り込むのを確認すると、わかばはドアを閉めて踏み台をもって御者台に飛び乗った。
客室側から顔を出したりなにわかばは振り返った。
「りなさん、ひょっとして馬車は初めてですか」
「うん、わかば、馬に乗れるのナ?」
「あはは、まあちょっとだけなら。揺れるので舌噛まないようにしてくださいね」
わかばは手綱を引いて声をかけると、馬はゆっくりと進みだした。

ゆっくりとした足取りで進む馬車に揺られて十数分ほど行くと、会場の教会が見えてきた。すでに人が集まっているようで、ざわざわと賑やかな音が聞こえてきていた。
「着きましたよ。降りるのは少し待ってください」
わかばは御者台から飛び降りて、客車のドアを開けてステップの下に踏み台を置いた。
「どうぞ、前から順番に」
乗る時と同様わかばの手を支えに、姉妹たちは馬車からおりた。
「どうぞ、中に入ってください」
わかばは教会の木製ドアを開けて姉妹たちを中に促した。
「おー、ちょうどいい時間に来たな」
わかばが入ってきたことに気付いた青年が、手を振って開いている席を指さした。
どことなくわかばと雰囲気の似た青年で、さっぱりとした短い髪に人の好さそうな笑みを浮かべている。
「皆さんお忙しいところどうも。僕はわかばと同じ研究室の……まあ先輩みたいなもので。さ、こっち座ってください。もうそろっと始めますんで。あ、プログラムもらいました?」
二つ折りになった紙を姉妹たちに渡し、青年はわかばに向き直った。
「あと教授がくればはじめていいかな」
「そうですね」
りんたちは半円形に並べられた椅子に座り、前に並んだ楽団に目を向けた。
「なあ、あのでかいの何?」
りくの問いに
「座っている人の持っているのはセロという楽器です。立っている人のはコントラバスと言って、大きいものほど低音域が出る楽器なんですよ。ちなみに、今回は小さい音楽祭なので、あちらの指揮者が立つ台の僕らから見て左側が主旋律のバイオリン、第一バイオリンなんて言います。で、その横が同じバイオリンですけど副旋律の第二バイオリン、隣の少し大きい楽器がビオラです」
「へー……。初めて見たわな」
りょうは珍し気に眺めて呟いた。
「わかば、そろそろいいかい?」
指揮棒を持った神父が、にこやかに老人とともに中に入ってきた。
「ああ、教授も来られましたか」
わかばは老人を椅子に座らせて神父に頷いた。
「ビールを飲んでいたのに引っ張ってこられてしまってなあ。まったく……」
ぶつぶつと言いながら老人は椅子に座った。
「それでは、皆様集まりましたので始めたいと思います。お忙しいところ集まっていただきありがとうございます。まずは一曲目はバッハの「主よ人の望みの喜びよ」どうぞお聞きください」
神父は手を広げたまま頭を下げ、コミカルな動きでちょこちょこと指揮台に上り、指揮棒を振った。

アンコールの曲が終わったところで、神父は客に向きなおって両手を広げて頭を下げて笑みを浮かべた。
客席にいた人々が拍手をすると、演奏者たちも立ち上がって頭を下げた。
「今日は皆さまありがとうございました。以上で音楽祭は終了となります」
神父の言葉に、わかば達は立ち上がって教会のドアをあけ放ち、客たちはざわざわと席を立って帰り支度を始めた。
「皆さんどうでしたか」
りんたちに声をかけたわかばにりょくは
「まあ、結構楽しかった……かな」
「お、おう。まあまあ」
何故か口元をぬぐうりくに、りょくはハンカチを渡し
「りくちゃん寝てたでしょー。嘘言っちゃダメだわな」
「ナー……。りくちゃんすっごい良く寝てたな……」
「う、うるせーな……」
「聞いたことのない音で面白かったにゃぁ。これ、金属でできているのかにゃ」
りつは机に置かれていたバイオリンに目を向けて興味深そうにつぶやいた。
「ガット線です。羊の腸の筋繊維をより合わせているんです。弓は馬の毛を使ってて、松脂をこの弓につけてこすることで音を出しているんです」
「ずいぶん詳しいな、扱えるのか?」
りんはおっかなびっくり置かれている楽器に目を向け、わかばに問いかけた。
「え、あ、あー……。いや、知識だけというか……」
「嘘言っちゃいかんぞ。お前確か弾けただろ」
わかばの先輩である青年がにやにやと楽しそうな顔で横やりを入れる。
「あれは、酔っぱらっていた時に無理やりやらせたんでしょうが……。そうそう、りなさん、蛍見に行きましょう。この教会の裏手から行けるんですよ」
わかばの言葉にりなはやったーと声を上げてわかばの手を引いた。
「ちょっと待った。ほら、ランタン」
「ありがとうございます」
出入り口に置かれていた大きめのランタンをわかばに渡して青年は手を振った。
「あまり遅くならないようにな。馬車はここに待機させておくから」
「すみません。よろしくお願いします」
わかばはお待たせしてすみません、と姉妹たちの前を小走りで走って教会の裏手の細い道をランタンで照らした。
「この裏の河原に蛍が集まっているんです。ついたら灯はいったん暗くするので、足元は注意してください」
わかばは説明しながら前を歩いて、藪の中を進んだ。
わかばのすぐ横をりなとりょくが付いていき、姉たちがそのあとを下駄の音をさせながらついていく。
ふわりと、りなの目の前を小さな光が横切り、りなは歓声を上げた。
坂を下ってわずかな水音がする小さな淵まで来ると、わかばはランタンの灯を小さくした。ランタンの強い灯が消え、ほんのり月の光が輝いている淵の傍に、明滅する光が見え始めてきた。
「すっごいたくさんいるナ!」
りなは嬉しそうにくるくると周りながら蛍の光を追いかけ始めた。
「りなちゃん、転ぶからあんまり動き回っちゃだめよー」
「暗いんだから危ないにゃ」
後ろから来たりょう達も、ほぅっとため息をついて淵の周りを飛び交うたくさんのホタルを見やった。
りんは、りなに捕まえた蛍を見せてやっているわかばの脇に近づいた。
「……これはゲンジボタルで、日本で一番多くみられるものですね。このあたりでも一番よくみられるものです。ここのお尻の所が光っているんですよ」
わかばが手で包んでいる蛍を、りなとりょくは若干及び腰になってそっと覗きこんだ。
「……光り方は種によって違うそうです」
わかばはそういうと手を放して蛍を開放した。
「なー、逃がしちゃうのな?」
「蛍は孵化してから数週間しか活動できないですからね。眺めるために取るのは可哀想かなと」
「なな、それならしょうがないナ……」
りなは呟いて、空を漂う蛍を見上げた。
わかばは、立ち上がって横にいたりんに、どうですか? と問いかけた。
「……懐かしい。最後にこうしてたくさん見たのは女学校に入る前に、父に連れられてだったから」
「そうですか。喜んでもらえたならよかったです」
わかばは少しはにかんだ様に笑った。
「……りなも、りょくも、こんなに楽しそうなのを見たのは久しぶりだ」
りんははしゃいでいる妹たちを見つめて、嬉しそうに呟いた。
「そうですか、もし明日以降もここに来たいようでしたら、神父様に言っておきますよ。僕、明日には東京に戻るので、案内できませんし」
「え……」
りんは、思わずわかばの方に顔を向けた。
「……帰るのか」
「はい、教授とご懇意の神父様の手伝いだったので。採取作業もあらかた終わっているし、催しも終わりましたから……」
「そう、か」
りんはふっと息を吐いた。気のせいか、ほんのりと首筋を冷たい風が吹いたように感じて首をすくめた。
「ああ、だいぶ寒くなってきましたね。そろそろ、お送りしますよ。りなさん、りょくさん、そろそろ冷えてきたので帰りませんか。灯、つけますね」
「はーい」
「はいはいなー」
ランタンに明かりが小さく灯り、あたりを少し明るく照らし始めた。
「みなさん、それじゃご自宅まで送りますので」
「いやー悪いね。わかば君」
りょうがわかばの肩を叩いた。
かなりいい音がしたので相当痛かったはずだが、わかばはうっと息を吐いただけでどうにか耐えたようだった。
「懐かしいな、蛍。蛍でなんか作れねーかな……。襟……んー、でも虫だしな」
「あまりしっかり作ると虫っぽすぎるからちょっと難しい気がするにゃ」
「んー……そうかなー……」
賑やかな姉妹たちを先導しながら、わかばはちらりとりんの方に目をやった。
「ねーわかば君」
「あ、はい何でしょう?」
りょうがわかばの横に並んで、にこりと笑みを浮かべたままわかばに声をかけた。
柔和な笑顔の女性だが、わかばは何とも言えない圧の様なものを感じて、若干襟元を押さえた。
「……明日帰るんだって? いつくらい? 早いの?」
「え、あ、えーっと……。午後1時頃に来る汽車に乗る予定ですが……」
「あ、そうなんだ。ふーん、じゃあ結構何とかなるかな」
「はい?」
「こっちの話ー」
りょうは手を振って、意味ありげな含み笑いをした。

翌日の昼、りんはぼんやりと庭の木に水を上げていた。
見るからに元気がない様子に、りなとりょくは挙動不審な動きをしてりんの周りを遠巻きに眺めていた。
りょうはしばらく様子を眺めていたが、しょうがないと肩をすくめて庭に降りた。
「……おーい、りんちゃーん」
「何?」
からん、と下駄の音をさせて緩い浴衣姿の姉に目を向けた。妹のひいき目を差し引いても、この姉のうちから自信にあふれた艶やかな姿は羨ましいものだった。
「……ちょっとさー、お姉ちゃんと駅の方までドライブしない?」
「え、りょうの運転……?」
「ちょっとだけだからさー」
りょうはりんの返事を待たず、ぐいぐいとりんの肩を後ろから押して部屋の中に戻った。
「じゃあ着替えてさくっと出かけよー」
りょうは下駄を放って部屋に戻り、りんはしょうがないと呟いてりょうの下駄をもって玄関へ下駄を置いてから着替えをしに部屋に戻った。

夏用の濃紺と白のボーダー柄のリネンのワンピースを着て、日よけに帽子をかぶり、りんは姿見の前で一回りした。
―まあこんなものでいいだろう。
軽く白粉を叩いて紅を引くと、りんはとりあえず出かけられる格好になったと判定して、タンスからサンダルを出して、それに合わせる小さなバッグを引っ張り出してバタバタと玄関に出た。
すでにりょうは外に待っていて、外地から父が贈ってくれた中華式の立襟にすっきりとした刺繍を施したスリットの深いワンピースにジャケットを羽織っていた。
足技が使えるから気に入っていると言っていたのはまさに姉らしい。
りょうは運転席に乗り、りんは助手席に乗り込んで、屋敷から出た。
「そういえば、りんも運転覚える?」
「え、いや、私は……うっ」
舗装されていない曲がりくねった道をかなり大胆に進む姉の運転に舌を噛みそうになり、りんは呻いた。
「……そこまで……いいかな」
「自分で運転できると、結構視野広がるよ。いける場所が増えるし」
りんは一瞬はっと息を吸い込んで姉を見つめた。
「……姉さんは、私に結婚を勧めていたと思うけど」
「そりゃあ、良い人が居れば、って思うからねえ。でも、別に急いでやれなんて、言ってないよ」
「それは……」
「家にこもっているのが嫌なら、ちょっと外に出るのもありだよって話さ。無理強いする気はないよ」
がん、と大きな石でも踏み越えたのか、車体が大きく揺れりんは頭を思わず押さえた。
「よし、間に合った」
「はあ?」
りょうは駅の前に車を止めると、目を白黒させているりんにぽんと何か包みを手渡した。
「ほら、急いだ急いだ」
「え、いや、あの。これ何?」
「お弁当。渡してきてあげて。私たち代表して」
りんは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐい意味を察して徐々に頬を赤くしてパクパクと金魚のように口を開けた。
「悩むより動く方がいい時もあるのよー」
りょうはもう一度手をパタパタと振って、降りるようにりんに言い、りんは慌てて降りた。
りんは、駅の中に入り、停車場の中を見回した。

人はそんなにいない。
汽車はすでに来ていて、今まさに乗り込もうとする人々がぱらぱらと並んでいた。
ふと、見たことのある淡い色の髪がちらりと見え、りんはそちらの方に向かって駆け出した。
カツカツと響く靴音に気付いたのか、わかばが音のする方に目を向け、驚いたようにりんを見返した。
「……りん、さん? どうしたんですか?」
「いや、あの……」
りんは、持っていた包みをわかばに渡した。
「その、昨日は世話になったから、私達姉妹から」
「え、わざわざ? ありがとうございます。お弁当、ですね。大事に食べます」
嬉しそうに包みを両手で持つわかばに、りんは息を吐いた。
「……あ、そろそろ出発なので。みなさんによろしくお伝えください」
「あ、ああ。あの……また」
りんは思わずわかばの服の裾をそっとつかみ
「あの、また会うことは、出来ないだろうか」
りんの問いに、わかばは、思わずえっと声を上げ、少し考え込んだ。
「……それは、あの、りんさんが良いのであれば……。あの……」
発車の合図が鳴り、わかばは慌ててカバンを開けて、名刺ケースを取り出して万年筆で裏に何かを書いて渡した。
「すみません、今これしかなくて……。九月は僕ずっと研究室にいるはずなので……。もしその、よろしければ」
りんは名刺を受け取り、わかばは急いで汽車に飛び乗った。
「九月、必ず行くから……、その……」
りんは手を伸ばして声をかけ
「はい、楽しみにしています」
伸ばしたりんの手に軽く触れ、わかばは手を振った。