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君の帰り着く場所-冊子サンプル-

2019年11月10日 めっさ気になるぅ4で頒布予定の本のサンプル1弾目

ウェブで公開していた現パロわかりん本のWeb公開版の前半部分になります。
組版などの確認などどうぞ。ちょっと縮小してあるので実際に手に取る物はもう少し大きいです。
スマホだと少し見づらいかもしれないです…

 

サンプル

躑躅屋敷の女達 第二集

白露の折 本邸

夏の暑さも落ち着いて、日の光が夏の勢いある色から、徐々におとなしい秋の色が映えるようになってきた頃だった。
よく晴れた日で、窓を開け放って秋のからりとした丁度良い心地の風を入れながら、姉妹達は居間で寛いでいた。
「ねえ、りん。いつになったらそれ止める?」
「それって?」
はっとりんの動きが止まってりょくを振り返った。
「あきれた。気付いてなかったの」
りょくははあっと息を吐いてりんを指さした。
「さっきからカレンダーの前うろついてて鬱陶しいじゃん! なんなの一体?」
「ご、ごめん」
ソファに座ってみたものの、やはり落ち着かないのか手近にあるクッションを手に取ってぼんやりと触るりんに、りつはお茶を入れて苦笑した。
「にゃー……、りんったらいい加減覚悟決めたら?」
「な、何のこと?」
「わかば君と会うんでしょ? 行きたいと思ったときが吉日にゃ」
りつの言葉にりょくが思わず納得したように頷いた。
「ああ、なーるほど。また考え込んでたんだ……。もう、悩む暇があったらさっさと行けば良いじゃん」
「そ、そうは言うが……邪魔をしてしまうかもしれないし……それにあっちは忘れてるかもしれないし」
丸いクッションが円筒形になるほど潰しながらりんはブツブツ呟いた。
「忘れてたら頭叩いてでも思い出させれば良いでしょ」
過激な妹の発言にりんは少し咎めるような表情になり、りょくはふんと向こうへ顔を逸らした。
「幸いここのところ天気も良いみたいだし、明日辺り試しに行ってみたら?」
何事も、動かなければ何の意味も無いでしょ? と指摘され、りんは思わず俯いた。そしてカレンダーを見つめ、やがて頷いた。
「そうする」
りんはりょくとりつに礼を言って部屋に戻っていった。
「……全く……考えすぎなんだよりんは」
「まあ、昔からあの子はそんな感じだったから……」
ティーカップを傾けて考え込みながらりつは呟く。りょくはそうやって甘いから、とりつを睨む。
「そうは言うけど、りょくちゃん本当にりんの事心配なんだにゃー。しょっちゅうたきつけてるし」
「そんなんじゃないってば」
りょくは顔を赤くして幾分乱暴に足音を立てて広間から出て行った。入れ替わりで部屋に入ってきたりなは首をかしげながらりつへ目を向け
「どうかしたのな?」
「んー、りんちゃんの事でねー」
「なー……りんちゃんまだもじもじしてたのな?」
「本当にみんなよく見てるのにゃ」
りつはりなの分のカップを棚から出しながら思わず呟いた。

翌日りんはわかばが働いているという大学へ来ていた。車を用意するとりょうから言われたがりんは断り、電車とバスをどうにか使って学校の前まで来た。慣れない物を使ったためか道を間違えたり切符をなくしたと思って探したりと冷や汗をかいたが、ようやっとたどり着いたと息を吐いた。
辺りは森が広がり、時折鳥の声がする程度で静かな物だった。りんは出入り口はどこだろうと赤煉瓦の門の橫を歩き、下り坂の途中に見かけた守衛の立っている門の前に立つと、守衛が珍しげにりんを見つめてから頭を下げた。
「こちらはこの研究室があるところで間違いないだろうか」
問いかけてわかばが渡した名刺を守衛に見せると、彼は訝しげに名刺を手に取って裏返し、はい、と頷いた。
「ああ、そうです。丁度……」
守衛は手を伸ばして門の向こうにある建物のに一つの窓を漠然と手で指した。
「あの辺りがそうです」
「あの……」
りんは言われた場所に目を向けて、窓に寄りかかっている人物に気付いた。確か軽井沢でわかばと一緒に居た先輩のように見える。りんは守衛に礼を言って中に入ろうとすると、偶々外に目を向けた彼と目が合った。わかばの先輩はにこやかに手を振り、部屋の中に顔を向けた。どうやら中の誰かに声をかけているらしい。
「りんさん?」
ガタンとかなり大きな音と声が構内に響いてりんは思わず周りを見渡した。窓から身を乗り出したわかばは、相当に驚いた様子で、りんの姿を見つめすぐに奥に引っ込んだ。
「ああ、ここで待っていた方が良さそうですよ」
のんびりと守衛が椅子を出しながらりんに言った。しかし、同じ研究室か違う所かは不明だがわかばの声と様子に物見高い見物人が部屋の奥からわらわらと顔を出してきていた。
一度外に出た方が良いだろうか……
恥ずかしいという事もあり、りんは少し考えたが、転がるようにわかばが外に飛び出してきたので踏みとどまった。
「り、りんさん、あの……す、すみませんちょっと」
肩で息をするわかばに、りんは思わず
「いや、すまない……いきなり迷惑だったみたいで」
りんはわかばの様子を見つめて呟いた。以前会ったときと同じようにくしゃくしゃの髪に、軽井沢ではきっちりとしたシャツとベストを着ていたが、今は草臥れたようなシャツに、とりあえずその辺にかけていた羽織るものを引っかけてきたような状態だった。気のせいか若干やつれているように見える。
「あ、全然迷惑じゃないです!丁度一段落してたんで……ただちょっとびっくりして研究室の中の物ひっくり返しただけです」
「それは……」
大丈夫なのか? と思わず言いかけたが、わかばは気にする様子もなく
「それで、今日は見学ですか?」
「あ、いや、その……」
りんは言葉に困り、どうしたものかと視線を彷徨わせた。
「その……少し、会えないだろうかと……思って」
言葉通りの意味で言ったのだろうりんの発言に、わかばは、思わずはっと気の抜けたような声を上げてあたふたと周りに目を向けた。
「あ、えっと……そ、そうなんですか……。あー……」
わかばはとりあえず、と門の外を指差して
「それでしたら、ちょっと外出ましょうか。ここ、あの……色々面倒なんで」
「? そうか」
足早に外に出ようとするわかばに促されて、りんは赤煉瓦の校門を出た。わかばは後ろにチラリと目をやり、窓から一人楽しそうに眺めている先輩と、他の研究室の窓から落ちそうな勢いで身を乗り出して様子をうかがっている野次馬から逃げるように坂を下る道を先導した。
――今日はもう研究室戻れないな
わかばはふっと少しため息をついた。

わかばにつれられてりんが来たのは最近流行っているという珈琲店だった。
「こういう所、大丈夫ですか?」
「別に平気だが……」
入ったことはないと、少しばかり興味深げに店構えを見つめているりんに、わかばは意外そうな表情を浮かべた。
「銀座よく行かれるのでは? あそこらへんは多いですよね」
「一応りょうの買い物の付き合いで偶に行くが……こういう所は行かないし、りょうも忙しいからあまりゆっくりしないな」
「ああ、まあ。お忙しそうですよね」
ドアを開けるとチャイムが鳴り、給仕の若い女の高い声が「いらっしゃいませ」と応答した。
「あら、わかば君。今日はどうしたの」
どうやら見知った顔らしく、わかばの顔を見て給仕の一人が声をかけた。その視線が値踏みするようにりんの方に向き、りんはわずかに表情を固くした。わかばはそのような視線のやりとりには気付いていないのか、にこやかな表情で
「ちょっと色々。珈琲二つで」
「ふーん……、ゆっくりしてってね」
にこりと営業用の笑顔を浮かべて給仕はりんに答え、わかばの肩に軽く触れて去って行った。わかばは奥にある二人席にりんを促して向かい合うようにして席に着いた。
「よく来るのか?」
「ええ、まあ。先輩や研究室の人と。僕あんまりこういう、食べ物のお店とか詳しくないので」
わかばはあちこちのポケットを探ってタバコを出して口にくわえようとして、ふと気付いてそのまま元に戻した。
「失礼、タバコとか駄目ですよね」
「いや、別に気にしない。りょうも時々吸うことがあるし」
「そうですか、それじゃ失礼して」
わかばはタバコをくわえて慣れたように紙マッチを擦ってタバコに火をつけ、ふうっと息を吐いた。ふわりと紫煙と、独特の匂いが漂い、店の中の珈琲の匂いと混ざり合った。
りんはタバコを吸うわかばを思わず見つめた。正直な所どこか少年のような雰囲気を持ったこの青年がタバコを吸う様はどこかちぐはぐなようで、しかし、どこか惹かれる物があった。
「どうかしました?」
首をかしげて問いかけるわかばに、りんは思わずいや、と首を振って咳払いをして誤魔化した。
「……軽井沢の時もそうだが、よく、その、あちこち行ったりするのか?」
「ええ、あちこちの植物の標本を採ったりとか……山登りは正直苦手なんですけどねー」
わかばは軽い調子で笑って答えた。
「珈琲二つ、お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
給仕が珈琲を二つ運んできて二人の前にそれぞれ置いて、礼をした。ふと、彼女はりんに目をやって
「あのー……もしかして、雑誌に出ていたお嬢さんじゃないですか?」
「雑誌?」
わかばはきょとんと給仕の方に目を向け、りんは一瞬目を瞬かせてからううっと呻いた。
「やっぱり、ほらこれ」
出された雑誌は店に置いてある物で「主婦の華」というタイトルで女の一枚絵が描かれた表紙の物だった。パラパラとページをめくった先には、朗らかな表情で椅子に足を組んで座るりょうと、その横に立つりんの姿の写真が写っていた。
「わー、本当だ。凄いですね」
「いや、それは……あの……」
困惑と恥ずかしさからか狼狽えるりんに、わかばは立ち上がって給仕を向こうに下がらせた。
「有名人なんだから、折角なら何か記念になる物貰えないかしら、わかば君何とかならない?」
給仕の女はわかばの腕に手をやり問いかけるが、わかばは首を振り
「なりませんよ。あまり困らせないでください」
「あら、冷たい。まあお金持ちのお嬢さんと仲良くなる機会だものねぇ」
「はい?」
わかばの表情に給仕はあら、と首をかしげて
「あきれた。本当に朴念仁なのねえ」
幾分荒い足取りで奥に引っ込んだ給仕の背中を見やって、わかばは肩をすくめて席に戻った。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ」
りんは持っていたバッグからハンカチを出して軽く汗を拭い、
「だから嫌だったんだ……あんなものは」
「……まあ、でも、人によっては羨ましいでしょうけど」
「元々は姉の……りょうの取材に来ていたんだ。私はあくまでも……添え物というか、ついでだ」
珈琲を口に含んで、りんはうっと顔をしかめた。
「砂糖、入れた方が良いですよ。ここの結構苦いので」
わかばは自分のカップに一つ角砂糖を入れてかき回しながら、りんの方に砂糖の壺を渡した。
「ついでというのは?」
「……そのままだ。りょうは何しろ会社経営者だからな。あんな風な取材とかの依頼が結構来るんだ。実際身内の私から見ても凄いと思うのだから、興味を持つ者が居るのは分かる」
砂糖を入れて少しずつ味を見ながら、りんは言葉を続けた。
「私には、特に何も無いからな。他の姉妹達は、父がいつもしたい事をさせてやろうと、興味のある事に色々やらせていた。りょうは武道や、それこそ経営について面白がっていたから少し教えていたようだし、りくは刺繍の職人への弟子入り、庭木や植物に一番関心があった姉さんや、妹たちにもそれぞれやりたい事がある」
りんは、スプーンで珈琲をかき混ぜながらぼんやりとカップを見つめた。
――本当に、自分は何も無い。
取材に来ていた雑誌の担当者達から浴びせられた質問にも満足に答えられなかった。今の趣味は何か、何をして時間を使っているか、姉のように何かなす予定はあるのか……。
わかばはすうっとタバコを吸いながら天井に向けてふっと息を吐いた。
「なるほど……。でも……ここの店に入るときとかちょっと楽しそうでしたよね。りんさん。軽井沢の時も」
「あれは……ちょっといつもと違う事をしていたから……」
「今日の、ご自分で研究室まで来た事も?」
「まあ」
わかばはなるほどと少し考え込んでから
「そうですね……、思いつかないのであれば、これから新しい物を見たり、行ってみたりしてみるのはどうでしょう? いずれそこから何か気づける事もあるんじゃないでしょうか」
わかばは言いながら、珈琲のおかわりを通りかかった給仕に注文した。
「遅すぎないか、今からなんて」
「そんな事無いですよ。いつでも思い立ったときが始め時ですよ。僕の研究室の教授なんかはそれで色々あちこちの人と会ったりしてますし」
二杯目の珈琲がわかばの前に置かれ、わかばはそれをそのまま飲み、息をついた。
「しかし、急に言われても思いつかないな」
りんは首をひねりながら呟き
「うーん……僕も結構偏ってるので……ああ、そういえば」
わかばはポケットから手帳を取り出して、
「今度、世界的に有名な学者さんの講演があるんですよ。僕も専門外で全く分からない分野で……言ってしまうとりんさんと同じ新しい世界ですね。あ、でもその……苦手と言う事でしたら無理にとは……」
わかばは小さく折りたたんだチラシのような物をりんに恐る恐る差し出した。チラシには聞いた事の無い外国の博士の名前とぼけた白黒写真が写っている。
「なぜ、この写真はこんな表情なんだ?」
「さあ、ちょっと変わった先生だそうで……この相対性理論というのが凄い発見なんですよ。僕も今講演に向けて本とか読んでいるんですけど、これが難しくてさっぱりで」
ニコニコと嬉しそうに語るわかばに、りんは幾分気が軽くなってきて表情を緩めた。
「難しいのに嬉しいのか」
「ええ、知らない物というのがまだ一杯で。楽しいです」
「そう……」
りんはチラシを見て考え込みながら
「いつ、やるんだ?」
「十月です。場所はあの帝大の大講堂でやるんです」
「そうか、その頃は多分落ち着いている頃だから大丈夫だと思う」
「本当ですか?」
わかばは少しはしゃいだような表情で手帳にメモして
「それじゃ、迎えに行きますよ。おうちはどこでしたっけ」
りんは自宅の住所を伝えて
「躑躅の木がたくさんある家だから多分見ればすぐ分かると思う」
「躑躅……」
わかばは少し考え込んで、何かに気付いたような表情を一瞬浮かべたが、すぐに元に戻し
「分かりました。多分大丈夫です。もし聞きたい事があればこの電話番号に電話してください。先輩か僕か……誰かしら研究室で寝泊まりしてるんで」
りんは手帳の切れ端を受け取って、バッグの中にしまった。
「仕事は忙しいのか……?」
「ええ、まあ……楽しいんですけど、つい熱が入るみたいで気がつくと床で寝てたりとかしちゃうんですよねー」
あははと軽く言うわかばにりんはあきれたような顔で見つめた。

「へえ、なるほどねえ」
晩酌をしながらりょうはりんの話に耳を傾け、話し終わったりんを見つめた。相変わらず表情の読めない、飄々とした顔である。その実、声にわずかに面白がっているような雰囲気を感じて、りんは少し待った。
部屋は大分肌寒くなってきており、りんは部屋着用にした縮緬の黒地に絞り染めの花が描かれた羽織に、セーターとチェックのスカート、少し寒いので厚手の靴下に、父が外国で買ってきたモカシンを履いていた。
それでも少し寒く、温かいお茶の器で手を温めながら、りょうを見やった。
父が気に入っていた濃い色の結城を男のように着付けて楽にしているりょうは、吸わないシガーホルダーを回しながら
「私もその……何とかって有名な人が来ているってのは会社でも聞いたけど。面白そうだし、楽しんで来なよ」
「……りょうは、その、調べたりしたんだよね。わかば、の事」
わかばの名前を言い慣れないのか不明瞭なりんの言葉にも、りょうは頷いて
「ん? まあそこそこね。聞きたい?」
「いや……いい」
「そっか、うん。その方が良いと思うよ」
りょうは笑みを浮かべてグラスの酒を飲んだ。
「それにしてもりょくが聞いたらまた煩そうだねぇ」
りんはため息をついて
「まあ、そういうの好きだからな。ただどちらにしろ平日だからあの子は学校だ」
「そういやそうか。勝手についてく! って言いそうだけどね」
「ありえそうだから止めてくれ……」
りんはうめき声を上げて頭に手を当てた。りょうはにこにこ笑顔のまま
「あはは、ごめんごめん。さてと、じゃあ私また早いから先に寝るわ」
「ああ、その……無理はしないで」
「してないよ。まあ、元々ちょっと興味あったからさ、ついね。色々やっちゃうんだわ」
「ああ、彼も似たような事を言っていた。楽しいから……倒れるまで作業をしてしまうと」
りょうはなるほどねえと頷いて
「好きな事しているとつい時間忘れるわなぁ。……ああ、最近体動かしてないからそっちもちょっとやりたいし……やりたい事一杯で困るわ」
「まったく……無理はしないでよ」
りんはしようのないという顔でりょうに言った。

霜降の頃 本邸

「困ったな」
バタバタと日常を過ごしているうち、気付けば予定まで数日という段階になって、りんはクローゼットの中やタンスの中を開けて引っ張り出して何を着ていくか、頭を悩ましていた。
まず、派手な物は駄目だろう。そもそも講演というのがどういう物なのかよく分からない。
洋服や着物を広げて考え込んでいると、りょくが部屋に入ってきた。
「うわ、何これ……どうしたの」
「ああ、いや」
りんはどう言えば良いのか悩み、少し言い淀んだ。
「あの学者と一緒に出かけるのは知ってるから」
「いや、あの……りょく」
「別にいいんだから。大人になって自分で行けば良いし……別に気にしてないし……」
恨みがましい目で言われてもあまり説得力は無い。
「りょく、その、一緒に」
「行・か・な・い! 駄目じゃんそこは二人で行かないと」
「……え、あ、うん」
りょくはりんが引っ張り出してきていた服を眺めてむっと眉間に皺を寄せた。
「これじゃ地味じゃん」
「いや、でも派手なのは……あ、ああ……」
りんはバタバタと歩く音に気付いて頭を抱えた。程なくしてりなとりくが何を聞きつけたのか、りんの部屋を覗き込んできた。
「お、やってるやってる!」
「りんねぇね、ほら、りなの帯揚げとか、持ってきたよ!」
「あ、ありがとう……」
「ほら、さっき仕上げた半襟もあるぜ。どうよこの柄! 可愛いだろ?」
「り、りく……あの、他の人の依頼分は?」
「ちょっと休憩しただけだからいいのいいの、まだ時間あるし」
「りん、ちょっと下の衣装部屋から色々持ってきたにゃ!」
恐らくりつがバタバタと衣装部屋を漁っていたから気付いたのだろう。りんはわいわいと自分の部屋でああでもないこうでもないと服を並べて議論する姉妹達を少し遠くから眺めて立っていた。収拾がつく気がしない。
「やっぱり、秋だしこういう柄とか……」
「うーんでもそれとこれだとちょっと合わないんじゃ無いかナ」
「ちょっと地味すぎじゃね?」
「そうは言うけど講演会だからあまり派手なのも浮きそうだし……色を抑えてみるのは?」
「うーん……それだったら時期的に羽織とかで……」
「あの……みんな」
りんが収拾させるために声を上げると、四人が顔を上げた。
「あ、りんちゃん。どっちが良いと思う?」
りつが出してきたのはこっくりとした紫地に似た系統の赤や灰色が使われた縞柄で、所々蔦模様が描かれていた変わった物だった。母がりんのためにと取っておいた反物からつい最近仕立てた物だった。もう一つは青地に花が散った豪華な物だった。
「……えっと、紫」
「やっぱりそういうと思ったにゃ」
「そしたら、この襟と……あと帯はどれが良い? うちら的にはこの辺が良いと思う。羽織り着たら見えないだろ」
りくが出してきたのは当世風の洋花の太鼓柄の黒繻子の帯で、他に白繻子地に楓が刺繍された帯と臙脂色に手書き友禅の芒が描かれた帯が並べられていた。
「色的には黒いやつの方がりん的には落ち着くかなとは思う。太鼓の部分見えないなら少しここら辺派手でも良いんじゃ無い?」
りょくの言葉にりんは確かにそうだなと頷いた。
「羽織はよく着ているこれなら、地味すぎないし丁度良いんじゃ無い?」
りつは薄紅色に蛍ぼかしの入ったこの頃だと地味な羽織を出してきた。
「ああ、これなら良い感じだな」
りくは言いながら頷いてから、少し考え込み
「……でもなあ、袖とかなんか寂しくね? ここら辺にちょっとこう……模様とか刺繍したらよくね?」
「自分で仕事増やすなアホ姉」
りょくに一喝されてりくはちぇっと口をとがらせた。
「りくちゃん、また作品展に応募するんでしょ? 結構依頼も入って居るみたいだし……」
「まあそうだけど……。じゃ、そのうちやってからよ、りん」
「無理しちゃ駄目だよ。また指痛くなったら元も子もなくなるよ」
りんはため息をつき、姉妹達は肩をすくめた。
「そうそう、りょうちゃんがあまり羽目は外さないようにね、だってにゃ」
りんははあ、と曖昧に頷き、りくは可笑しそうにニヤニヤ笑っていた。

家の前に止まった車にりんは首をかしげた。そして、中から出てきた人物を見て一瞬固まり、慌てて玄関に向かった。
チャイムの音が鳴り、りんがドアを開けるとわかばがおはようございますと頭を下げた。
パタパタと音に気付いてりつが奥から出てきて、わかばを見て声を上げた。
「わかば君、珍しい恰好にゃね」
「あはは、そう見えますか」
少し照れたように頬を掻いたわかばは、袖を指先ですっと押さえて後ろに振りを払った。ひわ色――少し暗めの緑色に網代模様が織りで描かれたかなり値の張りそうな艶のあるお召しに、紬地に縞柄の袴を履いたわかばに、洋服姿を見慣れていたりんは思わず三度上から下まで見つめた。
「あの……りんさん。そんなに変ですか」
「ぅえっ……いや。ちょっとビックリしたというか」
わかばはまた軽く笑って
「ああ、何しろ外国からのお客様なので、こっちの方が喜ぶということらしくて……。父の物だから似合わないだろうとは思っていたんですけど」
「いや、あの……変じゃなくて……似合ってる」
りんの言葉にわかばは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、やがてゆっくりと相好を崩した。
「ありがとうございます。そう言われると嬉しいですね」
「二人ともーそこでずっとそうしてるのー?」
りつの声にわかばはそうでしたと頭を掻いて
「それじゃあ、順調にいけば夕方にはお送りする事出来ると思いますので」
「よろしくお願いね、わかば君。まあ、あんまり急ぐ事も無いから楽しんできてニャー」
姉に見送られて、りんはわかばが乗ってきた車に乗り込んだ。
「この車は?」
運転席に乗ったわかばは、
「自分の、といえれば良いのですが。教授の物です。殆ど僕と先輩が運転してるんですけどね。今日はちょっとお借りしました」
あとで労働奉仕しろって言われてるんですよねと、さして困ったような風で無く言いながらわかばは車を動かした。
わかばは屋敷を出て躑躅の植え込みの橫を走らせながら
「それにしても、懐かしいな。数年前日本に帰ってきてから一度この近辺に来た事があるんですよ」
「そうなのか」
「はい、先輩と一緒にあっちの方にある山の調査で」
わかばの運転はりょうのそれとは違ってかなり慎重で、時折舗装の怪しい道でもそこまで身の危険を感じる事が無かった。性格の差なのだろうか。
「随分……運転上手いんだな」
りんは思わず褒めると、わかばは
「いやー……何しろ気難しい人を乗せますからねぇ。かくしゃくとしてますが、やっぱり年齢に伴ってあちこち痛いらしくて……。ちょっとでも揺れると尻が痛いとか膝が痛いとか……」
「そう、か」
「りんさんは運転とかは?」
「姉に勧められてはいるが……。姉が何しろ荒っぽい運転だから教えると言われても……」
「ああ、りょうさんは……中々……」
わかばは何かを察したのか思わず頷いて
「冬までは僕も結構暇なんで、僕で良ければ付き合いますよ」
「それは……良いのか。というか、りょうの事、知っているのか」
「え! あ、ああえっとっその……」
わかばは一瞬困ったような表情を浮かべてから、諦めたように
「いえ、すみません。実は少し前にばったりお会いしまして……その、その時にですね」
ちょっと送って貰ったんですよ、とわかばは小さな声で言った。思わず、りんはすまないと顔を手で覆った。
「い、生きてて良かった」
「いえ、あの……ちゃんと迷惑にならないよう普通は走っている感じでしたし……。ただあの……人が居ないというかそういう所だとちょっと運転が野性的というか、中々攻めますね」
かなり軟らかい表現を探しながら話すわかばは、しかし思わず顎の辺りの冷や汗を拭った。
「ああ、そろっと着きますよ。良かった、結構すんなりいけましたね」
わかばは学生達が行き交う道路を進ませながら、大学の構内に入る場所を探した。ようやっと見つけた車が通る事が出来る門に来ると、中に入って他にも数台止まっている駐車スペースとおぼしき場所に止めた。
「話には聞いていましたが、結構人が居ますね」
りんの乗っている席のドアを開けて手を差し出しながらわかばは言った。あちこちうろついている学生達はどうやらこの学校の学生以外にも居るようで、そぞろ歩いていた。
「早めについて良かった。下手したらこれ立ち見ですね」
わかばばは近くにあった案内板を見つめて場所を確認して頷いた。
「行きましょう。ここ、結構構内が広いので少し歩く必要があるんです」
「来た事あるのか」
「ええ、まあ。学会とかで」
わかばはあちこちきょろきょうろと見渡して
「ああ、あっちですね」
歩き出したわかばの後を追ってりんも石畳の道を歩き出した。

「はあ」
りんは頭が痛くなるのでは無いかと思いながら、目の前の珈琲をぐるぐるとかき回し続けた。
全編英語というのは分かっていた。言っては何だが女学校時代に英語の成績はかなり良かったので、喋っている言葉自体はある程度把握できた。ただ、話している内容はまるで分からなかったが。
「あんなに何も分からないのは初めてだ……」
「いやー僕も全然でした」
本当に嬉々とした表情で、わかばはタバコに火をつけた。
講演の会場からほど近い、大学の側の喫茶店で二人は座っていた。講演が終わって、車で帰るには人でごった返していた道を見てわかばは少し休憩しないかと、喫茶店で時間を潰す事を提案してきた。
疲れていたりんはありがたく了承して、珈琲の香りを嗅ぎながら座る事にした。似たような事を考えている人間は多いようで、あちこちで学生やその道の研究者と思われる人間達がぼそぼそと興奮した様子で喋る声が聞こえてきている。
「特殊相対性理論ならまあ何とかと言う所ですが、その先になると僕のような者にはさっぱりですねえ。博物学とはそもそも系統が違う。面白いなあ」
「……わかば、タバコの灰、落ちるぞ」
「っと、危ない危ない……」
火をつけたものの放置していた指先のタバコから灰が零れそうになり、わかばは慌てて灰皿を引き寄せた。灰を落として、ようやっと一服してふうっと息を吐いた。
「ありがとうございます。危うく袴に穴開ける所でした」
「はあ……分からないのにそんなに面白いのか」
よく分からないと首をかしげるりんに、わかばはそうですねえと、つられたように首をかしげて
「分からないと何でかなあとか、考える過程が楽しいというか……どうしてでしょうね。……あ、りんさん、ひょっとしてつまらなかった……でしょうか……?」
はたと気付いて、わかばは恐る恐るというような面持ちでりんを見つめた。
「いや、なんと言えば良いか……詰まらないという事無いんだけど……考えた事が無かった物を聞いて何だか不思議な気分というか」
わかばは、なるほどと頷いて
「なんだかいつもと同じ景色なのに居心地が悪いような……変な風に見えると言う事でしょうか」
りんは少し考えてから
「多分。あえて口に出そうとするならそんな風だろうか」
「そういうのは子どもの頃僕もありましたよ。父が最初に僕に買ってくれた本を読んだときとか。確かニュートン力学について纏められたものだったと思います。アレを読んだときはもう訳が分からなくて……でも、どうしようもなく惹かれてずっとそれを読んで考えていました。そのうち、どうして家の庭木は水だけで育つんだろうとか……朝顔がいろんな色になる理由とか……そっちの方に興味が行ってしまったんですけどねぇ」
わかばは頬を掻きながら、物理学は縁が無かったですと笑った。
「なるほど……、お前が……わかばもそういう事があったなら……私もいずれはそれを楽しいと言えるのだろうか」
「ええもちろん。というか、本当につまらなければ、そこで説明されたとしても何も感じないのでは無いでしょうか。それこそ詰まらん、と一言で切って捨てる人も居ますよ」
「そういう、ものか」
「えーっと、多分……」
りんはわかばを見やってから少し考え込んだ。角砂糖が溶けた珈琲を少し飲んで、ふと思った事を口にした。
「今のところよく分からないが……なんと言えば良いか……わかばが楽しいというのを見るのは、少し面白いな」
がちゃ、とわかばが手に取ろうとしたカップがソーサーに派手にぶつかって音を立て、わかばは慌てて持ち直した。
「あ、はは。そ、そうですか? それならそれはそれで……よ、良かったです」

店を出て車を走らせ始めた時点ではかなり日も高く見えたが、落ちる影は長く夕方のそれだった。
屋敷の門を通る頃には辺りは暗くなり始めており、まだ街灯も少ない屋敷近辺の暗がりでは、お互いの顔はほんのりと残る夕陽が輪郭を浮かび上がらせる程度だった。
玄関の戸を開けようとしたりんは、躊躇うように手を掛けたまま振り返って前庭の車を止めた場所に立つわかばを見やった。
「いいのか、これ。結構値の張る本のようだけど」
「ええ、僕は読みましたから。それに僕は学校の方でも読む事は一応出来ますから。もし興味があるならりんさんが持っていた方が良いと思います」
りんは少し迷ったような表情を浮かべて
「ありがとう。その……大体私は屋敷に居るから……」
「ええ、運転覚えたくなったら言ってください。電報とかでも平気ですから」
「そう……」
りんは他に言う事が無いか考えあぐね、やがてため息をついて、玄関の扉を開けた。
「それじゃ。……今日は、楽しかった……」
りんの言葉にわかばは明るい声で
「それなら、良かったです。楽しそうなりんさんを見るのは僕も好きなんで」
手延べガラスがはめ込まれた屋敷の玄関扉の歪んだ景色の向こうに写る影を、りんは思わず振り返った。
「暗くて、何も見えないじゃ無いか」
手を振り車に乗ったらしい影を見つめ、思わずりんは呟いた。

最果ての楽園の少女

どこまでも広がる青い空にかすむ雲が時折たなびき、青い海はどこまでも広がり水平線はどこまでも平らだった。
りなは日課である朝の見回りでしばらく海を眺めていたが、やがて飽きて立ち上がった。
「なー、今日は何も落ちてないな」
誰とはなしに呟いた言葉に
「そんな毎日何かあるものでもないな!」
「森にいったりなこがなんか見つけたみたいだな」
ひょこりと後ろからりなじが報告し、りなよとりなっちは振り返った。
「なな、じゃあ森の方に行くな!」
「了解な」
りなは砂浜の上をぴょんぴょん跳ね飛びながら森の方に駆け上っていった。砂浜は強い風に砂があっという間に流され岩場になり、その岩は風に吹かれて転がりあちこちでぶつかりながら再び砂になって別の砂浜になったが、りなはそんな様子には頓着することもなく、彼女が森と呼んでいる木立の中を分け入った。
森の中を進むと開けた場所に出た。その先にはりなこが椰子の実のような物をもって転がしていた。
「な、どこにあったのな?」
「ここに一個だけ落ちてたんだな。でも中身何も入っていないな」
こんこんとりなこが実を叩くと、空っぽの椰子の実の中からカラカラと鈴の音がした。ぽいっと放り投げるとりなよとりなぞうがなんだーと肩をすくめた。
「ここ最近全然良い物が落ちてないな……」
「しょうが無いな。とりあえずまた駅に行こう」
りなは一人で森を抜けて島の反対側にある無人駅にたどり着いた。何のためにあるのか誰も知らないその駅には、時折マッチ箱のような一両の電車がやってきて、しばらくすると勝手にどこかに走り出していた。何度か乗っていくことも考えたがどこに行くのか分からない電車に乗るのは嫌だとりな達の反対にあって結局いつも見送るだけだった。
「まっだかなー、まっだかなー」
りなはぽつんと立つ駅の構内に入ると駅名を見た。相変わらず駅名は風雨にさらされたせいかペンキが剥がれて読めない。かろうじて行き先に「福」の一文字が読めるだけだった。
かたん、かたん、とどこからか規則正しいリズムを刻んで何かが遠くから近づいてきた。
「来たな来たな!」
線路の向こうを、身を乗り出して眺めていると、りなよが首をかしげた。
「どうせ何もないんじゃないかな」
「確かに、今までも何もなかったしな」
「じゃあ、いっそ乗っていっちゃうのはどうな?」
「えー」
「危ないな」
「……」
それぞれ好き勝手言いながらわいわい待っていると、クリーム色と緑色の二色の車体の電車がすうっと駅に入ってきて止まった。
ドアが開いて、りな達は中を覗き込み
「……え……?」
座席にぽつんと座っていた青年は、ぽかんとりな達を見つめて首をかしげた。
「なな!?」
「人が乗っていたな!?」
きゃーっとりな達はバタバタと電車から離れて駅のホームから飛び出した。その後を、青年が慌てて追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってください一体ここはぐあっ」
顔面からホームの段差に躓いて、青年はばたりと床に倒れて伸びた。
「鈍くさすぎないかな……」
りなじが恐る恐る近づいて、頭をその辺にあった木の棒でつつくと、ううっと呻いて顔を上げた。
「えっと……」
「なー……お前、どこから来たな?」
「え……いえ、そう言われても、気がついたらあの電車の席に座ってて……ずっと……」
青年はふらふらと視線を彷徨わせて首を振った。
「名前はなんて言うな?」
「わかば……」
青年は囁くように呟く。ガタン、と音がして全員が振り返ると、電車のドアが閉じて、再び音を立てながら島の端にある岩山を突き抜けるトンネルの中に消えていった。
「あのトンネルの向こうは?」
「知らないな。ずっと向こうまで続いていたけど真っ暗だし」
「真っ暗?」
わかばは首をかしげて山を見上げた。山は島の端を区切るようにあり、その向こうは特に何も無い。向こうまで続いているならばすぐに山の反対側である島の向こう側が見えるはずである。
「……確かに、真っ暗ですね……」
りな達に案内されてわかばは不思議そうに線路が見えなくなる遙か向こうを見つめた。
「なー……それより、おい、わかば」
「はい、何でしょう」
「折角だからりな達が遊んでやるのな」
「りな、達?」
「りなっち、りなじ、りなぞう、りなよ、りなこ、りなむの六人だな!」
りなが説明すると、わかばは混乱した顔で
「え、でも今は一人ですよね?」
「そういうときもあるな。りな達はいつでも増えたり減ったり出来るんだな」
「こんな風に」
「どれが誰か分かるかな?」
「ななな!」
背後から全く同じ、まるでコピーのようなりなが複数現れ、わかばは頭を抱えて
「そ、そんな馬鹿な人間が単純分裂する訳が……」
と何かブツブツと言っていたが、その背中にりなっちとりなよがしがみつく。わかばは突然かかった荷重にうっと呻いてバタリと地面に倒れ込んだ。
「何をブツブツ言ってるんだなわかば」
「ここはいつもそうだな。お願いすればそのうち叶うのな」
「お、お願い?」
わかばが起き上がってりな……っちかりなよを膝の上にのせると、わらわらとりな達がわかばに寄ってきた。
「そうな、今日は面白い物が無かったから何か来ないかなーって思ったらわかばが来たな」
「この前はたくさんのおもちゃが流れ着いてきたな」
「更にその前にはケーキがいっぱい落ちてきたんだな」
りな達の発言にわかばはううっと呻き
「め、めちゃくちゃだ……」
りな達はわかばを引っ張って駅とは反対方向にある砂浜に向かった。
「さあさあ、さっさと遊ぶのな!」
「なな!」
わかばは少し考えてから、
「そうですね、どちらにしろ帰る手段もないですし」
「帰る?」
「帰るって? どこに?」
りな達は不思議そうに首をかしげてわかばを見上げた。
「え、りなさん達はずっとここに居るんですか?」
浜辺へ向かって歩く六人の後ろから歩きながらわかばは問いかけた。りなっちが頷いて
「そうだな、ずっとここに居るな」
「その、ご両親は」
「? 両親? 何なのな?」
りな達は口々にわかばに向かって問いかけた。
「いや、あの僕はあの電車できましたけど……りなさん達は」
「気がついたらここに居たのな」
「ずっと前からな」
「電車に乗ってきたとかではなく……?」
わかばの問いに、りなはうーんと考え込み
「さあ、覚えてないな」
りなは砂浜へ出ると遙か先まで何も見えない海を指さした。
「あっちの方からいろんな物が流れてくるんだな」
「……これは……」
わかばは砂をすくい上げて、不思議そうに首をかしげた。
「砂……?」
珊瑚やガラスのような鉱石が砕かれた物とは質感の違うそれをわかばは首をかしげて見つめた。そして、向こうまで見える海を見つめてふと気付き、上を見上げた。
「あの、太陽はどっちにありますか?」
「たいよう?」
りなは不思議そうに首をかしげた。
「何それ」
「ええ、だって、こんなに明るいのに……」
わかばは首を巡らせて、明かりの元を探したが、空全体が光っているかのように光源は見当たらなかった。
「おかしな奴だな」
「海に落としちゃうな?」
「や、止めてくださいよ」
わかばは慌てて海から離れ、りな達は笑いながらわかばに飛びついて引っ張った。
「なー、何して遊ぶな?」
「うーん、人数がそこそこ居るから何でもできそうですが」
「じゃあかくれんぼ、わかばが鬼な」
「ええ、でも、一人になったりされたら僕分からないですけど」
「大丈夫な! そんないかさまはしないのな!」
言いながらりな達はバラバラに飛び出していった。わかばは、目を閉じて十まで数え始めた。
「……九……十! もういいかい」
「もういいよー」
りな達の声が聞こえ、わかばはちらりと海の方に目を向け、隠れたりな達を探すために歩き出した。

「なー、まさかこんなに簡単に見つかるとは……」
りなはごろごろと転がって不満そうに口をとがらせた。
ベンチに座るわかばはニコニコと笑って、りな達が拾ってきた草や流れ着いた物を手に取っていた。
「すみません、つい、久しぶりで」
わかばは手に持っていた草を横に置いてりなに向き直った。
「なんだか、暗くなってきましたね」
「夜だから当然だな」
りなは欠伸をしながら地面に転がって足をパタパタと振った。
「夜はいつもどこで寝てるんですか? 建物とか……無いですよね」
「駅の中とか……砂浜で寝るんだな」
「ええ、危なくないですか?」
わかばの言葉に、りなは平気平気と言って立ち上がり、わかばの手を引っ張った。
「こっちに良い場所があるんだな」
わかばはりなに導かれるまま浜辺の方に向かった。暗くなってくると、浜辺に向かう道もほぼ見えず、わかばはつまずきながらりなの後を追いかけた。
「よく見えますね」
「勘だな!」
元気よく歩きながらりなはわかばに言い、浜辺の少し手前から山の方に向かった。トンネルを横目に左の方に歩くと、小高い丘のような、開けた場所に出た。
「へー、結構いろんな場所があるんですね」
「そうなんだな! ここは最近できた場所みたいだけどな」
「え?そうなんですか?」
「なな、この島、いつの間にか形が変わってたりするからな! 毎朝起きて島の様子をチェックするんだな!」
りなは丘の上に寝転がるとわかばを手招きした。同じようにしろと言うことかと、わかばは横に並んでりなと同じように仰向けに寝転がった。
「これは……」
「キラキラしてるな?」
りなの言うとおり、見上げた空は暗く、あちこちで星の光が瞬いていた。そして何よりもわかばが驚いたのは、島の上に光の筋が何重にもなって遙か向こうまで伸びている事だった。天の川は星の粒だが、これはどう見ても一本の細い線が幾層も重なっているように見えていた。流れ星のように端から端まで何かが飛んでいるのだろうか。わかばは魅入られたように見つめて考え込んだ。
「毎日こんな感じなんですか?」
「そう、かな? でも最近はこの線の数が減ってるんだな」
「そうなんですか」
りなは手を伸ばして光の筋を追いながら
「昔はこれくらい大きいのが何本もあったのな。でも今はあの細いのだけなのな」
「今でも十分綺麗ですけどね」
「ななー。まあそうなんだけど……」
りなはふと気付いたのか
「そういえば、ここ最近は全然新しい物も流れてこないし島自体が小さくなってるみたいだな」
「そうなんですか?」
りなは頷いて
「昔はもっといっぱい歩き回れたのに今は反対側にすぐ着いちゃうんだな」
「何でだろう……気になるな」
わかばは思わず顎に手をやり考え込んだが、ごろりと転がってきたりなに乗っかられてうっと呻いた。
「なー、そんなの気になるとか変な奴だなわかば」
りなはにやりと笑って
「りなの方が島のことは詳しいんだから、りながお姉さんになってやるんだな」
わかばは一瞬きょとんとした表情を浮かべたがすぐにへらりと笑って
「はい、よろしくお願いしますね」

島でのりなの生活は基本的に、朝は何か面白い物が海から打ち上げられていないかを調べる事、無ければ島の中をぐるっと回ってパトロールしながら新しい何かが落ちていないかを探し、それも無ければ夜になるまで遊ぶという単純な流れだった。
島の外から何かが流れてこないかというのは分かるが、わかばは何故島の中に何かが落ちているか探すかを問うと
「時々知らない物が生えているから」
という不思議な返答が返ってきた。基本的にりな――達は細かいことを気にしないらしく、わかばが島で起きる不思議な事象について問いかけると、知らない、そうだったか? 覚えていないで返されることが多かった。
ふっと息を吐いてわかばは砂浜に座り込み、どこまでも見える水平線を見つめた。どこまでも平らで恐ろしいほど先まで見えるが、見える全ては平らで島の先に他の陸地などが見える気配は無かった。
電車はわかばが来てからは来る気配は無く、またそもそもわかばが見る限り線路はどこにもなかった。
「おーい、わかば! 何してるな? 何か見えるな?」
少し体が小さい事に気付いて、わかばはそれがりなの中の一人だと言うことが分かった。
「いえ、何も見えないですね……」
わかばは振り返ってりなの一人――恐らくりなじではないだろうか――を見上げて
「他のりなさん達はどうされたんですか?」
「みんなで遊んでるなー」
りなじはわかばの隣に座り込んでわかばが眺めていた海を見つめた。
「何にも無いんだナ、ここ」
「ええ、まあ」
りなじは手元の木の枝を拾い上げて、無造作に振ってから囓り始めた。
「ええっ!? ちょ、ええっとりなじさん!?」
「なー、よく分かったなわかば」
「いや、えーっと、その……そんなの囓っちゃ駄目では。おなか壊しますよ」
「平気な。色々食べてみたりしたけどどれも何も感じないのな」
「え?」
ほら、とわかばは差し出された木の枝を恐る恐るりなじと同じように囓ってみた。枝は簡単にかみ切れて口の中で溶けるように消えてしまっていた。わかばは思わず口に手をやるが、かみ切ったはずの繊維のようなものもまるで感じなかった。
「これは一体?」
「さぁ……? りな達はこれが普通だからな。わかばは違うのな?」
「僕の記憶にある木の枝というのはもうちょっと……繊維質というか、土の匂いというか……」
「どれもよく分からないなー」
りなじは首をかしげて不思議そうにわかばを見やった。
「りなじさんはその、感じないと言っていましたけど」
「うーん……何となく、ずっと昔おいしい物を食べたような気がするんだけど、りな達ずっとここに居るはずだから……」
「僕から何かわからないかと?」
「……」
りなじは悩ましそうに眉を寄せて首をかしげた。二つに分けて結ばれた髪を指で弄ってどう言えば良いのか悩むように
「……わかばが乗ってきた電車は時々空っぽの状態でここまで来るんだな。本当はりな達――私はアレに乗って帰らないといけないんじゃないかって思って」
言いながらりなじは首を振って立ち上がった。
「な、よく分からないな」
パタパタと走って行くりなじの背中を見送り、わかばは立ち上がって海の方に目を向けた。
どこからかうねるような低い音が鳴っているような気がして、わかばは首をすくめてりな達の居る方に歩き始めた。

どのくらいの時間をその島で過ごしたのか、わかばは最初のうちは数えてみたが、島は気まぐれにいろいろな物が変化してしまうようで、記録のために木に印をつけたりしても跡形もなく消えてしまう事が日常茶飯事だったため、途中で数えることはできなかった。昼と夜も恐らく長さはバラバラなのではないかとわかばは思っていたが、それを調べる術もなかった。
その日も浜辺で何も釣れない釣りをして遊んでいたりな達とわかばだったが、ふと、りなの誰かが――おそらくりなこだったと思う――何かに気付いて顔を上げた。
「なー……電車が来たのな」
「電車?」
「ななっ?」
「ほんとだ、音がするな」
りな達はその場に道具を置いてバタバタと駅に向かって走り出した。その後をわかばも走って追いかける。波の立たない水面を滑るように電車は島に入ってきて、駅のホームに静かに止まった。
りなとわかばは誰か居ないかと中を外から眺めてみたが、電車の中には誰も乗っていなかった。
「誰も居ないな……」
りなは呟いて、窓から顔を離した。
「……りなさん、僕はこれに乗って行ってみようと思います」
「え……」
りなは驚いてわかばを見上げ、慌ててわかばの服を引っ張った。
「何言ってるんだな? どこに行くかも分からないのに」
「そうですけど……」
わかばは困ったような顔でりなの頭に手を置いた。
「僕、多分ここに長居をしてはいけない、気がしていて」
「な、何でな? 別にりな達は困らないし、それに……」
わかばは静かに首を振った。
「多分、本当はりなさんも……帰らないといけないんだと思います」
「……りなは……ずっとここに居たんだな……。別に帰るも何もないな」
「そうですね。ただ何にしろ僕が先に行った方が良さそうですので。何かあれば戻ってきますし、駄目だったら……」
わかばはふと口をつぐんで首を振った。
「とにかく、まあまずは危険かもしれない場所には大人が行くべきだと思いますので」
わかばはりなを元気づけようとしたのか軽い調子で言って笑い、電車に乗り込んだ。まるで待っていたかのように電車のドアが閉まり、そのまま電車は駅を出た。
「わかば……! まっ……」
ホームの端まで追いかけてみたものの、りなはそれ以上先には進めず、その場に立ち止まった。りなが目で追いかけていると、電車はそのまま島の中央と突っ切って、奥にある暗闇に続く山のトンネルの奥に消えていった。
気がついた時には空は暗くなっていた。りなは何となく山辺の横にある丘に向かい、一人でごろりと横になった。
「正確には一人じゃないけどな」
「でも結局はりなだから一人なのでは?」
「でも数は六人だし」
「りなじどうしたのな、元気ないな」
「わかばが居ないから……とか?」
「何で?」
自分のことなのに何で分からないの?
どのりなが言ったのだろうか、あるいは一人の寝言なのか、りなは驚いて起き上がった。
気がつくとりな達は消えていて一人で丘の上で寝転がっていたようだった。
そんなに長い時間寝ていたつもりはなかったが、気がつくと辺りは明るくなっていて、りなはいつもの日課をこなそうと派鍋に降りた。浜辺に降りたりなは思わず目を疑い呆然と海を見つめた。
昨日まではあった海の水が遙か向こうまで引いてしまっていた。りなは恐る恐る下に降りてみたが、水はどこにも見えず、遙か遠くから波の音のような、低いうなり声が聞こえてくるだけだった。
何かがおかしいのだが、どうすれば良いのかりなには分からなかった。
りなはとりあえず島の真ん中にある駅に向かった。もしかしたらわかばが帰ってきているかもしれないという淡い期待がわずかにあったのかもしれない。しかし、駅のホームには何もなく、向こうから電車が来る様子もなかった。
どうすれば良いのか、考えようと駅のベンチに座ると、突然辺りが真っ暗になった。正確にはうっすら空に星のような灯がちらちら見えたが、明るさに慣れていた目は何も見えず、りなは狼狽えた。
暗さに慣れたところで、りなは立ち上がって駅の向こうにある山を見やった。線路に降りて、わかばが乗っていった電車の向かった山のトンネルの前まで歩き、立ち止まった。不思議なことに暗くなった事でトンネルの中のわずかな灯が見え、少し先が見通せるようになっていた。オレンジの灯を頼りにそっとりなはトンネルに足を踏み入れた。
「は、入るのな? そこ」
「ちょっと待てば元に戻ると思うけどな」
「止めた方が良いんじゃ無いかな」
さっきまで出てこなかったりな達がひょこりと後ろからトンネルの奥を見て口々に呟いた。
「でも、なんか島の様子変だし……」
「それはわかばが色々変なこと言ったからそう思ってるだけでは?」
「海が無くなっちゃったのも別に島の中の物が無くなるのと大して変わらないな」
「空だってちょっと早く暗くなっただけな」
りなじはそうだろうかと考え始めてみたが、やがて首を振って
「でも、やっぱりりなは……私は……」
りなはトンネルの奥に向かって走り出した。同時に後ろから聞いた事も無いような轟音が響き思わず振り返った。まだそんなに遠くないトンネルの入り口から見える景色は想像を絶していた。暗い空に逆巻くような風が吹き荒れ、木々がなぎ倒され、引いていたはずの海の水がとてつもない大波になって島に襲いかかっていた。
それどころか、波はトンネルの中にも入り込んでりなの居る場所まで水を運び込んでいた。
「ま、まずいな……」
りなは慌ててきびすを返して走り出した。荒れ狂う波の轟音が後ろから響き、背中には何度も波頭が当たった。トンネルの先はまるで見えず、暗い中を一人でただ走り続けていた。
ふと、何かにつまずいたのか体のバランスを崩した瞬間、後ろから迫ってきていた水がりなの体を押し流し、そのままりなの意識は暗転した。

こしょ、こしょと耳元で何かが囁いている声がした。
りなは思わず手でそれをぐいっと向こうに押し返そうとすると、妙に弾力のあるぬるっとした物に触れた。
「ななっ!?」
慌てて起き上がると、半透明のマンタのようなものがふわふわとりなの周りを回っていた。
「こしょ……」
マンタは恐らく驚いたのだろうか、ひらひらとどこかに飛んでいってしまい、りなはぽつんと一人残された。
どこだろうと当たりを見渡すと、あの島とは別の、知らない場所に倒れていたようだった。
大きな坂と、その上には大きな鳥居があり、りなの側には線路が走っている。
「あれ……本当だ」
どこからかりなと同じくらいの女の子の声がして、りなは思わず声の方に振り返った。
黒い駅長の帽子にぶかぶかの黒い制服のような物を着た女の子が、困ったような、ビックリしたような顔でりなを見つめていた。後ろにはあの半透明のマンタも居る。
女の子は参ったなーと頬を掻いて独りごちた。
「ここに来るなんて……迷子というか、運が良いというか……うーん、どうしよう」
「こしょーこしょこしょ……?」
「うーん……まあそれしかないよな」
少女はりなの方に向き直って腰に手を当てた。
「君、運が良いよー。ここからなら送ってってあげられるよー」
「送るって……?」
「あー……まあその辺はさ、気にしない気にしない」
ほらこっちー、と少女は手を振って歩き出した。りなはよく分からなかったが少女の後を追いかけた。大きな坂の下にある細い線路の前に来ると、小さな亀が――これもやはり半透明だ――首をかしげるような動作で線路の上から見上げてきた。
「そうそう、迷子。放り出すのはまずいだろ。悪いんだけど送ってってくれる?」
「ぺら」
小さく頷いた亀に、少女は段ボールの箱を乗せた。
「はい、これに乗って」
「だ、大丈夫な……?」
恐る恐る乗ると、一瞬亀が沈み込んでふわりと浮き上がる感触にりなは小さく声を上げた。
「あまり動くと途中で振り落とされて帰れなくなるかもしれないから、しばらくはじっとしててね」
少女はそう言うと、よろしく、と亀に手を振った。
亀はゆっくりとりなを乗せて動き出し、線路を進み始めた。りなは先を見つめて思わず声を上げた。
「ま、前っ!」
何もない虚空を進み始めた亀はそのままふわりと落ちるように急降下した。
りなはそのままもう一度意識を失い、目の前が真っ暗になった。

規則正しい電子音が耳について、りなは体を動かした。
ピッピッと心拍数を計っていた計測器は、安静時の鼓動から音が速くなったことを知らせていた。真っ白な天井と真っ白な壁が目に入り、りなはしばらくここがどこかを考えていた。
モニターでもしていたのだろうか、パタパタと看護師の女性が中に入ってきてりなの様子を見ると、大きな声で先生! と呼んで廊下を走っていった。
「何なの……?」
りなは起き上がって体をゆっくり伸ばして肩を回した。ぼんやりと、学校から帰る途中、道を歩いていた時に後ろから車のクラクションが聞こえた記憶が浮かんできて、りなは体を見渡した。多分あの記憶が一番最後の記憶だろう。そうすると、自分は事故にでも遭って病院でずっと寝ていたいたということだろうか。
白衣を着た医者が部屋に入ってきて、調子はどうか、痛い所はないか聞いてきた。特にないと言うと、準備ができたら改めて精密検査をする事を告げ、家族ももうすぐ来るはずだと言って出て行った。
家族……はもちろん覚えている。
りなはばたっとベッドに身を投げ出して、何か忘れているような――? と首をかしげた。家族、でもなく、友人、でもなく……。
起きる少し前までは覚えていたはずだったが、目が覚めた瞬間から夢と同じようにどこかから零れてしまって、もどかしい気持ちでりなは頭を押さえた。
その後行われた精密検査の結果、肉体の傷はほぼ問題ない事が確認できた。その時にりなは自分が一年近く寝ていたことを知らされた。季節が一巡していたせいで全く気付かなかった。
ただし、医者が首をかしげていたのは頭を強く打っていた訳でもなく、肉体的な傷を差し引いても意識が戻らない状態になってしまった原因が分からず、医者も頭を悩ませていたと言うことを口にした。
一年ずっと寝ていたので、リハビリが必要と判断され、退院はリハビリの状況から判断することになった。
一人である程度歩けるようになると、りなは杖をついて病院の中や、外を少し散歩するようになった。運び込まれた病院はかなり設備が良く、昨日通りかかったエリアでは外に出られない子どもやけが人のストレスの軽減のためにと、かなり新しい仮想現実を体験できる設備も置かれていた。
――今日はどこに行こう。
良い天気だったので、りなはふらりと外に出て病院に隣接する公園に足を伸ばした。杖のつくコツコツという音をリズミカルにうちながら、公園の中に足を踏み入れると、ふと、視界に写った誰かの姿が目を引いた。
寝癖なのか、あるいは地毛なのか判別しがたい好き放題に跳ねた短髪の青年が、一人、つつじの植え込みの側に置かれたベンチに座っていた。
「わ、かば?」
思わず、声が漏れてりなは、ようやっと思い出してきた。
「わかば」
「う、わっ!?」
声をかけられた方は驚いたのか読んでいた本から顔を上げて背後に立つりなに目を向けた。りなは一瞬ひょっとしたら覚えていない――そもそも自分の夢だったのでは? ――という可能性に気付いて、しまったと口元を手で覆った。青年は、りなを見つめるとほっと息をついて
「ああ、りなさんも目を覚ましたんですね」
「な……なぁ?」
りなは思わず息を吐いて、そっとわかばに近寄った。彼は読んでいた本を脇によけ、両手でずるずるとベンチの反対側に少し寄った。植え込みの陰で気付かなかったが、わかばの手の横には松葉杖が立てかけられていた。
「……それは?」
「ああ、お恥ずかしいことに……車を運転していたときに事故ってしまって……骨折で済んで良かったんですけど、頭も打ってしまっていたようでしばらく意識が戻らなかったみたいです」
わかばは手を振って答えた。
「それじゃ、えっと……わかば、あれ、夢じゃないって」
「何となくですが……」
橫に座ったりなの問いかけに、わかばは手に持っていた本をりなに見せた。何かの説明書のようにも見える。
「……ちょっとここの病院に導入されているVRの設備について調べたんですけど……専用のサーバーを立てて、そこでVRのゴーグル――というよりは脳波測定器に近いようですが――をつけたユーザーの脳のパルスを受信してサーバー側にある仮想世界の情報のデータと統合してユーザーに送るような動作をしているようです。よくあるものですし、それで何か人に問題が起きると言うことは無いと思うのですが……」
わかばはパラパラとページをめくりながら
「もし良ければ僕がいなくなった後の話を聞いても良いですか」
りなは思い出せる範囲で、わかばに電車が居なくなってからの話をした。自分がトンネルに入った後、最後に見た不思議な風景の話をすると、わかばは首をかしげて
「僕は電車に乗ってあのトンネルに入って……割とすぐに目が覚めたんですよね。そんな不思議な所には行った記憶が無いです」
少し考え込んだわかばはやがて
「ただ、りなさんが目覚めたのはかなりラッキーだった気がします」
「どうしてな?」
「実は、つい先日の事らしいんですけどVRの設備で問題があったようで設備の点検と、サーバーの入れ替え作業が行われたそうで……」
わかばは辺りを見渡して誰も居ないことを確認するとりなにだけ聞こえるように少し小さな声になり
「実を言うと、業者の人の会話を偶々、立ち聞きしたんですよね。どうやら最初の構築時に問題があったみたいで、ネットワークの接続を誤っていたようです。本来はVR設備の中だけで完結するはずのクローズドなネットワークだったらしいんですが、間違えてケーブルが刺さっていたみたいで、院内のネットワークに繋がっていたと」
「それが?」
「うーん……多分ですけど……、本来はサーバーと人だけだったネットワークのはずが、りなさんが目覚める寸前までは、院内のネットワークに繋がっていた。理屈も理由も謎ですが……その結果脳波測定で受信したデータの一部がサーバーからその先の院内ネットワークのどこかに流れてしまっていたんじゃないかと。流れたデータがどうなって、それがどうして僕らが昏睡状態になったのかは……もっとちゃんと調べないといけないんでしょうが。サーバーが撤去されてしまったようなんですよね」
「ちっとも分からないな」
「僕もよく分からないです。ただ、これ」
わかばが示したのは取扱説明書の中の一ページだった。そこには仮想世界の一例として小高い山と駅がある小さな島が紹介されていた。
それはりながいたあの島とほぼ同じで、りなは食い入るようにページを見つめた。
「どうして僕らだけかは正直分からないですね。調べた感じではこの病院で長い間眠っていたのはりなさんと僕と、他にも数名いらっしゃいました。でもその人達で目が覚めた人で似た体験をした人は居なかったようです」
りなは本をわかばに返して、考え込んだ。
「それこそ、りなさんがこちらに戻ってこれなかった可能性は相当あったと思います。どこにいったん行ってしまったのかは分かりませんが、本当に運が良かったんじゃないでしょうか」
「あの場所はやっぱり天国、とかなのかなー」
「さあ、三途の川や、花畑が見えるというのは元々臨死体験をした人間の証言などから生み出された共有された記憶のような物だそうです。つまり、実際にそんな物は無く、自分が勝手にそういう物だと思って脳が見せている。ただ……、そうすると一番最初にそのイメージを作った人が見た物は何かと言うことになりますよねー」
「その人は本当に見たかもしれないのかナ?」
「その方が夢がありますよね」
わかばは杖を取ってよろけながら、立ち上がろうとした。その体をりなが支える。
「りなさん危ないですよ」
「りなはもう殆ど杖は要らないんだな!」
もう直ったからと、りなが言うとわかばはため息をついて
「はあ、若いって良いですねー」
コツコツと杖をついて歩き始めるわかばの橫を並び、りなはわかばの腕を取って一緒に歩き出した。

エンドカード後のお話

珍しく本編準拠。
12.1話の後、エンドカードのように全員表側に集合後という前提。
エンドカードに至るまでの色々はすでにたくさん良い話があるのであえて「裏姉妹もワカバもりりも全部普通に復活して普通にみんなと合流」した後の話にしています。
力尽きたわけではない…。

りんの五感と好きを見つけた後どうなるかというお話。

躑躅屋敷の女達 第一集

りょう 長女。父が残した会社を一時的に経営中。
    普段はチャイナドレスにコートとかジャケット肩にかけるスタイル。
りく  次女。祭りで神輿担いでそうだが名の知れた刺繍作家。
    普段は作務衣だったり洋服だったり。
りつ  屋敷の切り盛りを一手に引き受ける。りょうの右腕ポジション。
    庭木について一番詳しい。普段は洋服が多め。
りん  女学校卒業後花嫁修業。ただし相手は決まっていない。
    普段は和服が多め。
りな、りょく  女学校在学中。普段は制服や洋服生活。

わかば 植物学の研究者。新人なので使いっ走りが多い。留学経験あり。
仕事などでは英国仕込みの洋服。下宿先、プライベートなどでは和服派。
先輩  わかばの先輩。行く当ての無いわかばに職を紹介したり家に住まわせてくれる。
    同郷の出身。(見た目は同人版の若葉)。ものすごく気の強い婚約者がいる。らしい。

前口上

東京の真ん中、より少し離れた郊外に躑躅屋敷と呼ばれる屋敷がある。
明治のころに建てられた洋風建築と継ぎ足された日本家屋という当時よく作られた形式の屋敷で、開国によって諸外国と植物の輸出入によって財を成した男によって作られたものだという。
やり手であったようで、明治を少し過ぎたころでも日本の植物は西洋においてはまだ珍しいもので、興した会社はよく栄え、事業は一代にしてそれなりの規模の財閥になるほどまでになっていた。
そのようなわけで、件の屋敷は当主の趣味と、栄えた元となった珍しい花や樹木、それに古くから親しまれた花なども集められていた。特に、春になると様々な色の躑躅が屋敷の周りで咲き誇り、少し離れた道の向こうからもその赤紫がよく映えていた。その後も初代から二代目三代目と代が変わった後も勤勉でよく働く当主の下で事業はより多岐にわたり、財を成していったという。
しかし、数年前今の当主が細君とともに旅行の帰りに海難事故で亡くなり、その当時大きな話題になった事があった。
残されたのは、女ばかり六人の子供たちだけである。
当時の新聞や雑誌や口さがない噂好き達の大方の予想を裏切り、娘たちは群がる突然増えた親戚たちの手に遺産を渡すことはなく、事業は粛々とそれぞれの会社で行うことを取り図った。女子供風情の浅知恵と、苦々しく思う者たちも多くいたようで、そこからしばらくは親戚間での会社の金の横領を訴えたの、娘の一人が言い寄る見合い相手に切りかかったのとかなり世間を騒がせたような話題に事欠かない有様であった。

話はそれから更に数年たち、先代が亡くなった当時まだ女学校にいた四女のりんが、卒業してから数か月がたった頃だった。

夏至の頃 本邸

その日、数年ぶりに家族会議を開いたりょうは、相変わらず飄々とした様子であった。
屋敷の洋間に置かれたオーク材の磨き上げられた円卓に、ぐるりとめいめい座った五人の姉妹たちは、りょうが話始めるのを待った。
ただ、ここ最近家に帰ることも稀であった事や、新聞などでも喧伝されていた恐慌の話から、集まった姉妹たちがそれがあまりいい話題でないことをある程度予感していた。
「で、もう面倒だからさ、さっさと前置きとか良いから話せよ」
りくが促すと、りょうは軽く笑って頷いた。
「いやー……お姉ちゃん色々頑張ったんだけどさ……。やっぱちょっと厳しいわな。とりあえず、会社の方は何とかやってくれているから、潰れるってことはなさそうなんだけど……。ちょっと色々整理しないとって話になっててさ」
りょうはいくつか書類を出して、テーブルに置いた。
「横領していたあの親戚からの賠償とかは望めないの?」
りょくの問いに、りょうは難しいわな――と肩をすくめた。
「すぐに現金が得られるわけじゃないし、あの感じだと全部資産は海外に逃がしてるわな――。それにお金の問題もあるけど、こんな状況で働いてくれている人たちの手前、うちらが最初にきちっとケジメつけないと」
「そうにゃね、時代が変わっていっているのに、今までと同じようにとはいかないし」
りつはお茶を飲みながら頷いた。
「りょうが言うなら私は構わない。具体的には?」
りんの問いかけにりょうはぱらぱらと書類をめくった。
「とりあえず、不動産関連から見直してるんだけど……。手始めにこの軽井沢の別邸かな」
「夏にしか行かない屋敷だったし、別に大したことないナ」
りなは事も無げに言いながらテーブルに出されていた饅頭に手を伸ばした。
「すぐに売却ってわけじゃなくて、一応うまい事利用できないかはホテル部門が考えてくれてるんだわ。もしそれでも採算合わなそうなら手放すしかないけど。それ以外だとお父さんが買い集めていた美術品とか骨とう品とかかな」
「どうせ俺らじゃ価値分からんし、それは別にいいんじゃねーの」
「うん、一部は美術館とかが欲しがってるみたいだから、その辺もちょいちょいとやっていく感じかな」
りょうは鉛筆で資産の一覧にチェックを入れて行った。
「んじゃ、この辺ちょっとまた相談してみるわ」
りょうは少しほっとしたのか額をぬぐい、書類を手元の文箱に入れた。
「あ、そうだ。軽井沢の別邸さ、まあ多分今年で見納めだろうからせっかくだしみんなで久しぶりに遊びに行こうか」
りょうの提案に、りなは手を叩いた。
「わーいやったナ!」
「いつくらいにする?」
りょくはカレンダーをぱらぱらとめくった。
「りょうとかりくは仕事的にお盆のころくらいしか休めないんじゃない?」
「まあ私はそのくらいに行く感じだけど、先に行ってていいよ。ただなー、管理人とか今雇っていないからすぐに泊まれるかわからないんだけど……」
「じゃあ私が一足先に行って準備しておくにゃ」
りつが言うとりながぴょんと手を挙げて声を上げる。
「りなも手伝うな」
「私も手伝うよ」
「涼しいなら私も行く」
りんとりょくも手を挙げる。
「俺は今依頼されてる分終わらないと盆休み返上になりそうなんだよな……」
りくは肩を叩いてぶつぶつ呟いた。
「作品展に出品するのに依頼受けるのもどうかと思う」
りょくの指摘にしょうがねーだろとりくはむくれる。
「作品展の締め切り勘違いしちゃってたんだものなー。りくちゃん時々うっかりさんだわな」
「時々ってか割としょっちゅうじゃん。まあ、私がその辺管理してあげてもいいけど」
「お前の管理、秒単位だからヤダ……」
りくは青い顔で呟いた。
「じゃ、今日の会議おしまーい。お疲れ様」
りょうが手を叩くと姉妹たちはめいめい立ち上がって洋間を後にした。
りつは体を伸ばすりょうの肩を叩き、大丈夫? と声をかけた。
「平気平気。面倒な事はほとんど他の人がやってくれてるからねー」
りょうは軽く答えたものの、やはり疲れが見て取れる。
「今日は早めに休んだほうがいいと思うにゃ」
「そうするわー。ちょっと一息ついたしね」
二人は洋間を出ると、りなとりょくの賑やかな声がする居間に向かって歩き出した。

大暑の折 軽井沢

りんは日暮れで薄暗くなってきた道を一人歩いていた。

暑いとはいえ、この時期の軽井沢、日が落ちればどちらかというと肌寒い。
薄いブラウスに、木綿のもんぺでは時折吹く風はかなりこたえた。
これは早く用事を済ませないとまずいと、りんはあたりに目を凝らした。
提灯を手に持っているものの、まだつける必要はなさそうで、下駄をからころと鳴らしながら水田の横を流れる川を時折覗き込んだ。
今年で最後の別邸での夏休みに、蛍を見に行きたいというりなに、外に出ないで済むように取りに行こうと考えたものの、りんはどうしたものかと頭を悩ませた。
昔小さいころに父が蛍のいる場所まで一緒に連れてきてくれたことがあったが、それがどこだったか思い出せない。
虫取り網を持ってきたものの、りんは時折森の方に目をやり、光がないかを見ながら少しばかり途方に暮れていた。
記憶を頼りに、りんは水田から離れて足元の悪い森の中に踏み込んだ。
時折野犬と思われる遠吠えがするような気がして、りんはあたりを見渡した。
ふと、ちらちらと奥に蛍の細い光が見えた気がして、りんは思わず歩みを進めた。
「危ない」
後ろから誰かの声がしたと思ったとたん、一歩先の地面を踏みしめる感覚が消え、りんは大きく前に倒れこんだ。
腕を何かに引っ張られたがりんはそのまま下に滑り落ち、尻もちをついた。情けない声を上げて横に転がってきたのはりんを引っ張ろうとした人間のようだった。
「一体……」
「いやーすみません……。そこ、急斜面になってるから声をかけたんですけど……」
間に合わなかったですね、と青年は言って持っていた提灯の火をつけ直した。
「怪我とかはないですか?」
灯をりんに向けて青年は問いかける。
りんは立ち上がろうとして、足首に痛みを感じて押さえた。
「……軽くひねったみたいですね……。お宅はどこですか」
りんは屋敷の住所を教えると、青年はその辺なら知っていると頷いた。
「無理をするとひどくしてしまうので……おうちまで負ぶっていきますよ」
「い、いい。自分で歩く」
「この辺道が悪いので、その足だと朝になってしまいますよ」
青年の言葉にりんは思わず言葉に詰まる。
りんは青年の背中におぶさり、青年はりんに提灯を渡した。
「すみません、灯がしばらくないので……」
「わかった」
提灯の明かりで道が照らされると、青年は二人が滑り降りた坂を周ってわずかに草が生えていない道を進んで森を出た。すでにかなり日が暮れて月がほんのりと水田が続く道を照らしていた。
「あの、このあたりに住んでる、のか」
りんは青年に問いかけた。ろうそくの火で照らされた青年はどこか線の細さがあり、灯のせいかどこか異国の人のようにも見えた。
「……ああ、すみません、名乗ってなかったですよね。わかばといいます。こっちには先生の仕事の手伝いとか諸々で少し前から滞在してるんですよ」
ちらりと振り向いて青年は笑みを浮かべて答えた。

「……私は……りん」
「住所的には別荘地ですよね。避暑ですか」
「ああ」
わかばはそれ以上は詮索はする気はないのか、やっぱり東京は暑いですからねと頷いた。
「でも、なんで虫取り網なんてもって一人で森に入ったんですか?」
「妹が蛍を見たいと……。昔父が教えてくれた場所が森の方だったと思って探したんだが……」
「確かに、あの辺少し前まではきれいな水場があったそうですが……ここ最近水が枯れてしまったので……今年はその場所では蛍は見ることはできないかもしれないです」
「……そうだったのか」
りんはがっかりして肩を落とした。
やがて、別荘が立ち並ぶ通りに出ると、わかばはあたりを見渡し、りんは
「あっちだ」
と指をさした。りんが指さした先にわかばは目をやると、灯のともる屋敷と、その前でうろうろと明滅する灯に気付いた。
「りん!」
わかばが近づくと、提灯を手に屋敷の前で右往左往していたりつがわかばとりんに気付いて駆け寄ってきた。
「帰ってこないから心配してたんだから。いったいどうしたの?」
「ちょっと、その、転んで……」
「りんねえね、大丈夫?」
屋敷から音に気付いて飛び出してきたりなが、おろおろとりんを見上げた。
「軽くひねったようなので、冷たい水とか、用意できますか? それと、包帯とか」
「わかったにゃ、ああ、よかった……。ご迷惑おかけしてしまって……」
「いえ、向かう方向一緒だったので、大したことじゃないです」
「とりあえず、中に入って」
りつは門の戸を開けて、わかばを通した。表側の洋館のドアを抜け、応接室に通すとわかばはりんをソファにゆっくり下した。
「足は動かせますか」
「ああ、ちょっと痛いくらいで」
わかばはちょっと失礼と声をかけてりんの足に触れて、足首の腫れがないか確認した。
「少し腫れてるようですが……冷やして明日痛みが和らげば大丈夫ですね。もし明日ひどいようならお医者さんに診てもらってください」
ばたばたと水を持ってきたりなと、救急箱を持ったりつが応接室に入ってきた。
「これでいいナ?」
「はい、ばっちりです」
不安げな顔のりなに笑顔で答え、わかばはたらいを受け取り、手ぬぐいを濡らして患部に当てた。
「氷嚢とか、氷枕はありますか。その方が効率がいいんですけど……」
「これでしょ」
ひょこっとりょくが顔を出して、氷枕を手渡した。
「どこにあったのにゃ、そんなのあったっけ?」
「昔使った事があった気がしたから」
事も無げに言っているが、スカートの膝部分に埃がついているのに気づいて、りつはよしよしとりょくの頭を撫でた。
「さすがはりょくちゃん。物覚えがいいにゃー」
「別に、これくらい普通だし……」
ぶつぶつと呟いてりょくはじっとわかばの方に目をやる。どうやら彼のやっていることが気になるようでりんが座っているソファの背後に立ってうろうろと眺め始めた。
わかばはてぬぐいをたらいに置いて、用意された包帯を手早く巻き始めた。
「ひょっとして、お医者さん?」
「いえ、簡単なものだけ教えてもらったんで。専門は別なんです」
「ひょっとして学者なの?」
りょくの目が輝いて、わかばを興味深げに見つめた。
「ええ、まあ」
包帯を巻き終えると、わかばは氷枕に水を入れて金具で止めた。
「これでとりあえず様子を見てください」
りつは礼を言い、わかばは手を振った。
「それじゃ、僕はこれで」
わかばは頭を下げて立ち上がる。
それから、少し何か言うか悩むような様子だったが、りなとりんの方に声をかけた。
「あの、もし興味があったら、なんですけど。今度向こうにある教会の夕涼みの音楽祭があるんです。蛍が見られるところも近くにあるので、もしよければ……」
りなはぴょんと顔を上げて目を輝かせた。
「そんな催しがあったのにゃ。初耳だにゃ」
「ええ、もともとは避暑に来ていたカソリックの人だけしか入れなかったんですけど、ここ最近は地域交流の場にしたいという事でだれでも参加できるようにしたそうです。僕、その辺の手伝いもあってこっちに来ているんです」
「カソリックなの?」
りょくの問いにわかばは手を振り
「いえ、そういう訳ではないですけど。留学していたので通訳なんかを兼ねて手伝ってほしいと」
「りゅ、留学? どこに?」
りょくは思わずわかばに詰め寄った。
「いや、あの……英国……ですが……」
「国費留学って事? そんな優秀なの?」
そうは見えないけど、と言いたそうにりょくは上から下までわかばをしげしげと見やった。
「……いえ、国費ではないです。国費だと大体独逸なんで」
わかばは大して気にもしていないのか笑顔で答える。
「いつ頃なのな?」
りなの問いかけに
「来週の土曜の夜の六時から八時です。ちょっとした食べ物とか飲み物もありますよ。もし参加されるのでしたら当日夕方にご案内します」
「りつねえ、りんねえ……」
ちらりとりなはりつとりんに懇願するように見つめた。
「……来週なら、りょうちゃん達もこっちに来ているから、みんなで行こうか」
「りなや姉さんたちがいいなら私は別に……」
りんはそれだけ呟き、わかばに目を向けた。
「色々、その、ありがとう」
「いえいえ。大したことじゃないですから」
それじゃあ、と頭を下げてわかばは出ていき、礼を言いながらりつが一緒に出て行った。
「りん、何ぼーっとしてんの」
ソファの背後から眺めていたりょくは、りんの頬を軽くとんと指でつついて、にっと笑みを浮かべた。
「ふーん、ああいうのがいいんだ」
「何を言ってるんだりょくは」
ため息をつくりんに、脇からりなも畳みかけるようにうなずいた。
「なー、りんねえねってば顔ずっと赤かったなー。わかりやすいなー」
「え……」
思わず手で頬に触れるとほんのりと指先に熱が伝わってきて、りんはあたふたと頬を叩いた。
「にゃー、良い人がいてくれてよかったにゃ……」
戻ってきたりつはほうっと息をついて居間に入ってきた。
「りん、一人でどっかふらついたらだめでしょ。わかば君がいい人だったから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたか……」
「ごめん、姉さん」
「りつねえ、もともとはりなが無理を言ったせいだから……」
りなはりんをかばうように呟いた。
りつは仕方がないと肩をすくめて
「ちゃんと来週わかば君にお礼言わないとね」
「……う、うん……」
りんは妹たちの視線から目をそらし、首をすくめた。
りつはその様子に知ってか知らずかあえて触れず、手を叩いた。
「さてと、お出かけするんだからちゃんとした恰好しないとにゃー。りょうちゃん達に服を持ってきてもらわないと……」
りなはぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ね
「りつねえね、りょくちゃんとりな、もう大人と同じで良いんだナ? ナ?」
りょくも少しそわそわしながら
「そうだよ。もう十三参りとうに終わったし、私たちも本裁ちでしょ」
「そうそう。だから二人の夏のお出かけ着と浴衣、ちゃんと用意してあるんだから。思ったよりも早く卸せるにゃー。私は今の時期だし、あれを持ってきてもらうとして……りんちゃんは何にする?」
りつの問いに、りんは少し悩んで肩をすくめ
「別に特に無いけど……」
りょくは指を振り
「甘いじゃん。勝負時なんだからちゃんと考えないと」
「なー……。りんちゃんいつも地味なのとか縞ばっかりだし……。たまにはお花とかの柄のがいいと思うなー」
「あんまり派手なのは……」
「まあ私もごてごてした最近の好きじゃないけど……。でもりんのは地味すぎ。……あ、そうだ。りくが昔着てたの借りればいいじゃん。ほらあれ、りくが自分で流水紋の刺繍した、桔梗と撫子の柄のやつ」
りょくの言葉にりつもなるほどと頷いた。
「確かに、あれならちょうどよさそうにゃ。りくちゃんが良いって言ってくれればそれで……、それに博多ならそこまで派手じゃないし良いんじゃない?」
「ま、まあ……多分……」
姉と妹たちに気圧されりんは頷くしかできなかった。
「そうと決まれば明日さっそく電報うちに行かないと!」
りつは何か随分張り切った風に腕を振り、明らかに軽い足取りで出て行った。

お盆の折 軽井沢

姉妹たちは和室に集まりバタバタと準備に追われていた。
すでに日はかなり傾き始めており、六人は鏡台を取り合い、腰ひもが足りないと騒ぎながらバタバタ右往左往していた。
「はい、これりなちゃんの。しつけは取ってあるはずだけど、一応見ておいて」
りょうから手渡された長着を、りなは広げて嬉しそうに掲げた。
りなの本裁ちの揚げのない初めての夏の長着は、すっきりとした空色の紋紗に白い鳥が羽ばたいているような抽象柄が描かれた小紋で、帯は紫である。りょくも同じ空色の紋紗だが、こちらはりょくの好みに合わせたのか蔦模様のなかに花喰い鳥が描かれた少しだけ大人っぽい柄に同じ紫の帯が合わされていた。
「いやー、お姉ちゃん選ぶのすっごい悩んだわー」
りょうはりなに長着を着せながら
「りくちゃんがやたらあれこれ引っ張り出してくるんだからねー。いずれは自分で選びたいだろうに勝手にそろえるのもなぁ」
「りくは可愛いもの好きだから……」
横で自分で長着を着ていたりんが苦笑いを浮かべる。
「だってさー、良い色ってなかなかないんだぜ。やったら地味なやつばっかり押し付けてくるしな」
「いい年なんだから落ち着いた色を着ろって事でしょ」
りんは背中に回した紐を取ることが出来ずにいるりくに紐を手渡し
「大体、りくは少し派手好みじゃないか」
「これくらい普通だろ」
りくは羽織っている長着を翻して答える。黒い絽の長着には色とりどりの花が描かれており、そこに物足りないからと自ら一月かけて刺繍でふっくらとした鳥を数羽さしてある。どうしても動物は外せないらしい。
「みんなどんな感じにゃ?」
すでに着替えを終えていたりつが和室に顔を出す。いつもは時流に乗っておろしている髪を、今日はきっちり結わえて、銀の透かし彫りに珊瑚がついている髪飾りをしている。お気に入りの緑地に秋草の絽の長着に絽縮緬の花紋が描かれた白い帯に、長襦袢の流水紋が動くたびに長着からふわりと浮き上がる。
「りなちゃんは、これでおしまい。りょくちゃんは……」
りょうはちらりと一人で着ているりょくを眺めて
「帯直したら終わりかなー」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いやー、だって後ろ捻じれてるよ」
「え、あれ?」
「まだ一人で名古屋は難しいんじゃないかな」
りょうはりょくの後ろに回って捻じれた帯を直し、帯を締めて
「りょくちゃん、後ろに引っ張るからちょっと踏ん張って」
と言いながらぐいっと後ろに帯を引いた。
「きつくない?」
「平気」
帯締めを締めて、形を整えるとりょうは良しと頷いた。
「じゃあ私も着替えるかなー」
りょうは自分の着替えを手早く済ませて、おさげにしている髪をくるっとまとめて鼈甲のかんざしで押さえた。
「はいはい、じゃあみんな準備完了でいいかな」
長女らしく落ち着いた墨色の絽には、流水に芒がさらりと描かれている。白地に菊の花のような柄のつづれ帯は母から生前譲られたものである。
「はー、一運動したわな」
団扇で扇ぎながらりょうは居間に戻ってソファに腰を下ろした。
「間に合ってよかったにゃー」
「さすがに全員で出かけるってなるとほんと、毎回バタつくんだよな」
「最近は殆どみんなでお出かけ出来ていなかったしね」
「最後にこんなにバタバタ準備したのは一周忌の時じゃないっけ」
「そうだったっけなぁ。覚えてないわなあ」
りょうは天井を仰ぎ見て呟いた。
「あの時は正直どれもこれもばたばたしてたし、りょうはあちこち飛び回ってたし、仕方がないと思う」
りんの言葉にりょうは
「まあ、色々経験出来たから悪い事ばっかりじゃないわな。あとは私よりも強い人がいればいいんだけど」
「切った張ったはもう勘弁だぞ……」
うんざりとりくが呟く。
「あれは不可抗力だわな。あれからはやってないから大丈夫大丈夫」
軽く笑う長女を妹たちは思わずお互いに目配せして何も言わないことにした。
ふと、玄関から誰かの声がして、りつが立ち上がった。
「誰か来たみたい」
りつが出ていくと、玄関先でこんばんは、というわかばの声が聞こえてきた。
「お時間大丈夫ですか」
「みんな準備できているから大丈夫。あれ、わかば君。門のところにあるのは……」
わかばはにこやかに
「いやー、皆さんをお誘いしたって言ったら、教授が知り合いから貸してもらったそうです。少し歩くはずだったので、ちょうどいいと思って」
門の前に止まっている乗合馬車をさしてわかばは答えた。
「わあ、馬車だ」
様子を見に来たりながぱたぱたと下駄を鳴らして馬車に近づいた。姉妹たちも居間から出てきた。
「それじゃ、皆さん乗ってください」
わかばは馬車のドアを開けて、踏み台を置いてドアの前に立った。そして乗り込もうとするりなに手を差し出した。
「な?」
「りなちゃん、レディはこういう時は手を取るんだよ」
りょうに促されて、りなは慌ててわかばの手を取って、すました顔で中に乗り込んだ。
りょくは少しぎくしゃくとした動きで、同じようにわかばの手を取ってから中に入っていった。りつとりくは慣れた様子で中に乗り込んだ。
「あ、りんさん。足は大丈夫でした?」
「あ、ああ。次の日特に問題なく……」
「それならよかったです」
わかばに促されて中に乗り込み、りんはふっと息をついた。
「君がわかば君? 私長女のりょうってんだ。妹を助けてくれてありがとう」
「いえ、大したことではないですから」
「なんか、悪いわな。ここまでしてくれて」
「お気になさらず。皆さんが来るのを教授も、楽団の人たちもすごく喜んでいたので。さ、乗ってください」
りょうが乗り込むのを確認すると、わかばはドアを閉めて踏み台をもって御者台に飛び乗った。
客室側から顔を出したりなにわかばは振り返った。
「りなさん、ひょっとして馬車は初めてですか」
「うん、わかば、馬に乗れるのナ?」
「あはは、まあちょっとだけなら。揺れるので舌噛まないようにしてくださいね」
わかばは手綱を引いて声をかけると、馬はゆっくりと進みだした。

ゆっくりとした足取りで進む馬車に揺られて十数分ほど行くと、会場の教会が見えてきた。すでに人が集まっているようで、ざわざわと賑やかな音が聞こえてきていた。
「着きましたよ。降りるのは少し待ってください」
わかばは御者台から飛び降りて、客車のドアを開けてステップの下に踏み台を置いた。
「どうぞ、前から順番に」
乗る時と同様わかばの手を支えに、姉妹たちは馬車からおりた。
「どうぞ、中に入ってください」
わかばは教会の木製ドアを開けて姉妹たちを中に促した。
「おー、ちょうどいい時間に来たな」
わかばが入ってきたことに気付いた青年が、手を振って開いている席を指さした。
どことなくわかばと雰囲気の似た青年で、さっぱりとした短い髪に人の好さそうな笑みを浮かべている。
「皆さんお忙しいところどうも。僕はわかばと同じ研究室の……まあ先輩みたいなもので。さ、こっち座ってください。もうそろっと始めますんで。あ、プログラムもらいました?」
二つ折りになった紙を姉妹たちに渡し、青年はわかばに向き直った。
「あと教授がくればはじめていいかな」
「そうですね」
りんたちは半円形に並べられた椅子に座り、前に並んだ楽団に目を向けた。
「なあ、あのでかいの何?」
りくの問いに
「座っている人の持っているのはセロという楽器です。立っている人のはコントラバスと言って、大きいものほど低音域が出る楽器なんですよ。ちなみに、今回は小さい音楽祭なので、あちらの指揮者が立つ台の僕らから見て左側が主旋律のバイオリン、第一バイオリンなんて言います。で、その横が同じバイオリンですけど副旋律の第二バイオリン、隣の少し大きい楽器がビオラです」
「へー……。初めて見たわな」
りょうは珍し気に眺めて呟いた。
「わかば、そろそろいいかい?」
指揮棒を持った神父が、にこやかに老人とともに中に入ってきた。
「ああ、教授も来られましたか」
わかばは老人を椅子に座らせて神父に頷いた。
「ビールを飲んでいたのに引っ張ってこられてしまってなあ。まったく……」
ぶつぶつと言いながら老人は椅子に座った。
「それでは、皆様集まりましたので始めたいと思います。お忙しいところ集まっていただきありがとうございます。まずは一曲目はバッハの「主よ人の望みの喜びよ」どうぞお聞きください」
神父は手を広げたまま頭を下げ、コミカルな動きでちょこちょこと指揮台に上り、指揮棒を振った。

アンコールの曲が終わったところで、神父は客に向きなおって両手を広げて頭を下げて笑みを浮かべた。
客席にいた人々が拍手をすると、演奏者たちも立ち上がって頭を下げた。
「今日は皆さまありがとうございました。以上で音楽祭は終了となります」
神父の言葉に、わかば達は立ち上がって教会のドアをあけ放ち、客たちはざわざわと席を立って帰り支度を始めた。
「皆さんどうでしたか」
りんたちに声をかけたわかばにりょくは
「まあ、結構楽しかった……かな」
「お、おう。まあまあ」
何故か口元をぬぐうりくに、りょくはハンカチを渡し
「りくちゃん寝てたでしょー。嘘言っちゃダメだわな」
「ナー……。りくちゃんすっごい良く寝てたな……」
「う、うるせーな……」
「聞いたことのない音で面白かったにゃぁ。これ、金属でできているのかにゃ」
りつは机に置かれていたバイオリンに目を向けて興味深そうにつぶやいた。
「ガット線です。羊の腸の筋繊維をより合わせているんです。弓は馬の毛を使ってて、松脂をこの弓につけてこすることで音を出しているんです」
「ずいぶん詳しいな、扱えるのか?」
りんはおっかなびっくり置かれている楽器に目を向け、わかばに問いかけた。
「え、あ、あー……。いや、知識だけというか……」
「嘘言っちゃいかんぞ。お前確か弾けただろ」
わかばの先輩である青年がにやにやと楽しそうな顔で横やりを入れる。
「あれは、酔っぱらっていた時に無理やりやらせたんでしょうが……。そうそう、りなさん、蛍見に行きましょう。この教会の裏手から行けるんですよ」
わかばの言葉にりなはやったーと声を上げてわかばの手を引いた。
「ちょっと待った。ほら、ランタン」
「ありがとうございます」
出入り口に置かれていた大きめのランタンをわかばに渡して青年は手を振った。
「あまり遅くならないようにな。馬車はここに待機させておくから」
「すみません。よろしくお願いします」
わかばはお待たせしてすみません、と姉妹たちの前を小走りで走って教会の裏手の細い道をランタンで照らした。
「この裏の河原に蛍が集まっているんです。ついたら灯はいったん暗くするので、足元は注意してください」
わかばは説明しながら前を歩いて、藪の中を進んだ。
わかばのすぐ横をりなとりょくが付いていき、姉たちがそのあとを下駄の音をさせながらついていく。
ふわりと、りなの目の前を小さな光が横切り、りなは歓声を上げた。
坂を下ってわずかな水音がする小さな淵まで来ると、わかばはランタンの灯を小さくした。ランタンの強い灯が消え、ほんのり月の光が輝いている淵の傍に、明滅する光が見え始めてきた。
「すっごいたくさんいるナ!」
りなは嬉しそうにくるくると周りながら蛍の光を追いかけ始めた。
「りなちゃん、転ぶからあんまり動き回っちゃだめよー」
「暗いんだから危ないにゃ」
後ろから来たりょう達も、ほぅっとため息をついて淵の周りを飛び交うたくさんのホタルを見やった。
りんは、りなに捕まえた蛍を見せてやっているわかばの脇に近づいた。
「……これはゲンジボタルで、日本で一番多くみられるものですね。このあたりでも一番よくみられるものです。ここのお尻の所が光っているんですよ」
わかばが手で包んでいる蛍を、りなとりょくは若干及び腰になってそっと覗きこんだ。
「……光り方は種によって違うそうです」
わかばはそういうと手を放して蛍を開放した。
「なー、逃がしちゃうのな?」
「蛍は孵化してから数週間しか活動できないですからね。眺めるために取るのは可哀想かなと」
「なな、それならしょうがないナ……」
りなは呟いて、空を漂う蛍を見上げた。
わかばは、立ち上がって横にいたりんに、どうですか? と問いかけた。
「……懐かしい。最後にこうしてたくさん見たのは女学校に入る前に、父に連れられてだったから」
「そうですか。喜んでもらえたならよかったです」
わかばは少しはにかんだ様に笑った。
「……りなも、りょくも、こんなに楽しそうなのを見たのは久しぶりだ」
りんははしゃいでいる妹たちを見つめて、嬉しそうに呟いた。
「そうですか、もし明日以降もここに来たいようでしたら、神父様に言っておきますよ。僕、明日には東京に戻るので、案内できませんし」
「え……」
りんは、思わずわかばの方に顔を向けた。
「……帰るのか」
「はい、教授とご懇意の神父様の手伝いだったので。採取作業もあらかた終わっているし、催しも終わりましたから……」
「そう、か」
りんはふっと息を吐いた。気のせいか、ほんのりと首筋を冷たい風が吹いたように感じて首をすくめた。
「ああ、だいぶ寒くなってきましたね。そろそろ、お送りしますよ。りなさん、りょくさん、そろそろ冷えてきたので帰りませんか。灯、つけますね」
「はーい」
「はいはいなー」
ランタンに明かりが小さく灯り、あたりを少し明るく照らし始めた。
「みなさん、それじゃご自宅まで送りますので」
「いやー悪いね。わかば君」
りょうがわかばの肩を叩いた。
かなりいい音がしたので相当痛かったはずだが、わかばはうっと息を吐いただけでどうにか耐えたようだった。
「懐かしいな、蛍。蛍でなんか作れねーかな……。襟……んー、でも虫だしな」
「あまりしっかり作ると虫っぽすぎるからちょっと難しい気がするにゃ」
「んー……そうかなー……」
賑やかな姉妹たちを先導しながら、わかばはちらりとりんの方に目をやった。
「ねーわかば君」
「あ、はい何でしょう?」
りょうがわかばの横に並んで、にこりと笑みを浮かべたままわかばに声をかけた。
柔和な笑顔の女性だが、わかばは何とも言えない圧の様なものを感じて、若干襟元を押さえた。
「……明日帰るんだって? いつくらい? 早いの?」
「え、あ、えーっと……。午後1時頃に来る汽車に乗る予定ですが……」
「あ、そうなんだ。ふーん、じゃあ結構何とかなるかな」
「はい?」
「こっちの話ー」
りょうは手を振って、意味ありげな含み笑いをした。

翌日の昼、りんはぼんやりと庭の木に水を上げていた。
見るからに元気がない様子に、りなとりょくは挙動不審な動きをしてりんの周りを遠巻きに眺めていた。
りょうはしばらく様子を眺めていたが、しょうがないと肩をすくめて庭に降りた。
「……おーい、りんちゃーん」
「何?」
からん、と下駄の音をさせて緩い浴衣姿の姉に目を向けた。妹のひいき目を差し引いても、この姉のうちから自信にあふれた艶やかな姿は羨ましいものだった。
「……ちょっとさー、お姉ちゃんと駅の方までドライブしない?」
「え、りょうの運転……?」
「ちょっとだけだからさー」
りょうはりんの返事を待たず、ぐいぐいとりんの肩を後ろから押して部屋の中に戻った。
「じゃあ着替えてさくっと出かけよー」
りょうは下駄を放って部屋に戻り、りんはしょうがないと呟いてりょうの下駄をもって玄関へ下駄を置いてから着替えをしに部屋に戻った。

夏用の濃紺と白のボーダー柄のリネンのワンピースを着て、日よけに帽子をかぶり、りんは姿見の前で一回りした。
―まあこんなものでいいだろう。
軽く白粉を叩いて紅を引くと、りんはとりあえず出かけられる格好になったと判定して、タンスからサンダルを出して、それに合わせる小さなバッグを引っ張り出してバタバタと玄関に出た。
すでにりょうは外に待っていて、外地から父が贈ってくれた中華式の立襟にすっきりとした刺繍を施したスリットの深いワンピースにジャケットを羽織っていた。
足技が使えるから気に入っていると言っていたのはまさに姉らしい。
りょうは運転席に乗り、りんは助手席に乗り込んで、屋敷から出た。
「そういえば、りんも運転覚える?」
「え、いや、私は……うっ」
舗装されていない曲がりくねった道をかなり大胆に進む姉の運転に舌を噛みそうになり、りんは呻いた。
「……そこまで……いいかな」
「自分で運転できると、結構視野広がるよ。いける場所が増えるし」
りんは一瞬はっと息を吸い込んで姉を見つめた。
「……姉さんは、私に結婚を勧めていたと思うけど」
「そりゃあ、良い人が居れば、って思うからねえ。でも、別に急いでやれなんて、言ってないよ」
「それは……」
「家にこもっているのが嫌なら、ちょっと外に出るのもありだよって話さ。無理強いする気はないよ」
がん、と大きな石でも踏み越えたのか、車体が大きく揺れりんは頭を思わず押さえた。
「よし、間に合った」
「はあ?」
りょうは駅の前に車を止めると、目を白黒させているりんにぽんと何か包みを手渡した。
「ほら、急いだ急いだ」
「え、いや、あの。これ何?」
「お弁当。渡してきてあげて。私たち代表して」
りんは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐい意味を察して徐々に頬を赤くしてパクパクと金魚のように口を開けた。
「悩むより動く方がいい時もあるのよー」
りょうはもう一度手をパタパタと振って、降りるようにりんに言い、りんは慌てて降りた。
りんは、駅の中に入り、停車場の中を見回した。

人はそんなにいない。
汽車はすでに来ていて、今まさに乗り込もうとする人々がぱらぱらと並んでいた。
ふと、見たことのある淡い色の髪がちらりと見え、りんはそちらの方に向かって駆け出した。
カツカツと響く靴音に気付いたのか、わかばが音のする方に目を向け、驚いたようにりんを見返した。
「……りん、さん? どうしたんですか?」
「いや、あの……」
りんは、持っていた包みをわかばに渡した。
「その、昨日は世話になったから、私達姉妹から」
「え、わざわざ? ありがとうございます。お弁当、ですね。大事に食べます」
嬉しそうに包みを両手で持つわかばに、りんは息を吐いた。
「……あ、そろそろ出発なので。みなさんによろしくお伝えください」
「あ、ああ。あの……また」
りんは思わずわかばの服の裾をそっとつかみ
「あの、また会うことは、出来ないだろうか」
りんの問いに、わかばは、思わずえっと声を上げ、少し考え込んだ。
「……それは、あの、りんさんが良いのであれば……。あの……」
発車の合図が鳴り、わかばは慌ててカバンを開けて、名刺ケースを取り出して万年筆で裏に何かを書いて渡した。
「すみません、今これしかなくて……。九月は僕ずっと研究室にいるはずなので……。もしその、よろしければ」
りんは名刺を受け取り、わかばは急いで汽車に飛び乗った。
「九月、必ず行くから……、その……」
りんは手を伸ばして声をかけ
「はい、楽しみにしています」
伸ばしたりんの手に軽く触れ、わかばは手を振った。

君の帰り着く場所

 りんは手桶の水を墓石にかけて清めた。
新しい線香に火をつけ軽く振って置く。
本当はチューリップを買ってこようとしたが、街のショッピングモールに入っている花屋はあいにく売り切れていた。
姉が育てていた花も季節外れの寒さと鹿に食い荒らされてしまっていたから今日は普通の仏花を供える。
手を合わせて、線香の灯を消してから他に忘れ物がないかを確認して手桶をもって墓地を出る。
それなりにあったかつての近所の人たちの墓も、街やもう少し街に近い場所にある集落へ移され、もはや古い崩れかかったような墓石しか残っていない。
崩れかかった家や更地になった家の前を通り、家に続く道をだらだらと歩く。
墓参りの後はいつもそうだ。
家に向かう一歩がいつも重い。
ふっと息をつこうと何とはなしに上を見上げて、りんは吐き出しかけた息が止まった。
それが何か、頭が理解する前に黒い影は地面に叩きつけられて道の真ん中にごろごろと転がった。
上空で息絶えた鳥、にしては大きすぎる。

 目の前に転がるそれを見つめ、りんはそれが何かを認識することを拒否した。
理解の範疇を超えている。
無視する、という選択肢が頭をよぎったが、放っておけば獲物があると気づいた猪などが下りてくるかもしれない。
恐る恐る、りんは転がっているそれを見下ろした。
思いのほか、大変な状態になっていない。
「おい」
ようやっと、それに声をかけて、応急救護の時のように軽くゆすってみる。
「うー…」
もぞもぞと間の抜けたうめき声をあげてそれがぴくりと動いた。
死んでいない。

―いや、そもそもなんで生きているんだ

何もない空から落ちてきたそれは、りんが見た限りでは十メートル以上うえから降ってきていた。
それとも自分の見間違い、なのか。
飛行機もヘリも飛んでいないのにどこから落ちてきたのか、理解の範疇を超えているので考えないようにしていたが、ぼんやりしすぎてよく見ていなかったのだろうか。そもそも居たことに気づいていなかったのだろうか。
妹が貸してくれた本にそんな話があった気がする。
りんは目の前に転がる人間を見下ろす。
見た限りでは目立った怪我もない。
「おい、大丈夫か」
もう一度、声をかけてみる。
ぴくりと眉が動き、瞼が開く。
こげ茶の澄んだ瞳がりんを見つめ、開いていた瞳孔が焦点を合わせるようにすっと細くなり、瞬いた。
「…あれ…?」
青年はゆっくりと頭を振って起き上がった。
「どこか、怪我は?」
「…いえ、大丈夫、だと思います。僕は…」
青年はゆっくりと首を振って、息を吐いた。
「どうしてここにいるんでしょうか…」
「どうしてって…」
こちらが聞きたいことだ。
「覚えていないのか」
「はい」
不思議そうに自分の手をしげしげと眺めて青年は言った。
ぐっと手を握ったり閉じたりしているさまは生まれたばかりの子供が手の感触を確かめるようにどこか危なっかしい。
「名前は?」
「…わかば、っていいます」
青年は頭に手をやって、少し考えこんでから首を振った。
「なんか僕、それ以外どうも分からないですね」
「は…」
思わずりんの口から空気の抜けるような音が出た。
「それは…大丈夫、か」
そんなわけがない。
いよいよ自分の脳の処理能力を超える出来事になってきたことにりんは眩暈がしてきた。こういう時、姉たちや聡い妹なら何とかしてしまうのだろう。
青年は特にりんの言葉に気にする風でもなく、笑顔を向けた。
「はい、別に何ともないです。あ、そういえばお礼言ってなかったですね。助けてくれてありがとうございます」
わかばはりんに頭を下げた。
「べ、別に。助けるって…そんな大した事をしたわけではないから」
「そんなことないですよ。僕起きて一人でここにいたら正直途方に暮れちゃってたと思うんで。そういえば、お名前、聞いてもいいですか?」
「…りん」
「り、ん。りん、さん。きれいな名前ですね」
異国の言葉を覚えるように一音一音噛むようにつぶやき、わかばは頷いた。
「べ、つに、普通にある名前だ。」
何故かわからないが最初の音が裏返って慌てて咳払いをして声のトーンを落とす。
知恵熱だろうか、体温がぐっと上がってすぐにふっと下がり、心拍数の乱高下が止まらない。
「立てるのか」
「はい、大丈夫です」
言いながらわかばは立ち上がって服についた砂や汚れを払った。
その動きだけでもすでにふらふらとしていて今にも後ろに転がってしまいそうだ。
「…すぐそこが私の家だ。とりあえずはそこで休んだほうがいいだろう」
わかばの腕を肩にかけて支えりんは歩き出した。
「すみません…」
わかばは小さく詫びてりんに支えられて歩き出した。

りなっちは一番に玄関に飛び込み家の奥に向かって叫んだ。
「ただいまな!」
「おかえりみんな」
転がるように走ってきた妹たちに、客間から出てきたりんは声をかける。
「りんねえね、お客さんな?」
りなじは玄関に置かれた見慣れない靴に気づいて問いかける。
「ああ、少しの間静かにしててくれ」
「了解な」
「わかったのな」
りなぞう、りなよは頷いた。
「いつ帰るのな?」
りなこの問いにりんは少し言葉を濁して咳払いをした。
「もう少ししたらだ。さあ、みんなさっさと宿題を終わらせなさい。でないとおやつは無し」
「な、なな!」
「それは困るな!りなむも急ぐな!」
二階にばたばたと駆け上る妹たちを見送り、りんは台所に入った。
「りん、はいこれ。ちょうどよかったにゃ」
お茶のお盆を渡してきたりつに、りんは礼を言う。
「ごめん、姉さん。面倒になるよね、これ」
「何言ってるにゃ。道に倒れていたのに無視するなんて、りんじゃ無いにゃ」
りつは冷蔵庫に入れておいたものからお客に出せそうなものがないかとがさごそとあさり始めた。
「…にゃー、お客さんなんてずいぶん久しぶりだからなかなか無いにゃー。とりあえず、お茶だけ先に出してもらえる?」
「あ、うん」
「大丈夫にゃ、わかば君?とっても良い子そうにゃ。そんな大騒ぎするようなことじゃないにゃ」
「いや、えっと…」
珍しく歯切れの悪い返事の妹の様子にりつは探し物をした手を一瞬止めた。
「どうかしたにゃ?」
「いや、何でもない」
りんは逃げるようにあちこちひっくり返し始めた姉を残して台所を出て、客間に戻った。
客間では、わかばが不思議そうに部屋の中を眺めていた。
「それは何ですか?」
「ただの煎茶だ。昔はちゃんとしたものを出していたんだが…」
「わあ、変わってますね。気になるなー」
お茶を注いでわかばの前に置き、りんはわかばの向かい側に座る。
わかばは湯呑を手に取って少し口をつけた。
「おいしい、すごく!香りもいいですね。不思議だなー」
わかばの言葉にりんは思わず自分の分を飲んでみた。
別になんてことはない普通の茶だ。
まあ、喜んでいるならいいのだろう。
「おまたせにゃー」
りつが客間に入ってきた。手にはかき集めた果物やお菓子が雑多に置かれている。
「どうぞ好きなもの食べてにゃ」
「ありがとうございます。でも、これがおいしいので大丈夫です」
「喜んでもらえてよかったにゃー」
―100グラム1000円以下のお茶なんだけどにゃー…
りつは少しばかり胸が痛くなるのをごまかすように、咳払いした。
「…それじゃ、改めてりんの姉のりつにゃ。りんから聞いたけど、何処から来たのかわからないって…。」
「そうなんです」
「何か、身元が分かるようなもの、持ってないのかにゃ。財布とか、手帳とか…」
「…えーっと…」
わかばは困ったように頬を掻いて、ポケットから何かを取り出した。
「実は、さっきちょっと自分でも探してみたんですけど…これしかなくて」
テーブルに並べられたそれは、葉の葉脈をデザイン化したような不思議なしおりのようなものだった。
「…これは?」
「ケムリクサです」
「見たことないし、聞いたこともないな」
「んー…でもこれ、ずっとポケットに入っていて…」
わかばは一枚に指を置いて滑らせる。ほのかに葉が橙色に光り、葉の表面に読み込み中のマークのようなものがくるくると回りながら浮かび上がった。
「動かせるんですが…どうしてこれだけ持っていたのかは残念ですが…」
思い出せないんですよね、とわかばはふっと息を吐いた。
「ほかには何もないのか」
「ええ…」
りんとりつは顔を見合わせた。
「少し待ってもらっていいかにゃわかば君」
「はい」
りんとりつは客間から出て台所へ向かった。
「…わかば君、ちょっと変わった子にゃね。」
「だいぶ変だよ…。こんな辺鄙なところに倒れていておまけによくわからない物を持ってるし…」
「んー…りょくちゃんがいればその辺色々分かったかもしれないけど。ここには居ないし…」
「みんながいればもう少し知恵が出せたかもしれないな」
「とはいえ、今は私たちだけだしにゃ…。街の警察に届けるのが良いんだろうけど…すこし、様子を見てみる?」
「まあ、あのひょろっこさなら妙な気を起こしたとしてもなんとかできるとは思うけど…筋肉もほとんどないみたいで軽かったし」
「不思議な子にゃね。でも、やっぱり悪い子には見えないにゃー。りんも、そう思ったからうちに運んだんでしょ?」
「別に、そんなに難しいことは考えたわけでは…」
「そうかにゃー…子供のころは、よく怪我した烏とか、ムササビとか蝙蝠とか、抱えて飛び込んできたにゃ。あの時の顔にそっくりだったにゃ。もう、何とかしてあげないと、っていう…」
「人間はそんなレベル超えてるよ」
「気にしないにゃ。みんな同じようなもんだにゃ」
りんは思わず首を振る。やはりこの姉は若干おおざっぱだ。
りつはお湯の入った保温ジャーを手に取った。
二人は客間に戻ろうとしたがふとりんが二階のほうに目を向けた。
上にいるはずの六つ子たちの気配がまるで感じられない。
いつもなら宿題一つやるのにとんでもない騒ぎになるのにだ。
二人は嫌な予感がして顔を見合わせた。
「…静かすぎないか」
「…静かすぎるにゃー…」
二人は音をたてないようにそっと客間のふすまを開け中を覗き込んだ。

「なな!わかば、これは何かわかるか」
りなっちの持っているものを手に取って、わかばは首を傾げた。
「えっと…なんでしょうか」
「リモコンだな!こうやって赤いところを押すとテレビがつくな!」
りなじがリモコンをりなっちからとってボタンを押すと、夕方のワイドショーが客間にガンガンと流れ始めた。
「へーすごいですねー!」
テレビとリモコンを見ながらわかばはしきりと感心する。
四つん這いでテレビに近づいて眺めるわかばの背中にりなじがどんと乗っかり、うっとわかばがうめく。
「わかば本当に何も知らないのな」
「そんなんでお外に出られるのな?」
「道でクマに食べられちゃうんじゃないかな」
「鈍くさそうだもんなー」
「なな!」
いつの間に下に降りてきたんだと、りんは眉間を思わず強く押した。
わかばにまとわりつきながら、妹たちは客間にあるものをあーだこーだと指さしててんでばらばらに喋り、わかばは大真面目にそれらにリアクションをとっていた。

 りんはため息をついてすぱん、と客間の戸を勢い良くあけた。
妹たちの動きが止まり、ワイドショーの音だけが響いた。
「全員部屋に移動!」
「きゃー!!」
ばたばたと走って逃げる妹たちをりつが走らないでーと後を追いかける。
「妹たちが迷惑をかけたな」
ポットをテーブルのわきに置き、りんは急須に湯を注ぎ、わかばの空になった湯呑を手に取る。
「いえ、大丈夫ですよ。色々なもの、教えてもらったので」
わかばはどうやら妹たちから教えてもらった通りに、リモコンをとってテレビの電源を消し、リモコンホルダーに差し掛けた。
「…にぎやかな妹さんたちですね」
「ああ。ちょっと度が過ぎることもあるがいい子たちだ」
「そうですね」
「姉さんと少し話した。事情が色々ありそうだから、何かわかるまではまあ、少しの間なら居てもいい」
「本当ですか」
「何か妙な真似をすればすぐにでも叩き出すが。」
「ありがとうございます。りんさん。あ、そうだ。りんさん、何かしてほしいことありますか。」
「なんだいきなり」
「りなっちさんたちが教えてくれたんです。このあたり、怖い動物がいるから、そのままだったら食べられてただろうって。りんさんに助けてもらわなかったら、僕、そのまま死んでたと思うんで」
「…っ」
りんは思わず言葉に詰まり、持っていた自分の湯飲みを落とした。
「だ、大丈夫ですか」
「…ちょっと、滑らせただけだ」
りんは咳き込みながらわかばから顔をそらした。

ミドリ

 はあ、とりつは何度目かわからないため息をついた。
幸い商品のほうに被害がなかったから、それでよしとするしかない。
頭では理解できているが、それでもがっかりとした気持ちが消えず、りつは鉢植えを抱えた。
「姉さん」
「おはよう、りん。」
裏山から帰ってきたりんは、りつの持っている植木鉢に目をやる。
「…また食われていたの」
「そうみたいにゃー。」
りんは眉根を寄せて植木鉢を見下ろした。
先週食べられずに残っていた最後の鉢植えだったはずだ。
「ごめん、色々対策を取ってみたんだけど…」
「りんのせいじゃないにゃ。どうしようもないにゃ」
りつは齧られてしまった花の苗を愛おしそうに撫でた。
「出荷しないといけない野菜のほうはまだ被害がないから、この子が守ってくれたと思ってまた育てるにゃ」
「もう少しネットとか、獣除けの電気柵を増やしてみるよ」
「あまり広げても全部維持はできないにゃ。無理はしなくていいにゃ」
「でも…」
「ほらほら、りん。もう朝の作業は終わってるんだったらご飯食べて少し休むにゃ。せっかく家にいるんだからちゃんと休むにゃ」
「…わかったよ。姉さんも、日差し強くなってきたから気を付けて」
「わかってるにゃ、ちゃんと帽子しているから大丈夫にゃ」
目をこすりながら家の中に入っていく妹を見届けて、りつははあっとため息をついた。
妹に甘えてしまっているという自覚はある。
この家に自分のやりたいことのために一人で残ることにしたのは自分なのに、気づけば山の管理はほとんどりんがやってくれているし、妹たちの事もかなり目を配ってもらっている。
一人でこの家にずっと居続けるのは本当は限界なのだ。
一番下の妹だって学校のことを考えれば街にある学校のほうがいい。
両親が死んだときがちょうどいいタイミングだったはずなのだ。
「よっと…」
植木鉢を抱えなおして歩き始めると、玄関の戸が開いてひょこっとわかばが顔を出した。
「おはよう、わかばくん。よく眠れたかにゃ」
「あ、はい。皆さんずいぶん早いんですね。あのりなっちさん達は」
「学校に行ってるのにゃ。わたしは農作業があるし、りんは山で作業があるからどうしても早いのにゃ。起こしちゃったかにゃ」
「いえ、僕睡眠はそこまで…あれ、りつさん。…それはどうしたんですか?」
「大したことじゃないにゃ。山からきた鹿に芽を食べられちゃってにゃ…」
「動物…。ずいぶん人のそばまで来るんですね」
「最近雪があまり降らなくなったせいで越冬できる鹿の数が増えてしまっているんだにゃ。裏側の山をどっかの業者が削ったらしいから…食べ物を探してここまで来てしまっているんだにゃー。りんが色々頑張っているんだけど…数が多いから…」
りつは垣根のそばにある大きな木に目をやった。
「あそこにある桜の木も、毎年鹿が齧ったりするからだいぶ弱ってきているのにゃ…」
わかばは少し考えこんで、ふと、何かに気づいてポケットから例の不思議な葉を取り出した。
「りつさん、それ、少し借りてもいいですか」
「どうぞにゃ。もうそこに埋めてしまうつもりだったから」
植木鉢を受け取り、わかばはそっと地面に置いた。
「たぶん、これで…」
仄かに緑色に光る葉の茎側を口にくわえ、息を吸い、齧られてしまった苗に向かって、そっと息を吹きかけた。
ふわりと、薄荷のような匂いと香ばしい匂いが広がり、苗が緑色に光り、もぞもぞと、としか言いようのない動きで動き出した。
よくテレビで芽が出る様子を10倍速で再生しているような動きだ。
しかし、よく見ていると齧られてほとんどなくなっていた葉が徐々に長く伸びてきて、さらに茎が土の中から生えてきた。
するすると茎は伸び続け、やがて伸びるのが止まると今度は先端が膨らんで蕾の状態になり、動きが緩やかになってやがて止まった。
「…にゃ!?葉っぱが、蕾が出てるにゃ!?」
「ミドリの葉は物質を安定状態に戻すのが得意なんです。水をたっぷり含んでいたので成長も促進したみたいですね」
わかばは特に何事もないように言いながら鉢植えをりつに渡した。
「わかばくん…でも、いいのかにゃ。そんな貴重なもの使ってしまって…」
「はい、別に構いません。皆さんには良くしてもらってるし。」
「にゃー…わかば君、ひょっとして物凄い研究していた博士とか?ハリウッド映画みたいな感じで!すごい発見をしたんだけど悪い奴に襲われて逃げてきた途中で!とか」
「ハリウッドがなにか良く分からないんですけど…研究者ですかー。ピンとこないです」
「そうかにゃ、確かに、魔法使いの方が似合いそうな気もするにゃ。魔法だにゃ」
「まほう…ですか?気になりますねー」
「そういえば、りょくちゃんのお部屋にある本とか、確かそういうのがいっぱいあった気がするにゃ。今はだれも使っていないから、思い出せるものがあるか見てみるといいにゃ」
「いいんですか?ありがとうございます」
がちゃ、と勝手口の戸が開く音がして、家の裏からりんが歩いてきた。
手には電気柵の支柱とワイヤを抱えている。
「姉さん…と…お前も居たのか」
りつに声をかけたりんは、隣にいるわかばに気づいて目をそらした。
りつはりんの動きに気づいて、手元の植木をりんに見せた。
「りん、みるにゃこれ。わかば君が魔法使ったにゃ。蕾までついたにゃ」
「…これは」
りんは姉の持っている植木鉢と、わかばを交互に見やった。
「…それは…よかった」
少し考えてから言葉を選ぶようにりんは答えた。
「すごいにゃ、わかば君のおかげにゃ」
「そう…。一応裏側に柵は足しておくから。」
「あの、りんさん。僕も手伝っていいですか」
「…別にいい。」
少しわかばを見やって、りんはふっと視線をそらして素っ気なく呟いた。

 「僕、やっぱり嫌われてる感じですよね」
わかばは少ししょんぼりとした表情でりんを見送りながらりつに呟いた。
「もともと人見知りではあったんだけど…。ちょっと今は色々あってね。ごめんねわかば君。」
「やっぱり僕が来たせいですかね」
「そうじゃなくて、もともと少し前に色々あって家に帰ってきて、ちょっと療養している感じなんだにゃ」
「そうなんですか。ずっとこちらにいたんじゃないんですね」
「そうにゃ、街のほうでお仕事していたんだにゃ。」
りつは鉢植えを置いて腰をとんとん叩いてふうっと息をついた。
「それじゃ、私は畑のほうで作業がまだあるから。あちこち見てくるといいにゃ」
「はい、それじゃ」
生垣の外に広がる畑に降りていくりつを見送り、わかばは何とはなしに歩き始めた。

四つ葉

わかばはぼんやりと村の中を歩いて回っていた。
やはりというかなんというか、何か記憶に引っかかるものがあるかと思ってみるが、どれも初めて目にするものばかりのように感じた。
気になるものを手に取ったりポケットの中にしまい込んだりしながらふらふらと道を下っていくと、少し行った先にコンクリート製の建物の前に行き当たった。
「…学校?」
門柱に書いてある文字をしげしげと見ながらわかばは首をかしげる。
「なな!わかばだ!」
「本当だ!なんでいるナ?」
「お前何してるのな?」
建物から出てきたりなっちがわかばに気づき声を上げ、後ろにいた六つ子がばたばたと出てきた。
「ここは…」
目を白黒させるわかばを引っ張りあい、六つ子はわいわい騒ぎだす。
「小学校だな!」
「ここはりなじたちの学校だな!」
「もうりなたちしかいないけどな!」
「専用なんだな!」
六つ子たちはわかばを外にそのまま引っ張り出し、校門を出た。
「あれ、皆さん良いんですか。何か用事とか」
「学校はもう終わりナ!」
「今から帰るところな!」
「ていうかわかば、こんなところまでふらふら何してたんだな」
「いやー、ちょっと散歩というか、気になるものとかを探してて」
わかばはポケットの中を探って一枚の葉を取り出した。
りなじはあっと声を上げた。
「四つ葉のクローバーな!どこにあったな!?」
「え?えーっと…確かここに来る途中の…川のそばの広場ですね」
わかばは手に持っていた葉をりなじに渡す。
「すごいな!本物初めて見たな!」
「なな!」
不思議そうに大騒ぎする六つ子を眺めているわかばに、りなっちとりなよが答えた。
「四つ葉のクローバーは、めったに見られない葉っぱなんだな」
「だから、幸運のお守りって言われているんだな」
「そうだったんですか。不思議だなー」
わかばは改めて葉を手に取って首をひねった。
「わかば、これの生えていた場所を教えるナ!」
「いいですよ」
りなじはわかばの背中によじ登って前を指さした。
「皆さんの分を取りに行くんですか?」
連れだって歩くりなっちとりなよは首を振った。
「違うな」
「りんねえねにたくさん渡してあげるのナ」
「りんさんに?」
わかばは不思議そうに聞き返した。
「なー…りんねえね、すごく大変だったから」
「お父さんとお母さんが死んじゃってから、りんねえね元気ないんだな」
「りんねえねのせいじゃないのにな」
「りなこ達あまり色々できないけど…」
「幸運のお守りでいっぱい良い事あるように、いっぱい集めるんだな!」
「それならりなよ達でもできるナ」
「な」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら嬉しそうにはしゃぐ六つ子たちに、わかばは笑みを浮かべた。
「それなら、僕もお手伝いできるのでいっぱい探しましょう」
「なな!」
わかばを伴い六つ子はバタバタと人も通らない荒れた道を走りだした。

家に戻ると、いつもよりも帰りが遅いことに心配したのか、家の前でりんがウロウロしていた。
「りんねえね、ただいまな!」
声に気づいて振り返ったりんは、一瞬ほっとした表情を浮かべたが、すぐに眉間にしわを寄せて帰ってきた妹たちと、何故か一緒にいるわかばに向き直った。
「りなこ、何をしてたんだ?とっくに帰っているって先生は言っていたし…川に落ちたんじゃないかと心配していたんだぞ」
「ごめんなさい。りんねえね、ちょっとこれを探してたんだな」
りなっちから手渡されたクローバーの葉を、りんは手に取った。
「これは、いったい」
「四つ葉のクローバー!りんねえねにいっぱい取ってきたんだな!」
妹たちから渡された葉を、りんはそっと手のひらに包んで見下ろした。
全部で7枚の葉を手にりんは妹たちに目をやった。
「こんなに、一体どうして」
「りんねえねに幸せがいっぱい来るようにたくさん探してきたんだな!」
「わかばが1枚見つけたんだな!それでわかばが見つけた場所をてってーてきに探したんだな!」
「なんとなんと!りなじ達で6枚見つけたんだな!」
「前代未聞なんだな」
「きっと世界記録な」
りんを見上げ、六つ子は反応を見るように少し言葉を切った。
「…ありがとう。でも、日が落ちるまで外にいるのはだめだ。危ないからね」
りんは六つ子を引き寄せて肩を抱き、頬を寄せた。
「はーい。でもわかばがいたし大丈夫じゃないかな」
りなじはわかばの手をつかんで振りながら答えた。
「でもわかば、ドジだしな」
「さっきもなんもないところで転んだしな」
「あ、あれはりなぞうさんが後ろから押したからですよ」
「なー…まさかあれで転ぶとは思わなかったな」
「やっぱりドジだな」
「そんなっ」
あはははと笑いながら家の中に入る妹たちの数を確認して、全員いることを確認してりんは良しと頷いた。
もらった葉をポケットの中にあったハンカチで包みながら、りんはついてくるわかばに目をやった。
「…お前、一体何処までほっつき回っていたんだ。昼も食べずに」
「すみません、つい色々気にあるものがあって」
二人は玄関に入り、りんは靴の数を確認してから戸の鍵を閉めて、ガチャガチャと鍵がかかっているか確認した。
「…で、何かわかったのか」
「いやーそれがさっぱり。」
わかばは特に気にしないような調子で答えた。
「でも、りんさんが少しうれしそうなのを見れたので、良かったです」
「…なっ」
ぼっと頬が赤くなったりんは、廊下の奥から姉たちがこちらを見ているのに気づいた。心なしか嬉しそうだ。
「ね、姉さん!」
「あ、気づかれたにゃ」
「ななな!」
「逃げろー!」
ばたばたと逃げる姉妹を大股で追いかけるように奥に駆け込むりんを、わかばは見送った。

りんは、ぼんやりと部屋の天井を見上げた。
目が覚めて、ごろごろと時間をつぶしてみたが、眠気は完全にどこかに行ってしまっていた。
起き上がり、ちらりとサイドテーブルに置いた妹たちからもらった四つ葉の葉を包んだハンカチを手に取る。
幸せがいっぱい来るように。
りんは思わず息を吐いて、痛み出した頭を押さえた。
ハンカチを置いて、時計を見上げる。
午前2時半。
あと2時間程度で夜が明ける。
起き上がって服を着替え、1階に降りる。台所で水を飲み、ぼんやりと居間のソファに座って時計を眺める。

 じゃり、っと砂利を踏む音が聞こえたような気がした。
鹿か?
りんは立ち上がってそっと窓の外をのぞいた。
隣家も無いので明かりはほぼない。
夜の暗さに目が慣れて、月明かりの中で影が動いているのに気付いた。
何をしている?
りんは、窓から離れて客間のふすまをそっと開けた。
―――いない。
ふすまを開けて中に入り、りんは客間と仏間の中を見渡した。
布団はたたまれて使われた形跡もなく、部屋の中にはりょくの部屋から持ってきたと思われる辞書や学校の参考書、彼女の趣味で集められた歴史の本などが積まれていた。

 りんは、玄関に引っ掛けてあった懐中電灯を手に取って靴を履いて外に出た。
外は春を過ぎたとはいえ冷えた空気に包まれていた。ふっと息を吐くと白くなり、りんは首をすくめた。
影が移動したのは居間の掃き出し窓から回り込んで裏庭側だった。
りんは懐中電灯の明かりをつけて裏庭を回って外に出た。
緩やかな斜面が続く先にはりんが朝追加した電気柵がある。
その傍をふらふらと人影が仄かな明かりとともに移動している。
思わず懐中電灯の光を地面に向けて何をしているのか見上げようとした。
わかばは手にもった青い葉を手で何か操作し、柵の内側に置いた。
青白い光が差し、50センチ程度の壁が電気柵の内側に出現した。
「よし、とりあえず今日はこれで…」
わかばは軽く壁をコンコンと手でたたいてみて、満足したのかうんうんと頷く。
踵を返して降りてきたわかばは、りんと目を合わせて、驚いたのか手をバタバタとさせてそのまま前につんのめって転んだ。
「ぶえっ」
つぶれたような音を立てたわかばを引っ張り上げ、りんはため息をついた。
「こんな夜中に何している」
「いやー、なんか外でガサゴソ音がしてめっさ気になって、つい。りんさんこそ、寝ないと体に悪いんじゃないですか」
「少しくらいなら別に平気だ。お前ほどひょろくもないし」
「ひ、ひどい…」
わかばはガクッと肩を落としてうう、と呻いた。
「あれはなんだ」
りんはうっすら青く光る壁を見上げて問いかけた。
「あーっと、まあ見ての通り、防御壁を作るケムリクサを使ったんです」
「姉さんの植木に使ったのとは違うのか」
「あれはミドリで、こっちは青です。ほら」
わかばはいくつかの葉をりんに見せた。形もそれぞれの葉脈状の葉は仄かに光っていた。
「あの柵と同じように電気を操作するケムリクサもあるんですけど、僕、これの扱いあんまり得意じゃなくて…。あの柵の役目を補強するようにちょっと低く、長めに壁を引いてみたんです。多分この柵よりも大きいものでなければ大丈夫だと思います」
りんはわかばの持つ青の葉に手を伸ばした。
葉は、ふわふわとした触り心地で、ベルベットの布を触ったような感触だった。
「使ってみます?」
「できるのか」
裏庭の端にある石庭のつもりで置いたらしい石に二人は腰掛ける。
わかばははいと答えて一枚の葉を取り出す。
「覚えれば誰でもできますよ。こうやって」
わかばが葉に触れると葉がぴくりと一回振動し、再度強めに押し込むように触れると大きく震えてふわりと小さな六角形の盾のようなものがりんの前に浮かんだ。
「基本はみんな同じ操作で出来ます。」
りんは渡された葉を押してみる。
葉が一度振動してくるくると円が回ってすぅっと光が消えた。
「消えた…」
「今のタイミングでもう一度強く押して見てください。こう…」
「…!」
わかばはりんの手を取り、葉を持つ手を支え、操作する方の手に手を重ねて、葉が光ったタイミングでグッともう一度葉を強く押した。
微かに耳に空気が震える音がし、青い六角形の壁が小さくりんの前に現れた。
「こんな感じです。」
「あ、ああ…」
思いの外大きく骨張っているわかばの手をりんは思わず見やった。
りんの視線にきづいたのかどうか、わかばは仄かに発光する葉をもう一枚浮かべてりんの手元を照らした。
「もう一度やってみますか?」
りんは頷いて、先程の感触を思い出しながらそっと葉を押し、光ったタイミングで強めに押した。空気が震えてりんの手元に先程の壁よりも大きいサイズの壁が現れた。
「凄いですりんさん。初めてでそこまでのサイズを出せるなんて」
「そう…なのか?」
「ええ、僕、初めの頃はもっとこれくらいのしか出せなかったですから」
このくらいと、指で形を作ってわかばは笑う。
「手先が器用だからですかね。気になるなー」
わかばは嬉しそうに言いながら葉をりんから受け取った。
熱くなった?を押さえてコホッと軽く咳き込むりんに、わかばは大丈夫ですかと声をかけた。
「顔の辺りだけ温さがあるみたいですが…」
手をかざすわかばは心配そうにりんの顔を覗き込む。
「別に、大した事、ない」
「…そうですか。」
素っ気ない物言いのりんに、何か言おうとして考え直したのか、わかばは頷いてポケットの中から小さいサイズのミドリの葉を出してりんに渡した。
「ミドリは体の調子も治す事が出来るんです。」
茎の部分を食んで、わかばはすぅっと吸い込み、ふうっと吐いた。キラキラとわかばの体に緑色の光がまとわりつく。
どうぞと手渡されて、りんは見よう見まねで茎を口に咥えてすっと少し吸い込んだ。
「タバコくさい」
ふっと息を吐いて呟いた。
「え、すみません…嫌いな匂いでしたか…」
「いや…何というか、懐かしい感じがする。頭痛も治まった」
「…良かった」
わかばは嬉しそうに笑みを浮かべた。
りんは思わず緑の葉を咥えたまま大きく息を吸い込み、咽せて咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですかりんさん」
りんはわかばから視線を逸らして顔を押さえた。
家の中に入り、わかばはりんが自分の部屋に入るのを確認して客間に入った。
「さてと」
わかばは橙色のケムリクサを起動させて、本を広げて再び読み始めた。

りんは欠伸を噛み殺して目をこすった。
「りん、大丈夫?」
「え、あ、うん」
朝の作業を終えて朝食を取っている間、りんはすでに三回同じ事をしていた。
りつは少しの間逡巡していたが、言葉を選びながらりんを心配そうに見つめた。
「りんは大人だから、私がどうこう言うつもりは無いけど…あんまりハメを外さないでね」
「は?」
「夜、トイレに起きた時に部屋の戸が開いてたから閉めようとしたら居ないし…少ししたらわかば君と二人で戻って来たみたいだから…」
「あ、あれは獣避けの柵を見に行ったら偶々あいつがいただけだ」
「にゃー、そうだったの?つまらないにゃー」
「姉さん!」
りんの顔を面白そうに眺めてりつはコーヒーをカップに注いでりんに渡した。
「そう言う事なら、わかば君はもう少し寝かしておいてあげるかにゃ」
「まだ寝てるのか」
「本を抱えたまま座って寝てたにゃ」
「布団で寝ればいいだろうにアイツは…」
りんはブツブツ言いながら食べ終わった茶碗を台所に片付け、客間に入っていった。
ガタガタ物音がしてモゴモゴと弁明の言葉を口にするわかばにりんが短く返し、少しすると静かになってりんが居間に戻ってきた。
「どうしたのにゃ」
「布団の中に放り込んできた。」
「りんは本当わかば君の事心配なんだにゃー」
「別に、病気とかになったら面倒なだけだ」
山に行ってくると言って大股で出て行ったりんを、りつはいってらっしゃいと見送った。
相変わらず顔に出やすい妹だ。
耳まで真っ赤にしていた妹の顔を思い出してふっと嬉しそうに笑みを浮かべて、りつはゆっくりとテレビに目をやった。

 電話が鳴り、りつははいはいと手に取った。
「あれ、りょうちゃん、どうしたの、お仕事は?え、次の連休に帰ってくるの?わかった、待っているにゃ」
りつは電話を置いてカレンダーを見上げた。
姉たちが帰ってくる日はあと一週間といったところか。
「早速準備しなくちゃにゃー」
うきうきと台所に立って、ふと、何か大事なことを忘れているような気がしたが、すぐにまあいいかと肩をすくめた。

りょうは、はーっと息をついた。
「りくちゃーん、交代しよー」
助手席のりくはりょうにお茶のペットボトルのふたを開けて渡した。
「はぁー?まだ30分しか経ってねーべ?この先止まるところもねーし、そのままりょう姉が運転しなよ」
「だって眠いんだわぁ。」
「なんでー?昨日もりょう早く寝てたじゃん」
後ろの席で窓の外を眺めていたりょくはりょうに視線を移す。ついでに眠気覚ましミンティアを姉にぽいと渡す。
「いやーなんか寝付けなくって」
「遠足前の小学生じゃん。それじゃ」
りょくはため息をついてペットボトルのお茶を飲みながら窓の外に目を向けた。
「それにしても、前よりさらにボロボロ、っていうか。ガタガタっていうか」
「まー人の手が入らなくなれば荒れていくわなー」
ガン、と道路の溝にはまったのか何かに乗り上げたのか車が大きく揺れて三人は呻く。
「りょう姉。路肩の崩れている場所が前よりきついから、気を付けて」
「はいよー」
りょうは軽く答えて車の時計とカーナビの地図を眺めて呟いた。
「この感じだと夕方には着きそうだね」
「まーやっぱりそれくらいかかるか」
「なんかその前にお尻が平らになりそうじゃん」
りょくは体をもぞもぞと動かしてブツブツ呟いた。りくも頷いてごそごそと座る位置を動かした。
「確かに、なんか尻が痺れてきたっていうか…」
「んじゃーちょっと休憩してからりくちゃん運転交代しよー」
えーっとりくはりょうに目をやった。
「結局それかよー。しょうがねえなあ。りょくも早く免許取れよー」
「私は国際免許のほう取るから」
「なんだよそれ」
「いいでしょ、私がハーバードとかMITとか、入ったらまあ観光くらい付き合ってあげる」
「おーいいねー。楽しみにしてるわ」
がん、と車が再度車が大きく揺れて、三人は再度うえっと同時にうめいた。

「なんだあれ」
りょうから運転を変わったりくは、峠を超えてしばらく行った下り坂の先に転がっているものに気づいた。思わずブレーキをかけてスピードを落とす。
「ありゃー、あれは邪魔だわな」
「なんであんなところにコンクリートの塊が落ちているの」
後部座席からりょくが身を乗り出して道の真ん中に転がっている白い塊をじっと見つめた。
「これ、レンタルだから傷つけるのはなー」
「降りて退かすしかないじゃん」
「だな」
りくは障害物の少し手前で車を止めた。
「じゃ、ちょっと待ってて」
助手席にいたりょうが車から降りて転がっているコンクリートの塊らしきものに近づいた。退かそうと手を伸ばしてふとその手が止まり、りょうは車のほうに向きなおった。
「りょくちゃーん、ちょっと良い?」
「何よ」
「いやー、ちょっとこれ見てほしいんだけど…」
りょくはえーっと声を上げて車から降りた。
これこれとしゃがみ込んで指さす塊を見て、りょくは眉をひそめた。
「りょくちゃん、こういうの結構詳しいでしょ。私よくわかんないしさー」
りくは、少し考えてから車のエンジンをいったん止めて降りてきた。
「…なんだ二人とも。なんだそれ、石じゃないのか」
「何だか、前見たロボット掃除機だっけ?そっくりだよねー」
りょうの言葉にりくはそれをコンコン、と叩いてそういわれればそうかも、と呟く。
りょくは、転がっているそれをひっくり返して手でさすりながら考えこんだ。
りょうの言った通り、家電量販店で見かけたロボット掃除機とかいうものに確かに似ている。
平たい円筒形に上側と思われる部分にはモニターがある。しかし、掃除機にしては形がどうもおかしい。
何より、家電は普通プラスチック製が主流だがこれはどうも金属的だ。
その割に、どこか有機的な触り心地もある。
「どうしたりょく」
「…これ、ネジ穴とか繋ぎ目がない。しかも、ほら、裏側に4つ突起があるからこれが脚だと思うんだけど、ローラーとかそういうのがついてないの」
「はー。で?」
「で?じゃない。百歩譲ってこの足はいいとして、裏返しても表側も脇も何処にもつなぎ目がないのは変だって!はめ込みにしてもどこかに上蓋と下をはめる部分がないと止められないじゃん」
「…いわれてみればそうだねー。りょくちゃんすごいねー」
「…ほんと、残念姉…。ちょっと、これひょっとしたらすごいものかもしれないじゃん!りょう姉これ後ろのトランクに入れておいていい?」
「いいよー、でもりょくちゃん持てる?」
「意外に軽いから大丈夫」
りょくは白いメカを抱えて車のトランクに放り込む。
「…早速家に着いたら解体しないとじゃん!」
「ほんと、好きだよなーりょくは」
りくは良くわからない、という表情で首をかしげて車に乗り込んだ。
「りくちゃんは動物のことがないとあんまり勉強とか好きじゃないもんね」
助手席に戻ったりょうはおかしそうにりくに言うと、りくはばりばりと背中を掻きながら、
「まあもともと勉強好きじゃないからなー。仕事が絡まないとやってらんないっていうか」
「私も勉強あんまりだったからなー」
「りょう姉のは雑だからだべ。よく小数点うち間違えたりとかしてたし」
「そんなでよく調香できるね…」
「だーって、あれは匂いとかも判断材料だから何とかなんのよ。ただの計算とかはねー…。まあ今はパソコンとかあるし、助かるわー」
りょうはからっと笑って背もたれに寄り掛かった。
「あーちょっと足伸ばせたからラッキーだったな。」
りくは伸びをしてからキーを回してエンジンを入れ、車を走らせた。

三人を乗せた車は結局量の見立て通り、だいぶ日が傾いたころに家にたどり着いた。りくはいつも通り、作業小屋の手前に車を止めてふうっと息を吐いて腕を伸ばした。
「はー、疲れた」
「お疲れ様」
「おつかれ」
りょうとりょくは声をかけて車から降り、荷物を車から降ろした。
車の音に気づいたのか、りつが家の中からバタバタと走り出てきた。
「おかえりにゃー」
「ただいま、りっちゃん。元気そうでよかったわ。」
「とりあえず、荷物はいったん奥の部屋に置いてにゃ」
「はーい」
りつは廊下側の掃き出し窓を開けて三人が車から出した荷物を中にぽんぽん置いた。
「ああーりつ姉、それお土産のお菓子!つぶれるからまずいって」
りょくが慌てて掃き出し窓から中に入って荷物を移動させて並べなおし始めた。
「りょうねえねお帰りな!」
「おーりなっち、りなよちゃんただいまー。あれ?他の子は?」
玄関からぴょんと出てきた末妹達の頭を撫でながら、りょうは周りを見渡した。いつもなら六人全員で出迎えてくれるはずなのだが。
「りなむとりなぞうは遊び疲れて寝てるのな。」
「りなじとりなこはりん姉ねえねたちとお買い物に行っているな」
りなっちの言葉にりくは首をひねった。
「りんねえね、たち?他に誰か一緒なのか」
「わかばな!」
「荷物持ちな!」
妹たちの言葉に、りょうとりくは顔を見合わせた。
「わかばって誰?」
りなっち達は思わず顔を見合わせて、何かを察したのか
「なー、宿題しないとなのなー!」
「そうだったのなー!」
バタバタと二階に駆け上がっていった。
「ちょっとりつ姉、なんであたしの本ここにあるの?それにこれ、お父さんのTシャツみたいだけどなんで出してあるの?」
りょくの問いかけに、りつは少し固まって、あっと声を上げた。
りょうとりくは顔を見合わせたが、そこに、車のエンジン音が玄関側で聞こえてきた。
三人は何となく顔を合わせて玄関に目を向けると、りんともう一人、見たことのない青年が車から降りてきた。
コメの袋とお酒やペットボトル類をもって玄関に入ってきた青年は、きょとんと玄関で待っていた三人を見上げた。
「こ、こんにちわ。」
「ね、姉さん?もう帰ってきてたの?」
どうやら車の中で寝ていたりなよを抱えてきたりんは、驚いて三人を見上げた。
「まーね、朝早く出たんだよー。あ、ほら早くりなよ部屋に連れてってあげなよ」
「あ、ああ」
ぱたぱたとりなよを抱えたままりんは二階に上がっていく。りなじは、二人についていかず青年のそばに立ってりょう達を見上げていた。
「りつ姉、わかばの事…」
「にゃー…先に話すの忘れてたにゃ…」
かく、とうなだれてりつはごめんねと呟いた。
「りつ姉はうっかりさんだナ…」
りなじは少し眉をひそめてりつを見上げた。
「あの、すみません。わかば、と言います。りんさん達にお世話になってて…」
「あー、うん。いや、こっちこそごめんねーいきなり。その感じだと私たちが来ること聞いてないよね。私長女のりょうで、こっちが次女のりく、五女のりょく。」
「よろしくお願いします」
わかばの挨拶に答えてりょくとりくも頭を下げる。
「ていう事は、私の本持ち出してたのはあんた?」
「あ、はい、すみません。僕、りんさんに拾われるまでの記憶が無いので、本とかから思い出せないかと思って…」
わかばの言葉に三人はちらりと見合ってからりつに目を向けた。
りつは、あははは、と笑って視線をそらした。
「…なーんか、色々訳ありなんだな。まー、俺はりんが落ち着いてんならいいけど」
りくは幾分嬉しそうに、にっと笑ってわかばに目を向ける。
わかばはつられて笑顔を向けたが、よくわからない状況に目を白黒させていた。
「それは確かにそうだわなー」
りょうは腕を組んで頷いた。
「まー。あっちもこっちも、積もる話もあるし、今日は飲むか。ね、わかば君」
「え?あ、はい」
明らかに意味を読み取れていないわかばと、にこにこと嬉しそうに買い出しの荷物の酒を物色するりょうに、りょくは思わずため息をつく。
「りょうはいつもそうでしょ」
そうだっけ、と言いながらりょうは軽い足取りで台所に向かった。

わかばは、目の前に注がれた泡立つ液体を見つめた。
「これは…」
「あれ、わかば君ビールダメな感じ?」
りょうはにこやかな表情のまま首を傾げた。
「…びーるですか…?」
恐る恐る一口飲んでわかばは顔を真っ赤にして俯いた。
「なんだ、酒弱いのか。」
りくはぐいぐいと自分のジョッキを開けてふうっと息を吐いた。
「そういえば、私もりんも朝が早いから基本的に飲まないものにゃー」
「おい、別に二人に合わせて飲む必要はないぞ」
りんは俯いたわかばからビールを取って水と交換する。
「す、すみませ…」
ぐすっと目をこすりながらわかばはりんから渡されたコップの水を飲み干し、そのままぱたりと床に伸びた。
「ありゃりゃ、ごめんねわかば君」
「ら、らいろぶれ」
「いいから寝てろ」
「うぐぅ…」
起き上がろうとするわかばの頭を、りんは片手で押さえる。少しは起きようと力を入れてみたようだがそのまますうっと寝息のようなものが聞こえてきて姉妹たちは顔を見合わせた。
「なんというか、変わった子だわな」
「酒もそうだけど、食べているもの全部葉っぱってのもウサギとかハムスターとかっぽいっつーか」
りくは最後の唐揚げをりなむの皿に置いて、空っぽになった皿を退かした。
「わかば、寝てるところ見るのはじめてナ」
「りなじ達がいるとき大体起きてるナ」
「夜中もナ」
「りなぞう、夜中につまみ食いまだしていたの」
りんの言葉に、りなぞうはうっと顔をしかめて目をそらした。
「睡眠取らないと、普通体が変になるはずじゃん。平気なの?」
「ああ、2,3日くらいなら別に寝る必要はないと言っていた。妙な話だが」
「それ、絶対変じゃん…」
りょくは少し考えこむようにわかばを見ていたが、
「まさか、人間じゃないとか…は無いかさすがに」
りょくは首を振ってさらに残っていた寿司をぱくつく。
「…ま、なんにせよ、りんが元気になったのがわかば君のおかげなら、感謝しないとねー」
「…何でそうなるんだ。」
りんはわかばが残したビールを飲みながら思わずつぶやく。
「だって、わかば君と一緒に帰ってきたときの顔、ふにゃふにゃだったよー。びっくりしたわなー。うれしかったけど」
「…そんな事は」
りんは思わずりょうから視線をそらした。
「あ、明日の作業の用意があるから…もう寝る」
「おー、お休みー」
出ていくりんを見送り、姉妹たちはふっと息をついた。
「…まー、ゆっくり待つしかないか」
「ほんと、りくの言った通り、バカ真面目じゃん…」
「だべ。まあ、りんはそういうやつだからしょうがないけど」
「にゃー…。でも毎日楽しそうなのにゃ。りん、ほんと、よがっ…う、うええ」
りつはほろほろと涙を流しながらも、がしっと日本酒を手酌で注いで一気に飲み干した。
「だあ、まずい!りつがスイッチ入った!」
「お、落ち着くじゃん!りつ姉!ああもう手酌で飲んじゃダメだって!」
りくとりょくが慌ててりつの手から酒の瓶を取り上げようとするが、りつはやけに軽やかな手さばきでそれを払いのけた。
「にゃー!なんかいい調子になってきたにゃー!」
「お、んじゃりつ一緒に飲もうか!」
賑やかに騒ぐ姉たちを横目に、りなっち達はチャンスとばかりにもぐもぐと料理を口に運び続けていた。
「おいちょっとりょう姉そこは止めろ!」
苦労性の次女と五女は、頭を抱えた。

昔話

わかばは大きく伸びをして起き上がった。
随分寝ていたような気分になり、あたりを見渡す。
机の上は片付けられていたが、畳にそのまま寝転がって寝ているりつとりくとりょくの様子に、見なかったことにして廊下に出た。
外は明るく、どうやら夜が明けて少し経っているようだ。わかばは外に出て体を伸ばした。
「ピ!」
「ん?」
どこかから聞こえた音に、わかばはあたりを見渡した。
ごんごん、とりょうたちが乗ってきた車が揺れている。
わかばは車の裏に回り、ガタゴトと音がするトランクに耳を当てた。
「…んー…鍵がないと開かないのか。…でもこれくらいの単純な機構なら…」
わかばはトランクの金具があると思しき場所に手を滑らせた。
がちゃ、と音がしてトランクの金具が外れ、扉を開ける。
「ピピッ!」
「君は…」
トランクから、りょくが拾ったメカが顔を出した。なぜか勝手に起動している。
「…ピ!」
パカッとロボットの上部が開いてモニターが現れる。
<ワカバ カエル?>
「…かえる…?」
「ピ?」
「…ごめん、迎えに来た、ってことかな」
「ピ!」
わかばはよしよしと撫でながらつぶやく。
「…ごめん、君の事覚えていないんだ。とりあえずシロって呼んでもいいかな」
「ピ!」
シロと呼ばれたロボットは尻尾のようなものを振った。喜んでいるのだろうか、とわかばは首をかしげる。
「ちょっと、外を回ってくるから、また後でね」
わかばは手を振って、裏庭を通って山に向かった。
そのあとを、シロはどう見ても歩けないだろうという小さな足を動かしてよちよちと付いてきた。
「…一緒に行きたい、のかな」
「ピ!」
シロは返事をするように音を立てた。
「じゃ、一緒に行こうか」
わかばはふらふらと裏庭にまわった。
「…あれ?」
いつもならりんがいるはずだが、今日は姿が見えない。代わりに、りょうがりつの育てていた花に水をやっていた。
「えっと、りょう、さん?」
声をかけられ、りょうは水やりの手を止めて振り返った。
「ん?おー、おはようわかば君早いねー!昨日酔いつぶれてたみたいだけど大丈夫?」
「え、あ、はい。ご迷惑おかけしてしまって」
「いいのいいの。そういや、りんのお手伝いにでも来てくれた感じ?」
「あ、えーっとはい」
「そっかー。悪いね。りんもね、割とお酒弱いんだわ。昨日ちょっと気が緩んだみたいでさ、まだ寝てたから代わりにやってるんだ」
「…そうだったんですか。」
「外とかで飲むとほんと顔色変わらないんだけどねーりんちゃん。緊張しちゃうから。家とか気を許した人しかいないとね、ビール二杯でだめなんだよね」
「…なるほど」
わかばはいまいちわからないまま頷いた。
「…あ、そうだ。わかば君ちょっと付き合ってくれる?」
「え、あっとどちらに?」
「墓参り。うちの」
じょうろを置いて、りょうは園芸用のはさみで花をいくつか切ってわかばに渡した。
「いいんですか、切ってしまって」
「ああ、りっちゃんにちゃんとオッケーもらってるよ。母さんたちの好きな花もっていったほうがやっぱりいいしね」
じょうろを片付け、外水道の傍に置かれている手桶を手にもってりょうは歩き出す。
「そういえば、その白いの、りょくが拾ったやつだと思ったけど」
「さっき車のトランクの中で動いていたので、出してきたんです」
「へー。てっきり壊れてると思ったんだけど…。あ、気を付けなよー。あの子機械とか分解するの好きだから」
「ピ!?」
りょうの言葉にシロは慌ててわかばの影に隠れた。りょうはあははと軽く笑って庭を回って外に出た。わかばも急いで後をついて行く。
鳥の声だけする道をしばらく歩くと、かつての集落の端にコンクリートのブロック塀で囲われた墓地が見えてきた。
あちこち崩れていてあまり塀の意味がなくなっている。りょうは慣れた様子で奥の区画のほうに歩いていく。
雑草がそれなりに生えているにも関わらず、奥に行く道は比較的きれいに手入れされているようだ。
「ここだよー。わかば君、花貸して」
「あ、はい」
「あと、これに水入れてきてもらっていい?そこにあるから」
「わかりました。」
手桶を渡され、わかばはりょうが指した場所にある水道から手桶に水を入れた。
「持ってきました」
「おーありがとう」
りょうは手桶を受け取って水を柄杓ですくって墓石にかけて清めた。
「やっぱり、りんが手入れしているからきれいだね」
「…りんさんが」
「そ、月命日は必ず一回は行っているみたいだし、それ以外でもまあちょくちょくね…」
りょうは線香をあげると手を合わせた。わかばは見よう見まねで手を合わせる。シロも少し後ろで黙とうでもするように少し体を傾けた。
「悪いねー。付き合わせちゃって」
少しして、りょうはわかばに向きなおった。
「いえ…あの、このお墓は」
「うちの家の墓だよ。今日は母さんと父さんに声かけておこうと思って。りくとりょうはお昼頃に来るって言ってたから先にね」
「ご姉妹のご両親ですか」
「そ、聞いた?」
「詳しくは…」
りょうは、そうかそうかと頷いて歩き出した。
「ここね、学校がかろうじて小学校があるだけなんだわ。妹たちが中学行くようになったらどうしようもないんだわ。だからご近所の人が移動した少し山を下りた場所に移動しようか、って話が合ったんだけどね。二年前、かな、もう」
りょうは軽い調子で話しているが、視線はずっと道の向こう側を向いていた。
わかばは黙って、りょうの少し後ろをついて行った。
「そんな話があったから、りんだけ偶々休みが纏まって取れたからって帰ってきていたのね。で、りんと、両親三人で車で下見をしようって出かけたんだ。」
りょうは少し言葉を切り、うーんと肩を回した。
「で、帰り道に突然すごい雨が降ってきて、前は見えないし、道はカーブが多い山道だし、言っちゃあれだけど、道もあんまりよくないから…乗っていた車、路肩から下に落ちちゃったんだわ。」
「そんな…」
「りんは後部座席でシートベルトもつけていたから殆ど平気だったんだけど、前に座っていた二人はね。」
りょうはふと言葉を切って、少し黙り込んだ。
「…一応ね、生きてたんだわ。落ちた直後は。でも、この辺ちょっと山側に入ると携帯の電波が届かないから、電話は中々繋がらないし、人も来ないしで。すごい寒い日でねー、雨もものすごく激しく降っていて、あの子、電波が届く場所を探してどうにか電話して、車に戻って二人を何とか応急処置をしようとか頑張ったんだけどね…」
りょうは、ふと口をつぐんで立ち止まった。
足を挟んで動けなくなっていた両親を引っ張り出すことはりんには出来ず、壊れた窓から流れ込む冷たい雨が体温を奪われ、怪我から徐々に弱っていく両親を、りんはどうする事も出来ず、結局呼んだ救急車がたどり着く前に二人は息を引き取った。
呼び出されて病院に駆け付けた姉妹たちに、りんは泣きながら謝り続けていた。
「…謝って泣いて、何かの拍子に記憶が戻ってしまって、眠れなくなって。体も心もボロボロになってしまって、もう、見ていられないから、家で少し休養を取らせるようにしたのね」
わかばは何も言わずにりょうを見やった。
「…長話に付き合ってもらって悪いねー」
りょうは変わらない笑顔のままわかばに向きなおった。
「いえ、お話してくれて、ありがとうございます」
わかばはぺこりと頭を下げた。
「ほんと、わかば君、今時珍しいいい子だねー」
りょうは思わずぐりぐりとわかばの頭を撫でた。

りんが起きたのは、わかばたちが家に帰ってきてから少し経ってからだった。
わかばは、りつの育てている花の苗木に水をやり、成長の状態を確認していた。
ここ最近は食害の被害もなく、りつがわかばにあげたいくつかの花たちも芽を出し始めていた。
「おい」
「あ、りんさん。よく眠れましたか?」
慌てて起きてきたのかシャツのボタンがずれて、靴下も微妙に色が違っていたが、わかばはそこには触れずに声をかけた。
「ああ。その、姉たちが色々やって、悪かった」
ちらりと外を出る前に見かけた台所や客間の惨事の後を思い返し、りんは言った。わかばはおかしそうに笑って手を振った。
「平気ですよ。皆さん素敵な方たちですね」
「ん、いつも助けられている」
りんはわかばが水をやっていた花たちに目をやった。不思議なことに、まだ育ててから時間が経っていないにも拘らず、成長速度が違うように見えた。
「山のほうは僕とりょうさんで見ておいたので、今日はゆっくりしてください」
「それは…」
りんは、わずかに困ったような顔になり手持無沙汰気にわかばから視線をそらした。
「姉さんたちは?」
「りょくさんとりくさんは今りなっちさん達と山に遊びに行っていますよ。りょうさんとりつさんは二人でそこの作業小屋にいます。」
「ピ!」
「なんだそれ」
わかばの背後にいたシロが存在を主張するように音を出した。
「りょくさんが拾っておいてくれたんです。僕の事知っているみたいで…」
「ピ!」
シロのモニターに<ワカバ ホカ?>と表示され、そっと前に出てきた。
「こっちはりんさんだよ。りょくさんじゃないから大丈夫」
「ピ!」
シロはりんの周りをまわってモニターに<リン>と表示された。
「よくりょくに分解されなかったな」
「…いや、さっきそれで色々と騒ぎになってしまって…」
わかばは思わず口を閉ざしてふいっと顔をそむけた。何となく、何があったかを察してりんは、すまん、と思わず謝る。
「…りょくは昔から不思議なものに目がなくて」
「あはは、まあ僕もそういうのはなんか分かるなあ」
わかばは、ふと何かに気づいたように言葉を切ったが、すぐにりんに向きなおった。
「そういえば、この木、少し前から世話していたんですが、だいぶ元気になってきたんですよ」
わかばは思い出したように庭の端にある桜の木を指さした。
「…あれは殆ど枯れていたはずだが」
はい、とわかばは頷いた。
「ちょっと緑のケムリクサも使ってみたんです。」
「そんなにそれを使っていいのか?」
「ええ、別に」
わかばは事も無げに言って桜の木に近づいた。
りんは、改めて桜の木を見上げた。確かに、以前は何年も鹿に芽を食べられていて葉もほとんど無くなっていたはずだったが、ちらほらと緑色の葉が生え始めていた。
「この桜、数年前から花を咲かせられないくらい弱ってて…もう、枯れるしかないと思っていたが」
「僕はこの木の花を見たことがない気がします。りょくさんから借りた植物図鑑だと、小さい花のようですけど…」
「桜は単体で見るものではなく木とか、並木で見るものだ。」
「へえ、めっさ気になるなー。見てみたいなー」
わかばは木の幹に触れてつぶやいた。
「来年になれば見られるだろう」
りんの言葉にわかばは少し意外そうな表情を浮かべ、すぐにそうですねえと笑った。
「おー、りん、起きたのか」
「まったく、弱いのにお酒なんか飲むから…」
六つ子たちを連れて、山から下りてきたりくとりょくは、若干疲れた様子で庭に戻ってきた。
「ななー二人とも何してるナ?」
「りなじ、そこはほら、言うもんじゃねーぞ。黙って見守るのが妹ってもんだろ」
「なー、りくちゃんの言ってること分かんないナ」
「ナナ」
六つ子たちはめいめい木の棒や葉っぱや花や木の実をわいわいと庭に広げて遊び始めた。
その様子をりくとりょくは眺めて、お互い一瞬目くばせをしてりんに向きなおった。
「ところでりん。確かあの山の反対側って今持ち主変わってんだよな」
「ああ、詳しくは知らないが…。去年の暮れに林道を作っていたのか、あちらの道からはしばらく業者の車が出入りしていたが…それがどうした」
「いや、前言っていた土砂崩れっての?この間聞いた時よりも進んでいるみたいだからちょっとな」
「さっき反対側ちょっと見てみたけど、あの林道からどうも勝手にうちの方までタケノコとか山菜とか取りに入ってきてるみたい。」
「やっぱり、そう見える?」
「足跡とか、うちらのものとそっちの彼の靴とかサイズよりも明らかに大きさ違うし、ごっそり持ってってる形跡もあるし何人かいるんじゃない」
「…そうか。時期はもう落ち着いているとは思うけど、あとで見回りしてみる」
りんの言葉にりょくは首を振った。
「えー、やめときなよ。鉢合わせしたときあんた一人でどうするのさ」
「確かに。それに、あっち側、変に木を切って林道作ったせいで危ないぞ。崖みたいになっていた場所もあったし」
りくもりょくの意見に頷いてりんに目を向けた。
「…でも…」
「まあ勝手にとられるのはむかつくけど、どうしようもないだろ。毎日見張るわけにはいかないし。うちの土地で取ってません、勘違いです、なんてどうせ言って誤魔化されるのが関の山だぜ」
りくはぽんぽんとりんの肩を元気づけるようにたたいた。
「…ま、あんまり根詰めるなって」
「そんなつもりじゃ…」
「真面目過ぎるんだってりんは。もう少し適当にすればいいんだって」
二人は疲れたーと言いながら家の中に入り、六つ子たちもバタバタと後に続いて中に入っていった。
「りんさん?」
「なんだ?」
「今日は遅いので、もし行くのであれば明日のほうがいいと思います。」
わかばの言葉に、りんは少し驚いてわかばを見つめる。
「もし見回りをするなら、僕も行きますよ。一人で見て回るより、まあ、ちょっとくらいは意味があるかもしれないですし」
わかばの言葉に、りんは少し考えてから頷いた。
「まあ、ひょろっこくても居ないよりはましかもな」
「ひどいっ」
わかばはがくっと肩を落とし、ため息をついた。

りん

翌日もよく晴れていた。五月のこの時期は一番気温的にはちょうどいい。
りんは、日が少し上がってきた時間になってからわかばと共に裏山の奥に向かった。
「こっち側はあまり行かないですよね」
「ああ、昨日りくも言っていたが、山の反対側で作った林道の影響か、斜面が崩れやすくてな。」
うっすらと見える獣道のような道を、りんは邪魔な枝や草をよけながら進む。
りんの言う通り、わかばがざっと見ただけでも、山の斜面の一部が崩れてぱらぱらと土が崩れている場所が何か所かあった。
また、別の場所では人の手によると思われる木の伐採の後や掘り返したような跡も見える。
りんは硬い表情でそれらのあとをチェックして奥に足を進めた。
「りんさん、りくさんが崖崩れがあるっていっていましたし、もう少し慎重に行った方が」
「…別に、それくらいわかってる」
思いのほか強い口調になり、りんは、一瞬後悔したような顔でわかばに向き直ったが、何も言わずに目をそらして、そのまままた歩き始めた。
わかばは心配そうな表情でりんを見やったが、急いで彼女の後を追いかけた。
少し上るとふわりと、草のにおいとは別の、土のにおいがする風がわかばの頬を撫でた。気のせいか、風が下から巻き上がるように流れているようだ。
嫌な予感がして、わかばは思わずりんの腕をつかんで声をかけようとした。
突然、りんがわかばの視界から消え、がくっとわかばはりんの腕をつかんでいた方からバランスを崩して倒れこんだ。
「りんさん!」
とっさに地面の草をもう片方の手でつかんでわかばは何とか崖の端にわずかに体をひっかけた状態で踏みとどまった。
どうやら、中途半端な形で土砂が流れ、不安定だった場所にりんたちが立ったことで崩れてしまったようだ。わかばの掴んでいる草の辺りから少し先も亀裂が入っていて徐々に隙間が大きくなっている。
りんは、わかばの掴んだ手でどうにか落ちずにすんでいた。しかし、高くはないとはいえ、崩れた土がえぐれて十メートル程度の高さはある崖になってしまっている。
りんはほかにつかまる場所がないか探したか、目につくものは何もなかった。
このままだと、二人とも地面にたたきつけられて死ぬだろう。
りんは、震えそうになる声をどうにか誤魔化すように、上にいるわかばに言った。
「…手を放せ」
「何言ってるんですか」
「このままではどっちにしろどうにも出来ないだろう。私はそれなりに頑丈だし、うまくいけば着地して…骨折くらいで何とかなるかもしれない。このままだと二人とも落ちてしまうだろう」
「…そうですね、手が使えないので…」
わかばはふと何か思いついたのか、りんに声をかけた。
「すみません、りんさん。ちょっと目を閉じててもらっていいですか?」
「は?お前何を言って」
「いいから、お願いします。さすがに手がもう辛いです」
りんは訳が分からなかったが、わかばの指示に従って目を閉じた。
「たぶん、大丈夫だと思いますけど、怪我したらごめんなさい」
わかばの声が聞こえ、ふわりと支えを失った体が落下するむず痒いような感覚と風を切る音がした。
来るだろう痛みとショックに耐えようと強く目をつむり体を緊張させたりんは、衝撃とともに、何か柔らかいものの上に着地して転がった。
「…?」
目を開けると、落ちてきた崖の上が見える。パラパラと砂が落ちてきていたが、上には何も見えない。
しかし、思ったよりも痛みはないのはなぜだ。
ふと、思い当たって慌てて起き上がる。
「お前…」
「…あ、りんさん、大丈夫そうですね」
自分の体を緩衝材代わりにして落ちたわかばは、あははと軽い口調で笑ってりんを見上げた。
「何考えてるんだ、下手をすれば…」
りんは、ふと手に何か水のようなものがついているのに気付いた。
「…これは…」
りんは身を起こしてわかばの体を見た。
「すみません、ちょっと落ちる場所が悪かったみたいです。」
「そんな、だって、これは…」
落ちてきた崖の下には、どうやら崩れた土のほかに、崩れた部分に生えていた木の根や枝なども落ちていたようだ。
わかばは、落ちた場所に転がっていた木片で脇腹を貫かれていた。
じわじわと血が服からにじみ、わかばの顔の血の気がどんどん引いているのが分かった。
「おい、しっかりしろ。…止血して、動かさなければとりあえずは血は何とかなるから…あとは救急車を…」
りんは震える手でスマホを取り出した。
壊れていない。
りんは、画面を見て思わずくそっと罵った。スマホの表示は圏外と表示されている。
「…また…こんな…。…すぐに救急車を呼ぶから…」
立ち上がろうとするりんの腕をわかばの手が押さえておっくうそうに首を振った。
「りんさん、僕の体…構造が…違うので、開腹手術は…ちょっと無理なんです」
「何…訳が分からないことを…だって、このままだと死ぬじゃないか」
わかばはポケットをどうにかあさって、持っていた緑の葉を一枚取り出した。
「それ、使うのに…刺さっているのが、邪魔で…」
わかばは、少しすまなそうにりんに呟いた。
「それを、抜いて…そうしたら、緑の葉で…直せるので…りんさん」
お願いします、とわかばはふうっと息を吐いた。
りんは、泣きながら首を振った。
「無理だ…。そんな、そんな事したら血が…」
「僕は、りんさんたちよりも頑丈なので…お願い、します。」
りんは、涙をぬぐって深呼吸をしてわかばを見下ろした。
正直、救急車を呼んでもいつ来るか、まったくわからなかった。
すでにわかばの呼吸は弱くなっており、もし、これで何とかなるのであればそちらの方が助かる確率は高い。
りんは、目をこすって頭を振った。
持っていたハンカチを小さくたたんで厚みを出し、わかばの口に噛ませる。
はあっと大きく息を吐いて、りんは木片を引っ張った。
わかばは息を吐いて地面に爪を立てた。
「…っう」
りんは引き抜く木片から伝わる感触に泣きながら力を入れた。
ずる、と体から木片が抜けると、わかばの体からがくりと力が抜けた。
「…おい、取ったぞ。早くそれを使って…」
りんは血で真っ赤になった木片を放ってわかばの顔を覗き込んだ。
「…おい」
思わず、耳を口元に近づけたが呼吸音がまったくしない。
「…息が」
りんはわかばの頬を軽くたたいて、もう一度声をかけた。
涙をぬぐいながら、わかばが手に持っている緑の葉を手に取る。
「これを、どうすればいいんだ。わかば…」
傷口に近づけてみるが、特に何も起きない。
「どうすれば…私はこれを使えないんだ…お願いだから…」
りんは二年前の時のことが脳裏によぎりそうになるのを必死に打ち消しながら考えた。
「…強く、押して…」
わかばが青い葉で使い方を教えてくれた時のことを思い返す。確か、基本的にどれも同じ起動方法だと言っていたはずだ。
緑色の葉がぴくりと小さく震えて、仄かに光りだした。
「…一回震えたところで、円が出てきたところでもう一度押して」
葉が強く光りだし、りんは急いで傷口に近づけた。光が傷口にまとわりついてはじけた。
「…わかば…?」
肩を小さくゆすると、わかばがううっと呻いて目を開けた。瞬きをして首を振りながら起き上がり、りんに笑みを浮かべる。
「お、まえ…」
りんは体を震わせてわかばに抱き着いた。わかはばうっとうめいてそのまま倒れこむ。
予想外の行動にわかばは目を白黒させた。
思わず起き上がろうとすると、りんがほうっと息をついてつぶやいた。
「よかった。生きてて」
わかばは少し、体から力を抜いてりんの肩に手を置いた。
「…りんさんなら大丈夫だと思ってたので。でも、助けてもらってばかりで申し訳ないです」
りんはぐりぐりとわかばに顔を押し付けたまま首を振った。大きく、深呼吸すると薄荷とタバコの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「…わかば」
りんが顔を上げてわかばを見上げ
後ろに目が行ってひくっと顔が引きつった。
わかばはりんの目線を追って寝たままの状態で頭をそらせた。
シロがひょこっと草むらの中から顔を出し、その後ろからりくの顔がちらりと見えた。
「ピッ!ピ―ッ!」
がしゃがしゃとわかばの傍に寄ろうとするシロを、りくが必死に押さえ込みながら物陰に隠れる。
ちらりと見えたシロのモニターには<ワカバ セイタイハンノウ キケン>と書いてあったようなので、どういう理屈かは分からないがわかばの異常に気づいて姉妹たちを連れてきたのだろう。
タイミングは最悪だったが。
「…り、りく!ちょっと待って」
慌てて起き上がるりんに、りくは手を振った。
「いーのいーの、姉ちゃんはお前の味方だ、うん!じゃ、お前ら夕飯までには戻って来いよー」
「あーあ、見つかっちゃったナ」
「しょうがないじゃん、このメカが騒ぐんだから。つーか、あんた達なんで来てんのよ。ガキにはまだはやいし」
「りょくちゃんにも早いと思うのにゃ。」
「ほらみんな帰るよー」
わらわらと出てくる姉妹たちにりんはうわああっと頭を抱えた。
「りんさん、僕らも帰りましょう。色々あって、疲れたでしょう」
わかばは立ち上がり、りんに手を差し出した。
りんは、ううっと呻いてつぶやいた。
「…こ、腰が抜けて…立てない…。さ、先に帰ってろ。後から行くから」
りんは恥ずかしさから顔を真っ赤にして地面に目を向けてぼそぼそと答えた。
わかばはなるほど頷いて、少し考えこんだ。
「じゃあ僕がおぶっていきますよ」
「お、お前が?無理だろう、重いし…お前軽いし」
「い、一応りんさん抱えることはできます。多分…」
わかばはしゃがんでりんに背中を向けた。
「…潰れたらシャレにならないぞ」
「大丈夫ですよ」
りんはわかばの首に手を回して体をわかばの背中に預けた。
わかばはりんをおぶって立ち上がった。りんは一瞬倒れるかと思ったが、わかばは特に体がふらつくこともなくそのまましっかりとした足取りで歩きだした。
りんは、緊張が解けたせいか強い眠気を覚えて目を閉じた。
眠りに落ちるりんの耳には賑やかに話す姉妹とわかばの声が聞こえてきた。

「なんだよ、せっかく二人きりにしてやったのに」
りくは幾分つまらなさそうに後ろから来たわかばたちに声をかけた。
「え、あの、すみません。」
「りんねえね、寝ちゃったのな」
「大変でしたから」
「びっくりしたよ、この白いメカがいきなりピーピーサイレン鳴らしてウロウロしだして」
りょくはいつの間にか小脇に抱えたシロを撫でながらわかばの隣に並ぶ。気のせいか、シロの足がバタバタと助けを求めるように動いているように見えたが、わかばはとりあえず気のせいと思うことにした。
「にしてもあの崖から落ちてよく無事だったなお前。」
「まあ、頑丈なので」
「…頑丈、ね。まあ話す気がないならとりあえず黙っておくけど」
りょくはわかばをじとっと睨んでわずかに不満げに呟いた。

りんは目を開けて、自分部屋の天井を見上げた。
時間を確認すると、思いのほか時間が経っていないことに安堵して、起き上がって階段を下りた。
庭の方で遊ぶ声がする。
りんは、何とはなしに客間に顔を出した。
わかばは縁側に座っていた。手でシロを撫でながら外を眺めている。
縁側に近づくと、物音に気付いてわかばが振り返りりんを見上げた。
「あ、おはようございます。りんさん」
「…おはよう」
横に並んで座り、りんはわかばが眺めていたほうに目をやる。
「…お前の方は、休まなくていいのか」
「ええ、地球の人よりも丈夫なんで」
「そう、か」
りんは足元に視線を落とした。
「…ここは、すごく楽しいですね。色々な事が短い時間で移り変わって。」
「お前の故郷では違うのか」
わかばは、少し考えてぼんやりと呟いた。
「そうですね、昔はどうだったかわかりませんが。少なくとも僕が生まれたときは住みやすく管理された世界でした。穏やかで、静かで、ヒトも分散して生活するようにされていたのであまり見かけないんですよね」
わかばはふと黙り込み、頬を掻いた。
「僕、見えないかもしれないですがりんさんたちよりも長く生きてるんです。」
「とてもそうは見えないな」
「う…やっぱり…」
わかばはがくっと肩を落とした。
「いつくらいから、記憶が戻ってたんだ」
「細かい部分は時々ふっと頭に浮かんでいたんですけど、全部思い出したのは崖から落ちた時ですね。」
「…これから、どうする」
りんの問いかけに、わかばはふっとりんから視線をそらしてシロのほうに目を向けた。
「どちらにしろ、音信不通のままそこそこ時間が経っているのでこのまま放置はまずいですね。それと、もろもろ、処理しないといけないこともあるので…」
「…それからは?」
「そうですね、…気持ちとしてはここに居たいですけど…。」
わかばは口をつぐんで庭の方に目をやった。
「…私はお前ほど長生きではないからな。そんなに長くは待っていられないぞ」
りんの言葉にわかばはりんに向き直り、ふっと嬉しそうに頷いた。
「はい、分かっています。出来る限り早く、戻りますので」
わかばは立ち上がって縁側から外に出た。そのあとを、シロが付いていく。
「…じゃ、行ってきます。りんさん」
「ああ、気を付けて」
りんは軽く手を振る。わかばは手を振って少し歩いて家から離れる。
「シロ、よろしく」
「ピ!」
シロのモニターが動いて文字が表示される。

<テンソウ ショリヲ カイシ>

空間に六角形の穴が開き、わかばとシロの立っていた場所の空間がゆがみ、りんが瞬きをした瞬間、わかばとシロの姿は跡形もなく消えていた。

わかばと

りんは、額の汗をぬぐって息をついた。
蝉の音と、りんが振るう鉈の音だけが響き、時折ひんやりとした風が吹いてくる。
八月も中ごろになれば、少しは息もつける。
家から持ってきていた水筒からお茶を飲んで、切り株に座って少し休む。
「りんねえね、もうお昼なんだな!」
「早く帰るんだな!」
坂道を登ってきた妹たちに、りんは大声で返事をした。
道具をもって山を下りてくると、下から六つ子が駆け上ってきた。
「みんな待ってるんだな!」
「ああ、そうだった…。忘れてた」
りんは妹たちに続いて急いで裏庭を通って玄関に顔を出した。
「…遅いぞーりん!」
「お素麺、ぬるくなっちゃうぞー」
りょうとりくが音に気づいて居間から顔を出した。
家の中はこの時期にもかかわらずエアコンをつけていない玄関でもひんやりしている。
「…ごめん、ちょっと切りがいいところまでやってて。先に食べてていいよ」
「あんまり根詰めると、熱中症なるじゃん」
りょくはタオルを渡してため息をついた。
「山は意外に涼しいよ」
「そういう事じゃないって…、ほんとにもう」
「まあまあ、りょくちゃん…。りん、早く手を洗ってくるにゃ」
「うん」
道具を玄関先にとりあえずおいて、りんはばたばたと靴を脱いで洗面台に向かった。
制汗剤とタオルでいったんさっぱりさせてから手を洗ってくると、居間ではめいめい大きな器にどんと置かれた素麺をすすっていた。
前日からお盆を過ぎて、ようやっと仕事が一段落したりくと共に来たりょうたちは、ちらりと家の中に目を向けた。
「わかば君は、まだ来ないんだ」
「まあ、色々処理があると言っていたからそんなにすぐには無理じゃないかな」
りんはこともなげに答えた。
姉妹は思わずお互い目を合わせた。
「…何?」
「何でもないにゃ。りんが納得しているならいいにゃ」
りつは手を振って笑みを浮かべた。
「…?そう?」
りんは不思議そうに首をかしげた。

食事を終えると、りょうとりくは六つ子にせがまれて、庭にプールを出すために出かけて行った。
りょくはりつと共に近くのスーパーに買い出しに出かけ、りんは一人で家でぼんやりと留守番をすることになった。
お盆を過ぎたせいか、暑いとはいうもののこの辺りは比較的過ごしやすい。
風鈴の音がちりちりとなり、りんは開け放たれた窓からそよぐ風を浴びて、縁側に座って柱に体を預けて目を閉じた。
ふわりと、風の中に薄荷とタバコの香ばしい匂いが混じったように感じてりんはうっすらと目を開けた。
「…すごい暑さですね。これが夏ですか…」
わかばは額の汗をぬぐいながら呻いた。
「ピ!」
足元にはシロが小さな足をひょこひょことさせながら付いてきている。
「…だいぶマシになったほうだな。それにここは山が近いから涼しいほうだ」
「ええっそうなんですか?」
りんの横に座ってわかばはふうっと息をついた。
「もう少しすれば秋になるから、それまでは我慢だな」
「秋ですか。」
「この辺りは紅葉が多いから山全体が赤く色づいて奇麗なんだ。野菜や果物なんかも旬のものが多いしな。まあ、冬になれば今度は寒さが厳しいが。ここは雪が深いから静かで、見る分には奇麗なんだ。」
「僕、雪とか見たことないです。気になるなー」
嬉しそうなわかばに、りんは問いかけた。
「…何とかなったのか」
わかばは乾いた笑みを浮かべて頬を掻いた。
「そうですねー、まあ何とか。」
あははと笑ってわかばは答えた。
「よろしくお願いします。りんさん。」
「…こちらこそ」
りんは、つられてふっと笑みを浮かべた。

風鈴がちりちりと風に揺れて鳴り、二人はそのまま縁側で庭を眺めていた。