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丘の学士と少女達

ファンタジーな世界でわかばとりんとワカバとりりが一緒にわちゃわちゃする話。

姉妹たち

りり 本編12話EDシルエットくらい成長したイメージ。世話焼きさん。孤児院でりん達姉妹と暮らしている。
りん 剣士系。剣振り回せる。りりとは遠い親戚。
りつ 孤児院の院長。を押し付けられた模様。
りな 本編分割前のりなちゃんのサイズと頭脳。大体りりと同じくらい。

ワカバ 学士様。賢い。
わかば 本編よりも怖がりになってしまった…。

 

 

躑躅屋敷の女達 第一集

りょう 長女。父が残した会社を一時的に経営中。
    普段はチャイナドレスにコートとかジャケット肩にかけるスタイル。
りく  次女。祭りで神輿担いでそうだが名の知れた刺繍作家。
    普段は作務衣だったり洋服だったり。
りつ  屋敷の切り盛りを一手に引き受ける。りょうの右腕ポジション。
    庭木について一番詳しい。普段は洋服が多め。
りん  女学校卒業後花嫁修業。ただし相手は決まっていない。
    普段は和服が多め。
りな、りょく  女学校在学中。普段は制服や洋服生活。

わかば 植物学の研究者。新人なので使いっ走りが多い。留学経験あり。
仕事などでは英国仕込みの洋服。下宿先、プライベートなどでは和服派。
先輩  わかばの先輩。行く当ての無いわかばに職を紹介したり家に住まわせてくれる。
    同郷の出身。(見た目は同人版の若葉)。ものすごく気の強い婚約者がいる。らしい。

前口上

東京の真ん中、より少し離れた郊外に躑躅屋敷と呼ばれる屋敷がある。
明治のころに建てられた洋風建築と継ぎ足された日本家屋という当時よく作られた形式の屋敷で、開国によって諸外国と植物の輸出入によって財を成した男によって作られたものだという。
やり手であったようで、明治を少し過ぎたころでも日本の植物は西洋においてはまだ珍しいもので、興した会社はよく栄え、事業は一代にしてそれなりの規模の財閥になるほどまでになっていた。
そのようなわけで、件の屋敷は当主の趣味と、栄えた元となった珍しい花や樹木、それに古くから親しまれた花なども集められていた。特に、春になると様々な色の躑躅が屋敷の周りで咲き誇り、少し離れた道の向こうからもその赤紫がよく映えていた。その後も初代から二代目三代目と代が変わった後も勤勉でよく働く当主の下で事業はより多岐にわたり、財を成していったという。
しかし、数年前今の当主が細君とともに旅行の帰りに海難事故で亡くなり、その当時大きな話題になった事があった。
残されたのは、女ばかり六人の子供たちだけである。
当時の新聞や雑誌や口さがない噂好き達の大方の予想を裏切り、娘たちは群がる突然増えた親戚たちの手に遺産を渡すことはなく、事業は粛々とそれぞれの会社で行うことを取り図った。女子供風情の浅知恵と、苦々しく思う者たちも多くいたようで、そこからしばらくは親戚間での会社の金の横領を訴えたの、娘の一人が言い寄る見合い相手に切りかかったのとかなり世間を騒がせたような話題に事欠かない有様であった。

話はそれから更に数年たち、先代が亡くなった当時まだ女学校にいた四女のりんが、卒業してから数か月がたった頃だった。

夏至の頃 本邸

その日、数年ぶりに家族会議を開いたりょうは、相変わらず飄々とした様子であった。
屋敷の洋間に置かれたオーク材の磨き上げられた円卓に、ぐるりとめいめい座った五人の姉妹たちは、りょうが話始めるのを待った。
ただ、ここ最近家に帰ることも稀であった事や、新聞などでも喧伝されていた恐慌の話から、集まった姉妹たちがそれがあまりいい話題でないことをある程度予感していた。
「で、もう面倒だからさ、さっさと前置きとか良いから話せよ」
りくが促すと、りょうは軽く笑って頷いた。
「いやー……お姉ちゃん色々頑張ったんだけどさ……。やっぱちょっと厳しいわな。とりあえず、会社の方は何とかやってくれているから、潰れるってことはなさそうなんだけど……。ちょっと色々整理しないとって話になっててさ」
りょうはいくつか書類を出して、テーブルに置いた。
「横領していたあの親戚からの賠償とかは望めないの?」
りょくの問いに、りょうは難しいわな――と肩をすくめた。
「すぐに現金が得られるわけじゃないし、あの感じだと全部資産は海外に逃がしてるわな――。それにお金の問題もあるけど、こんな状況で働いてくれている人たちの手前、うちらが最初にきちっとケジメつけないと」
「そうにゃね、時代が変わっていっているのに、今までと同じようにとはいかないし」
りつはお茶を飲みながら頷いた。
「りょうが言うなら私は構わない。具体的には?」
りんの問いかけにりょうはぱらぱらと書類をめくった。
「とりあえず、不動産関連から見直してるんだけど……。手始めにこの軽井沢の別邸かな」
「夏にしか行かない屋敷だったし、別に大したことないナ」
りなは事も無げに言いながらテーブルに出されていた饅頭に手を伸ばした。
「すぐに売却ってわけじゃなくて、一応うまい事利用できないかはホテル部門が考えてくれてるんだわ。もしそれでも採算合わなそうなら手放すしかないけど。それ以外だとお父さんが買い集めていた美術品とか骨とう品とかかな」
「どうせ俺らじゃ価値分からんし、それは別にいいんじゃねーの」
「うん、一部は美術館とかが欲しがってるみたいだから、その辺もちょいちょいとやっていく感じかな」
りょうは鉛筆で資産の一覧にチェックを入れて行った。
「んじゃ、この辺ちょっとまた相談してみるわ」
りょうは少しほっとしたのか額をぬぐい、書類を手元の文箱に入れた。
「あ、そうだ。軽井沢の別邸さ、まあ多分今年で見納めだろうからせっかくだしみんなで久しぶりに遊びに行こうか」
りょうの提案に、りなは手を叩いた。
「わーいやったナ!」
「いつくらいにする?」
りょくはカレンダーをぱらぱらとめくった。
「りょうとかりくは仕事的にお盆のころくらいしか休めないんじゃない?」
「まあ私はそのくらいに行く感じだけど、先に行ってていいよ。ただなー、管理人とか今雇っていないからすぐに泊まれるかわからないんだけど……」
「じゃあ私が一足先に行って準備しておくにゃ」
りつが言うとりながぴょんと手を挙げて声を上げる。
「りなも手伝うな」
「私も手伝うよ」
「涼しいなら私も行く」
りんとりょくも手を挙げる。
「俺は今依頼されてる分終わらないと盆休み返上になりそうなんだよな……」
りくは肩を叩いてぶつぶつ呟いた。
「作品展に出品するのに依頼受けるのもどうかと思う」
りょくの指摘にしょうがねーだろとりくはむくれる。
「作品展の締め切り勘違いしちゃってたんだものなー。りくちゃん時々うっかりさんだわな」
「時々ってか割としょっちゅうじゃん。まあ、私がその辺管理してあげてもいいけど」
「お前の管理、秒単位だからヤダ……」
りくは青い顔で呟いた。
「じゃ、今日の会議おしまーい。お疲れ様」
りょうが手を叩くと姉妹たちはめいめい立ち上がって洋間を後にした。
りつは体を伸ばすりょうの肩を叩き、大丈夫? と声をかけた。
「平気平気。面倒な事はほとんど他の人がやってくれてるからねー」
りょうは軽く答えたものの、やはり疲れが見て取れる。
「今日は早めに休んだほうがいいと思うにゃ」
「そうするわー。ちょっと一息ついたしね」
二人は洋間を出ると、りなとりょくの賑やかな声がする居間に向かって歩き出した。

大暑の折 軽井沢

りんは日暮れで薄暗くなってきた道を一人歩いていた。

暑いとはいえ、この時期の軽井沢、日が落ちればどちらかというと肌寒い。
薄いブラウスに、木綿のもんぺでは時折吹く風はかなりこたえた。
これは早く用事を済ませないとまずいと、りんはあたりに目を凝らした。
提灯を手に持っているものの、まだつける必要はなさそうで、下駄をからころと鳴らしながら水田の横を流れる川を時折覗き込んだ。
今年で最後の別邸での夏休みに、蛍を見に行きたいというりなに、外に出ないで済むように取りに行こうと考えたものの、りんはどうしたものかと頭を悩ませた。
昔小さいころに父が蛍のいる場所まで一緒に連れてきてくれたことがあったが、それがどこだったか思い出せない。
虫取り網を持ってきたものの、りんは時折森の方に目をやり、光がないかを見ながら少しばかり途方に暮れていた。
記憶を頼りに、りんは水田から離れて足元の悪い森の中に踏み込んだ。
時折野犬と思われる遠吠えがするような気がして、りんはあたりを見渡した。
ふと、ちらちらと奥に蛍の細い光が見えた気がして、りんは思わず歩みを進めた。
「危ない」
後ろから誰かの声がしたと思ったとたん、一歩先の地面を踏みしめる感覚が消え、りんは大きく前に倒れこんだ。
腕を何かに引っ張られたがりんはそのまま下に滑り落ち、尻もちをついた。情けない声を上げて横に転がってきたのはりんを引っ張ろうとした人間のようだった。
「一体……」
「いやーすみません……。そこ、急斜面になってるから声をかけたんですけど……」
間に合わなかったですね、と青年は言って持っていた提灯の火をつけ直した。
「怪我とかはないですか?」
灯をりんに向けて青年は問いかける。
りんは立ち上がろうとして、足首に痛みを感じて押さえた。
「……軽くひねったみたいですね……。お宅はどこですか」
りんは屋敷の住所を教えると、青年はその辺なら知っていると頷いた。
「無理をするとひどくしてしまうので……おうちまで負ぶっていきますよ」
「い、いい。自分で歩く」
「この辺道が悪いので、その足だと朝になってしまいますよ」
青年の言葉にりんは思わず言葉に詰まる。
りんは青年の背中におぶさり、青年はりんに提灯を渡した。
「すみません、灯がしばらくないので……」
「わかった」
提灯の明かりで道が照らされると、青年は二人が滑り降りた坂を周ってわずかに草が生えていない道を進んで森を出た。すでにかなり日が暮れて月がほんのりと水田が続く道を照らしていた。
「あの、このあたりに住んでる、のか」
りんは青年に問いかけた。ろうそくの火で照らされた青年はどこか線の細さがあり、灯のせいかどこか異国の人のようにも見えた。
「……ああ、すみません、名乗ってなかったですよね。わかばといいます。こっちには先生の仕事の手伝いとか諸々で少し前から滞在してるんですよ」
ちらりと振り向いて青年は笑みを浮かべて答えた。

「……私は……りん」
「住所的には別荘地ですよね。避暑ですか」
「ああ」
わかばはそれ以上は詮索はする気はないのか、やっぱり東京は暑いですからねと頷いた。
「でも、なんで虫取り網なんてもって一人で森に入ったんですか?」
「妹が蛍を見たいと……。昔父が教えてくれた場所が森の方だったと思って探したんだが……」
「確かに、あの辺少し前まではきれいな水場があったそうですが……ここ最近水が枯れてしまったので……今年はその場所では蛍は見ることはできないかもしれないです」
「……そうだったのか」
りんはがっかりして肩を落とした。
やがて、別荘が立ち並ぶ通りに出ると、わかばはあたりを見渡し、りんは
「あっちだ」
と指をさした。りんが指さした先にわかばは目をやると、灯のともる屋敷と、その前でうろうろと明滅する灯に気付いた。
「りん!」
わかばが近づくと、提灯を手に屋敷の前で右往左往していたりつがわかばとりんに気付いて駆け寄ってきた。
「帰ってこないから心配してたんだから。いったいどうしたの?」
「ちょっと、その、転んで……」
「りんねえね、大丈夫?」
屋敷から音に気付いて飛び出してきたりなが、おろおろとりんを見上げた。
「軽くひねったようなので、冷たい水とか、用意できますか? それと、包帯とか」
「わかったにゃ、ああ、よかった……。ご迷惑おかけしてしまって……」
「いえ、向かう方向一緒だったので、大したことじゃないです」
「とりあえず、中に入って」
りつは門の戸を開けて、わかばを通した。表側の洋館のドアを抜け、応接室に通すとわかばはりんをソファにゆっくり下した。
「足は動かせますか」
「ああ、ちょっと痛いくらいで」
わかばはちょっと失礼と声をかけてりんの足に触れて、足首の腫れがないか確認した。
「少し腫れてるようですが……冷やして明日痛みが和らげば大丈夫ですね。もし明日ひどいようならお医者さんに診てもらってください」
ばたばたと水を持ってきたりなと、救急箱を持ったりつが応接室に入ってきた。
「これでいいナ?」
「はい、ばっちりです」
不安げな顔のりなに笑顔で答え、わかばはたらいを受け取り、手ぬぐいを濡らして患部に当てた。
「氷嚢とか、氷枕はありますか。その方が効率がいいんですけど……」
「これでしょ」
ひょこっとりょくが顔を出して、氷枕を手渡した。
「どこにあったのにゃ、そんなのあったっけ?」
「昔使った事があった気がしたから」
事も無げに言っているが、スカートの膝部分に埃がついているのに気づいて、りつはよしよしとりょくの頭を撫でた。
「さすがはりょくちゃん。物覚えがいいにゃー」
「別に、これくらい普通だし……」
ぶつぶつと呟いてりょくはじっとわかばの方に目をやる。どうやら彼のやっていることが気になるようでりんが座っているソファの背後に立ってうろうろと眺め始めた。
わかばはてぬぐいをたらいに置いて、用意された包帯を手早く巻き始めた。
「ひょっとして、お医者さん?」
「いえ、簡単なものだけ教えてもらったんで。専門は別なんです」
「ひょっとして学者なの?」
りょくの目が輝いて、わかばを興味深げに見つめた。
「ええ、まあ」
包帯を巻き終えると、わかばは氷枕に水を入れて金具で止めた。
「これでとりあえず様子を見てください」
りつは礼を言い、わかばは手を振った。
「それじゃ、僕はこれで」
わかばは頭を下げて立ち上がる。
それから、少し何か言うか悩むような様子だったが、りなとりんの方に声をかけた。
「あの、もし興味があったら、なんですけど。今度向こうにある教会の夕涼みの音楽祭があるんです。蛍が見られるところも近くにあるので、もしよければ……」
りなはぴょんと顔を上げて目を輝かせた。
「そんな催しがあったのにゃ。初耳だにゃ」
「ええ、もともとは避暑に来ていたカソリックの人だけしか入れなかったんですけど、ここ最近は地域交流の場にしたいという事でだれでも参加できるようにしたそうです。僕、その辺の手伝いもあってこっちに来ているんです」
「カソリックなの?」
りょくの問いにわかばは手を振り
「いえ、そういう訳ではないですけど。留学していたので通訳なんかを兼ねて手伝ってほしいと」
「りゅ、留学? どこに?」
りょくは思わずわかばに詰め寄った。
「いや、あの……英国……ですが……」
「国費留学って事? そんな優秀なの?」
そうは見えないけど、と言いたそうにりょくは上から下までわかばをしげしげと見やった。
「……いえ、国費ではないです。国費だと大体独逸なんで」
わかばは大して気にもしていないのか笑顔で答える。
「いつ頃なのな?」
りなの問いかけに
「来週の土曜の夜の六時から八時です。ちょっとした食べ物とか飲み物もありますよ。もし参加されるのでしたら当日夕方にご案内します」
「りつねえ、りんねえ……」
ちらりとりなはりつとりんに懇願するように見つめた。
「……来週なら、りょうちゃん達もこっちに来ているから、みんなで行こうか」
「りなや姉さんたちがいいなら私は別に……」
りんはそれだけ呟き、わかばに目を向けた。
「色々、その、ありがとう」
「いえいえ。大したことじゃないですから」
それじゃあ、と頭を下げてわかばは出ていき、礼を言いながらりつが一緒に出て行った。
「りん、何ぼーっとしてんの」
ソファの背後から眺めていたりょくは、りんの頬を軽くとんと指でつついて、にっと笑みを浮かべた。
「ふーん、ああいうのがいいんだ」
「何を言ってるんだりょくは」
ため息をつくりんに、脇からりなも畳みかけるようにうなずいた。
「なー、りんねえねってば顔ずっと赤かったなー。わかりやすいなー」
「え……」
思わず手で頬に触れるとほんのりと指先に熱が伝わってきて、りんはあたふたと頬を叩いた。
「にゃー、良い人がいてくれてよかったにゃ……」
戻ってきたりつはほうっと息をついて居間に入ってきた。
「りん、一人でどっかふらついたらだめでしょ。わかば君がいい人だったから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたか……」
「ごめん、姉さん」
「りつねえ、もともとはりなが無理を言ったせいだから……」
りなはりんをかばうように呟いた。
りつは仕方がないと肩をすくめて
「ちゃんと来週わかば君にお礼言わないとね」
「……う、うん……」
りんは妹たちの視線から目をそらし、首をすくめた。
りつはその様子に知ってか知らずかあえて触れず、手を叩いた。
「さてと、お出かけするんだからちゃんとした恰好しないとにゃー。りょうちゃん達に服を持ってきてもらわないと……」
りなはぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ね
「りつねえね、りょくちゃんとりな、もう大人と同じで良いんだナ? ナ?」
りょくも少しそわそわしながら
「そうだよ。もう十三参りとうに終わったし、私たちも本裁ちでしょ」
「そうそう。だから二人の夏のお出かけ着と浴衣、ちゃんと用意してあるんだから。思ったよりも早く卸せるにゃー。私は今の時期だし、あれを持ってきてもらうとして……りんちゃんは何にする?」
りつの問いに、りんは少し悩んで肩をすくめ
「別に特に無いけど……」
りょくは指を振り
「甘いじゃん。勝負時なんだからちゃんと考えないと」
「なー……。りんちゃんいつも地味なのとか縞ばっかりだし……。たまにはお花とかの柄のがいいと思うなー」
「あんまり派手なのは……」
「まあ私もごてごてした最近の好きじゃないけど……。でもりんのは地味すぎ。……あ、そうだ。りくが昔着てたの借りればいいじゃん。ほらあれ、りくが自分で流水紋の刺繍した、桔梗と撫子の柄のやつ」
りょくの言葉にりつもなるほどと頷いた。
「確かに、あれならちょうどよさそうにゃ。りくちゃんが良いって言ってくれればそれで……、それに博多ならそこまで派手じゃないし良いんじゃない?」
「ま、まあ……多分……」
姉と妹たちに気圧されりんは頷くしかできなかった。
「そうと決まれば明日さっそく電報うちに行かないと!」
りつは何か随分張り切った風に腕を振り、明らかに軽い足取りで出て行った。

お盆の折 軽井沢

姉妹たちは和室に集まりバタバタと準備に追われていた。
すでに日はかなり傾き始めており、六人は鏡台を取り合い、腰ひもが足りないと騒ぎながらバタバタ右往左往していた。
「はい、これりなちゃんの。しつけは取ってあるはずだけど、一応見ておいて」
りょうから手渡された長着を、りなは広げて嬉しそうに掲げた。
りなの本裁ちの揚げのない初めての夏の長着は、すっきりとした空色の紋紗に白い鳥が羽ばたいているような抽象柄が描かれた小紋で、帯は紫である。りょくも同じ空色の紋紗だが、こちらはりょくの好みに合わせたのか蔦模様のなかに花喰い鳥が描かれた少しだけ大人っぽい柄に同じ紫の帯が合わされていた。
「いやー、お姉ちゃん選ぶのすっごい悩んだわー」
りょうはりなに長着を着せながら
「りくちゃんがやたらあれこれ引っ張り出してくるんだからねー。いずれは自分で選びたいだろうに勝手にそろえるのもなぁ」
「りくは可愛いもの好きだから……」
横で自分で長着を着ていたりんが苦笑いを浮かべる。
「だってさー、良い色ってなかなかないんだぜ。やったら地味なやつばっかり押し付けてくるしな」
「いい年なんだから落ち着いた色を着ろって事でしょ」
りんは背中に回した紐を取ることが出来ずにいるりくに紐を手渡し
「大体、りくは少し派手好みじゃないか」
「これくらい普通だろ」
りくは羽織っている長着を翻して答える。黒い絽の長着には色とりどりの花が描かれており、そこに物足りないからと自ら一月かけて刺繍でふっくらとした鳥を数羽さしてある。どうしても動物は外せないらしい。
「みんなどんな感じにゃ?」
すでに着替えを終えていたりつが和室に顔を出す。いつもは時流に乗っておろしている髪を、今日はきっちり結わえて、銀の透かし彫りに珊瑚がついている髪飾りをしている。お気に入りの緑地に秋草の絽の長着に絽縮緬の花紋が描かれた白い帯に、長襦袢の流水紋が動くたびに長着からふわりと浮き上がる。
「りなちゃんは、これでおしまい。りょくちゃんは……」
りょうはちらりと一人で着ているりょくを眺めて
「帯直したら終わりかなー」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いやー、だって後ろ捻じれてるよ」
「え、あれ?」
「まだ一人で名古屋は難しいんじゃないかな」
りょうはりょくの後ろに回って捻じれた帯を直し、帯を締めて
「りょくちゃん、後ろに引っ張るからちょっと踏ん張って」
と言いながらぐいっと後ろに帯を引いた。
「きつくない?」
「平気」
帯締めを締めて、形を整えるとりょうは良しと頷いた。
「じゃあ私も着替えるかなー」
りょうは自分の着替えを手早く済ませて、おさげにしている髪をくるっとまとめて鼈甲のかんざしで押さえた。
「はいはい、じゃあみんな準備完了でいいかな」
長女らしく落ち着いた墨色の絽には、流水に芒がさらりと描かれている。白地に菊の花のような柄のつづれ帯は母から生前譲られたものである。
「はー、一運動したわな」
団扇で扇ぎながらりょうは居間に戻ってソファに腰を下ろした。
「間に合ってよかったにゃー」
「さすがに全員で出かけるってなるとほんと、毎回バタつくんだよな」
「最近は殆どみんなでお出かけ出来ていなかったしね」
「最後にこんなにバタバタ準備したのは一周忌の時じゃないっけ」
「そうだったっけなぁ。覚えてないわなあ」
りょうは天井を仰ぎ見て呟いた。
「あの時は正直どれもこれもばたばたしてたし、りょうはあちこち飛び回ってたし、仕方がないと思う」
りんの言葉にりょうは
「まあ、色々経験出来たから悪い事ばっかりじゃないわな。あとは私よりも強い人がいればいいんだけど」
「切った張ったはもう勘弁だぞ……」
うんざりとりくが呟く。
「あれは不可抗力だわな。あれからはやってないから大丈夫大丈夫」
軽く笑う長女を妹たちは思わずお互いに目配せして何も言わないことにした。
ふと、玄関から誰かの声がして、りつが立ち上がった。
「誰か来たみたい」
りつが出ていくと、玄関先でこんばんは、というわかばの声が聞こえてきた。
「お時間大丈夫ですか」
「みんな準備できているから大丈夫。あれ、わかば君。門のところにあるのは……」
わかばはにこやかに
「いやー、皆さんをお誘いしたって言ったら、教授が知り合いから貸してもらったそうです。少し歩くはずだったので、ちょうどいいと思って」
門の前に止まっている乗合馬車をさしてわかばは答えた。
「わあ、馬車だ」
様子を見に来たりながぱたぱたと下駄を鳴らして馬車に近づいた。姉妹たちも居間から出てきた。
「それじゃ、皆さん乗ってください」
わかばは馬車のドアを開けて、踏み台を置いてドアの前に立った。そして乗り込もうとするりなに手を差し出した。
「な?」
「りなちゃん、レディはこういう時は手を取るんだよ」
りょうに促されて、りなは慌ててわかばの手を取って、すました顔で中に乗り込んだ。
りょくは少しぎくしゃくとした動きで、同じようにわかばの手を取ってから中に入っていった。りつとりくは慣れた様子で中に乗り込んだ。
「あ、りんさん。足は大丈夫でした?」
「あ、ああ。次の日特に問題なく……」
「それならよかったです」
わかばに促されて中に乗り込み、りんはふっと息をついた。
「君がわかば君? 私長女のりょうってんだ。妹を助けてくれてありがとう」
「いえ、大したことではないですから」
「なんか、悪いわな。ここまでしてくれて」
「お気になさらず。皆さんが来るのを教授も、楽団の人たちもすごく喜んでいたので。さ、乗ってください」
りょうが乗り込むのを確認すると、わかばはドアを閉めて踏み台をもって御者台に飛び乗った。
客室側から顔を出したりなにわかばは振り返った。
「りなさん、ひょっとして馬車は初めてですか」
「うん、わかば、馬に乗れるのナ?」
「あはは、まあちょっとだけなら。揺れるので舌噛まないようにしてくださいね」
わかばは手綱を引いて声をかけると、馬はゆっくりと進みだした。

ゆっくりとした足取りで進む馬車に揺られて十数分ほど行くと、会場の教会が見えてきた。すでに人が集まっているようで、ざわざわと賑やかな音が聞こえてきていた。
「着きましたよ。降りるのは少し待ってください」
わかばは御者台から飛び降りて、客車のドアを開けてステップの下に踏み台を置いた。
「どうぞ、前から順番に」
乗る時と同様わかばの手を支えに、姉妹たちは馬車からおりた。
「どうぞ、中に入ってください」
わかばは教会の木製ドアを開けて姉妹たちを中に促した。
「おー、ちょうどいい時間に来たな」
わかばが入ってきたことに気付いた青年が、手を振って開いている席を指さした。
どことなくわかばと雰囲気の似た青年で、さっぱりとした短い髪に人の好さそうな笑みを浮かべている。
「皆さんお忙しいところどうも。僕はわかばと同じ研究室の……まあ先輩みたいなもので。さ、こっち座ってください。もうそろっと始めますんで。あ、プログラムもらいました?」
二つ折りになった紙を姉妹たちに渡し、青年はわかばに向き直った。
「あと教授がくればはじめていいかな」
「そうですね」
りんたちは半円形に並べられた椅子に座り、前に並んだ楽団に目を向けた。
「なあ、あのでかいの何?」
りくの問いに
「座っている人の持っているのはセロという楽器です。立っている人のはコントラバスと言って、大きいものほど低音域が出る楽器なんですよ。ちなみに、今回は小さい音楽祭なので、あちらの指揮者が立つ台の僕らから見て左側が主旋律のバイオリン、第一バイオリンなんて言います。で、その横が同じバイオリンですけど副旋律の第二バイオリン、隣の少し大きい楽器がビオラです」
「へー……。初めて見たわな」
りょうは珍し気に眺めて呟いた。
「わかば、そろそろいいかい?」
指揮棒を持った神父が、にこやかに老人とともに中に入ってきた。
「ああ、教授も来られましたか」
わかばは老人を椅子に座らせて神父に頷いた。
「ビールを飲んでいたのに引っ張ってこられてしまってなあ。まったく……」
ぶつぶつと言いながら老人は椅子に座った。
「それでは、皆様集まりましたので始めたいと思います。お忙しいところ集まっていただきありがとうございます。まずは一曲目はバッハの「主よ人の望みの喜びよ」どうぞお聞きください」
神父は手を広げたまま頭を下げ、コミカルな動きでちょこちょこと指揮台に上り、指揮棒を振った。

アンコールの曲が終わったところで、神父は客に向きなおって両手を広げて頭を下げて笑みを浮かべた。
客席にいた人々が拍手をすると、演奏者たちも立ち上がって頭を下げた。
「今日は皆さまありがとうございました。以上で音楽祭は終了となります」
神父の言葉に、わかば達は立ち上がって教会のドアをあけ放ち、客たちはざわざわと席を立って帰り支度を始めた。
「皆さんどうでしたか」
りんたちに声をかけたわかばにりょくは
「まあ、結構楽しかった……かな」
「お、おう。まあまあ」
何故か口元をぬぐうりくに、りょくはハンカチを渡し
「りくちゃん寝てたでしょー。嘘言っちゃダメだわな」
「ナー……。りくちゃんすっごい良く寝てたな……」
「う、うるせーな……」
「聞いたことのない音で面白かったにゃぁ。これ、金属でできているのかにゃ」
りつは机に置かれていたバイオリンに目を向けて興味深そうにつぶやいた。
「ガット線です。羊の腸の筋繊維をより合わせているんです。弓は馬の毛を使ってて、松脂をこの弓につけてこすることで音を出しているんです」
「ずいぶん詳しいな、扱えるのか?」
りんはおっかなびっくり置かれている楽器に目を向け、わかばに問いかけた。
「え、あ、あー……。いや、知識だけというか……」
「嘘言っちゃいかんぞ。お前確か弾けただろ」
わかばの先輩である青年がにやにやと楽しそうな顔で横やりを入れる。
「あれは、酔っぱらっていた時に無理やりやらせたんでしょうが……。そうそう、りなさん、蛍見に行きましょう。この教会の裏手から行けるんですよ」
わかばの言葉にりなはやったーと声を上げてわかばの手を引いた。
「ちょっと待った。ほら、ランタン」
「ありがとうございます」
出入り口に置かれていた大きめのランタンをわかばに渡して青年は手を振った。
「あまり遅くならないようにな。馬車はここに待機させておくから」
「すみません。よろしくお願いします」
わかばはお待たせしてすみません、と姉妹たちの前を小走りで走って教会の裏手の細い道をランタンで照らした。
「この裏の河原に蛍が集まっているんです。ついたら灯はいったん暗くするので、足元は注意してください」
わかばは説明しながら前を歩いて、藪の中を進んだ。
わかばのすぐ横をりなとりょくが付いていき、姉たちがそのあとを下駄の音をさせながらついていく。
ふわりと、りなの目の前を小さな光が横切り、りなは歓声を上げた。
坂を下ってわずかな水音がする小さな淵まで来ると、わかばはランタンの灯を小さくした。ランタンの強い灯が消え、ほんのり月の光が輝いている淵の傍に、明滅する光が見え始めてきた。
「すっごいたくさんいるナ!」
りなは嬉しそうにくるくると周りながら蛍の光を追いかけ始めた。
「りなちゃん、転ぶからあんまり動き回っちゃだめよー」
「暗いんだから危ないにゃ」
後ろから来たりょう達も、ほぅっとため息をついて淵の周りを飛び交うたくさんのホタルを見やった。
りんは、りなに捕まえた蛍を見せてやっているわかばの脇に近づいた。
「……これはゲンジボタルで、日本で一番多くみられるものですね。このあたりでも一番よくみられるものです。ここのお尻の所が光っているんですよ」
わかばが手で包んでいる蛍を、りなとりょくは若干及び腰になってそっと覗きこんだ。
「……光り方は種によって違うそうです」
わかばはそういうと手を放して蛍を開放した。
「なー、逃がしちゃうのな?」
「蛍は孵化してから数週間しか活動できないですからね。眺めるために取るのは可哀想かなと」
「なな、それならしょうがないナ……」
りなは呟いて、空を漂う蛍を見上げた。
わかばは、立ち上がって横にいたりんに、どうですか? と問いかけた。
「……懐かしい。最後にこうしてたくさん見たのは女学校に入る前に、父に連れられてだったから」
「そうですか。喜んでもらえたならよかったです」
わかばは少しはにかんだ様に笑った。
「……りなも、りょくも、こんなに楽しそうなのを見たのは久しぶりだ」
りんははしゃいでいる妹たちを見つめて、嬉しそうに呟いた。
「そうですか、もし明日以降もここに来たいようでしたら、神父様に言っておきますよ。僕、明日には東京に戻るので、案内できませんし」
「え……」
りんは、思わずわかばの方に顔を向けた。
「……帰るのか」
「はい、教授とご懇意の神父様の手伝いだったので。採取作業もあらかた終わっているし、催しも終わりましたから……」
「そう、か」
りんはふっと息を吐いた。気のせいか、ほんのりと首筋を冷たい風が吹いたように感じて首をすくめた。
「ああ、だいぶ寒くなってきましたね。そろそろ、お送りしますよ。りなさん、りょくさん、そろそろ冷えてきたので帰りませんか。灯、つけますね」
「はーい」
「はいはいなー」
ランタンに明かりが小さく灯り、あたりを少し明るく照らし始めた。
「みなさん、それじゃご自宅まで送りますので」
「いやー悪いね。わかば君」
りょうがわかばの肩を叩いた。
かなりいい音がしたので相当痛かったはずだが、わかばはうっと息を吐いただけでどうにか耐えたようだった。
「懐かしいな、蛍。蛍でなんか作れねーかな……。襟……んー、でも虫だしな」
「あまりしっかり作ると虫っぽすぎるからちょっと難しい気がするにゃ」
「んー……そうかなー……」
賑やかな姉妹たちを先導しながら、わかばはちらりとりんの方に目をやった。
「ねーわかば君」
「あ、はい何でしょう?」
りょうがわかばの横に並んで、にこりと笑みを浮かべたままわかばに声をかけた。
柔和な笑顔の女性だが、わかばは何とも言えない圧の様なものを感じて、若干襟元を押さえた。
「……明日帰るんだって? いつくらい? 早いの?」
「え、あ、えーっと……。午後1時頃に来る汽車に乗る予定ですが……」
「あ、そうなんだ。ふーん、じゃあ結構何とかなるかな」
「はい?」
「こっちの話ー」
りょうは手を振って、意味ありげな含み笑いをした。

翌日の昼、りんはぼんやりと庭の木に水を上げていた。
見るからに元気がない様子に、りなとりょくは挙動不審な動きをしてりんの周りを遠巻きに眺めていた。
りょうはしばらく様子を眺めていたが、しょうがないと肩をすくめて庭に降りた。
「……おーい、りんちゃーん」
「何?」
からん、と下駄の音をさせて緩い浴衣姿の姉に目を向けた。妹のひいき目を差し引いても、この姉のうちから自信にあふれた艶やかな姿は羨ましいものだった。
「……ちょっとさー、お姉ちゃんと駅の方までドライブしない?」
「え、りょうの運転……?」
「ちょっとだけだからさー」
りょうはりんの返事を待たず、ぐいぐいとりんの肩を後ろから押して部屋の中に戻った。
「じゃあ着替えてさくっと出かけよー」
りょうは下駄を放って部屋に戻り、りんはしょうがないと呟いてりょうの下駄をもって玄関へ下駄を置いてから着替えをしに部屋に戻った。

夏用の濃紺と白のボーダー柄のリネンのワンピースを着て、日よけに帽子をかぶり、りんは姿見の前で一回りした。
―まあこんなものでいいだろう。
軽く白粉を叩いて紅を引くと、りんはとりあえず出かけられる格好になったと判定して、タンスからサンダルを出して、それに合わせる小さなバッグを引っ張り出してバタバタと玄関に出た。
すでにりょうは外に待っていて、外地から父が贈ってくれた中華式の立襟にすっきりとした刺繍を施したスリットの深いワンピースにジャケットを羽織っていた。
足技が使えるから気に入っていると言っていたのはまさに姉らしい。
りょうは運転席に乗り、りんは助手席に乗り込んで、屋敷から出た。
「そういえば、りんも運転覚える?」
「え、いや、私は……うっ」
舗装されていない曲がりくねった道をかなり大胆に進む姉の運転に舌を噛みそうになり、りんは呻いた。
「……そこまで……いいかな」
「自分で運転できると、結構視野広がるよ。いける場所が増えるし」
りんは一瞬はっと息を吸い込んで姉を見つめた。
「……姉さんは、私に結婚を勧めていたと思うけど」
「そりゃあ、良い人が居れば、って思うからねえ。でも、別に急いでやれなんて、言ってないよ」
「それは……」
「家にこもっているのが嫌なら、ちょっと外に出るのもありだよって話さ。無理強いする気はないよ」
がん、と大きな石でも踏み越えたのか、車体が大きく揺れりんは頭を思わず押さえた。
「よし、間に合った」
「はあ?」
りょうは駅の前に車を止めると、目を白黒させているりんにぽんと何か包みを手渡した。
「ほら、急いだ急いだ」
「え、いや、あの。これ何?」
「お弁当。渡してきてあげて。私たち代表して」
りんは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐい意味を察して徐々に頬を赤くしてパクパクと金魚のように口を開けた。
「悩むより動く方がいい時もあるのよー」
りょうはもう一度手をパタパタと振って、降りるようにりんに言い、りんは慌てて降りた。
りんは、駅の中に入り、停車場の中を見回した。

人はそんなにいない。
汽車はすでに来ていて、今まさに乗り込もうとする人々がぱらぱらと並んでいた。
ふと、見たことのある淡い色の髪がちらりと見え、りんはそちらの方に向かって駆け出した。
カツカツと響く靴音に気付いたのか、わかばが音のする方に目を向け、驚いたようにりんを見返した。
「……りん、さん? どうしたんですか?」
「いや、あの……」
りんは、持っていた包みをわかばに渡した。
「その、昨日は世話になったから、私達姉妹から」
「え、わざわざ? ありがとうございます。お弁当、ですね。大事に食べます」
嬉しそうに包みを両手で持つわかばに、りんは息を吐いた。
「……あ、そろそろ出発なので。みなさんによろしくお伝えください」
「あ、ああ。あの……また」
りんは思わずわかばの服の裾をそっとつかみ
「あの、また会うことは、出来ないだろうか」
りんの問いに、わかばは、思わずえっと声を上げ、少し考え込んだ。
「……それは、あの、りんさんが良いのであれば……。あの……」
発車の合図が鳴り、わかばは慌ててカバンを開けて、名刺ケースを取り出して万年筆で裏に何かを書いて渡した。
「すみません、今これしかなくて……。九月は僕ずっと研究室にいるはずなので……。もしその、よろしければ」
りんは名刺を受け取り、わかばは急いで汽車に飛び乗った。
「九月、必ず行くから……、その……」
りんは手を伸ばして声をかけ
「はい、楽しみにしています」
伸ばしたりんの手に軽く触れ、わかばは手を振った。

やがて花開く君へ

今日もばたばたと賑やかな姉と妹のやりとりを、りんは朝食をとりながら眺めていた。いつも思うが、どうして女というのはこんなに毎日賑やかでないといけないのだろうか。
部屋からスカートのファスナーを半分あげた状態、キャミソール姿という半端な恰好でりょうが出てきて
「りくちゃん、私の服持ってかないでよ、それ今日着るんだから」
「ええ、りつ! あれって乾いてたっけ?」
慌てて畳まれていた服をばさっとひっくり返す姉にりつが悲鳴を上げ
「りょう姉、ちょっと髪ゴム貸してー。また切れちゃったな」
髪を纏めようと悪戦苦闘していたりながりょうを呼び
「ちょっとりな! 私の制服じゃんそれ!」
二階の部屋からりょくが叫んでいる声が聞こえる。
「……にゃー、えーっとりくちゃんの服……あ、ごめんちょっと素材がデリケートだったみたいだからデリケート洗いにしちゃって……まだ多分乾いてないかも」
りつはとりあえずぐちゃぐちゃになった服を片付け、一枚服をりくに渡した。
「私の服着ればいいにゃ」
りくは渡された服を眺めて難しい表情をし
「……りつの、胸んところがでかいから私着ると見えるんだよな」
ぶつぶつ言いながらりつから服を借りてその場で着替え始める。
大体いつも似たような感じだ。
髪がまとまらないから何かないか、服がどこかに消えた、制服をお互い寝ぼけて間違えた、化粧品を間違えて使ってしまったなど枚挙にいとまがない。
以前、自分をうらやましいなどと言っていた同級生がいたが、一日でも立場を変えれば絶望するだろうきっと。
りんはごちそうさまと手を合わせて食器を流しにおいて自分の分を洗い始めた。
「あ、いいのよりんちゃん。私やっておくから」
「忙しそうだし、いいよ別に」
りつにそれだけ言って自分の分だけをとりあえず終わらせ、りんは嵐の去った洗面台に立って歯を磨き始めた。
「行ってきまーす」
りなとりょくがリビングに向かって叫んで外に飛び出し、りょうもバッグを肩にかけて慌ててパンプスを突っかけて出て行った。。
「んじゃ、りつ。後よろしくな」
「はいはいにゃー」
車のキーを持って出て行ったりくを見送り、りつはやれやれと肩を回した。
「毎日賑やかよねー」
「まあ、静かよりはいいんじゃないか」
「そうよね……。りんは学校遅刻しないの?」
「うるさい教師が校門から居なくなるのがあと少しだからもう少し待つ」
口をゆすいで顔を洗って、男の子としては少しばかり長い髪を器用に結ぶ。
おそらくその髪を切ればいいのでは、と思うが、りんが髪を切るのを嫌がる理由を知っているだけにりつは触れない事にした。
それに、少し最近弟の様子が気になっていた。
――これは試しにカマかけてみるかにゃ……
「それだけ?」
「それだけって?」
りつの問いかけに、りんは表情を崩さずに姉を見つめた。
「何でもないにゃー。外で作業してるから、遅刻しないようにね」
りつはりんの肩をとんと軽く叩いて勝手口から出て行った。
少し静かになったリビングで、コーヒーを飲んで時間を確認して頃合いを見てりんも外に出た。
一瞥し、りつが作業をしている様子を確認すると、りんは角を曲がって学校に向かった。その、後ろ姿を見送ってりつはふうっと息を吐いた。
大きくなってからというもの、素っ気ないそぶりが多くなってきているがそれでも姉の目はごまかせなかった。
――あんなに嬉しそうに出かけるなんて……好きな人でも居るのかしら
りつは、そろそろ開きそうな蕾を見つめて考え込んだ。

わかばは鼻歌を止めてふと時間を確認した。
「あれ、もうこんな時間か……」
温めていたスープを器によそい、きれいにテーブルに並べて、良しと頷く。
エプロンをソファにかけてぱたぱたと二階の主寝室のドアを開けた。
一番広い寝室は、主の部屋となっている。どうやら昨日もかなり遅い時間まで何か書き物をしていたのか、机の上には何かの文書と、辞書と文献が海のように広がっていた。この惨状で果たして論文など書けるのだろうか。わかばには分からなかった。
「博士ー。もう、いつまで寝てるんですかー?」
ベッドに転がる物体を一瞥し、わかばはカーテンを引いて問答無用で窓を開ける。ふわりとまだ夏になる前の朝の少しだけ冷たい風が部屋に流れ込んできた。
「……うぅ……。ちょっと寒いよ……」
もぞもぞとミノムシのようにベッドの上で丸まった物体が動き、ひょこりともじゃもじゃの髪が飛び出した。そのままずるっと頭を出し、毛布の中から亜麻色のような色合いの色素の薄い髪色に、眠たさでしょぼつかせた焦げ茶の瞳の青年がのっそりと出てきた。
「もう、とうに朝ご飯の時間ですよ。起きないと、取り上げてりりさんにあげちゃいますから」
「それは勘弁……。もう、ちょっと待って……」
億劫そうに、青年は大きく伸びをして起き上がった。
「おはよー……」
博士と呼ばれた、ほぼわかばと同じ顔立ちの青年はわかばの頭を撫でて、気の抜けた笑みを浮かべた。
「はい、おはようございます。博士」
つられて同じように笑みを向けるわかばに、青年はその言い方はちょっとなぁと言いながらわかばの後ろをついていった。
食事の席に着くと、二人は向かい合って、手を合わせていただきますと声をそろえた。
「今日のご予定は?」
「えーっとね……。遠隔地の研究者と電話会議が……十一時頃にあるかな。多分お昼跨いじゃうかも」
「それなら、サンドイッチとか用意しておきましょうか」
「うーん、そうしてもらえると助かるよ」
悪いねえ、と少し眉を下げて青年は呟く。
「好きでやっている事ですから」
わかばはわずかに、ほっとしたようなくすぐったそうな笑みを浮かべて答えた。
どうやらまだ半分寝ぼけている青年はゆっくりと咀嚼しながら食事をし、わかばは時間が気になるのか時計を時折見ながらスプーンを動かした。
「ごちそうさまです」
先に食事を済ませると、わかばは箒を持って外に出た。
わかばは、大体朝の八時ころになると庭に出てポストをチェックしつつ、庭や家の前の掃除をするようにしている。
どうやら家の向こうに学校がいくつかあるようで、学生たちが通学する様子が見えるからだ。
「えーっと……」
ポストの中を開けると、数枚のはがきと手紙が入っていた。取り上げてすべて宛名を確認し、エプロンのポケットに押し込む。
庭の草や木の葉を掃いていると、ちりん、と自転車のベルが鳴り、弾けるようなかわいらしい声がわかばの耳に届いた。
「おはようわかば!」
「おはようございます。りりさん」
セーラー服姿の少女が自転車を家の前に横付けし、わかばに声をかけた。
「ワカバはいる?」
りりは首を伸ばして家の方に目を向け問いかけた。
「ええ、まだ朝ご飯を食べていますよ。半分寝ているようなものですが」
「あはは、わかばも苦労するよね」
「りりさんは、今日は帰り寄って行かれますか」
「うーん……何もなければちょっと寄ってってもいいかな……?」
そういうものはあまり分からないわかばでも、りりがワカバ――博士を慕っているのは明らかだった。朗らかで明るいこの少女の事を気に入っているわかばとしては、彼女の細やかなお願いは叶えてあげたかった。
「ええ、もちろん。博士も喜びます」
わかばの言葉にりりは嬉しそうに、そうかな、と笑みを浮かべた。
じゃーね、と手を振って自転車を漕いで、角を曲がるりりをわかばは見送った。
この街に越してきたから数か月経つが、りりのおかげでかなり周りともうまく行ってきているようだ。
もっとも、わかばはこの街に来るまでの記憶がほとんど朧気で何も覚えていないのだが。
りりの姿が消えて、さらに少し経ち登校する学生たちの数がまばらになった頃、わかばはふと掃除の手を止めてふらふらと視線を漂わせた。
「……あ」
どこの学校の制服かは分からないが、年代的に高校生くらいだろうか、少し硬い表情を浮かべた学生がふらりと脇の道から出てきた。どうやらそれなりに長い髪のようだが、変わった形にまとめており、ポケットに手を突っ込んで、漫然と歩いてきた。
わかばはあまり見てはいけないと思いつつ、ちらりと学生の様子をうかがいながら箒を動かしていた。
ほんのり、赤みの強い髪色に同じように少し変わった色味の目をした青年である。
ワカバはあまり筋肉がつかないんだよねー、と悲しげに呟くほどに線が細く顔もあどけない印象だが、こちらの青年は歳よりも大人っぽく――あるいはそう見せたいのか――硬い表情をしていた。
青年は何とはなしに、というような様子で家の方に目を向け、少し歩く速度が遅くなった。
庭にはわかばやワカバが育てている研究用の植物や、単純に以前の持ち主が植えたものと思われる低木があり、いずれもわかばが手入れをしていた。今の時期は薔薇が良く咲く時期で、庭の薔薇も小さいながら香しく咲いていた。
青年はふと、誰も見ていないと気が緩んだのだろうか、庭の花を見やり、一瞬だけ表情を緩めた。
本当に一瞬の表情の変化だ。
よく見かける人だと眺めていたわかばは、少し前にその表情の変化に気付いて、何となく毎日様子を眺めるために外に出る習慣がついていた。
学生はふと、こちらを見ている事に気付いたのか視線が動いてわかばと目が合った。気のせいか、わかばを見てさっと顔色が赤くなったようだった。
都合の悪いところを見られて恥ずかしいのだろうと、わかばがにこりと笑いかけようとする間もなく、慌てた様子で青年は家の前を横切って姿を消した。
「……はあ」
またしても、声をかけ損ねてしまった。
何故か少しがっかりしたような不思議な気持ちになり、わかばは思わず息を吐く。
リビングから様子を眺めていたのか、ワカバが庭に降りてきた。
「また失敗?」
「はい……。いつもあそこでお花とか眺めているんで、興味あるならいくつかお渡ししようと思ったんですけど」
ワカバは何とも難しいという表情を浮かべ
「……うーん、まああの年の子は色々とあるからね」
「色々?」
「そ、いろいろ、ね」
大きくのびをしながら部屋に戻るワカバを、言っていることがいまいちわからず、わかばは不思議そうに見送った。

りんは角を曲がってわかばの視界から見えなくなった事を確認してから大きく息をついた。
りんがその家に人が入った事に気付いたのは、実のところつい最近であった。

両親が亡くなって、六人家族の中で一人の男子という事は、今のご時世でもやはり大なり小なり気を張ることが多かった。それはたとえば姉たちが一般常識からするとすこしばかり、相当、かなり強いが、それと世間一般から求められている物は別である。
何より、大きくなってあまり素直に表に出す事はなかったが彼にとって姉妹達はもっとも大事で愛すべき存在だった。
それ以外には正直なところ心に波風を立たせるような物も存在せず、漠然と早く就職した方がいいだろうと考えるくらい、淡白で執着のない人間だった。

ちょうど寒暖の差が激しい春の時期だった。
珍しく体調を崩したりつに、自分はどうすればいいかを悩み不安を覚えていたりんは、学校に向かう途中、ふと、嗅いだことのある匂いに気付いて思わず視線をさ迷わせた。
風が吹いてきた方向へ目を向けると、随分長い間空き家だったはずの荒れ果てた庭がいつの間にかきれいに手入れされている事に気付いて、りんは思わず立ち止まっていた。
――いつの間に、こんなに花が?
花や植物は正直良く分からないが、姉がどれほど手間をかけて植木を育てているかを知っているりんは、わずかに気分が明るくなった。目にとめた花は姉が好きなバラのような花だった。もっとも、似たような花がいくつか並んでいるのでバラのように見える、というレベルでしかりんは判断できないが。
ガタン、とバケツを落としたような音がして、りんははっと音のする方を向いた。リビングの掃き出し窓から家主らしき人物が箒をもって外に出てきた。
りんに気付いた様子はなく、何か口ずさんでいるのか口元が小さく動き、上機嫌に掃き掃除を始めた。
正直、ぱっと見た限りでは少女とも言えるあどけない表情の女性だった。
体が動くたびにふわふわと柔らかな髪が揺れ、サイズが合っていない服が時折体の動きに合わせてきゅっとカーブを描く体の線が現れた。体つきから察するに、少女ではなく、りんと同じか向こうが年上……なのかもしれない。
掃き掃除をしながら彼女は庭の方――りんが立っている柵の方に移動してきて、そのとき初めて家の前に立つりんに気づいたのか、ふっと息を吸うような声とともにりんに視線を向けた。
とん、と突然りんの鼓動が跳ね上がり、頬に赤みが差してきたのか自分でも分かった。
――何で?
戸惑い、思わず凍り付いたように突っ立っているりんを彼女は不思議そうに見つめ、何か言おうとしたのか口を開きかけた。
りんはきっと不審な自分に対して警告を口にするはずと思いつき、慌てて逃げる様に走って角を曲がって彼女の視界から隠れた。
彼女から冷たい言葉を言われるのは嫌だと思う考えが浮かび、冷たい目で見られる事を想像し、りんは思わず頭を抱えた。
その感情が何かは分かっている。姉妹達がよくそういう話をして自分をからかうし、お互い話し合う事もある。しかし、なぜ自分がそうなってしまったのかが分からなかった。

「……はあ」
ため息をついて、りんはベンチに腰を下ろした。
あの家の前を通り、毎朝家主――とりんは思っている――彼女を見かける様になってすでに何週間か経っていた。
最初の一週間は、それがただの思い過ごしと思うために彼女がいそうな時間に家を出た。次の一週間で、顔を見る位なら別に何も問題ないと考え、翌週は立ち止まって花を見る振りをして、更に翌週にはひょっとしたら向こうから声をかけて来るのでは? とわずかに期待するようになっていた。
何をやっているんだ。
りんは自販機で買ったジュースを蓋を開けてぐいっとあおるように飲んだ。
まるでやさぐれたおっさんのようである。
「まーたため息ついている」
隣の中学校の敷地側からひょこっとりりが入ってきた。
「ななー、最近ずっとこんな感じなんだな」
りりの後ろからジャージ姿のままのりなが現れ、同じようにベンチに腰を下ろした。
「別に、ついてないぞ」
嘘ばっかり、とりりは言いながら
「さっきしっかり聞こえたよ。ほら、お弁当」
りりはバッグから可愛らしい柄の包みに入れられた弁当箱をりんに渡した。
「ああ、悪い。……りょくは?」
「りょくちゃんは今日委員会の日だから来られないな」
以前りつの体調が優れないときに作ってもらっていたが、りつが作ることが出来るようになってからも、りりがりんの分も一緒に作るようになって、こうして持ってきてくれていた。どうやらりなと一緒に作ったり、メニューを考えているようで三人の弁当はほぼ同じ物がかわいらしく詰められていた。ただし、りなは自分の分のお弁当を含め買っていた菓子パンをいくつか膝に載せて、パンにかぶりついている。
「いい加減、教室とかで食べれば?」
「……落ち着いて食べられないから嫌だ」
りんは苦々しそうに呟き、包みから弁当を取り出して手を合わせた。
りりは、りなと顔を合わせて肩をすくめた。
実のところ、二人ともよく羨ましいと言われたが、りんはそれなりにりり達の中学や、近隣の高校などでも人気がある。らしい。
幼いころから知っているりりやりなからすると、表情が出やすく面倒事も背負いこむ困った兄、であるが、外から見るとぶっきらぼうながら女子にやさしく――単に姉妹が多いから慣れているだけだが――格好いい、らしい。
今も何か分からないが百面相しているりんを観察しながらりりも自分の分をバックから取り出して、包みをあけた。
「……お前達こそ、友達と一緒じゃなくていいのか。別に付き合う必要ないぞ」
相変わらず、妹たちを気遣うように問いかけるりんに、
「うん、別に気にしないよ」
りりは事も無げに言いながらブロッコリーを口に放り込んだ。
「でも、ほんとにどうかしたの? ここ最近結構ぼーっとしていること多いよね。何かあった?」
「いや、別に……」
もそもそとばつが悪そうに卵焼きを食べるりんの横顔を、りりはじっと睨みつけた。りなは特に何も言う気は無いのか、もくもくとお弁当を食べ終わってデザートのパンに手をつけている。
「んー……その感じ……。だれか気になる人がいるとか」
適当に当たりをつけてみると、りんが大きくむせてせき込んだ。
本当に、嘘のつけない兄である。
そんなんじゃない、と慌てたようにジュースを飲んで落ち着かせたりんは、
「……通学路の途中の……家にある花、姉さんが喜びそうなやつだなって思って」
と、言って顔をそむけた。
顔を見られると付き合いが長いだけ、何かバレるとわかっているからだろうが、りりの方からは耳が赤くなっているのが見えてバレバレである。
りなとりりはアイコンタクトをして頷き、ひとまず気づかないふりをしてそのまま話を続けることにした。
「通学路って……えーっと……どの辺?」
りりは地図を頭の中に描きながら問いかけた。
「……この間まで空き屋だったあのちょっと庭の広い……」
「ああ、じゃあわかばの家? ひょっとして」
りりは脳裏にわかばを思い浮かべて納得した。
あの辺りで他にりんが気になりそうな女の人は彼女くらいしかいないはずだ。
ひとまず、今はりんを警戒させないために話を合わそうと、わかばの事は黙っておくことにし、りりはりんに向き直った。
「誰?」
聞いたことのない名前にりんは眉をひそめた。
「少し前に、空き家だった広いおうちに引っ越してきたんだよ。よく遊びに行くの」
「へー……りなちゃん全然気づかなかったな」
「だって、あの辺りなは通らないでしょ。歩きだし。自転車通学してると、あっちの方から行くと駐輪場にすぐ行けるからみんなそっち通ってるんだよ」
りりは、そうだと手を叩き
「今日帰りに顔見せるつもりだったからついでに一緒に行こう。お花も少しもらえるか、私から聞いてみるよ」
「それがいいな! な! りんちゃん!」
有無を言わせない表情で二人に迫られ、りんは思わず頷いていた。

夕方、りりは自転車を引きながらりんと歩いていた。
りなは部活に呼ばれてしまったため、りりとりんだけである。
「なあ、りり。やっぱり、迷惑になると思うからやめないか」
普段学校や外では見せない、自信のなさそうな顔のりんに、りりはため息をついて指をさした。
「情けない! そんなふにゃふにゃな態度でどうするの? りつのためでしょ」
ぐうっと呻くような音を発してりんは黙りこんだ。
正直、心の準備も何もかもが出来ていなかった。そもそもいつも女子から声をかけられる方であったから自分から言うシチュエーションを全く想定していなかった。当然シミュレーションも全く出来ていない。

いや、そもそもりりの言っている人物がりんが見かけた人物かどうかも分からない。はたと気づき、そうに違いないと思って納得しかけたりんは見覚えのある、低い木製のフェンスで囲われた家の前で自転車を止めたりりに、りんは思わずりりの自転車を引っ張った。
りりはそれを無視をして、自転車を柵に立てかけ玄関前に立ち、後ろで何か言っているりんを無視してチャイムを押した。
『はい』
「あ、こんにちは、りりですけど」
『はーい、すぐ開けますね』
女性の弾んだ声が応答し、すぐに玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、りりさん。……それと……あれ?」
顔を出したわかばは、りりと、後ろに立っているりんに気付いて、にこりと微笑んだ。
「あ、こんにちは。いつも前を通っている学生さんですよね」
りんは、思わず首をすくめるように頭を下げた。
「あ、わかばも知ってるの?」
りりの問いに、わかばは知っているというか、と少し首を傾げ
「いつも、家の前を通るときに庭のお花を見ているようだったので……」
そうですよね、と同意を求められて、りんはまあ、とか、はあ、とか呟いた。
「りりさんとお知り合いだったんですね。せっかくですから中に入ってください。博士も喜びます」
りりは、思わず顔をひきつらせたりんを見て
「うーん、今日は二人で来ちゃったからいいや。ただりんがちょっとお願いがあって」
りりは軽くりんを小突き、わかばはりんの方に目を向けた。
「どういうご用件でしょうか?」
まっすぐ目を見つめられて、りんは
「あ……その……」
かあっと頬を赤くした。わかばは不思議そうにりんを見つめたが、ふと思いついたのか
「わかりました、今日の朝眺めていた花を分けてほしい、という事でしょうか」
「え? あ、ああ」
頷いたりんに、わかばはやっぱり、と手を叩いて嬉しそうに
「きっとそうじゃないかと思ってたんです。ちょっと待っててくださいね」
軽い足取りでわかばは庭の奥へ行き、剪定用のはさみでいくつかりんが見ていた花をぱちぱちと切って小さな花束を作って、戻ってきた。
「……今日の朝見ていたお花をいくつか切ったんですけど……、これくらいで大丈夫ですか?」
「あ、あり、がとう……。いや、姉がこういうの、好きだから……その、助かる……」
りんの言葉にわかばはどういたしましてと笑みを浮かべた。
「これくらいなら、いつでも言ってください」
花を受け取ったりんは、どうにか頭を下げた。
「それじゃ、ワカバによろしくね」
りりは突っ立っているりんを再度小突きながらわかばに手を振った。

「それじゃ、りん。明日ちゃんとまともなお礼言ってね、一人で」
りりは言いながら、りんの抗議ともとれる呻きを無視して、自分の家の中に自転車を押して入っていった。
りんはりりが家の中に入ったことを確認してから自分の家の中に入った。手に持った花はまだ瑞々しく、ふわりと華やかな香りがしていた。
――名前、わかば、って言ってたっけ
りんは、思わず大きくため息をついて玄関の戸を開けてただいまと声をかけた。
奥から出てきたりつは
「おかえりにゃー。にゃ? どうしたのりん、その花」
「りりの知り合いが育てて、少しもらった」
要点だけを切り出して答え、りんは無造作にりつに花を渡した。
りつはりんの差し出した花束を受け取り、ほうっと息をついた。
「すごいきれいに咲いてる……。本当にもらっていいものなのかにゃ……くれた人にお礼、言ってほしいにゃ」
「あ、ああ、伝えておく」
りつは、一瞬ぎくしゃくとした動きになった弟に目ざとく気づいていたが、特に何も言わずに上機嫌で花瓶を探しにいった。

「ねえ、りょくちゃん」
「何よ」
二段ベッドの上から顔を出したりなに、机に向かって本を読んでいたりょくは顔を上げた。
「最近のりんちゃん、何とかならないかなー」
りなの相談に、りょくは本を閉じてため息をついた。
「何の話?」
「なー……最近のりんちゃん、ちょっと変だから」
「……あれね」
何かあったのかという点はりりから大体聞いて知っている二人は、こっそりりんの部屋をのぞき見た。
うろうろと檻の中の猛獣のようにウロウロそわそわ動き回るりんに、二人は目配せし合ってそっと部屋から離れる。
「で、何であんな風になってるの?」
「ななー……。えっと、りつねえねにりんちゃんが持ってきたお花、りんちゃんの好きな人からもらってきた物なんだって」
「それは聞いたけど……それが何でああなるの……」
りょくは思わずめがねのフレームをいじりながら呟く。悩むりんを慮ってりりが機転を利かせてわざわざ会話のきっかけまで作ったというのに、状況がよくなっていないように見える。りなも何とも言いがたい表情でベッドに片肘をつき
「どうやってお礼すればいいか分からなくて、もう何日もあの状態なんだなー」
「あほ兄……」
りょくは思わず眉間をぐりぐり押した。
「普通に言えばいいじゃん」
「なー……りりが一緒に居た時の感じだと会話がまともに出来ないらしいナ」
「別に女子と会話できないわけじゃないのに、何してるんだかあの兄は」
「りりが言うには特別な人だと難しいかもねーって」
りょくは鼻で笑って本を脇に置いた。
「とは言ってもうちらでも対案は無いしなー」
「しゃべるのが苦手なら、なんか、お手紙書いてみるとか……。お花渡してお礼するとかすればいいんじゃないかな」
りなの提案にりょくは少し考え
「確かに、とりあえず物に託すってのはありかも。花ならりつにあげたからお返しって感じで、まあ変ではなさそうだし。家にあるお花ならりんもまだハードル低くなるか」
りょくは少し頭の中で問題が無いかを考え、よしと頷いた。
「それなら、アホ兄に話つけてみるじゃん」
りょくとりなはバタバタと音を立ててりんの部屋に向かい、ドアをノックした。
「どうした?」
気のせいか若干目の下に隈があるように見えるりんが顔を出した。りなとりょくは無言でぐいぐいと兄を押して無理矢理部屋の中に入った。
「なんだ一体……」
妹たちに甘いりんは二人にされるまま椅子に座った。
「何だは無いじゃん。兄貴が面倒な事になってるみたいだからアドバイスしようと思ってんの」
「……あのなあ」
額に手をやり首を振りながらりんは面倒そうに二人を見やった。りなはまあまあと手を振った。
「りんちゃん悩んでるみたいだし、りくちゃんに気付かれる前に何とかしてほしいな」
りくの名前に思わずりんの顔が引きつって思わず座り直した。こんな状態の弟などりくからしたら恰好の遊び道具である。もちろん弟が嫌い、などというわけではなく彼女やりょうからすればりんは未だに抱っこをねだっていた可愛い少年なのである。
「で、何を言いに来たんだ」
りんが話を促すとりょくは腰に手を当て兄を指さした。
「お礼に悩むなら、物とかに託してしまえばいいって話よ。会話できないんでしょ」
りょくの話にりんはため息をついて
「それはもう考えた」
りょくは思わずえっと声を上げりなは不思議そうに首をかしげた。
「え、そうなのな? じゃ、なんで悩んでるな?」
りんは口をむうっと難しげに閉じて黙っていたが
「何を贈ればいいか思いつかない……」
二人は一瞬視線を合わせて、ゆっくりとりんを見つめた。
「え、なんで?」
「別にお礼の気持ちなんだから何でもいいんじゃないかな」
二人の言葉に、りんはそういう物なのか? と疑わしそうな顔をした。
「それこそ、花をもらったわけだから、うちで育てている花とか、いいと思うじゃん」
りょくはまだ首をひねっている兄の手を引っ張り
「ほらほら、善は急げって言うじゃん」
「庭の花、りつねえねに聞いてみるのな」
「そうねー……。私花は……そこまで詳しくないし」
「りなも食べられるやつ以外はあんまり興味ないなー」
りなもぽんとベッドから飛び降りて、りんの手を引っ張った。
「ちょ、ちょっとま……」
抗議の声を上げようとしたりんは、じろりと妹たちに睨まれて思わず口を閉じた。
りょくとりなに半ば引きずられるように部屋からでたりんは、庭で作業をしているりつに声をかけた。
「……姉さん」
「にゃ、どうしたの? りん、とりょくちゃんとりなちゃんも」
サンダルをつっかけて出てきた三人に、りつは首を傾げた。
「りんちゃんが、この間りつねえねにあげたお花の人に、お礼にうちのお花あげようかなって」
りなの説明にりつはええ、とりんに目をやり
「まだ言ってなかったの?」
「それは……」
うっと痛いところを突かれて下を向く弟に、よしよしと頭に手を置き
「りんは、ほんと真面目に考えすぎにゃ。昔もホワイトデーのお返しに悩んで知恵熱出したし」
りつの話に思わず妹たちはりんを見上げ、りんは姉さん! と思わず声を上げた。
「それで、結局どうするの?」
「なー、お花もらったからお花で返すのがいいと思って」
「りん、まともに会話も出来そうに無いみたいだし」
弟の代わりに答える妹たちに、はいはい、とりつは頷いた。
「りんは、それでいいの?」
りんは頷いて
「毎日花の手入れを姉さんみたいに楽しそうにしてたから、好きだと思うし、いいかなとは、思う」
庭木の世話をしていたわかばの様子を思い返し、りんは答えた。
「……そういうことなら、わかったにゃー。あの立派なバラと釣り合うものってのは少し難しい気もするけどー……そうねー……」
りつは庭の花々を見ながら
「送りたい相手の印象とかから選ぶといいっていうけど、どういう感じの子?」
りんは脳裏にわかばのイメージを思い浮かべる様に、視線を上方にさ迷わせた。
「……全体に……ふわっとしていて……髪の毛とかなんかふわふわしてて。柔らかそうっていうか……。線も細いし……」
ふと、りんの目にちょうど咲き始めたほんのりピンク色のきれいな花に目を留めた。
「……なんか、こんな感じ……な気がする」
りつはりんが指さした花を見つめ、なるほど、と呟いた。
「芍薬の花なら、女の子が貰ったら嬉しいと思うにゃー。ちょっとまって」
りつはりんが指さした花と合わせて白の花も数本切って、りんに渡した。
「はい。しっかりね」
りんは、ばつが悪そうに一瞬目を伏せた。

半ば追い出されるように出てきたりんは、いつものようなすたすたと躊躇いのない足取りからは程遠い、引き摺るような足取りで歩いていた。
どうやって声をかければいい、から始まり、今りんの頭の中ではありとあらゆるシチュエーションが駆け巡っていた。
角を曲がって印象的な庭と他とは違う建築様式の家が目に入り、りんはいよいよ口から心臓が飛び出そうな気分で家に近づいた。

何というタイミングか、今まさにリビングの掃き出し窓からわかばが出てきていた。
まだ挨拶も決められていないりんは、角から出る所からやり直そうと踵を返そうとしたが、ぱちっとわかばと視線が合った。
「……あ」
りんの所まで声は聞こえなかったが、口の形からそう言っているように聞こえた。
わかばは手を振って柵のそばに寄ってきて、りんは、こうなればやけだとでも言うようにわかばに向き直って歩み寄り、ぐいっとわかばに袋に入れた花を押し付ける様に差し出した。
「……?」
「その、うちの庭にあったきれいなやつ、もし良ければと思って」
差し出された袋を開けて、わかばは声を上げた。
「ピオニーの花、ですか……」
りんは思わず首を傾げた。姉が言っていたのはもう少し和風な名前だった気がする。そう伝えると、わかばは耳をくすぐるような声で笑い、
「……日本語では芍薬ですけど、英語だとピオニーというんですよ。より正確にはもう少し長い名前ですけど……。でもどうしてこれを? バラと違って、時期を過ぎると中々無いんですよね」
いいものですよね、とわかばは花を顔に近づいて香りをかいだ。
「……いや、何となく……。雰囲気が似てたから」
りんはわかばのふわふわと軽やかに揺れる髪と幾重にも重なって咲く芍薬の花を指して言った。
「……ええ、似てますか?」
そうかなーと、まんざらでもないのか口元をかなり緩ませてわかばは笑った。
「どちらかというと、りん、さん……でしたよね」
名前を確認するように問われ、りんは頷いた。
「ああ」
「りんさんの方が似ている気がしますけど」
どこが? と訝し気に眉を寄せるりんに、わかばはこく、と首をかしげて逆に問いかけた。
「ピオニーの有名な花言葉知ってます?」
「……いや?」
思わずつられて首をかしげるりんに、わかばは小さく笑った。
「恥じらい。はにかみ」
りんは、はあっと不思議そうに息を吐いた。
「恥ずかしがり屋の妖精が恥ずかしさのあまり、ピオニーの花びらに隠れ、花も赤く色づいた、という古い民話があるそうです。本当かは分からないですけど……」
わかばは持っていた花の茎を指先で回して
「……ほら」
ピンク色の芍薬の花を一本取りりんの頬の傍に近づけた。
「りんさん、恥ずかしがり屋なんですねー」
そっくりです、とふわりと可笑しそうに、声を立てて笑った。
りんは一拍分の間を開けて意味を理解し、更に顔を赤くした。それと同時に、無意識のうちに口をついて言葉がこぼれていた。
「好きだ」

一瞬、わかばはきょとんとしたままりんを見つめ、沈黙が降りた。少しするとわかばは数回瞬きをし、意味を理解したのか今度はわかばの頬にみるみる赤みが差してきた。
「えっと……」
何か言おうと口を開き、また閉じてわかばはりんを見上げた。
「あ、いや……その今のは……」
りんは思わず手で口を押さえて
「いや、ちが……わないけど、ああ、今日言うつもりは無かったって言うか……ああもう」
頭を振ってりんはわかばの両肩に手を触れ、少し頬は赤いものの真面目な表情に変わり
「い、いきなり言われても困るだろうから、その……今すぐ、いうのは……いいから」
りんはそれだけ言って、踵を返してもと来た道を走って行った。

部屋の中から眺めていたワカバは、わかばが帰ってきたときには何事もなかったように、ソファに座ってお茶を飲んでいた。
「何かあった?」
「え……、あ……」
上の空だったわかばは何となくもらった花束をそっと体の陰に隠して呼吸を整えるように胸を押さえ
「あの、ちょっと猫が通りがかっていたので……」
「……そう……顔が赤いみたいだけど風邪でも引いた?」
「え……えっ? 気のせいですよ!」
わかばはバタバタと自室に戻っていき、ワカバははあ、とため息をついて腕を組んで額に押し当てた。
これが娘を持つ父親なのか、とワカバは心の奥底から安堵ともに寂しさを感じていた。

期末テストが終わった開放感を覚えながら、りんは駅前の賑やかな繁華街を歩いていた。本当は学生たちはうろついてはいけないのだが、今日は誰も気にしないで寄り道をしている生徒たちがちらほら見えた。
姉妹たちに何か買っていっていこうか、と、ふと思いついてりんは繁華街の中を通って、りつがよく買っているケーキ屋の前まで来た。
すうっと冷たい風が吹き抜け、思わず空を見上げた。
そういえば天気予報でところによってはひどい雨や雷が鳴るだろうと言っていた気がする。
姉たちが傘を持っていくか、スカートにするかパンツにするかと論争しながらクローゼットを引っかき回していたのを思い出して、りんは少し悩んだ。最終的に、どうせ後は家に帰るだけだし、買い物をして帰るまでなら大丈夫だろうと判断し、戸を開けようと手を伸ばした。
――あれ?
ケーキ屋のガラス扉にちらりと見知った姿が映ったように見え、振り返った。
どこかに向かうのか、行ってきたのか、わかばは小ぶりのバッグを手に歩いていた。りんがいることには気づかないまま、彼女は角を曲がっていった。
りんは思わず後を追いかけた。
実のところ、わかばからははっきりとした答えをまだもらっていない。
思いを伝えた翌日からわかばは朝庭に出てこなくなり、そのままりんはテスト勉強などで出る時間が変わってしまっていて顔を合わせることがなかったのだ。
特にどうしたいという考えはなかったが、りんはわかばがあまり人通りのない道に入ったことを確認し、後を追いかけて声をかけた。
「わかば」
「え」
わかばは、うわっと声を上げて驚いて、振り返った。
「あ、りんさん。今日は学校は……?」
「期末テスト最終日だから早帰り。何してたんだ」
「博士が封書を送るのを忘れていたみたいで……。郵便局に行ってたんです……」
わかばはそろり、とりんを見上げた。
「あの」
「あの後、何かあったのか」
りんの問いに、わかばは恥ずかしいのか顔を赤くして
「すみません……。その……ちょっと熱を出してしまってて」
りんは思わず驚いた声を上げてわかばを見つめた。
「大丈夫、なのか」
「はい。あの……三日くらいで元に戻ったので……ごめんなさい。ご連絡できなくて」
わかばは頭を下げ、
「りんさんから言われたことをずっと考えてて……それであの……寝付けないというか……頭が熱くなってしまって」
お恥ずかしい、と顔を赤くしてわかばはうつむいた。
「言われたときは頭が真っ白になってしまって……でも……とても嬉しかった。これは、きっとりんさんと同じ……という事なのかと」
「それは……」
りんはわかばの言葉の意味が徐々に脳に浸透したのか、ゆっくりと顔色が赤くなっていった。
「あの、りんさんの事……好きです」
わかばは胸のつかえが取れたような晴れ晴れとした笑みを浮かべりんを見つめた。
「あの、大丈夫……ですか?」
わかばは無表情になったりんに思わず問いかけた。
「ああ、別に、平気」
片言の日本語で、かくかくと頷いてりんは答えた。

ぽた、と大きな雨粒がりんの頬に当たり、りんは思わず空を見上げて呻いた。
「まずい、雨降ってきた」
「本当だ。しかもこれ……」
パラパラと音を立てていた雨粒は、すぐに音が変わって滝のように激しく降り出してきた。
「り、りんさん。とりあえずうちの方が近いので雨宿りしていってください」
りんはわかばに自分の鞄でひさしを作ってやっていたが、わかばに引っ張られるようにして後をついて行った。

かなり急いだものの、二人は上半身がずぶ濡れの状態でわかばの家にたどり着いた。わかばは玄関から廊下、居間など通る部屋のすべての電気をつけながらりんを居間に通して、タオルを数枚持ってきてりんに渡した。
煌々と明かりがついたものの、家の中は気のせいか人気がなく、しんと静まりかえっていた。
「あれ、誰もいないのか」
「はい、今日は博士は会合に参加する必要があるそうで」
わかばはふうっとため息をついて
「本当は私が熱を出した日にやる予定だったそうなのですが……私の看病をするために日付をずらしたんです」
がっかりとした表情を浮かべるわかばにりんは首をかしげ
「まあ、家族なんだし……そこはしょうがないんじゃないか」
「それは……でも、厳密には私博士に保護されただけなので家族かと言われると」
「……双子のように見えるのにか」
りんは思わず呟き、わかばはまあ、と言葉を濁した。
「詳しい事は実は分からないんです。ただ、気がついたら博士が明るい場所に連れ出してくれた……ような、ぼんやりした記憶があるんですけど」
わかばは、濡れたりんを見上げて
「うーん……着替え……博士ので入るかな……」
ブツブツ考え込み、やがて頷いた。
「とりあえず、着替えがあるか見てきますね」
ぱたぱたとわかばは二階に駆け上がって、クローゼットをあさっているのかゴトゴトと天井から音がしてきた。
りんは、わかばの言っていたことを思い返しながら、タオルで髪を雑に拭いた。
余計な事を考えてはいけない。雨で服が張り付いて思いがけず露わになっていたわかばの体の事など自分は見ていない。
思いのほかメリハリがあったという事も考えてはいけない。
「すみません、りんさん」
「う、わっ」
戻ってきたわかばに驚いて妙な声を上げたりんに、わかばは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに手に持っていたシャツをりんに渡した。
「これ、一応……着られるか試してもらえます?」
おそらくワカバのものだろうシャツを受け取り、りんは案内された風呂場の脱衣所に入った。
りんは制服のシャツを脱いで、わかばに渡した。わかばはそれを洗濯機に入れて乾燥をセットした。その間にシャツに袖を通していたりんを見て、わかばはうーんと呻いた。
渡されたシャツはそこまで小さいという事はなかったが、首回りや胸のあたりが若干足りず、第二ボタンあたりは止める事ができなかった。
「やっぱり……博士よりここの筋肉があるからちょっとキツいですよね」
つ、とおそらく特に深い意味はないのだろう――りんの鎖骨から下に指を走らせ、わかばは呟いた。
「乾燥まで時間がかかりますので、お茶入れますね」
わかばは一人百面相しているりんにはどうやら気づかずにそのまま脱衣所から出て行った。
りんは、頭が冷えるのを少し待って落ち着いたところで居間に戻った。
「ちょうどお茶入りましたよ」
わかばはカップをりんに渡してソファを勧めた。
「……まだ雨止んでないのか」
外ではかなり雨音が激しく、時折雷の光が光り、雷の音が響き始めていた。
「はい、さっきテレビ見たら二時間程度で止むような事は言ってたんですけど」
わかばがテレビをつけようとリモコンをとった途端、一際明るく外が光り、直後に地響きのような振動と音が鳴り響いた。
これはどこかに落ちた、とりんが思ったと同時にふっと部屋の明かりが消えた。
「停電……? ここだけ?」
りんは立ち上がってリビングの窓から外を見ると、まだ日が陰る時間ではないがかなり暗く、周りの家々の明かりもすべて消えていた。どうやらこのあたり一帯で停電になったようだ。りんは振り返ってわかばに声をかけようとして、
「……どうした?」
わかばは力が抜けたように床に座り込んで、浅い呼吸をしていた。暗がりで分からないが顔色も悪いのではないだろうか。肩に手を置くとかすかに震えているのに気づいた。
「す、すみません」
引きつったような笑みを浮かべ、わかばは咄嗟にすがるように肩に置かれたりんの手に触れた。
「まあ、結構でかい雷だったから」
わかばは少し首を振り
「暗いところが……どうもだめで」
そういえば家に入るときも電気をすべてつけて回っていた事をりんは思い返した。
「寝るときとか、どうしてるんだ」
「最初の頃はそれこそ博士にくっついてないと眠れなくて……今は明かりをつけたまま寝てます」
わかばはどうもしっくり来ないのか、そろそろそと隣に座ったりんに体を寄せてきた。
「あの……もうちょっとだけ……近づいていいですか」
「…………ああ」
若干の間を置いてから頷いたりんに、わかばはようやっとほっとしたような表情になり、りんの体に少し寄りかかるように向きを変えた。
ふわりとわかばの髪がりんの首や頬をくすぐり、りんは顔がかっと熱くなるのを感じた。
「……その……さっき言ってた」
「はい」
火照りを誤魔化すように軽く咳払いし、りんは言葉を続けた。
「厳密には家族じゃないってのは、あいつが言っているのか」
「いいえ、博士はもっと普通でいい、と言ってくれるのですが……」
「なら、別にいいんじゃないか」
「そうは言いますけど、やっぱり私を引き取った事で、その、責任とか、いろいろどうしても負わないといけないじゃないですか」
「負わせたくないのか」
「……迷惑になりますし、引き取ってもらった事でもう十分なので」
りんは、なんとはなしに天井の方に目を向けてぽつりと
「りりも、最初の頃あんまり馴染まなくて俺の事遠巻きに見てて……。後で聞いたら迷惑になるかも、とか思ってたって言ってたな」
わかばは何か言おうとして口を開き、ふっと息を吐いてりんを見上げた。
「責任は、まあ確かに負う事になるけど……妹たちみたいに兄さんと呼んでくれたのはやっぱり嬉しい」
「そう、なんですか」
「頼られたら、まあ、嬉しい。兄として向こうが扱うって事は、信用とか、頼ってくれていると言う事だから」
りんの言葉をわかばは考え込むように聞き、やがて何かを思いついたのか
「博士も、呼んだら喜んでくれるでしょうか」
「え、兄さん、とか? まあ、あの感じだと喜ばないって事はないと思うが」
りんの答えにわかばは嬉しそうに小さく笑い、りんの肩に頭をぐりっと押しつけた。
「りんさんはすごいなぁ」
「何……なにが」
若干裏返った声に一瞬なり、りんは咳払いして言い直す。
「暗いところに居るのに、今はあまり何とも思わないんです」
「そう……か」
りんは少し躊躇ってからわかばの頭に手を置いて撫でた。

ワカバは急いで玄関の戸を開けて中に入った。案の定、中は暗く静まりかえっている。
「ただいま。ごめん、遅くなって。大丈夫?」
何かあったときのためにと用意していた大きめのLEDランタンを玄関の戸棚から出して明かりをつけ、ワカバはランタンを持って居間に入った。
「え……っと?」
ワカバはどう反応すればいいか分からず、うたた寝しているりんと、隣にくっつくように寝ているわかばをしばし眺めて立っていた。
ちょうど、停電も回復したのか明かりがついて居間や、廊下が一斉に明るくなった。
「……えーっと、お二人さん?」
明るさと、呼ばれた事で飛び上がるようにりんが跳ね起き、りんの動きに合わせてわかばが目をこすりながら起き上がった。
「あ、博士、お帰りなさい」
「ただいま」
わかばの頭を撫でて返事をすると、ワカバは首をかしげてりんを見つめた。
「あの……雨宿りさせてもらってて」
「ああ、あの雨に当たったんだ。災難だったね」
「あの、博士の服貸してしまってるんですけど」
「別にいいよ。でもうーん……」
ワカバはりんを見つめて、何か思うところがあったのか悲しげに首を振った。
「まあいいや。でも……彼の服は大丈夫?」
「ああ! 乾燥が……」
わかばは慌てて洗濯機を見に走って行き、呻くような声を上げた。
「ああ、停電で止まってる……。すみませんりんさん、アイロンかけて見るんで、ちょっと待ってもらえます?」
わかばはばたばたとアイロンを引っ張り出してきて半乾き状態のシャツにアイロンをかけ始めた。
「あの、一応借りた服、洗って返すので」
ワカバにりんは頭を下げたがワカバは手を振って
「気にしなくていいよ。ところで、何もなかったよね……?」
笑顔のままのワカバの問いにりんはこく、と頷いた。
「そんな怒ってないよ。ただ順番は守ってほしいだけで。今日は一人でなくてよかった」
ありがとう、とワカバはりんの肩を軽くぽんと叩いた。

どうにかりんにシャツを返し、帰るりんを見送ったわかばは居間に戻った。
「今日はどうでしたか」
わかばの問いに、ワカバは楽しかったよ、と言ってお土産のお菓子を指さした。
「バタバタしてたから言えなかったけど、りり達が来たらみんなで食べよう。彼もね」
「そうですね」
わかばは頷き、少し間を置いてワカバに声をかけた。
「あの……いいでしょうか」
「何?」
「もし、嫌でなければ何ですけど」
ワカバは広げた学会誌を脇に置いてわかばを見守った。
「りんさんが……言ってたんです。頼ってくれると嬉しいって。……偶にはその、呼んでもいいですか?」
「ん、なんて?」
「兄さ、ん」
ワカバは一瞬きょとんとした表情でわかばを見つめていたが、徐々に相好を崩して
「偶に……だけ?」
「あ、えーっと、時々……」
慌てるわかばに、ワカバはえへへ、と擽ったそうに笑った。
「お兄さんかぁ。僕、一人っ子だったからなぁ」
喜ぶワカバの様子に、わかばは初めてここまで嬉しそうにしているように見え、ほっと息を吐いた。

次にりんに会ったときにこの事伝えよう。明日は来るだろうか。来てくれたら……なんて言おう。

わかばは弾む足取りでキッチンに向かった。

雨に降られたりくはブツブツ文句を言いながら洗濯かごに服を入れようとして、あれと首をかしげた。
りんも雨に降られて濡れたと言っていたが、それらしいシャツが二枚、しかも気のせいか片方のシャツは若干サイズが違うように見える。好奇心に駆られて引っ張り出していると、二階から下りてきたりんと目があった。
「りく、帰ってたの……か」
「んー? さっきな。ところでさー、りん。これ誰の?」
りくはにっと笑みを浮かべて弟の肩をトントンと叩いた。りんは、思わず視線をそらして
「友達……の兄弟のシャツ……借りたから」
「友達なら別にそいつから借りればいいだろ? わざわざ兄弟の物借りないだろ普通」
恐ろしい事に、この姉はこういう時なぜか勘が鋭かった。りくは冷や汗を流す弟ににこやかな顔と、とびきり優しい声音で言った。
「で、そのお友達ってのは可愛い?」

君の帰り着く場所

 りんは手桶の水を墓石にかけて清めた。
新しい線香に火をつけ軽く振って置く。
本当はチューリップを買ってこようとしたが、街のショッピングモールに入っている花屋はあいにく売り切れていた。
姉が育てていた花も季節外れの寒さと鹿に食い荒らされてしまっていたから今日は普通の仏花を供える。
手を合わせて、線香の灯を消してから他に忘れ物がないかを確認して手桶をもって墓地を出る。
それなりにあったかつての近所の人たちの墓も、街やもう少し街に近い場所にある集落へ移され、もはや古い崩れかかったような墓石しか残っていない。
崩れかかった家や更地になった家の前を通り、家に続く道をだらだらと歩く。
墓参りの後はいつもそうだ。
家に向かう一歩がいつも重い。
ふっと息をつこうと何とはなしに上を見上げて、りんは吐き出しかけた息が止まった。
それが何か、頭が理解する前に黒い影は地面に叩きつけられて道の真ん中にごろごろと転がった。
上空で息絶えた鳥、にしては大きすぎる。

 目の前に転がるそれを見つめ、りんはそれが何かを認識することを拒否した。
理解の範疇を超えている。
無視する、という選択肢が頭をよぎったが、放っておけば獲物があると気づいた猪などが下りてくるかもしれない。
恐る恐る、りんは転がっているそれを見下ろした。
思いのほか、大変な状態になっていない。
「おい」
ようやっと、それに声をかけて、応急救護の時のように軽くゆすってみる。
「うー…」
もぞもぞと間の抜けたうめき声をあげてそれがぴくりと動いた。
死んでいない。

―いや、そもそもなんで生きているんだ

何もない空から落ちてきたそれは、りんが見た限りでは十メートル以上うえから降ってきていた。
それとも自分の見間違い、なのか。
飛行機もヘリも飛んでいないのにどこから落ちてきたのか、理解の範疇を超えているので考えないようにしていたが、ぼんやりしすぎてよく見ていなかったのだろうか。そもそも居たことに気づいていなかったのだろうか。
妹が貸してくれた本にそんな話があった気がする。
りんは目の前に転がる人間を見下ろす。
見た限りでは目立った怪我もない。
「おい、大丈夫か」
もう一度、声をかけてみる。
ぴくりと眉が動き、瞼が開く。
こげ茶の澄んだ瞳がりんを見つめ、開いていた瞳孔が焦点を合わせるようにすっと細くなり、瞬いた。
「…あれ…?」
青年はゆっくりと頭を振って起き上がった。
「どこか、怪我は?」
「…いえ、大丈夫、だと思います。僕は…」
青年はゆっくりと首を振って、息を吐いた。
「どうしてここにいるんでしょうか…」
「どうしてって…」
こちらが聞きたいことだ。
「覚えていないのか」
「はい」
不思議そうに自分の手をしげしげと眺めて青年は言った。
ぐっと手を握ったり閉じたりしているさまは生まれたばかりの子供が手の感触を確かめるようにどこか危なっかしい。
「名前は?」
「…わかば、っていいます」
青年は頭に手をやって、少し考えこんでから首を振った。
「なんか僕、それ以外どうも分からないですね」
「は…」
思わずりんの口から空気の抜けるような音が出た。
「それは…大丈夫、か」
そんなわけがない。
いよいよ自分の脳の処理能力を超える出来事になってきたことにりんは眩暈がしてきた。こういう時、姉たちや聡い妹なら何とかしてしまうのだろう。
青年は特にりんの言葉に気にする風でもなく、笑顔を向けた。
「はい、別に何ともないです。あ、そういえばお礼言ってなかったですね。助けてくれてありがとうございます」
わかばはりんに頭を下げた。
「べ、別に。助けるって…そんな大した事をしたわけではないから」
「そんなことないですよ。僕起きて一人でここにいたら正直途方に暮れちゃってたと思うんで。そういえば、お名前、聞いてもいいですか?」
「…りん」
「り、ん。りん、さん。きれいな名前ですね」
異国の言葉を覚えるように一音一音噛むようにつぶやき、わかばは頷いた。
「べ、つに、普通にある名前だ。」
何故かわからないが最初の音が裏返って慌てて咳払いをして声のトーンを落とす。
知恵熱だろうか、体温がぐっと上がってすぐにふっと下がり、心拍数の乱高下が止まらない。
「立てるのか」
「はい、大丈夫です」
言いながらわかばは立ち上がって服についた砂や汚れを払った。
その動きだけでもすでにふらふらとしていて今にも後ろに転がってしまいそうだ。
「…すぐそこが私の家だ。とりあえずはそこで休んだほうがいいだろう」
わかばの腕を肩にかけて支えりんは歩き出した。
「すみません…」
わかばは小さく詫びてりんに支えられて歩き出した。

りなっちは一番に玄関に飛び込み家の奥に向かって叫んだ。
「ただいまな!」
「おかえりみんな」
転がるように走ってきた妹たちに、客間から出てきたりんは声をかける。
「りんねえね、お客さんな?」
りなじは玄関に置かれた見慣れない靴に気づいて問いかける。
「ああ、少しの間静かにしててくれ」
「了解な」
「わかったのな」
りなぞう、りなよは頷いた。
「いつ帰るのな?」
りなこの問いにりんは少し言葉を濁して咳払いをした。
「もう少ししたらだ。さあ、みんなさっさと宿題を終わらせなさい。でないとおやつは無し」
「な、なな!」
「それは困るな!りなむも急ぐな!」
二階にばたばたと駆け上る妹たちを見送り、りんは台所に入った。
「りん、はいこれ。ちょうどよかったにゃ」
お茶のお盆を渡してきたりつに、りんは礼を言う。
「ごめん、姉さん。面倒になるよね、これ」
「何言ってるにゃ。道に倒れていたのに無視するなんて、りんじゃ無いにゃ」
りつは冷蔵庫に入れておいたものからお客に出せそうなものがないかとがさごそとあさり始めた。
「…にゃー、お客さんなんてずいぶん久しぶりだからなかなか無いにゃー。とりあえず、お茶だけ先に出してもらえる?」
「あ、うん」
「大丈夫にゃ、わかば君?とっても良い子そうにゃ。そんな大騒ぎするようなことじゃないにゃ」
「いや、えっと…」
珍しく歯切れの悪い返事の妹の様子にりつは探し物をした手を一瞬止めた。
「どうかしたにゃ?」
「いや、何でもない」
りんは逃げるようにあちこちひっくり返し始めた姉を残して台所を出て、客間に戻った。
客間では、わかばが不思議そうに部屋の中を眺めていた。
「それは何ですか?」
「ただの煎茶だ。昔はちゃんとしたものを出していたんだが…」
「わあ、変わってますね。気になるなー」
お茶を注いでわかばの前に置き、りんはわかばの向かい側に座る。
わかばは湯呑を手に取って少し口をつけた。
「おいしい、すごく!香りもいいですね。不思議だなー」
わかばの言葉にりんは思わず自分の分を飲んでみた。
別になんてことはない普通の茶だ。
まあ、喜んでいるならいいのだろう。
「おまたせにゃー」
りつが客間に入ってきた。手にはかき集めた果物やお菓子が雑多に置かれている。
「どうぞ好きなもの食べてにゃ」
「ありがとうございます。でも、これがおいしいので大丈夫です」
「喜んでもらえてよかったにゃー」
―100グラム1000円以下のお茶なんだけどにゃー…
りつは少しばかり胸が痛くなるのをごまかすように、咳払いした。
「…それじゃ、改めてりんの姉のりつにゃ。りんから聞いたけど、何処から来たのかわからないって…。」
「そうなんです」
「何か、身元が分かるようなもの、持ってないのかにゃ。財布とか、手帳とか…」
「…えーっと…」
わかばは困ったように頬を掻いて、ポケットから何かを取り出した。
「実は、さっきちょっと自分でも探してみたんですけど…これしかなくて」
テーブルに並べられたそれは、葉の葉脈をデザイン化したような不思議なしおりのようなものだった。
「…これは?」
「ケムリクサです」
「見たことないし、聞いたこともないな」
「んー…でもこれ、ずっとポケットに入っていて…」
わかばは一枚に指を置いて滑らせる。ほのかに葉が橙色に光り、葉の表面に読み込み中のマークのようなものがくるくると回りながら浮かび上がった。
「動かせるんですが…どうしてこれだけ持っていたのかは残念ですが…」
思い出せないんですよね、とわかばはふっと息を吐いた。
「ほかには何もないのか」
「ええ…」
りんとりつは顔を見合わせた。
「少し待ってもらっていいかにゃわかば君」
「はい」
りんとりつは客間から出て台所へ向かった。
「…わかば君、ちょっと変わった子にゃね。」
「だいぶ変だよ…。こんな辺鄙なところに倒れていておまけによくわからない物を持ってるし…」
「んー…りょくちゃんがいればその辺色々分かったかもしれないけど。ここには居ないし…」
「みんながいればもう少し知恵が出せたかもしれないな」
「とはいえ、今は私たちだけだしにゃ…。街の警察に届けるのが良いんだろうけど…すこし、様子を見てみる?」
「まあ、あのひょろっこさなら妙な気を起こしたとしてもなんとかできるとは思うけど…筋肉もほとんどないみたいで軽かったし」
「不思議な子にゃね。でも、やっぱり悪い子には見えないにゃー。りんも、そう思ったからうちに運んだんでしょ?」
「別に、そんなに難しいことは考えたわけでは…」
「そうかにゃー…子供のころは、よく怪我した烏とか、ムササビとか蝙蝠とか、抱えて飛び込んできたにゃ。あの時の顔にそっくりだったにゃ。もう、何とかしてあげないと、っていう…」
「人間はそんなレベル超えてるよ」
「気にしないにゃ。みんな同じようなもんだにゃ」
りんは思わず首を振る。やはりこの姉は若干おおざっぱだ。
りつはお湯の入った保温ジャーを手に取った。
二人は客間に戻ろうとしたがふとりんが二階のほうに目を向けた。
上にいるはずの六つ子たちの気配がまるで感じられない。
いつもなら宿題一つやるのにとんでもない騒ぎになるのにだ。
二人は嫌な予感がして顔を見合わせた。
「…静かすぎないか」
「…静かすぎるにゃー…」
二人は音をたてないようにそっと客間のふすまを開け中を覗き込んだ。

「なな!わかば、これは何かわかるか」
りなっちの持っているものを手に取って、わかばは首を傾げた。
「えっと…なんでしょうか」
「リモコンだな!こうやって赤いところを押すとテレビがつくな!」
りなじがリモコンをりなっちからとってボタンを押すと、夕方のワイドショーが客間にガンガンと流れ始めた。
「へーすごいですねー!」
テレビとリモコンを見ながらわかばはしきりと感心する。
四つん這いでテレビに近づいて眺めるわかばの背中にりなじがどんと乗っかり、うっとわかばがうめく。
「わかば本当に何も知らないのな」
「そんなんでお外に出られるのな?」
「道でクマに食べられちゃうんじゃないかな」
「鈍くさそうだもんなー」
「なな!」
いつの間に下に降りてきたんだと、りんは眉間を思わず強く押した。
わかばにまとわりつきながら、妹たちは客間にあるものをあーだこーだと指さしててんでばらばらに喋り、わかばは大真面目にそれらにリアクションをとっていた。

 りんはため息をついてすぱん、と客間の戸を勢い良くあけた。
妹たちの動きが止まり、ワイドショーの音だけが響いた。
「全員部屋に移動!」
「きゃー!!」
ばたばたと走って逃げる妹たちをりつが走らないでーと後を追いかける。
「妹たちが迷惑をかけたな」
ポットをテーブルのわきに置き、りんは急須に湯を注ぎ、わかばの空になった湯呑を手に取る。
「いえ、大丈夫ですよ。色々なもの、教えてもらったので」
わかばはどうやら妹たちから教えてもらった通りに、リモコンをとってテレビの電源を消し、リモコンホルダーに差し掛けた。
「…にぎやかな妹さんたちですね」
「ああ。ちょっと度が過ぎることもあるがいい子たちだ」
「そうですね」
「姉さんと少し話した。事情が色々ありそうだから、何かわかるまではまあ、少しの間なら居てもいい」
「本当ですか」
「何か妙な真似をすればすぐにでも叩き出すが。」
「ありがとうございます。りんさん。あ、そうだ。りんさん、何かしてほしいことありますか。」
「なんだいきなり」
「りなっちさんたちが教えてくれたんです。このあたり、怖い動物がいるから、そのままだったら食べられてただろうって。りんさんに助けてもらわなかったら、僕、そのまま死んでたと思うんで」
「…っ」
りんは思わず言葉に詰まり、持っていた自分の湯飲みを落とした。
「だ、大丈夫ですか」
「…ちょっと、滑らせただけだ」
りんは咳き込みながらわかばから顔をそらした。

ミドリ

 はあ、とりつは何度目かわからないため息をついた。
幸い商品のほうに被害がなかったから、それでよしとするしかない。
頭では理解できているが、それでもがっかりとした気持ちが消えず、りつは鉢植えを抱えた。
「姉さん」
「おはよう、りん。」
裏山から帰ってきたりんは、りつの持っている植木鉢に目をやる。
「…また食われていたの」
「そうみたいにゃー。」
りんは眉根を寄せて植木鉢を見下ろした。
先週食べられずに残っていた最後の鉢植えだったはずだ。
「ごめん、色々対策を取ってみたんだけど…」
「りんのせいじゃないにゃ。どうしようもないにゃ」
りつは齧られてしまった花の苗を愛おしそうに撫でた。
「出荷しないといけない野菜のほうはまだ被害がないから、この子が守ってくれたと思ってまた育てるにゃ」
「もう少しネットとか、獣除けの電気柵を増やしてみるよ」
「あまり広げても全部維持はできないにゃ。無理はしなくていいにゃ」
「でも…」
「ほらほら、りん。もう朝の作業は終わってるんだったらご飯食べて少し休むにゃ。せっかく家にいるんだからちゃんと休むにゃ」
「…わかったよ。姉さんも、日差し強くなってきたから気を付けて」
「わかってるにゃ、ちゃんと帽子しているから大丈夫にゃ」
目をこすりながら家の中に入っていく妹を見届けて、りつははあっとため息をついた。
妹に甘えてしまっているという自覚はある。
この家に自分のやりたいことのために一人で残ることにしたのは自分なのに、気づけば山の管理はほとんどりんがやってくれているし、妹たちの事もかなり目を配ってもらっている。
一人でこの家にずっと居続けるのは本当は限界なのだ。
一番下の妹だって学校のことを考えれば街にある学校のほうがいい。
両親が死んだときがちょうどいいタイミングだったはずなのだ。
「よっと…」
植木鉢を抱えなおして歩き始めると、玄関の戸が開いてひょこっとわかばが顔を出した。
「おはよう、わかばくん。よく眠れたかにゃ」
「あ、はい。皆さんずいぶん早いんですね。あのりなっちさん達は」
「学校に行ってるのにゃ。わたしは農作業があるし、りんは山で作業があるからどうしても早いのにゃ。起こしちゃったかにゃ」
「いえ、僕睡眠はそこまで…あれ、りつさん。…それはどうしたんですか?」
「大したことじゃないにゃ。山からきた鹿に芽を食べられちゃってにゃ…」
「動物…。ずいぶん人のそばまで来るんですね」
「最近雪があまり降らなくなったせいで越冬できる鹿の数が増えてしまっているんだにゃ。裏側の山をどっかの業者が削ったらしいから…食べ物を探してここまで来てしまっているんだにゃー。りんが色々頑張っているんだけど…数が多いから…」
りつは垣根のそばにある大きな木に目をやった。
「あそこにある桜の木も、毎年鹿が齧ったりするからだいぶ弱ってきているのにゃ…」
わかばは少し考えこんで、ふと、何かに気づいてポケットから例の不思議な葉を取り出した。
「りつさん、それ、少し借りてもいいですか」
「どうぞにゃ。もうそこに埋めてしまうつもりだったから」
植木鉢を受け取り、わかばはそっと地面に置いた。
「たぶん、これで…」
仄かに緑色に光る葉の茎側を口にくわえ、息を吸い、齧られてしまった苗に向かって、そっと息を吹きかけた。
ふわりと、薄荷のような匂いと香ばしい匂いが広がり、苗が緑色に光り、もぞもぞと、としか言いようのない動きで動き出した。
よくテレビで芽が出る様子を10倍速で再生しているような動きだ。
しかし、よく見ていると齧られてほとんどなくなっていた葉が徐々に長く伸びてきて、さらに茎が土の中から生えてきた。
するすると茎は伸び続け、やがて伸びるのが止まると今度は先端が膨らんで蕾の状態になり、動きが緩やかになってやがて止まった。
「…にゃ!?葉っぱが、蕾が出てるにゃ!?」
「ミドリの葉は物質を安定状態に戻すのが得意なんです。水をたっぷり含んでいたので成長も促進したみたいですね」
わかばは特に何事もないように言いながら鉢植えをりつに渡した。
「わかばくん…でも、いいのかにゃ。そんな貴重なもの使ってしまって…」
「はい、別に構いません。皆さんには良くしてもらってるし。」
「にゃー…わかば君、ひょっとして物凄い研究していた博士とか?ハリウッド映画みたいな感じで!すごい発見をしたんだけど悪い奴に襲われて逃げてきた途中で!とか」
「ハリウッドがなにか良く分からないんですけど…研究者ですかー。ピンとこないです」
「そうかにゃ、確かに、魔法使いの方が似合いそうな気もするにゃ。魔法だにゃ」
「まほう…ですか?気になりますねー」
「そういえば、りょくちゃんのお部屋にある本とか、確かそういうのがいっぱいあった気がするにゃ。今はだれも使っていないから、思い出せるものがあるか見てみるといいにゃ」
「いいんですか?ありがとうございます」
がちゃ、と勝手口の戸が開く音がして、家の裏からりんが歩いてきた。
手には電気柵の支柱とワイヤを抱えている。
「姉さん…と…お前も居たのか」
りつに声をかけたりんは、隣にいるわかばに気づいて目をそらした。
りつはりんの動きに気づいて、手元の植木をりんに見せた。
「りん、みるにゃこれ。わかば君が魔法使ったにゃ。蕾までついたにゃ」
「…これは」
りんは姉の持っている植木鉢と、わかばを交互に見やった。
「…それは…よかった」
少し考えてから言葉を選ぶようにりんは答えた。
「すごいにゃ、わかば君のおかげにゃ」
「そう…。一応裏側に柵は足しておくから。」
「あの、りんさん。僕も手伝っていいですか」
「…別にいい。」
少しわかばを見やって、りんはふっと視線をそらして素っ気なく呟いた。

 「僕、やっぱり嫌われてる感じですよね」
わかばは少ししょんぼりとした表情でりんを見送りながらりつに呟いた。
「もともと人見知りではあったんだけど…。ちょっと今は色々あってね。ごめんねわかば君。」
「やっぱり僕が来たせいですかね」
「そうじゃなくて、もともと少し前に色々あって家に帰ってきて、ちょっと療養している感じなんだにゃ」
「そうなんですか。ずっとこちらにいたんじゃないんですね」
「そうにゃ、街のほうでお仕事していたんだにゃ。」
りつは鉢植えを置いて腰をとんとん叩いてふうっと息をついた。
「それじゃ、私は畑のほうで作業がまだあるから。あちこち見てくるといいにゃ」
「はい、それじゃ」
生垣の外に広がる畑に降りていくりつを見送り、わかばは何とはなしに歩き始めた。

四つ葉

わかばはぼんやりと村の中を歩いて回っていた。
やはりというかなんというか、何か記憶に引っかかるものがあるかと思ってみるが、どれも初めて目にするものばかりのように感じた。
気になるものを手に取ったりポケットの中にしまい込んだりしながらふらふらと道を下っていくと、少し行った先にコンクリート製の建物の前に行き当たった。
「…学校?」
門柱に書いてある文字をしげしげと見ながらわかばは首をかしげる。
「なな!わかばだ!」
「本当だ!なんでいるナ?」
「お前何してるのな?」
建物から出てきたりなっちがわかばに気づき声を上げ、後ろにいた六つ子がばたばたと出てきた。
「ここは…」
目を白黒させるわかばを引っ張りあい、六つ子はわいわい騒ぎだす。
「小学校だな!」
「ここはりなじたちの学校だな!」
「もうりなたちしかいないけどな!」
「専用なんだな!」
六つ子たちはわかばを外にそのまま引っ張り出し、校門を出た。
「あれ、皆さん良いんですか。何か用事とか」
「学校はもう終わりナ!」
「今から帰るところな!」
「ていうかわかば、こんなところまでふらふら何してたんだな」
「いやー、ちょっと散歩というか、気になるものとかを探してて」
わかばはポケットの中を探って一枚の葉を取り出した。
りなじはあっと声を上げた。
「四つ葉のクローバーな!どこにあったな!?」
「え?えーっと…確かここに来る途中の…川のそばの広場ですね」
わかばは手に持っていた葉をりなじに渡す。
「すごいな!本物初めて見たな!」
「なな!」
不思議そうに大騒ぎする六つ子を眺めているわかばに、りなっちとりなよが答えた。
「四つ葉のクローバーは、めったに見られない葉っぱなんだな」
「だから、幸運のお守りって言われているんだな」
「そうだったんですか。不思議だなー」
わかばは改めて葉を手に取って首をひねった。
「わかば、これの生えていた場所を教えるナ!」
「いいですよ」
りなじはわかばの背中によじ登って前を指さした。
「皆さんの分を取りに行くんですか?」
連れだって歩くりなっちとりなよは首を振った。
「違うな」
「りんねえねにたくさん渡してあげるのナ」
「りんさんに?」
わかばは不思議そうに聞き返した。
「なー…りんねえね、すごく大変だったから」
「お父さんとお母さんが死んじゃってから、りんねえね元気ないんだな」
「りんねえねのせいじゃないのにな」
「りなこ達あまり色々できないけど…」
「幸運のお守りでいっぱい良い事あるように、いっぱい集めるんだな!」
「それならりなよ達でもできるナ」
「な」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら嬉しそうにはしゃぐ六つ子たちに、わかばは笑みを浮かべた。
「それなら、僕もお手伝いできるのでいっぱい探しましょう」
「なな!」
わかばを伴い六つ子はバタバタと人も通らない荒れた道を走りだした。

家に戻ると、いつもよりも帰りが遅いことに心配したのか、家の前でりんがウロウロしていた。
「りんねえね、ただいまな!」
声に気づいて振り返ったりんは、一瞬ほっとした表情を浮かべたが、すぐに眉間にしわを寄せて帰ってきた妹たちと、何故か一緒にいるわかばに向き直った。
「りなこ、何をしてたんだ?とっくに帰っているって先生は言っていたし…川に落ちたんじゃないかと心配していたんだぞ」
「ごめんなさい。りんねえね、ちょっとこれを探してたんだな」
りなっちから手渡されたクローバーの葉を、りんは手に取った。
「これは、いったい」
「四つ葉のクローバー!りんねえねにいっぱい取ってきたんだな!」
妹たちから渡された葉を、りんはそっと手のひらに包んで見下ろした。
全部で7枚の葉を手にりんは妹たちに目をやった。
「こんなに、一体どうして」
「りんねえねに幸せがいっぱい来るようにたくさん探してきたんだな!」
「わかばが1枚見つけたんだな!それでわかばが見つけた場所をてってーてきに探したんだな!」
「なんとなんと!りなじ達で6枚見つけたんだな!」
「前代未聞なんだな」
「きっと世界記録な」
りんを見上げ、六つ子は反応を見るように少し言葉を切った。
「…ありがとう。でも、日が落ちるまで外にいるのはだめだ。危ないからね」
りんは六つ子を引き寄せて肩を抱き、頬を寄せた。
「はーい。でもわかばがいたし大丈夫じゃないかな」
りなじはわかばの手をつかんで振りながら答えた。
「でもわかば、ドジだしな」
「さっきもなんもないところで転んだしな」
「あ、あれはりなぞうさんが後ろから押したからですよ」
「なー…まさかあれで転ぶとは思わなかったな」
「やっぱりドジだな」
「そんなっ」
あはははと笑いながら家の中に入る妹たちの数を確認して、全員いることを確認してりんは良しと頷いた。
もらった葉をポケットの中にあったハンカチで包みながら、りんはついてくるわかばに目をやった。
「…お前、一体何処までほっつき回っていたんだ。昼も食べずに」
「すみません、つい色々気にあるものがあって」
二人は玄関に入り、りんは靴の数を確認してから戸の鍵を閉めて、ガチャガチャと鍵がかかっているか確認した。
「…で、何かわかったのか」
「いやーそれがさっぱり。」
わかばは特に気にしないような調子で答えた。
「でも、りんさんが少しうれしそうなのを見れたので、良かったです」
「…なっ」
ぼっと頬が赤くなったりんは、廊下の奥から姉たちがこちらを見ているのに気づいた。心なしか嬉しそうだ。
「ね、姉さん!」
「あ、気づかれたにゃ」
「ななな!」
「逃げろー!」
ばたばたと逃げる姉妹を大股で追いかけるように奥に駆け込むりんを、わかばは見送った。

りんは、ぼんやりと部屋の天井を見上げた。
目が覚めて、ごろごろと時間をつぶしてみたが、眠気は完全にどこかに行ってしまっていた。
起き上がり、ちらりとサイドテーブルに置いた妹たちからもらった四つ葉の葉を包んだハンカチを手に取る。
幸せがいっぱい来るように。
りんは思わず息を吐いて、痛み出した頭を押さえた。
ハンカチを置いて、時計を見上げる。
午前2時半。
あと2時間程度で夜が明ける。
起き上がって服を着替え、1階に降りる。台所で水を飲み、ぼんやりと居間のソファに座って時計を眺める。

 じゃり、っと砂利を踏む音が聞こえたような気がした。
鹿か?
りんは立ち上がってそっと窓の外をのぞいた。
隣家も無いので明かりはほぼない。
夜の暗さに目が慣れて、月明かりの中で影が動いているのに気付いた。
何をしている?
りんは、窓から離れて客間のふすまをそっと開けた。
―――いない。
ふすまを開けて中に入り、りんは客間と仏間の中を見渡した。
布団はたたまれて使われた形跡もなく、部屋の中にはりょくの部屋から持ってきたと思われる辞書や学校の参考書、彼女の趣味で集められた歴史の本などが積まれていた。

 りんは、玄関に引っ掛けてあった懐中電灯を手に取って靴を履いて外に出た。
外は春を過ぎたとはいえ冷えた空気に包まれていた。ふっと息を吐くと白くなり、りんは首をすくめた。
影が移動したのは居間の掃き出し窓から回り込んで裏庭側だった。
りんは懐中電灯の明かりをつけて裏庭を回って外に出た。
緩やかな斜面が続く先にはりんが朝追加した電気柵がある。
その傍をふらふらと人影が仄かな明かりとともに移動している。
思わず懐中電灯の光を地面に向けて何をしているのか見上げようとした。
わかばは手にもった青い葉を手で何か操作し、柵の内側に置いた。
青白い光が差し、50センチ程度の壁が電気柵の内側に出現した。
「よし、とりあえず今日はこれで…」
わかばは軽く壁をコンコンと手でたたいてみて、満足したのかうんうんと頷く。
踵を返して降りてきたわかばは、りんと目を合わせて、驚いたのか手をバタバタとさせてそのまま前につんのめって転んだ。
「ぶえっ」
つぶれたような音を立てたわかばを引っ張り上げ、りんはため息をついた。
「こんな夜中に何している」
「いやー、なんか外でガサゴソ音がしてめっさ気になって、つい。りんさんこそ、寝ないと体に悪いんじゃないですか」
「少しくらいなら別に平気だ。お前ほどひょろくもないし」
「ひ、ひどい…」
わかばはガクッと肩を落としてうう、と呻いた。
「あれはなんだ」
りんはうっすら青く光る壁を見上げて問いかけた。
「あーっと、まあ見ての通り、防御壁を作るケムリクサを使ったんです」
「姉さんの植木に使ったのとは違うのか」
「あれはミドリで、こっちは青です。ほら」
わかばはいくつかの葉をりんに見せた。形もそれぞれの葉脈状の葉は仄かに光っていた。
「あの柵と同じように電気を操作するケムリクサもあるんですけど、僕、これの扱いあんまり得意じゃなくて…。あの柵の役目を補強するようにちょっと低く、長めに壁を引いてみたんです。多分この柵よりも大きいものでなければ大丈夫だと思います」
りんはわかばの持つ青の葉に手を伸ばした。
葉は、ふわふわとした触り心地で、ベルベットの布を触ったような感触だった。
「使ってみます?」
「できるのか」
裏庭の端にある石庭のつもりで置いたらしい石に二人は腰掛ける。
わかばははいと答えて一枚の葉を取り出す。
「覚えれば誰でもできますよ。こうやって」
わかばが葉に触れると葉がぴくりと一回振動し、再度強めに押し込むように触れると大きく震えてふわりと小さな六角形の盾のようなものがりんの前に浮かんだ。
「基本はみんな同じ操作で出来ます。」
りんは渡された葉を押してみる。
葉が一度振動してくるくると円が回ってすぅっと光が消えた。
「消えた…」
「今のタイミングでもう一度強く押して見てください。こう…」
「…!」
わかばはりんの手を取り、葉を持つ手を支え、操作する方の手に手を重ねて、葉が光ったタイミングでグッともう一度葉を強く押した。
微かに耳に空気が震える音がし、青い六角形の壁が小さくりんの前に現れた。
「こんな感じです。」
「あ、ああ…」
思いの外大きく骨張っているわかばの手をりんは思わず見やった。
りんの視線にきづいたのかどうか、わかばは仄かに発光する葉をもう一枚浮かべてりんの手元を照らした。
「もう一度やってみますか?」
りんは頷いて、先程の感触を思い出しながらそっと葉を押し、光ったタイミングで強めに押した。空気が震えてりんの手元に先程の壁よりも大きいサイズの壁が現れた。
「凄いですりんさん。初めてでそこまでのサイズを出せるなんて」
「そう…なのか?」
「ええ、僕、初めの頃はもっとこれくらいのしか出せなかったですから」
このくらいと、指で形を作ってわかばは笑う。
「手先が器用だからですかね。気になるなー」
わかばは嬉しそうに言いながら葉をりんから受け取った。
熱くなった?を押さえてコホッと軽く咳き込むりんに、わかばは大丈夫ですかと声をかけた。
「顔の辺りだけ温さがあるみたいですが…」
手をかざすわかばは心配そうにりんの顔を覗き込む。
「別に、大した事、ない」
「…そうですか。」
素っ気ない物言いのりんに、何か言おうとして考え直したのか、わかばは頷いてポケットの中から小さいサイズのミドリの葉を出してりんに渡した。
「ミドリは体の調子も治す事が出来るんです。」
茎の部分を食んで、わかばはすぅっと吸い込み、ふうっと吐いた。キラキラとわかばの体に緑色の光がまとわりつく。
どうぞと手渡されて、りんは見よう見まねで茎を口に咥えてすっと少し吸い込んだ。
「タバコくさい」
ふっと息を吐いて呟いた。
「え、すみません…嫌いな匂いでしたか…」
「いや…何というか、懐かしい感じがする。頭痛も治まった」
「…良かった」
わかばは嬉しそうに笑みを浮かべた。
りんは思わず緑の葉を咥えたまま大きく息を吸い込み、咽せて咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですかりんさん」
りんはわかばから視線を逸らして顔を押さえた。
家の中に入り、わかばはりんが自分の部屋に入るのを確認して客間に入った。
「さてと」
わかばは橙色のケムリクサを起動させて、本を広げて再び読み始めた。

りんは欠伸を噛み殺して目をこすった。
「りん、大丈夫?」
「え、あ、うん」
朝の作業を終えて朝食を取っている間、りんはすでに三回同じ事をしていた。
りつは少しの間逡巡していたが、言葉を選びながらりんを心配そうに見つめた。
「りんは大人だから、私がどうこう言うつもりは無いけど…あんまりハメを外さないでね」
「は?」
「夜、トイレに起きた時に部屋の戸が開いてたから閉めようとしたら居ないし…少ししたらわかば君と二人で戻って来たみたいだから…」
「あ、あれは獣避けの柵を見に行ったら偶々あいつがいただけだ」
「にゃー、そうだったの?つまらないにゃー」
「姉さん!」
りんの顔を面白そうに眺めてりつはコーヒーをカップに注いでりんに渡した。
「そう言う事なら、わかば君はもう少し寝かしておいてあげるかにゃ」
「まだ寝てるのか」
「本を抱えたまま座って寝てたにゃ」
「布団で寝ればいいだろうにアイツは…」
りんはブツブツ言いながら食べ終わった茶碗を台所に片付け、客間に入っていった。
ガタガタ物音がしてモゴモゴと弁明の言葉を口にするわかばにりんが短く返し、少しすると静かになってりんが居間に戻ってきた。
「どうしたのにゃ」
「布団の中に放り込んできた。」
「りんは本当わかば君の事心配なんだにゃー」
「別に、病気とかになったら面倒なだけだ」
山に行ってくると言って大股で出て行ったりんを、りつはいってらっしゃいと見送った。
相変わらず顔に出やすい妹だ。
耳まで真っ赤にしていた妹の顔を思い出してふっと嬉しそうに笑みを浮かべて、りつはゆっくりとテレビに目をやった。

 電話が鳴り、りつははいはいと手に取った。
「あれ、りょうちゃん、どうしたの、お仕事は?え、次の連休に帰ってくるの?わかった、待っているにゃ」
りつは電話を置いてカレンダーを見上げた。
姉たちが帰ってくる日はあと一週間といったところか。
「早速準備しなくちゃにゃー」
うきうきと台所に立って、ふと、何か大事なことを忘れているような気がしたが、すぐにまあいいかと肩をすくめた。

りょうは、はーっと息をついた。
「りくちゃーん、交代しよー」
助手席のりくはりょうにお茶のペットボトルのふたを開けて渡した。
「はぁー?まだ30分しか経ってねーべ?この先止まるところもねーし、そのままりょう姉が運転しなよ」
「だって眠いんだわぁ。」
「なんでー?昨日もりょう早く寝てたじゃん」
後ろの席で窓の外を眺めていたりょくはりょうに視線を移す。ついでに眠気覚ましミンティアを姉にぽいと渡す。
「いやーなんか寝付けなくって」
「遠足前の小学生じゃん。それじゃ」
りょくはため息をついてペットボトルのお茶を飲みながら窓の外に目を向けた。
「それにしても、前よりさらにボロボロ、っていうか。ガタガタっていうか」
「まー人の手が入らなくなれば荒れていくわなー」
ガン、と道路の溝にはまったのか何かに乗り上げたのか車が大きく揺れて三人は呻く。
「りょう姉。路肩の崩れている場所が前よりきついから、気を付けて」
「はいよー」
りょうは軽く答えて車の時計とカーナビの地図を眺めて呟いた。
「この感じだと夕方には着きそうだね」
「まーやっぱりそれくらいかかるか」
「なんかその前にお尻が平らになりそうじゃん」
りょくは体をもぞもぞと動かしてブツブツ呟いた。りくも頷いてごそごそと座る位置を動かした。
「確かに、なんか尻が痺れてきたっていうか…」
「んじゃーちょっと休憩してからりくちゃん運転交代しよー」
えーっとりくはりょうに目をやった。
「結局それかよー。しょうがねえなあ。りょくも早く免許取れよー」
「私は国際免許のほう取るから」
「なんだよそれ」
「いいでしょ、私がハーバードとかMITとか、入ったらまあ観光くらい付き合ってあげる」
「おーいいねー。楽しみにしてるわ」
がん、と車が再度車が大きく揺れて、三人は再度うえっと同時にうめいた。

「なんだあれ」
りょうから運転を変わったりくは、峠を超えてしばらく行った下り坂の先に転がっているものに気づいた。思わずブレーキをかけてスピードを落とす。
「ありゃー、あれは邪魔だわな」
「なんであんなところにコンクリートの塊が落ちているの」
後部座席からりょくが身を乗り出して道の真ん中に転がっている白い塊をじっと見つめた。
「これ、レンタルだから傷つけるのはなー」
「降りて退かすしかないじゃん」
「だな」
りくは障害物の少し手前で車を止めた。
「じゃ、ちょっと待ってて」
助手席にいたりょうが車から降りて転がっているコンクリートの塊らしきものに近づいた。退かそうと手を伸ばしてふとその手が止まり、りょうは車のほうに向きなおった。
「りょくちゃーん、ちょっと良い?」
「何よ」
「いやー、ちょっとこれ見てほしいんだけど…」
りょくはえーっと声を上げて車から降りた。
これこれとしゃがみ込んで指さす塊を見て、りょくは眉をひそめた。
「りょくちゃん、こういうの結構詳しいでしょ。私よくわかんないしさー」
りくは、少し考えてから車のエンジンをいったん止めて降りてきた。
「…なんだ二人とも。なんだそれ、石じゃないのか」
「何だか、前見たロボット掃除機だっけ?そっくりだよねー」
りょうの言葉にりくはそれをコンコン、と叩いてそういわれればそうかも、と呟く。
りょくは、転がっているそれをひっくり返して手でさすりながら考えこんだ。
りょうの言った通り、家電量販店で見かけたロボット掃除機とかいうものに確かに似ている。
平たい円筒形に上側と思われる部分にはモニターがある。しかし、掃除機にしては形がどうもおかしい。
何より、家電は普通プラスチック製が主流だがこれはどうも金属的だ。
その割に、どこか有機的な触り心地もある。
「どうしたりょく」
「…これ、ネジ穴とか繋ぎ目がない。しかも、ほら、裏側に4つ突起があるからこれが脚だと思うんだけど、ローラーとかそういうのがついてないの」
「はー。で?」
「で?じゃない。百歩譲ってこの足はいいとして、裏返しても表側も脇も何処にもつなぎ目がないのは変だって!はめ込みにしてもどこかに上蓋と下をはめる部分がないと止められないじゃん」
「…いわれてみればそうだねー。りょくちゃんすごいねー」
「…ほんと、残念姉…。ちょっと、これひょっとしたらすごいものかもしれないじゃん!りょう姉これ後ろのトランクに入れておいていい?」
「いいよー、でもりょくちゃん持てる?」
「意外に軽いから大丈夫」
りょくは白いメカを抱えて車のトランクに放り込む。
「…早速家に着いたら解体しないとじゃん!」
「ほんと、好きだよなーりょくは」
りくは良くわからない、という表情で首をかしげて車に乗り込んだ。
「りくちゃんは動物のことがないとあんまり勉強とか好きじゃないもんね」
助手席に戻ったりょうはおかしそうにりくに言うと、りくはばりばりと背中を掻きながら、
「まあもともと勉強好きじゃないからなー。仕事が絡まないとやってらんないっていうか」
「私も勉強あんまりだったからなー」
「りょう姉のは雑だからだべ。よく小数点うち間違えたりとかしてたし」
「そんなでよく調香できるね…」
「だーって、あれは匂いとかも判断材料だから何とかなんのよ。ただの計算とかはねー…。まあ今はパソコンとかあるし、助かるわー」
りょうはからっと笑って背もたれに寄り掛かった。
「あーちょっと足伸ばせたからラッキーだったな。」
りくは伸びをしてからキーを回してエンジンを入れ、車を走らせた。

三人を乗せた車は結局量の見立て通り、だいぶ日が傾いたころに家にたどり着いた。りくはいつも通り、作業小屋の手前に車を止めてふうっと息を吐いて腕を伸ばした。
「はー、疲れた」
「お疲れ様」
「おつかれ」
りょうとりょくは声をかけて車から降り、荷物を車から降ろした。
車の音に気づいたのか、りつが家の中からバタバタと走り出てきた。
「おかえりにゃー」
「ただいま、りっちゃん。元気そうでよかったわ。」
「とりあえず、荷物はいったん奥の部屋に置いてにゃ」
「はーい」
りつは廊下側の掃き出し窓を開けて三人が車から出した荷物を中にぽんぽん置いた。
「ああーりつ姉、それお土産のお菓子!つぶれるからまずいって」
りょくが慌てて掃き出し窓から中に入って荷物を移動させて並べなおし始めた。
「りょうねえねお帰りな!」
「おーりなっち、りなよちゃんただいまー。あれ?他の子は?」
玄関からぴょんと出てきた末妹達の頭を撫でながら、りょうは周りを見渡した。いつもなら六人全員で出迎えてくれるはずなのだが。
「りなむとりなぞうは遊び疲れて寝てるのな。」
「りなじとりなこはりん姉ねえねたちとお買い物に行っているな」
りなっちの言葉にりくは首をひねった。
「りんねえね、たち?他に誰か一緒なのか」
「わかばな!」
「荷物持ちな!」
妹たちの言葉に、りょうとりくは顔を見合わせた。
「わかばって誰?」
りなっち達は思わず顔を見合わせて、何かを察したのか
「なー、宿題しないとなのなー!」
「そうだったのなー!」
バタバタと二階に駆け上がっていった。
「ちょっとりつ姉、なんであたしの本ここにあるの?それにこれ、お父さんのTシャツみたいだけどなんで出してあるの?」
りょくの問いかけに、りつは少し固まって、あっと声を上げた。
りょうとりくは顔を見合わせたが、そこに、車のエンジン音が玄関側で聞こえてきた。
三人は何となく顔を合わせて玄関に目を向けると、りんともう一人、見たことのない青年が車から降りてきた。
コメの袋とお酒やペットボトル類をもって玄関に入ってきた青年は、きょとんと玄関で待っていた三人を見上げた。
「こ、こんにちわ。」
「ね、姉さん?もう帰ってきてたの?」
どうやら車の中で寝ていたりなよを抱えてきたりんは、驚いて三人を見上げた。
「まーね、朝早く出たんだよー。あ、ほら早くりなよ部屋に連れてってあげなよ」
「あ、ああ」
ぱたぱたとりなよを抱えたままりんは二階に上がっていく。りなじは、二人についていかず青年のそばに立ってりょう達を見上げていた。
「りつ姉、わかばの事…」
「にゃー…先に話すの忘れてたにゃ…」
かく、とうなだれてりつはごめんねと呟いた。
「りつ姉はうっかりさんだナ…」
りなじは少し眉をひそめてりつを見上げた。
「あの、すみません。わかば、と言います。りんさん達にお世話になってて…」
「あー、うん。いや、こっちこそごめんねーいきなり。その感じだと私たちが来ること聞いてないよね。私長女のりょうで、こっちが次女のりく、五女のりょく。」
「よろしくお願いします」
わかばの挨拶に答えてりょくとりくも頭を下げる。
「ていう事は、私の本持ち出してたのはあんた?」
「あ、はい、すみません。僕、りんさんに拾われるまでの記憶が無いので、本とかから思い出せないかと思って…」
わかばの言葉に三人はちらりと見合ってからりつに目を向けた。
りつは、あははは、と笑って視線をそらした。
「…なーんか、色々訳ありなんだな。まー、俺はりんが落ち着いてんならいいけど」
りくは幾分嬉しそうに、にっと笑ってわかばに目を向ける。
わかばはつられて笑顔を向けたが、よくわからない状況に目を白黒させていた。
「それは確かにそうだわなー」
りょうは腕を組んで頷いた。
「まー。あっちもこっちも、積もる話もあるし、今日は飲むか。ね、わかば君」
「え?あ、はい」
明らかに意味を読み取れていないわかばと、にこにこと嬉しそうに買い出しの荷物の酒を物色するりょうに、りょくは思わずため息をつく。
「りょうはいつもそうでしょ」
そうだっけ、と言いながらりょうは軽い足取りで台所に向かった。

わかばは、目の前に注がれた泡立つ液体を見つめた。
「これは…」
「あれ、わかば君ビールダメな感じ?」
りょうはにこやかな表情のまま首を傾げた。
「…びーるですか…?」
恐る恐る一口飲んでわかばは顔を真っ赤にして俯いた。
「なんだ、酒弱いのか。」
りくはぐいぐいと自分のジョッキを開けてふうっと息を吐いた。
「そういえば、私もりんも朝が早いから基本的に飲まないものにゃー」
「おい、別に二人に合わせて飲む必要はないぞ」
りんは俯いたわかばからビールを取って水と交換する。
「す、すみませ…」
ぐすっと目をこすりながらわかばはりんから渡されたコップの水を飲み干し、そのままぱたりと床に伸びた。
「ありゃりゃ、ごめんねわかば君」
「ら、らいろぶれ」
「いいから寝てろ」
「うぐぅ…」
起き上がろうとするわかばの頭を、りんは片手で押さえる。少しは起きようと力を入れてみたようだがそのまますうっと寝息のようなものが聞こえてきて姉妹たちは顔を見合わせた。
「なんというか、変わった子だわな」
「酒もそうだけど、食べているもの全部葉っぱってのもウサギとかハムスターとかっぽいっつーか」
りくは最後の唐揚げをりなむの皿に置いて、空っぽになった皿を退かした。
「わかば、寝てるところ見るのはじめてナ」
「りなじ達がいるとき大体起きてるナ」
「夜中もナ」
「りなぞう、夜中につまみ食いまだしていたの」
りんの言葉に、りなぞうはうっと顔をしかめて目をそらした。
「睡眠取らないと、普通体が変になるはずじゃん。平気なの?」
「ああ、2,3日くらいなら別に寝る必要はないと言っていた。妙な話だが」
「それ、絶対変じゃん…」
りょくは少し考えこむようにわかばを見ていたが、
「まさか、人間じゃないとか…は無いかさすがに」
りょくは首を振ってさらに残っていた寿司をぱくつく。
「…ま、なんにせよ、りんが元気になったのがわかば君のおかげなら、感謝しないとねー」
「…何でそうなるんだ。」
りんはわかばが残したビールを飲みながら思わずつぶやく。
「だって、わかば君と一緒に帰ってきたときの顔、ふにゃふにゃだったよー。びっくりしたわなー。うれしかったけど」
「…そんな事は」
りんは思わずりょうから視線をそらした。
「あ、明日の作業の用意があるから…もう寝る」
「おー、お休みー」
出ていくりんを見送り、姉妹たちはふっと息をついた。
「…まー、ゆっくり待つしかないか」
「ほんと、りくの言った通り、バカ真面目じゃん…」
「だべ。まあ、りんはそういうやつだからしょうがないけど」
「にゃー…。でも毎日楽しそうなのにゃ。りん、ほんと、よがっ…う、うええ」
りつはほろほろと涙を流しながらも、がしっと日本酒を手酌で注いで一気に飲み干した。
「だあ、まずい!りつがスイッチ入った!」
「お、落ち着くじゃん!りつ姉!ああもう手酌で飲んじゃダメだって!」
りくとりょくが慌ててりつの手から酒の瓶を取り上げようとするが、りつはやけに軽やかな手さばきでそれを払いのけた。
「にゃー!なんかいい調子になってきたにゃー!」
「お、んじゃりつ一緒に飲もうか!」
賑やかに騒ぐ姉たちを横目に、りなっち達はチャンスとばかりにもぐもぐと料理を口に運び続けていた。
「おいちょっとりょう姉そこは止めろ!」
苦労性の次女と五女は、頭を抱えた。

昔話

わかばは大きく伸びをして起き上がった。
随分寝ていたような気分になり、あたりを見渡す。
机の上は片付けられていたが、畳にそのまま寝転がって寝ているりつとりくとりょくの様子に、見なかったことにして廊下に出た。
外は明るく、どうやら夜が明けて少し経っているようだ。わかばは外に出て体を伸ばした。
「ピ!」
「ん?」
どこかから聞こえた音に、わかばはあたりを見渡した。
ごんごん、とりょうたちが乗ってきた車が揺れている。
わかばは車の裏に回り、ガタゴトと音がするトランクに耳を当てた。
「…んー…鍵がないと開かないのか。…でもこれくらいの単純な機構なら…」
わかばはトランクの金具があると思しき場所に手を滑らせた。
がちゃ、と音がしてトランクの金具が外れ、扉を開ける。
「ピピッ!」
「君は…」
トランクから、りょくが拾ったメカが顔を出した。なぜか勝手に起動している。
「…ピ!」
パカッとロボットの上部が開いてモニターが現れる。
<ワカバ カエル?>
「…かえる…?」
「ピ?」
「…ごめん、迎えに来た、ってことかな」
「ピ!」
わかばはよしよしと撫でながらつぶやく。
「…ごめん、君の事覚えていないんだ。とりあえずシロって呼んでもいいかな」
「ピ!」
シロと呼ばれたロボットは尻尾のようなものを振った。喜んでいるのだろうか、とわかばは首をかしげる。
「ちょっと、外を回ってくるから、また後でね」
わかばは手を振って、裏庭を通って山に向かった。
そのあとを、シロはどう見ても歩けないだろうという小さな足を動かしてよちよちと付いてきた。
「…一緒に行きたい、のかな」
「ピ!」
シロは返事をするように音を立てた。
「じゃ、一緒に行こうか」
わかばはふらふらと裏庭にまわった。
「…あれ?」
いつもならりんがいるはずだが、今日は姿が見えない。代わりに、りょうがりつの育てていた花に水をやっていた。
「えっと、りょう、さん?」
声をかけられ、りょうは水やりの手を止めて振り返った。
「ん?おー、おはようわかば君早いねー!昨日酔いつぶれてたみたいだけど大丈夫?」
「え、あ、はい。ご迷惑おかけしてしまって」
「いいのいいの。そういや、りんのお手伝いにでも来てくれた感じ?」
「あ、えーっとはい」
「そっかー。悪いね。りんもね、割とお酒弱いんだわ。昨日ちょっと気が緩んだみたいでさ、まだ寝てたから代わりにやってるんだ」
「…そうだったんですか。」
「外とかで飲むとほんと顔色変わらないんだけどねーりんちゃん。緊張しちゃうから。家とか気を許した人しかいないとね、ビール二杯でだめなんだよね」
「…なるほど」
わかばはいまいちわからないまま頷いた。
「…あ、そうだ。わかば君ちょっと付き合ってくれる?」
「え、あっとどちらに?」
「墓参り。うちの」
じょうろを置いて、りょうは園芸用のはさみで花をいくつか切ってわかばに渡した。
「いいんですか、切ってしまって」
「ああ、りっちゃんにちゃんとオッケーもらってるよ。母さんたちの好きな花もっていったほうがやっぱりいいしね」
じょうろを片付け、外水道の傍に置かれている手桶を手にもってりょうは歩き出す。
「そういえば、その白いの、りょくが拾ったやつだと思ったけど」
「さっき車のトランクの中で動いていたので、出してきたんです」
「へー。てっきり壊れてると思ったんだけど…。あ、気を付けなよー。あの子機械とか分解するの好きだから」
「ピ!?」
りょうの言葉にシロは慌ててわかばの影に隠れた。りょうはあははと軽く笑って庭を回って外に出た。わかばも急いで後をついて行く。
鳥の声だけする道をしばらく歩くと、かつての集落の端にコンクリートのブロック塀で囲われた墓地が見えてきた。
あちこち崩れていてあまり塀の意味がなくなっている。りょうは慣れた様子で奥の区画のほうに歩いていく。
雑草がそれなりに生えているにも関わらず、奥に行く道は比較的きれいに手入れされているようだ。
「ここだよー。わかば君、花貸して」
「あ、はい」
「あと、これに水入れてきてもらっていい?そこにあるから」
「わかりました。」
手桶を渡され、わかばはりょうが指した場所にある水道から手桶に水を入れた。
「持ってきました」
「おーありがとう」
りょうは手桶を受け取って水を柄杓ですくって墓石にかけて清めた。
「やっぱり、りんが手入れしているからきれいだね」
「…りんさんが」
「そ、月命日は必ず一回は行っているみたいだし、それ以外でもまあちょくちょくね…」
りょうは線香をあげると手を合わせた。わかばは見よう見まねで手を合わせる。シロも少し後ろで黙とうでもするように少し体を傾けた。
「悪いねー。付き合わせちゃって」
少しして、りょうはわかばに向きなおった。
「いえ…あの、このお墓は」
「うちの家の墓だよ。今日は母さんと父さんに声かけておこうと思って。りくとりょうはお昼頃に来るって言ってたから先にね」
「ご姉妹のご両親ですか」
「そ、聞いた?」
「詳しくは…」
りょうは、そうかそうかと頷いて歩き出した。
「ここね、学校がかろうじて小学校があるだけなんだわ。妹たちが中学行くようになったらどうしようもないんだわ。だからご近所の人が移動した少し山を下りた場所に移動しようか、って話が合ったんだけどね。二年前、かな、もう」
りょうは軽い調子で話しているが、視線はずっと道の向こう側を向いていた。
わかばは黙って、りょうの少し後ろをついて行った。
「そんな話があったから、りんだけ偶々休みが纏まって取れたからって帰ってきていたのね。で、りんと、両親三人で車で下見をしようって出かけたんだ。」
りょうは少し言葉を切り、うーんと肩を回した。
「で、帰り道に突然すごい雨が降ってきて、前は見えないし、道はカーブが多い山道だし、言っちゃあれだけど、道もあんまりよくないから…乗っていた車、路肩から下に落ちちゃったんだわ。」
「そんな…」
「りんは後部座席でシートベルトもつけていたから殆ど平気だったんだけど、前に座っていた二人はね。」
りょうはふと言葉を切って、少し黙り込んだ。
「…一応ね、生きてたんだわ。落ちた直後は。でも、この辺ちょっと山側に入ると携帯の電波が届かないから、電話は中々繋がらないし、人も来ないしで。すごい寒い日でねー、雨もものすごく激しく降っていて、あの子、電波が届く場所を探してどうにか電話して、車に戻って二人を何とか応急処置をしようとか頑張ったんだけどね…」
りょうは、ふと口をつぐんで立ち止まった。
足を挟んで動けなくなっていた両親を引っ張り出すことはりんには出来ず、壊れた窓から流れ込む冷たい雨が体温を奪われ、怪我から徐々に弱っていく両親を、りんはどうする事も出来ず、結局呼んだ救急車がたどり着く前に二人は息を引き取った。
呼び出されて病院に駆け付けた姉妹たちに、りんは泣きながら謝り続けていた。
「…謝って泣いて、何かの拍子に記憶が戻ってしまって、眠れなくなって。体も心もボロボロになってしまって、もう、見ていられないから、家で少し休養を取らせるようにしたのね」
わかばは何も言わずにりょうを見やった。
「…長話に付き合ってもらって悪いねー」
りょうは変わらない笑顔のままわかばに向きなおった。
「いえ、お話してくれて、ありがとうございます」
わかばはぺこりと頭を下げた。
「ほんと、わかば君、今時珍しいいい子だねー」
りょうは思わずぐりぐりとわかばの頭を撫でた。

りんが起きたのは、わかばたちが家に帰ってきてから少し経ってからだった。
わかばは、りつの育てている花の苗木に水をやり、成長の状態を確認していた。
ここ最近は食害の被害もなく、りつがわかばにあげたいくつかの花たちも芽を出し始めていた。
「おい」
「あ、りんさん。よく眠れましたか?」
慌てて起きてきたのかシャツのボタンがずれて、靴下も微妙に色が違っていたが、わかばはそこには触れずに声をかけた。
「ああ。その、姉たちが色々やって、悪かった」
ちらりと外を出る前に見かけた台所や客間の惨事の後を思い返し、りんは言った。わかばはおかしそうに笑って手を振った。
「平気ですよ。皆さん素敵な方たちですね」
「ん、いつも助けられている」
りんはわかばが水をやっていた花たちに目をやった。不思議なことに、まだ育ててから時間が経っていないにも拘らず、成長速度が違うように見えた。
「山のほうは僕とりょうさんで見ておいたので、今日はゆっくりしてください」
「それは…」
りんは、わずかに困ったような顔になり手持無沙汰気にわかばから視線をそらした。
「姉さんたちは?」
「りょくさんとりくさんは今りなっちさん達と山に遊びに行っていますよ。りょうさんとりつさんは二人でそこの作業小屋にいます。」
「ピ!」
「なんだそれ」
わかばの背後にいたシロが存在を主張するように音を出した。
「りょくさんが拾っておいてくれたんです。僕の事知っているみたいで…」
「ピ!」
シロのモニターに<ワカバ ホカ?>と表示され、そっと前に出てきた。
「こっちはりんさんだよ。りょくさんじゃないから大丈夫」
「ピ!」
シロはりんの周りをまわってモニターに<リン>と表示された。
「よくりょくに分解されなかったな」
「…いや、さっきそれで色々と騒ぎになってしまって…」
わかばは思わず口を閉ざしてふいっと顔をそむけた。何となく、何があったかを察してりんは、すまん、と思わず謝る。
「…りょくは昔から不思議なものに目がなくて」
「あはは、まあ僕もそういうのはなんか分かるなあ」
わかばは、ふと何かに気づいたように言葉を切ったが、すぐにりんに向きなおった。
「そういえば、この木、少し前から世話していたんですが、だいぶ元気になってきたんですよ」
わかばは思い出したように庭の端にある桜の木を指さした。
「…あれは殆ど枯れていたはずだが」
はい、とわかばは頷いた。
「ちょっと緑のケムリクサも使ってみたんです。」
「そんなにそれを使っていいのか?」
「ええ、別に」
わかばは事も無げに言って桜の木に近づいた。
りんは、改めて桜の木を見上げた。確かに、以前は何年も鹿に芽を食べられていて葉もほとんど無くなっていたはずだったが、ちらほらと緑色の葉が生え始めていた。
「この桜、数年前から花を咲かせられないくらい弱ってて…もう、枯れるしかないと思っていたが」
「僕はこの木の花を見たことがない気がします。りょくさんから借りた植物図鑑だと、小さい花のようですけど…」
「桜は単体で見るものではなく木とか、並木で見るものだ。」
「へえ、めっさ気になるなー。見てみたいなー」
わかばは木の幹に触れてつぶやいた。
「来年になれば見られるだろう」
りんの言葉にわかばは少し意外そうな表情を浮かべ、すぐにそうですねえと笑った。
「おー、りん、起きたのか」
「まったく、弱いのにお酒なんか飲むから…」
六つ子たちを連れて、山から下りてきたりくとりょくは、若干疲れた様子で庭に戻ってきた。
「ななー二人とも何してるナ?」
「りなじ、そこはほら、言うもんじゃねーぞ。黙って見守るのが妹ってもんだろ」
「なー、りくちゃんの言ってること分かんないナ」
「ナナ」
六つ子たちはめいめい木の棒や葉っぱや花や木の実をわいわいと庭に広げて遊び始めた。
その様子をりくとりょくは眺めて、お互い一瞬目くばせをしてりんに向きなおった。
「ところでりん。確かあの山の反対側って今持ち主変わってんだよな」
「ああ、詳しくは知らないが…。去年の暮れに林道を作っていたのか、あちらの道からはしばらく業者の車が出入りしていたが…それがどうした」
「いや、前言っていた土砂崩れっての?この間聞いた時よりも進んでいるみたいだからちょっとな」
「さっき反対側ちょっと見てみたけど、あの林道からどうも勝手にうちの方までタケノコとか山菜とか取りに入ってきてるみたい。」
「やっぱり、そう見える?」
「足跡とか、うちらのものとそっちの彼の靴とかサイズよりも明らかに大きさ違うし、ごっそり持ってってる形跡もあるし何人かいるんじゃない」
「…そうか。時期はもう落ち着いているとは思うけど、あとで見回りしてみる」
りんの言葉にりょくは首を振った。
「えー、やめときなよ。鉢合わせしたときあんた一人でどうするのさ」
「確かに。それに、あっち側、変に木を切って林道作ったせいで危ないぞ。崖みたいになっていた場所もあったし」
りくもりょくの意見に頷いてりんに目を向けた。
「…でも…」
「まあ勝手にとられるのはむかつくけど、どうしようもないだろ。毎日見張るわけにはいかないし。うちの土地で取ってません、勘違いです、なんてどうせ言って誤魔化されるのが関の山だぜ」
りくはぽんぽんとりんの肩を元気づけるようにたたいた。
「…ま、あんまり根詰めるなって」
「そんなつもりじゃ…」
「真面目過ぎるんだってりんは。もう少し適当にすればいいんだって」
二人は疲れたーと言いながら家の中に入り、六つ子たちもバタバタと後に続いて中に入っていった。
「りんさん?」
「なんだ?」
「今日は遅いので、もし行くのであれば明日のほうがいいと思います。」
わかばの言葉に、りんは少し驚いてわかばを見つめる。
「もし見回りをするなら、僕も行きますよ。一人で見て回るより、まあ、ちょっとくらいは意味があるかもしれないですし」
わかばの言葉に、りんは少し考えてから頷いた。
「まあ、ひょろっこくても居ないよりはましかもな」
「ひどいっ」
わかばはがくっと肩を落とし、ため息をついた。

りん

翌日もよく晴れていた。五月のこの時期は一番気温的にはちょうどいい。
りんは、日が少し上がってきた時間になってからわかばと共に裏山の奥に向かった。
「こっち側はあまり行かないですよね」
「ああ、昨日りくも言っていたが、山の反対側で作った林道の影響か、斜面が崩れやすくてな。」
うっすらと見える獣道のような道を、りんは邪魔な枝や草をよけながら進む。
りんの言う通り、わかばがざっと見ただけでも、山の斜面の一部が崩れてぱらぱらと土が崩れている場所が何か所かあった。
また、別の場所では人の手によると思われる木の伐採の後や掘り返したような跡も見える。
りんは硬い表情でそれらのあとをチェックして奥に足を進めた。
「りんさん、りくさんが崖崩れがあるっていっていましたし、もう少し慎重に行った方が」
「…別に、それくらいわかってる」
思いのほか強い口調になり、りんは、一瞬後悔したような顔でわかばに向き直ったが、何も言わずに目をそらして、そのまままた歩き始めた。
わかばは心配そうな表情でりんを見やったが、急いで彼女の後を追いかけた。
少し上るとふわりと、草のにおいとは別の、土のにおいがする風がわかばの頬を撫でた。気のせいか、風が下から巻き上がるように流れているようだ。
嫌な予感がして、わかばは思わずりんの腕をつかんで声をかけようとした。
突然、りんがわかばの視界から消え、がくっとわかばはりんの腕をつかんでいた方からバランスを崩して倒れこんだ。
「りんさん!」
とっさに地面の草をもう片方の手でつかんでわかばは何とか崖の端にわずかに体をひっかけた状態で踏みとどまった。
どうやら、中途半端な形で土砂が流れ、不安定だった場所にりんたちが立ったことで崩れてしまったようだ。わかばの掴んでいる草の辺りから少し先も亀裂が入っていて徐々に隙間が大きくなっている。
りんは、わかばの掴んだ手でどうにか落ちずにすんでいた。しかし、高くはないとはいえ、崩れた土がえぐれて十メートル程度の高さはある崖になってしまっている。
りんはほかにつかまる場所がないか探したか、目につくものは何もなかった。
このままだと、二人とも地面にたたきつけられて死ぬだろう。
りんは、震えそうになる声をどうにか誤魔化すように、上にいるわかばに言った。
「…手を放せ」
「何言ってるんですか」
「このままではどっちにしろどうにも出来ないだろう。私はそれなりに頑丈だし、うまくいけば着地して…骨折くらいで何とかなるかもしれない。このままだと二人とも落ちてしまうだろう」
「…そうですね、手が使えないので…」
わかばはふと何か思いついたのか、りんに声をかけた。
「すみません、りんさん。ちょっと目を閉じててもらっていいですか?」
「は?お前何を言って」
「いいから、お願いします。さすがに手がもう辛いです」
りんは訳が分からなかったが、わかばの指示に従って目を閉じた。
「たぶん、大丈夫だと思いますけど、怪我したらごめんなさい」
わかばの声が聞こえ、ふわりと支えを失った体が落下するむず痒いような感覚と風を切る音がした。
来るだろう痛みとショックに耐えようと強く目をつむり体を緊張させたりんは、衝撃とともに、何か柔らかいものの上に着地して転がった。
「…?」
目を開けると、落ちてきた崖の上が見える。パラパラと砂が落ちてきていたが、上には何も見えない。
しかし、思ったよりも痛みはないのはなぜだ。
ふと、思い当たって慌てて起き上がる。
「お前…」
「…あ、りんさん、大丈夫そうですね」
自分の体を緩衝材代わりにして落ちたわかばは、あははと軽い口調で笑ってりんを見上げた。
「何考えてるんだ、下手をすれば…」
りんは、ふと手に何か水のようなものがついているのに気付いた。
「…これは…」
りんは身を起こしてわかばの体を見た。
「すみません、ちょっと落ちる場所が悪かったみたいです。」
「そんな、だって、これは…」
落ちてきた崖の下には、どうやら崩れた土のほかに、崩れた部分に生えていた木の根や枝なども落ちていたようだ。
わかばは、落ちた場所に転がっていた木片で脇腹を貫かれていた。
じわじわと血が服からにじみ、わかばの顔の血の気がどんどん引いているのが分かった。
「おい、しっかりしろ。…止血して、動かさなければとりあえずは血は何とかなるから…あとは救急車を…」
りんは震える手でスマホを取り出した。
壊れていない。
りんは、画面を見て思わずくそっと罵った。スマホの表示は圏外と表示されている。
「…また…こんな…。…すぐに救急車を呼ぶから…」
立ち上がろうとするりんの腕をわかばの手が押さえておっくうそうに首を振った。
「りんさん、僕の体…構造が…違うので、開腹手術は…ちょっと無理なんです」
「何…訳が分からないことを…だって、このままだと死ぬじゃないか」
わかばはポケットをどうにかあさって、持っていた緑の葉を一枚取り出した。
「それ、使うのに…刺さっているのが、邪魔で…」
わかばは、少しすまなそうにりんに呟いた。
「それを、抜いて…そうしたら、緑の葉で…直せるので…りんさん」
お願いします、とわかばはふうっと息を吐いた。
りんは、泣きながら首を振った。
「無理だ…。そんな、そんな事したら血が…」
「僕は、りんさんたちよりも頑丈なので…お願い、します。」
りんは、涙をぬぐって深呼吸をしてわかばを見下ろした。
正直、救急車を呼んでもいつ来るか、まったくわからなかった。
すでにわかばの呼吸は弱くなっており、もし、これで何とかなるのであればそちらの方が助かる確率は高い。
りんは、目をこすって頭を振った。
持っていたハンカチを小さくたたんで厚みを出し、わかばの口に噛ませる。
はあっと大きく息を吐いて、りんは木片を引っ張った。
わかばは息を吐いて地面に爪を立てた。
「…っう」
りんは引き抜く木片から伝わる感触に泣きながら力を入れた。
ずる、と体から木片が抜けると、わかばの体からがくりと力が抜けた。
「…おい、取ったぞ。早くそれを使って…」
りんは血で真っ赤になった木片を放ってわかばの顔を覗き込んだ。
「…おい」
思わず、耳を口元に近づけたが呼吸音がまったくしない。
「…息が」
りんはわかばの頬を軽くたたいて、もう一度声をかけた。
涙をぬぐいながら、わかばが手に持っている緑の葉を手に取る。
「これを、どうすればいいんだ。わかば…」
傷口に近づけてみるが、特に何も起きない。
「どうすれば…私はこれを使えないんだ…お願いだから…」
りんは二年前の時のことが脳裏によぎりそうになるのを必死に打ち消しながら考えた。
「…強く、押して…」
わかばが青い葉で使い方を教えてくれた時のことを思い返す。確か、基本的にどれも同じ起動方法だと言っていたはずだ。
緑色の葉がぴくりと小さく震えて、仄かに光りだした。
「…一回震えたところで、円が出てきたところでもう一度押して」
葉が強く光りだし、りんは急いで傷口に近づけた。光が傷口にまとわりついてはじけた。
「…わかば…?」
肩を小さくゆすると、わかばがううっと呻いて目を開けた。瞬きをして首を振りながら起き上がり、りんに笑みを浮かべる。
「お、まえ…」
りんは体を震わせてわかばに抱き着いた。わかはばうっとうめいてそのまま倒れこむ。
予想外の行動にわかばは目を白黒させた。
思わず起き上がろうとすると、りんがほうっと息をついてつぶやいた。
「よかった。生きてて」
わかばは少し、体から力を抜いてりんの肩に手を置いた。
「…りんさんなら大丈夫だと思ってたので。でも、助けてもらってばかりで申し訳ないです」
りんはぐりぐりとわかばに顔を押し付けたまま首を振った。大きく、深呼吸すると薄荷とタバコの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「…わかば」
りんが顔を上げてわかばを見上げ
後ろに目が行ってひくっと顔が引きつった。
わかばはりんの目線を追って寝たままの状態で頭をそらせた。
シロがひょこっと草むらの中から顔を出し、その後ろからりくの顔がちらりと見えた。
「ピッ!ピ―ッ!」
がしゃがしゃとわかばの傍に寄ろうとするシロを、りくが必死に押さえ込みながら物陰に隠れる。
ちらりと見えたシロのモニターには<ワカバ セイタイハンノウ キケン>と書いてあったようなので、どういう理屈かは分からないがわかばの異常に気づいて姉妹たちを連れてきたのだろう。
タイミングは最悪だったが。
「…り、りく!ちょっと待って」
慌てて起き上がるりんに、りくは手を振った。
「いーのいーの、姉ちゃんはお前の味方だ、うん!じゃ、お前ら夕飯までには戻って来いよー」
「あーあ、見つかっちゃったナ」
「しょうがないじゃん、このメカが騒ぐんだから。つーか、あんた達なんで来てんのよ。ガキにはまだはやいし」
「りょくちゃんにも早いと思うのにゃ。」
「ほらみんな帰るよー」
わらわらと出てくる姉妹たちにりんはうわああっと頭を抱えた。
「りんさん、僕らも帰りましょう。色々あって、疲れたでしょう」
わかばは立ち上がり、りんに手を差し出した。
りんは、ううっと呻いてつぶやいた。
「…こ、腰が抜けて…立てない…。さ、先に帰ってろ。後から行くから」
りんは恥ずかしさから顔を真っ赤にして地面に目を向けてぼそぼそと答えた。
わかばはなるほど頷いて、少し考えこんだ。
「じゃあ僕がおぶっていきますよ」
「お、お前が?無理だろう、重いし…お前軽いし」
「い、一応りんさん抱えることはできます。多分…」
わかばはしゃがんでりんに背中を向けた。
「…潰れたらシャレにならないぞ」
「大丈夫ですよ」
りんはわかばの首に手を回して体をわかばの背中に預けた。
わかばはりんをおぶって立ち上がった。りんは一瞬倒れるかと思ったが、わかばは特に体がふらつくこともなくそのまましっかりとした足取りで歩きだした。
りんは、緊張が解けたせいか強い眠気を覚えて目を閉じた。
眠りに落ちるりんの耳には賑やかに話す姉妹とわかばの声が聞こえてきた。

「なんだよ、せっかく二人きりにしてやったのに」
りくは幾分つまらなさそうに後ろから来たわかばたちに声をかけた。
「え、あの、すみません。」
「りんねえね、寝ちゃったのな」
「大変でしたから」
「びっくりしたよ、この白いメカがいきなりピーピーサイレン鳴らしてウロウロしだして」
りょくはいつの間にか小脇に抱えたシロを撫でながらわかばの隣に並ぶ。気のせいか、シロの足がバタバタと助けを求めるように動いているように見えたが、わかばはとりあえず気のせいと思うことにした。
「にしてもあの崖から落ちてよく無事だったなお前。」
「まあ、頑丈なので」
「…頑丈、ね。まあ話す気がないならとりあえず黙っておくけど」
りょくはわかばをじとっと睨んでわずかに不満げに呟いた。

りんは目を開けて、自分部屋の天井を見上げた。
時間を確認すると、思いのほか時間が経っていないことに安堵して、起き上がって階段を下りた。
庭の方で遊ぶ声がする。
りんは、何とはなしに客間に顔を出した。
わかばは縁側に座っていた。手でシロを撫でながら外を眺めている。
縁側に近づくと、物音に気付いてわかばが振り返りりんを見上げた。
「あ、おはようございます。りんさん」
「…おはよう」
横に並んで座り、りんはわかばが眺めていたほうに目をやる。
「…お前の方は、休まなくていいのか」
「ええ、地球の人よりも丈夫なんで」
「そう、か」
りんは足元に視線を落とした。
「…ここは、すごく楽しいですね。色々な事が短い時間で移り変わって。」
「お前の故郷では違うのか」
わかばは、少し考えてぼんやりと呟いた。
「そうですね、昔はどうだったかわかりませんが。少なくとも僕が生まれたときは住みやすく管理された世界でした。穏やかで、静かで、ヒトも分散して生活するようにされていたのであまり見かけないんですよね」
わかばはふと黙り込み、頬を掻いた。
「僕、見えないかもしれないですがりんさんたちよりも長く生きてるんです。」
「とてもそうは見えないな」
「う…やっぱり…」
わかばはがくっと肩を落とした。
「いつくらいから、記憶が戻ってたんだ」
「細かい部分は時々ふっと頭に浮かんでいたんですけど、全部思い出したのは崖から落ちた時ですね。」
「…これから、どうする」
りんの問いかけに、わかばはふっとりんから視線をそらしてシロのほうに目を向けた。
「どちらにしろ、音信不通のままそこそこ時間が経っているのでこのまま放置はまずいですね。それと、もろもろ、処理しないといけないこともあるので…」
「…それからは?」
「そうですね、…気持ちとしてはここに居たいですけど…。」
わかばは口をつぐんで庭の方に目をやった。
「…私はお前ほど長生きではないからな。そんなに長くは待っていられないぞ」
りんの言葉にわかばはりんに向き直り、ふっと嬉しそうに頷いた。
「はい、分かっています。出来る限り早く、戻りますので」
わかばは立ち上がって縁側から外に出た。そのあとを、シロが付いていく。
「…じゃ、行ってきます。りんさん」
「ああ、気を付けて」
りんは軽く手を振る。わかばは手を振って少し歩いて家から離れる。
「シロ、よろしく」
「ピ!」
シロのモニターが動いて文字が表示される。

<テンソウ ショリヲ カイシ>

空間に六角形の穴が開き、わかばとシロの立っていた場所の空間がゆがみ、りんが瞬きをした瞬間、わかばとシロの姿は跡形もなく消えていた。

わかばと

りんは、額の汗をぬぐって息をついた。
蝉の音と、りんが振るう鉈の音だけが響き、時折ひんやりとした風が吹いてくる。
八月も中ごろになれば、少しは息もつける。
家から持ってきていた水筒からお茶を飲んで、切り株に座って少し休む。
「りんねえね、もうお昼なんだな!」
「早く帰るんだな!」
坂道を登ってきた妹たちに、りんは大声で返事をした。
道具をもって山を下りてくると、下から六つ子が駆け上ってきた。
「みんな待ってるんだな!」
「ああ、そうだった…。忘れてた」
りんは妹たちに続いて急いで裏庭を通って玄関に顔を出した。
「…遅いぞーりん!」
「お素麺、ぬるくなっちゃうぞー」
りょうとりくが音に気づいて居間から顔を出した。
家の中はこの時期にもかかわらずエアコンをつけていない玄関でもひんやりしている。
「…ごめん、ちょっと切りがいいところまでやってて。先に食べてていいよ」
「あんまり根詰めると、熱中症なるじゃん」
りょくはタオルを渡してため息をついた。
「山は意外に涼しいよ」
「そういう事じゃないって…、ほんとにもう」
「まあまあ、りょくちゃん…。りん、早く手を洗ってくるにゃ」
「うん」
道具を玄関先にとりあえずおいて、りんはばたばたと靴を脱いで洗面台に向かった。
制汗剤とタオルでいったんさっぱりさせてから手を洗ってくると、居間ではめいめい大きな器にどんと置かれた素麺をすすっていた。
前日からお盆を過ぎて、ようやっと仕事が一段落したりくと共に来たりょうたちは、ちらりと家の中に目を向けた。
「わかば君は、まだ来ないんだ」
「まあ、色々処理があると言っていたからそんなにすぐには無理じゃないかな」
りんはこともなげに答えた。
姉妹は思わずお互い目を合わせた。
「…何?」
「何でもないにゃ。りんが納得しているならいいにゃ」
りつは手を振って笑みを浮かべた。
「…?そう?」
りんは不思議そうに首をかしげた。

食事を終えると、りょうとりくは六つ子にせがまれて、庭にプールを出すために出かけて行った。
りょくはりつと共に近くのスーパーに買い出しに出かけ、りんは一人で家でぼんやりと留守番をすることになった。
お盆を過ぎたせいか、暑いとはいうもののこの辺りは比較的過ごしやすい。
風鈴の音がちりちりとなり、りんは開け放たれた窓からそよぐ風を浴びて、縁側に座って柱に体を預けて目を閉じた。
ふわりと、風の中に薄荷とタバコの香ばしい匂いが混じったように感じてりんはうっすらと目を開けた。
「…すごい暑さですね。これが夏ですか…」
わかばは額の汗をぬぐいながら呻いた。
「ピ!」
足元にはシロが小さな足をひょこひょことさせながら付いてきている。
「…だいぶマシになったほうだな。それにここは山が近いから涼しいほうだ」
「ええっそうなんですか?」
りんの横に座ってわかばはふうっと息をついた。
「もう少しすれば秋になるから、それまでは我慢だな」
「秋ですか。」
「この辺りは紅葉が多いから山全体が赤く色づいて奇麗なんだ。野菜や果物なんかも旬のものが多いしな。まあ、冬になれば今度は寒さが厳しいが。ここは雪が深いから静かで、見る分には奇麗なんだ。」
「僕、雪とか見たことないです。気になるなー」
嬉しそうなわかばに、りんは問いかけた。
「…何とかなったのか」
わかばは乾いた笑みを浮かべて頬を掻いた。
「そうですねー、まあ何とか。」
あははと笑ってわかばは答えた。
「よろしくお願いします。りんさん。」
「…こちらこそ」
りんは、つられてふっと笑みを浮かべた。

風鈴がちりちりと風に揺れて鳴り、二人はそのまま縁側で庭を眺めていた。