月: 2019年9月

最果ての楽園の少女

どこまでも広がる青い空にかすむ雲が時折たなびき、青い海はどこまでも広がり水平線はどこまでも平らだった。
りなは日課である朝の見回りでしばらく海を眺めていたが、やがて飽きて立ち上がった。
「なー、今日は何も落ちてないな」
誰とはなしに呟いた言葉に
「そんな毎日何かあるものでもないな!」
「森にいったりなこがなんか見つけたみたいだな」
ひょこりと後ろからりなじが報告し、りなよとりなっちは振り返った。
「なな、じゃあ森の方に行くな!」
「了解な」
りなは砂浜の上をぴょんぴょん跳ね飛びながら森の方に駆け上っていった。砂浜は強い風に砂があっという間に流され岩場になり、その岩は風に吹かれて転がりあちこちでぶつかりながら再び砂になって別の砂浜になったが、りなはそんな様子には頓着することもなく、彼女が森と呼んでいる木立の中を分け入った。
森の中を進むと開けた場所に出た。その先にはりなこが椰子の実のような物をもって転がしていた。
「な、どこにあったのな?」
「ここに一個だけ落ちてたんだな。でも中身何も入っていないな」
こんこんとりなこが実を叩くと、空っぽの椰子の実の中からカラカラと鈴の音がした。ぽいっと放り投げるとりなよとりなぞうがなんだーと肩をすくめた。
「ここ最近全然良い物が落ちてないな……」
「しょうが無いな。とりあえずまた駅に行こう」
りなは一人で森を抜けて島の反対側にある無人駅にたどり着いた。何のためにあるのか誰も知らないその駅には、時折マッチ箱のような一両の電車がやってきて、しばらくすると勝手にどこかに走り出していた。何度か乗っていくことも考えたがどこに行くのか分からない電車に乗るのは嫌だとりな達の反対にあって結局いつも見送るだけだった。
「まっだかなー、まっだかなー」
りなはぽつんと立つ駅の構内に入ると駅名を見た。相変わらず駅名は風雨にさらされたせいかペンキが剥がれて読めない。かろうじて行き先に「福」の一文字が読めるだけだった。
かたん、かたん、とどこからか規則正しいリズムを刻んで何かが遠くから近づいてきた。
「来たな来たな!」
線路の向こうを、身を乗り出して眺めていると、りなよが首をかしげた。
「どうせ何もないんじゃないかな」
「確かに、今までも何もなかったしな」
「じゃあ、いっそ乗っていっちゃうのはどうな?」
「えー」
「危ないな」
「……」
それぞれ好き勝手言いながらわいわい待っていると、クリーム色と緑色の二色の車体の電車がすうっと駅に入ってきて止まった。
ドアが開いて、りな達は中を覗き込み
「……え……?」
座席にぽつんと座っていた青年は、ぽかんとりな達を見つめて首をかしげた。
「なな!?」
「人が乗っていたな!?」
きゃーっとりな達はバタバタと電車から離れて駅のホームから飛び出した。その後を、青年が慌てて追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってください一体ここはぐあっ」
顔面からホームの段差に躓いて、青年はばたりと床に倒れて伸びた。
「鈍くさすぎないかな……」
りなじが恐る恐る近づいて、頭をその辺にあった木の棒でつつくと、ううっと呻いて顔を上げた。
「えっと……」
「なー……お前、どこから来たな?」
「え……いえ、そう言われても、気がついたらあの電車の席に座ってて……ずっと……」
青年はふらふらと視線を彷徨わせて首を振った。
「名前はなんて言うな?」
「わかば……」
青年は囁くように呟く。ガタン、と音がして全員が振り返ると、電車のドアが閉じて、再び音を立てながら島の端にある岩山を突き抜けるトンネルの中に消えていった。
「あのトンネルの向こうは?」
「知らないな。ずっと向こうまで続いていたけど真っ暗だし」
「真っ暗?」
わかばは首をかしげて山を見上げた。山は島の端を区切るようにあり、その向こうは特に何も無い。向こうまで続いているならばすぐに山の反対側である島の向こう側が見えるはずである。
「……確かに、真っ暗ですね……」
りな達に案内されてわかばは不思議そうに線路が見えなくなる遙か向こうを見つめた。
「なー……それより、おい、わかば」
「はい、何でしょう」
「折角だからりな達が遊んでやるのな」
「りな、達?」
「りなっち、りなじ、りなぞう、りなよ、りなこ、りなむの六人だな!」
りなが説明すると、わかばは混乱した顔で
「え、でも今は一人ですよね?」
「そういうときもあるな。りな達はいつでも増えたり減ったり出来るんだな」
「こんな風に」
「どれが誰か分かるかな?」
「ななな!」
背後から全く同じ、まるでコピーのようなりなが複数現れ、わかばは頭を抱えて
「そ、そんな馬鹿な人間が単純分裂する訳が……」
と何かブツブツと言っていたが、その背中にりなっちとりなよがしがみつく。わかばは突然かかった荷重にうっと呻いてバタリと地面に倒れ込んだ。
「何をブツブツ言ってるんだなわかば」
「ここはいつもそうだな。お願いすればそのうち叶うのな」
「お、お願い?」
わかばが起き上がってりな……っちかりなよを膝の上にのせると、わらわらとりな達がわかばに寄ってきた。
「そうな、今日は面白い物が無かったから何か来ないかなーって思ったらわかばが来たな」
「この前はたくさんのおもちゃが流れ着いてきたな」
「更にその前にはケーキがいっぱい落ちてきたんだな」
りな達の発言にわかばはううっと呻き
「め、めちゃくちゃだ……」
りな達はわかばを引っ張って駅とは反対方向にある砂浜に向かった。
「さあさあ、さっさと遊ぶのな!」
「なな!」
わかばは少し考えてから、
「そうですね、どちらにしろ帰る手段もないですし」
「帰る?」
「帰るって? どこに?」
りな達は不思議そうに首をかしげてわかばを見上げた。
「え、りなさん達はずっとここに居るんですか?」
浜辺へ向かって歩く六人の後ろから歩きながらわかばは問いかけた。りなっちが頷いて
「そうだな、ずっとここに居るな」
「その、ご両親は」
「? 両親? 何なのな?」
りな達は口々にわかばに向かって問いかけた。
「いや、あの僕はあの電車できましたけど……りなさん達は」
「気がついたらここに居たのな」
「ずっと前からな」
「電車に乗ってきたとかではなく……?」
わかばの問いに、りなはうーんと考え込み
「さあ、覚えてないな」
りなは砂浜へ出ると遙か先まで何も見えない海を指さした。
「あっちの方からいろんな物が流れてくるんだな」
「……これは……」
わかばは砂をすくい上げて、不思議そうに首をかしげた。
「砂……?」
珊瑚やガラスのような鉱石が砕かれた物とは質感の違うそれをわかばは首をかしげて見つめた。そして、向こうまで見える海を見つめてふと気付き、上を見上げた。
「あの、太陽はどっちにありますか?」
「たいよう?」
りなは不思議そうに首をかしげた。
「何それ」
「ええ、だって、こんなに明るいのに……」
わかばは首を巡らせて、明かりの元を探したが、空全体が光っているかのように光源は見当たらなかった。
「おかしな奴だな」
「海に落としちゃうな?」
「や、止めてくださいよ」
わかばは慌てて海から離れ、りな達は笑いながらわかばに飛びついて引っ張った。
「なー、何して遊ぶな?」
「うーん、人数がそこそこ居るから何でもできそうですが」
「じゃあかくれんぼ、わかばが鬼な」
「ええ、でも、一人になったりされたら僕分からないですけど」
「大丈夫な! そんないかさまはしないのな!」
言いながらりな達はバラバラに飛び出していった。わかばは、目を閉じて十まで数え始めた。
「……九……十! もういいかい」
「もういいよー」
りな達の声が聞こえ、わかばはちらりと海の方に目を向け、隠れたりな達を探すために歩き出した。

「なー、まさかこんなに簡単に見つかるとは……」
りなはごろごろと転がって不満そうに口をとがらせた。
ベンチに座るわかばはニコニコと笑って、りな達が拾ってきた草や流れ着いた物を手に取っていた。
「すみません、つい、久しぶりで」
わかばは手に持っていた草を横に置いてりなに向き直った。
「なんだか、暗くなってきましたね」
「夜だから当然だな」
りなは欠伸をしながら地面に転がって足をパタパタと振った。
「夜はいつもどこで寝てるんですか? 建物とか……無いですよね」
「駅の中とか……砂浜で寝るんだな」
「ええ、危なくないですか?」
わかばの言葉に、りなは平気平気と言って立ち上がり、わかばの手を引っ張った。
「こっちに良い場所があるんだな」
わかばはりなに導かれるまま浜辺の方に向かった。暗くなってくると、浜辺に向かう道もほぼ見えず、わかばはつまずきながらりなの後を追いかけた。
「よく見えますね」
「勘だな!」
元気よく歩きながらりなはわかばに言い、浜辺の少し手前から山の方に向かった。トンネルを横目に左の方に歩くと、小高い丘のような、開けた場所に出た。
「へー、結構いろんな場所があるんですね」
「そうなんだな! ここは最近できた場所みたいだけどな」
「え?そうなんですか?」
「なな、この島、いつの間にか形が変わってたりするからな! 毎朝起きて島の様子をチェックするんだな!」
りなは丘の上に寝転がるとわかばを手招きした。同じようにしろと言うことかと、わかばは横に並んでりなと同じように仰向けに寝転がった。
「これは……」
「キラキラしてるな?」
りなの言うとおり、見上げた空は暗く、あちこちで星の光が瞬いていた。そして何よりもわかばが驚いたのは、島の上に光の筋が何重にもなって遙か向こうまで伸びている事だった。天の川は星の粒だが、これはどう見ても一本の細い線が幾層も重なっているように見えていた。流れ星のように端から端まで何かが飛んでいるのだろうか。わかばは魅入られたように見つめて考え込んだ。
「毎日こんな感じなんですか?」
「そう、かな? でも最近はこの線の数が減ってるんだな」
「そうなんですか」
りなは手を伸ばして光の筋を追いながら
「昔はこれくらい大きいのが何本もあったのな。でも今はあの細いのだけなのな」
「今でも十分綺麗ですけどね」
「ななー。まあそうなんだけど……」
りなはふと気付いたのか
「そういえば、ここ最近は全然新しい物も流れてこないし島自体が小さくなってるみたいだな」
「そうなんですか?」
りなは頷いて
「昔はもっといっぱい歩き回れたのに今は反対側にすぐ着いちゃうんだな」
「何でだろう……気になるな」
わかばは思わず顎に手をやり考え込んだが、ごろりと転がってきたりなに乗っかられてうっと呻いた。
「なー、そんなの気になるとか変な奴だなわかば」
りなはにやりと笑って
「りなの方が島のことは詳しいんだから、りながお姉さんになってやるんだな」
わかばは一瞬きょとんとした表情を浮かべたがすぐにへらりと笑って
「はい、よろしくお願いしますね」

島でのりなの生活は基本的に、朝は何か面白い物が海から打ち上げられていないかを調べる事、無ければ島の中をぐるっと回ってパトロールしながら新しい何かが落ちていないかを探し、それも無ければ夜になるまで遊ぶという単純な流れだった。
島の外から何かが流れてこないかというのは分かるが、わかばは何故島の中に何かが落ちているか探すかを問うと
「時々知らない物が生えているから」
という不思議な返答が返ってきた。基本的にりな――達は細かいことを気にしないらしく、わかばが島で起きる不思議な事象について問いかけると、知らない、そうだったか? 覚えていないで返されることが多かった。
ふっと息を吐いてわかばは砂浜に座り込み、どこまでも見える水平線を見つめた。どこまでも平らで恐ろしいほど先まで見えるが、見える全ては平らで島の先に他の陸地などが見える気配は無かった。
電車はわかばが来てからは来る気配は無く、またそもそもわかばが見る限り線路はどこにもなかった。
「おーい、わかば! 何してるな? 何か見えるな?」
少し体が小さい事に気付いて、わかばはそれがりなの中の一人だと言うことが分かった。
「いえ、何も見えないですね……」
わかばは振り返ってりなの一人――恐らくりなじではないだろうか――を見上げて
「他のりなさん達はどうされたんですか?」
「みんなで遊んでるなー」
りなじはわかばの隣に座り込んでわかばが眺めていた海を見つめた。
「何にも無いんだナ、ここ」
「ええ、まあ」
りなじは手元の木の枝を拾い上げて、無造作に振ってから囓り始めた。
「ええっ!? ちょ、ええっとりなじさん!?」
「なー、よく分かったなわかば」
「いや、えーっと、その……そんなの囓っちゃ駄目では。おなか壊しますよ」
「平気な。色々食べてみたりしたけどどれも何も感じないのな」
「え?」
ほら、とわかばは差し出された木の枝を恐る恐るりなじと同じように囓ってみた。枝は簡単にかみ切れて口の中で溶けるように消えてしまっていた。わかばは思わず口に手をやるが、かみ切ったはずの繊維のようなものもまるで感じなかった。
「これは一体?」
「さぁ……? りな達はこれが普通だからな。わかばは違うのな?」
「僕の記憶にある木の枝というのはもうちょっと……繊維質というか、土の匂いというか……」
「どれもよく分からないなー」
りなじは首をかしげて不思議そうにわかばを見やった。
「りなじさんはその、感じないと言っていましたけど」
「うーん……何となく、ずっと昔おいしい物を食べたような気がするんだけど、りな達ずっとここに居るはずだから……」
「僕から何かわからないかと?」
「……」
りなじは悩ましそうに眉を寄せて首をかしげた。二つに分けて結ばれた髪を指で弄ってどう言えば良いのか悩むように
「……わかばが乗ってきた電車は時々空っぽの状態でここまで来るんだな。本当はりな達――私はアレに乗って帰らないといけないんじゃないかって思って」
言いながらりなじは首を振って立ち上がった。
「な、よく分からないな」
パタパタと走って行くりなじの背中を見送り、わかばは立ち上がって海の方に目を向けた。
どこからかうねるような低い音が鳴っているような気がして、わかばは首をすくめてりな達の居る方に歩き始めた。

どのくらいの時間をその島で過ごしたのか、わかばは最初のうちは数えてみたが、島は気まぐれにいろいろな物が変化してしまうようで、記録のために木に印をつけたりしても跡形もなく消えてしまう事が日常茶飯事だったため、途中で数えることはできなかった。昼と夜も恐らく長さはバラバラなのではないかとわかばは思っていたが、それを調べる術もなかった。
その日も浜辺で何も釣れない釣りをして遊んでいたりな達とわかばだったが、ふと、りなの誰かが――おそらくりなこだったと思う――何かに気付いて顔を上げた。
「なー……電車が来たのな」
「電車?」
「ななっ?」
「ほんとだ、音がするな」
りな達はその場に道具を置いてバタバタと駅に向かって走り出した。その後をわかばも走って追いかける。波の立たない水面を滑るように電車は島に入ってきて、駅のホームに静かに止まった。
りなとわかばは誰か居ないかと中を外から眺めてみたが、電車の中には誰も乗っていなかった。
「誰も居ないな……」
りなは呟いて、窓から顔を離した。
「……りなさん、僕はこれに乗って行ってみようと思います」
「え……」
りなは驚いてわかばを見上げ、慌ててわかばの服を引っ張った。
「何言ってるんだな? どこに行くかも分からないのに」
「そうですけど……」
わかばは困ったような顔でりなの頭に手を置いた。
「僕、多分ここに長居をしてはいけない、気がしていて」
「な、何でな? 別にりな達は困らないし、それに……」
わかばは静かに首を振った。
「多分、本当はりなさんも……帰らないといけないんだと思います」
「……りなは……ずっとここに居たんだな……。別に帰るも何もないな」
「そうですね。ただ何にしろ僕が先に行った方が良さそうですので。何かあれば戻ってきますし、駄目だったら……」
わかばはふと口をつぐんで首を振った。
「とにかく、まあまずは危険かもしれない場所には大人が行くべきだと思いますので」
わかばはりなを元気づけようとしたのか軽い調子で言って笑い、電車に乗り込んだ。まるで待っていたかのように電車のドアが閉まり、そのまま電車は駅を出た。
「わかば……! まっ……」
ホームの端まで追いかけてみたものの、りなはそれ以上先には進めず、その場に立ち止まった。りなが目で追いかけていると、電車はそのまま島の中央と突っ切って、奥にある暗闇に続く山のトンネルの奥に消えていった。
気がついた時には空は暗くなっていた。りなは何となく山辺の横にある丘に向かい、一人でごろりと横になった。
「正確には一人じゃないけどな」
「でも結局はりなだから一人なのでは?」
「でも数は六人だし」
「りなじどうしたのな、元気ないな」
「わかばが居ないから……とか?」
「何で?」
自分のことなのに何で分からないの?
どのりなが言ったのだろうか、あるいは一人の寝言なのか、りなは驚いて起き上がった。
気がつくとりな達は消えていて一人で丘の上で寝転がっていたようだった。
そんなに長い時間寝ていたつもりはなかったが、気がつくと辺りは明るくなっていて、りなはいつもの日課をこなそうと派鍋に降りた。浜辺に降りたりなは思わず目を疑い呆然と海を見つめた。
昨日まではあった海の水が遙か向こうまで引いてしまっていた。りなは恐る恐る下に降りてみたが、水はどこにも見えず、遙か遠くから波の音のような、低いうなり声が聞こえてくるだけだった。
何かがおかしいのだが、どうすれば良いのかりなには分からなかった。
りなはとりあえず島の真ん中にある駅に向かった。もしかしたらわかばが帰ってきているかもしれないという淡い期待がわずかにあったのかもしれない。しかし、駅のホームには何もなく、向こうから電車が来る様子もなかった。
どうすれば良いのか、考えようと駅のベンチに座ると、突然辺りが真っ暗になった。正確にはうっすら空に星のような灯がちらちら見えたが、明るさに慣れていた目は何も見えず、りなは狼狽えた。
暗さに慣れたところで、りなは立ち上がって駅の向こうにある山を見やった。線路に降りて、わかばが乗っていった電車の向かった山のトンネルの前まで歩き、立ち止まった。不思議なことに暗くなった事でトンネルの中のわずかな灯が見え、少し先が見通せるようになっていた。オレンジの灯を頼りにそっとりなはトンネルに足を踏み入れた。
「は、入るのな? そこ」
「ちょっと待てば元に戻ると思うけどな」
「止めた方が良いんじゃ無いかな」
さっきまで出てこなかったりな達がひょこりと後ろからトンネルの奥を見て口々に呟いた。
「でも、なんか島の様子変だし……」
「それはわかばが色々変なこと言ったからそう思ってるだけでは?」
「海が無くなっちゃったのも別に島の中の物が無くなるのと大して変わらないな」
「空だってちょっと早く暗くなっただけな」
りなじはそうだろうかと考え始めてみたが、やがて首を振って
「でも、やっぱりりなは……私は……」
りなはトンネルの奥に向かって走り出した。同時に後ろから聞いた事も無いような轟音が響き思わず振り返った。まだそんなに遠くないトンネルの入り口から見える景色は想像を絶していた。暗い空に逆巻くような風が吹き荒れ、木々がなぎ倒され、引いていたはずの海の水がとてつもない大波になって島に襲いかかっていた。
それどころか、波はトンネルの中にも入り込んでりなの居る場所まで水を運び込んでいた。
「ま、まずいな……」
りなは慌ててきびすを返して走り出した。荒れ狂う波の轟音が後ろから響き、背中には何度も波頭が当たった。トンネルの先はまるで見えず、暗い中を一人でただ走り続けていた。
ふと、何かにつまずいたのか体のバランスを崩した瞬間、後ろから迫ってきていた水がりなの体を押し流し、そのままりなの意識は暗転した。

こしょ、こしょと耳元で何かが囁いている声がした。
りなは思わず手でそれをぐいっと向こうに押し返そうとすると、妙に弾力のあるぬるっとした物に触れた。
「ななっ!?」
慌てて起き上がると、半透明のマンタのようなものがふわふわとりなの周りを回っていた。
「こしょ……」
マンタは恐らく驚いたのだろうか、ひらひらとどこかに飛んでいってしまい、りなはぽつんと一人残された。
どこだろうと当たりを見渡すと、あの島とは別の、知らない場所に倒れていたようだった。
大きな坂と、その上には大きな鳥居があり、りなの側には線路が走っている。
「あれ……本当だ」
どこからかりなと同じくらいの女の子の声がして、りなは思わず声の方に振り返った。
黒い駅長の帽子にぶかぶかの黒い制服のような物を着た女の子が、困ったような、ビックリしたような顔でりなを見つめていた。後ろにはあの半透明のマンタも居る。
女の子は参ったなーと頬を掻いて独りごちた。
「ここに来るなんて……迷子というか、運が良いというか……うーん、どうしよう」
「こしょーこしょこしょ……?」
「うーん……まあそれしかないよな」
少女はりなの方に向き直って腰に手を当てた。
「君、運が良いよー。ここからなら送ってってあげられるよー」
「送るって……?」
「あー……まあその辺はさ、気にしない気にしない」
ほらこっちー、と少女は手を振って歩き出した。りなはよく分からなかったが少女の後を追いかけた。大きな坂の下にある細い線路の前に来ると、小さな亀が――これもやはり半透明だ――首をかしげるような動作で線路の上から見上げてきた。
「そうそう、迷子。放り出すのはまずいだろ。悪いんだけど送ってってくれる?」
「ぺら」
小さく頷いた亀に、少女は段ボールの箱を乗せた。
「はい、これに乗って」
「だ、大丈夫な……?」
恐る恐る乗ると、一瞬亀が沈み込んでふわりと浮き上がる感触にりなは小さく声を上げた。
「あまり動くと途中で振り落とされて帰れなくなるかもしれないから、しばらくはじっとしててね」
少女はそう言うと、よろしく、と亀に手を振った。
亀はゆっくりとりなを乗せて動き出し、線路を進み始めた。りなは先を見つめて思わず声を上げた。
「ま、前っ!」
何もない虚空を進み始めた亀はそのままふわりと落ちるように急降下した。
りなはそのままもう一度意識を失い、目の前が真っ暗になった。

規則正しい電子音が耳について、りなは体を動かした。
ピッピッと心拍数を計っていた計測器は、安静時の鼓動から音が速くなったことを知らせていた。真っ白な天井と真っ白な壁が目に入り、りなはしばらくここがどこかを考えていた。
モニターでもしていたのだろうか、パタパタと看護師の女性が中に入ってきてりなの様子を見ると、大きな声で先生! と呼んで廊下を走っていった。
「何なの……?」
りなは起き上がって体をゆっくり伸ばして肩を回した。ぼんやりと、学校から帰る途中、道を歩いていた時に後ろから車のクラクションが聞こえた記憶が浮かんできて、りなは体を見渡した。多分あの記憶が一番最後の記憶だろう。そうすると、自分は事故にでも遭って病院でずっと寝ていたいたということだろうか。
白衣を着た医者が部屋に入ってきて、調子はどうか、痛い所はないか聞いてきた。特にないと言うと、準備ができたら改めて精密検査をする事を告げ、家族ももうすぐ来るはずだと言って出て行った。
家族……はもちろん覚えている。
りなはばたっとベッドに身を投げ出して、何か忘れているような――? と首をかしげた。家族、でもなく、友人、でもなく……。
起きる少し前までは覚えていたはずだったが、目が覚めた瞬間から夢と同じようにどこかから零れてしまって、もどかしい気持ちでりなは頭を押さえた。
その後行われた精密検査の結果、肉体の傷はほぼ問題ない事が確認できた。その時にりなは自分が一年近く寝ていたことを知らされた。季節が一巡していたせいで全く気付かなかった。
ただし、医者が首をかしげていたのは頭を強く打っていた訳でもなく、肉体的な傷を差し引いても意識が戻らない状態になってしまった原因が分からず、医者も頭を悩ませていたと言うことを口にした。
一年ずっと寝ていたので、リハビリが必要と判断され、退院はリハビリの状況から判断することになった。
一人である程度歩けるようになると、りなは杖をついて病院の中や、外を少し散歩するようになった。運び込まれた病院はかなり設備が良く、昨日通りかかったエリアでは外に出られない子どもやけが人のストレスの軽減のためにと、かなり新しい仮想現実を体験できる設備も置かれていた。
――今日はどこに行こう。
良い天気だったので、りなはふらりと外に出て病院に隣接する公園に足を伸ばした。杖のつくコツコツという音をリズミカルにうちながら、公園の中に足を踏み入れると、ふと、視界に写った誰かの姿が目を引いた。
寝癖なのか、あるいは地毛なのか判別しがたい好き放題に跳ねた短髪の青年が、一人、つつじの植え込みの側に置かれたベンチに座っていた。
「わ、かば?」
思わず、声が漏れてりなは、ようやっと思い出してきた。
「わかば」
「う、わっ!?」
声をかけられた方は驚いたのか読んでいた本から顔を上げて背後に立つりなに目を向けた。りなは一瞬ひょっとしたら覚えていない――そもそも自分の夢だったのでは? ――という可能性に気付いて、しまったと口元を手で覆った。青年は、りなを見つめるとほっと息をついて
「ああ、りなさんも目を覚ましたんですね」
「な……なぁ?」
りなは思わず息を吐いて、そっとわかばに近寄った。彼は読んでいた本を脇によけ、両手でずるずるとベンチの反対側に少し寄った。植え込みの陰で気付かなかったが、わかばの手の横には松葉杖が立てかけられていた。
「……それは?」
「ああ、お恥ずかしいことに……車を運転していたときに事故ってしまって……骨折で済んで良かったんですけど、頭も打ってしまっていたようでしばらく意識が戻らなかったみたいです」
わかばは手を振って答えた。
「それじゃ、えっと……わかば、あれ、夢じゃないって」
「何となくですが……」
橫に座ったりなの問いかけに、わかばは手に持っていた本をりなに見せた。何かの説明書のようにも見える。
「……ちょっとここの病院に導入されているVRの設備について調べたんですけど……専用のサーバーを立てて、そこでVRのゴーグル――というよりは脳波測定器に近いようですが――をつけたユーザーの脳のパルスを受信してサーバー側にある仮想世界の情報のデータと統合してユーザーに送るような動作をしているようです。よくあるものですし、それで何か人に問題が起きると言うことは無いと思うのですが……」
わかばはパラパラとページをめくりながら
「もし良ければ僕がいなくなった後の話を聞いても良いですか」
りなは思い出せる範囲で、わかばに電車が居なくなってからの話をした。自分がトンネルに入った後、最後に見た不思議な風景の話をすると、わかばは首をかしげて
「僕は電車に乗ってあのトンネルに入って……割とすぐに目が覚めたんですよね。そんな不思議な所には行った記憶が無いです」
少し考え込んだわかばはやがて
「ただ、りなさんが目覚めたのはかなりラッキーだった気がします」
「どうしてな?」
「実は、つい先日の事らしいんですけどVRの設備で問題があったようで設備の点検と、サーバーの入れ替え作業が行われたそうで……」
わかばは辺りを見渡して誰も居ないことを確認するとりなにだけ聞こえるように少し小さな声になり
「実を言うと、業者の人の会話を偶々、立ち聞きしたんですよね。どうやら最初の構築時に問題があったみたいで、ネットワークの接続を誤っていたようです。本来はVR設備の中だけで完結するはずのクローズドなネットワークだったらしいんですが、間違えてケーブルが刺さっていたみたいで、院内のネットワークに繋がっていたと」
「それが?」
「うーん……多分ですけど……、本来はサーバーと人だけだったネットワークのはずが、りなさんが目覚める寸前までは、院内のネットワークに繋がっていた。理屈も理由も謎ですが……その結果脳波測定で受信したデータの一部がサーバーからその先の院内ネットワークのどこかに流れてしまっていたんじゃないかと。流れたデータがどうなって、それがどうして僕らが昏睡状態になったのかは……もっとちゃんと調べないといけないんでしょうが。サーバーが撤去されてしまったようなんですよね」
「ちっとも分からないな」
「僕もよく分からないです。ただ、これ」
わかばが示したのは取扱説明書の中の一ページだった。そこには仮想世界の一例として小高い山と駅がある小さな島が紹介されていた。
それはりながいたあの島とほぼ同じで、りなは食い入るようにページを見つめた。
「どうして僕らだけかは正直分からないですね。調べた感じではこの病院で長い間眠っていたのはりなさんと僕と、他にも数名いらっしゃいました。でもその人達で目が覚めた人で似た体験をした人は居なかったようです」
りなは本をわかばに返して、考え込んだ。
「それこそ、りなさんがこちらに戻ってこれなかった可能性は相当あったと思います。どこにいったん行ってしまったのかは分かりませんが、本当に運が良かったんじゃないでしょうか」
「あの場所はやっぱり天国、とかなのかなー」
「さあ、三途の川や、花畑が見えるというのは元々臨死体験をした人間の証言などから生み出された共有された記憶のような物だそうです。つまり、実際にそんな物は無く、自分が勝手にそういう物だと思って脳が見せている。ただ……、そうすると一番最初にそのイメージを作った人が見た物は何かと言うことになりますよねー」
「その人は本当に見たかもしれないのかナ?」
「その方が夢がありますよね」
わかばは杖を取ってよろけながら、立ち上がろうとした。その体をりなが支える。
「りなさん危ないですよ」
「りなはもう殆ど杖は要らないんだな!」
もう直ったからと、りなが言うとわかばはため息をついて
「はあ、若いって良いですねー」
コツコツと杖をついて歩き始めるわかばの橫を並び、りなはわかばの腕を取って一緒に歩き出した。

ナルキッソスの宴

ワカわか 現パロ

隣の家に誰かが越してきたのに気付いたのはつい最近だった。

その家は昔から近所でも有名な曰く付きの屋敷で、わかばが子供の頃には既にいくつかの世帯が入れ替わり立ち替わり入居し、やがて気がつくと居なくなっていた。幽霊屋敷の探検と称して、こっそり庭に忍び込んだ事もあった。
誰も居ない屋敷の庭はわかばの小さな家には無い立派なもので、かつて住んでいた住人達によって植えられた花や木々が無造作に伸びて広がっていた。一見すると不気味ではあるがわかばは広がる花や木を眺めるため、時折中に潜り込んで、少しの間茂みの中で虫に刺されない程度にしゃがんで眺めていた。

その、屋敷に随分若い入居者があったとかで、近所に住むおばさんから少しだけ話を聞いた。お若いのに学者さんでお金持ちだそうよ、とわかばにこっそり耳打ちしてきた。何か言いたそうにしていたのは、何だったのか、わかばはそのときは分からなかった。

その日、出かけようとして家から出ると、件の家の方でも音がして、ぼんやりと音の方に目をやると、中から出てきた人がわかばの方に気付いた。
目が合った瞬間、思わず呆然と相手を見つめるしか無かった。それは相手も同じようで、わかばの視線に気付いたのか振り向いて凍り付いたように凝視していた。
正直な所、ほぼ同じ人間が少しばかり違う服を着て違う家から出てきたというシチュエーションだ。昔よく見たテレビとかの特集だったらドッペルゲンガーだと話題になるレベルである。
どうしようと考えていると、向こうの方が先に気を立て直したのか、こちらに向かってにこりと笑って近づいてきた。わかばも慌てて笑顔を作り相手を見返した。
「あの、こんにちは」
「あ、ええと、どうもこんにちは」
「隣に越してきた、ワカバという者です」
ぽかんとして見つめると、ワカバはどうしたのかと訝しむように見つめてきた。
もう、こうなれば仕方が無い。
「……えっと……そこの家に住む……わかば、という者です」
わかばの自己紹介に、相手は少し呆けたような顔をしてすぐに嬉しそうな顔をした。
ほっとして、わかばも表情を緩める。
「すごい偶然ですね。きっとこれも何かの縁。仲良くしましょう」
そう言って手を差し出してきた、自分と似た青年に、わかばはほっとして手を握り返した。
「こちらこそ、何かあったら何でも言ってくださいね」
わかばの言葉にワカバはありがとうと言って微笑んでいた。

それから、なんとなくお互い少しずつ顔を合わせたり、道で会ったら会話をしたり、ごくごく普通の近所づきあいをしていた。

特にわかばが元は研究職を目指していた事を知ってからはかなり色々教えてくれたりもした。
彼は昔から続く学者の家だとかで、本当はもっと山手の方に実家があると教えてくれた。
どうしてこちらに来たのか聞くと、自分で自由に出来る部屋がほしかったからだと言った。
「わかば君はここには長いの?」
「ええ、まあ。昔から居ますね。祖父の世代から小さいですけど家も残っているし……。おかげであまり高望みしなければ何とか生きていけますし」
「ふーん……でも、わかば君の実力なら結構良い所狙えそうなのに……」
「あはは、まあでも難しいですよね。コネじゃないですけど、知り合いの伝手もないし。ワカバさんはすごいですよね。自宅にも研究室みたいなのあるんですよね」
「そう、まあ簡単な事は調べられたら良いなと思って。もし良ければ今度中を見てみる?」
ワカバの誘いに、わかばは思わず興奮して目を輝かせた。
「い、良いんですか? ホントに?」
「うん、別に構わないよ。でもちょっとお願いがあるんだけど」
彼はにこやかに笑ってわかばの肩を叩いた。

初めて入ったワカバの家は、段ボールなどもほぼ片付いており、すっきりとしていた。
この家に入ったのも初めてである。庭だけでもすごかったが中も広かった。しかし、広い屋敷に一人でさみしくは無いのだろうか、と思うほど広く、片付けられていてどちらかというと落ち着かなかった。
通されたのはかなり立派なソファが置かれた立派な客間で、わかばは更に落ち着かない気分でふかふかのソファに腰掛けた。沈み込みそうだ。
「口内の細胞の採取……ですか」
わかばはお願いごとを聞いて思わずオウム返しに呟いた。
彼は頷いて
「僕ら、ここまで似ていると言う事はひょっとしたら過去に同郷の出だったとか、何か面白い物が無いかと思って。迷惑なら良いんだけど」
出されたお茶を飲みながら、わかばは少し考え
「いえ、良いですよ。面白そうですし、僕も興味あります」
ワカバは手を叩いて嬉しそうに
「そう言ってもらえて良かった。さっそく道具を持ってくるから待ってて」
と立ち上がって部屋から出て行った。
おそらく研究用の部屋のある方からガタガタと音がし、しばらくすると木箱を抱えて戻ってきた。
「……えっと、じゃあちょっとここで悪いんだけど、口開けてもらえる?」
箱から綿棒の箱を出して一本取り、ワカバはソファに座るわかばの前に立った。
「あ、はい」
歯医者に見てもらうように口を開けて少し上を向くと、ほぼ同じ顔が自分を見下ろしていた。本当によく似ている、とぼんやり考えているとワカバは綿棒で左頬の裏側を軽くこすった。
「よし、これは採取完了と……あと、他にもいくつか採取して良い?」
他に何かあるか? という疑問を口にする前に、わかばの右腕辺りにちくりと何か違和感を抱いた。
「え?」
「あれ、痛かった?」
無痛のはずなんだけどな、とワカバは右手に持っていた不思議な形の道具を手に首をかしげた。
「あ……れ……?」
体が痺れるような不思議な感覚に、わかばは嫌な予感がして立ち上がろうとした。
「危ないよ。少し弱いけど……麻酔かけたから」
「ますい……? なん……で」
ワカバは軽くわかばを押さえて座らせた。わかばはなおも動こうとするが、もがいて更にソファに沈み込んだ。
「無痛注射っていうけど、まあ、しょうが無いよね」
無造作にテーブルに置かれた注射を呆然と見つめるわかばを、ワカバはおかしそうに見つめて笑った。
「会ったときからじっくり観察したいと思ってたんだ。良い機会だし、きっとお互いにとっても有益だよ」
何でも言ってください、って言ってくれたしね。
わかばはそんなつもりで言ってないと抗議しようとしたが、ろれつの回らない舌はうめき声のような物しかでなかった。

着ていた服を無造作にまくられ、ひやりと冷たい空気が皮膚に触れた。
麻酔は弱いといっていただけあり、もがけば少しは体が動かせるので、わかばは身を捩ってワカバの拘束から逃れようとした。
「体もあまり変わらない感じ……だけど少し肉が足りないね。食事の影響かな」
もがくわかばを押さえ込み、ワカバはいたく冷静にわかばの肌に指を這わせた。ぞわりと我知らず背中が総毛立ち、わかばは思わずひっと声を漏らした。
まずい、これは本当にまずい。皮膚を這う他人の指の感触にわかばは自分でも心拍数が上がり、何かよく分からない感覚がわいてきているのに気付いた。
どうにか這いずってでも逃げようともう一度体を捩ってずるっとソファから崩れ落ちた。
「いてっ」
「大丈夫?」
うつ伏せに倒れたわかばの体に上から押さえ込んで、ワカバは優しく問いかけた。
声は優しいが、やっている事とまるであっていない。のしかかってきたまま今しもベルトのバックルを弄って外し始めた。
「や、止めてください、本当に……」
麻酔が少し抜けてきたのか、わかばの声が意味のある言葉を発した。
「でも、ここ。結構反応しているけど」
「うわっ……」
下着ごと服が脱げて外気に晒され、わかばは身をすくませた。這って逃げようとするが体を押さえ込まれてばたばたと手を床に叩くだけだった。
ワカバの手がわかばの内股をなぞり、わずかに反応し始めていた陰茎を握り上下に扱いた。
わかばの体が大きく揺れ、噛みしめた口からわずかにあえぎが漏れた。
「い、嫌だ、こんな……っ」
「そう? 心拍数とか体の反応は問題なさそうだけど……」
背後からの声にわかばは首を振ろうとした。瞬間、臀部に何か異物が当たり、わかばは振り返ろうとして悲鳴を上げた。中に何か液体のような物――感触的にオイルか何かだろうか――と指が押し込まれ、中をかき回した。
「うっ……ッ!」
指は筋肉をほぐすように動いていたが、時折ある一点に指がかすめるとわかばの体が反射的にびくりと震えた。どうすれば良いか全く分からないが、わかばは何かが足りずに腰を揺らしていた。
「そろそろこれつけた方が良いね」
逃げる気が失せたのか、ぐったりと床に手を投げ出して腰を上げた状態のままのわかばに、ワカバは中から指を抜くと手元にあったゴムをわかばの陰茎に被せた。
「な……なに……」
「混ざると結果がおかしくなるから」
「まざる……?」
わかばは意味が分からずぼんやりと首をひねってワカバを見つめ、さあっと血の気を引いた。
「ちょ、まっ……!」
「体を楽にしないと辛いらしいよ? ほら、息を吐いて」
「む、無理っ、そんな……あっ、ぐっ……ッ!」
わかばはほぐれた後孔を押し広げて入ってきた異物に思わず悲鳴を上げた。後ろからワカバがわかばにのしかかって
「大丈夫、人の体って意外と柔軟だから。ほら、息を吸って吐いて」
何がどう大丈夫なのかという疑問が一瞬浮かんだが、わかばは楽になろうと言うとおりに息を吸って吐いた。息を吐く事で体の筋肉がわずかに緩み、ワカバは偉いねと言いながらわかばの体の奥に身を沈ませた。
「ん……! も……ッ――ああァ!」
奥を何度も突かれ、わかばは声を上げた。
一際わかばの体が大きく震えて嬌声が上がると、ワカバも体を震わせて息を吐いた。
「……」
組み敷いたわかばを見下ろして、彼は幾分か不思議そうに震える自分の手を見つめ、すぐに何事も無かったようにわかばに声をかけた。
「大丈夫?」
ワカバがわかばの中から身を離すと、支えを失ってそのままずるずると床に倒れ込んだ。返事がないのでとりあえずサンプルを回収しようとわかばからゴムを取り去る。
「シャワーは好きに使って良いよ。これの結果はまた今度出たら教えるから」
わかばは呆然としたまま床に転がっていた。本当に彼は、ただ必要な物を採取するためだけにやっていたようだ。部屋から出て行ったワカバは上機嫌でさっき自分を犯したように見えなかった。
背筋が寒くなり、わかばはどうにか起き上がると体を引きずりながら逃げるように屋敷から出た。

エンドカード後のお話

珍しく本編準拠。
12.1話の後、エンドカードのように全員表側に集合後という前提。
エンドカードに至るまでの色々はすでにたくさん良い話があるのであえて「裏姉妹もワカバもりりも全部普通に復活して普通にみんなと合流」した後の話にしています。
力尽きたわけではない…。

りんの五感と好きを見つけた後どうなるかというお話。

丘の学士と少女達

ファンタジーな世界でわかばとりんとワカバとりりが一緒にわちゃわちゃする話。

姉妹たち

りり 本編12話EDシルエットくらい成長したイメージ。世話焼きさん。孤児院でりん達姉妹と暮らしている。
りん 剣士系。剣振り回せる。りりとは遠い親戚。
りつ 孤児院の院長。を押し付けられた模様。
りな 本編分割前のりなちゃんのサイズと頭脳。大体りりと同じくらい。

ワカバ 学士様。賢い。
わかば 本編よりも怖がりになってしまった…。

 

 

躑躅屋敷の女達 第一集

りょう 長女。父が残した会社を一時的に経営中。
    普段はチャイナドレスにコートとかジャケット肩にかけるスタイル。
りく  次女。祭りで神輿担いでそうだが名の知れた刺繍作家。
    普段は作務衣だったり洋服だったり。
りつ  屋敷の切り盛りを一手に引き受ける。りょうの右腕ポジション。
    庭木について一番詳しい。普段は洋服が多め。
りん  女学校卒業後花嫁修業。ただし相手は決まっていない。
    普段は和服が多め。
りな、りょく  女学校在学中。普段は制服や洋服生活。

わかば 植物学の研究者。新人なので使いっ走りが多い。留学経験あり。
仕事などでは英国仕込みの洋服。下宿先、プライベートなどでは和服派。
先輩  わかばの先輩。行く当ての無いわかばに職を紹介したり家に住まわせてくれる。
    同郷の出身。(見た目は同人版の若葉)。ものすごく気の強い婚約者がいる。らしい。

前口上

東京の真ん中、より少し離れた郊外に躑躅屋敷と呼ばれる屋敷がある。
明治のころに建てられた洋風建築と継ぎ足された日本家屋という当時よく作られた形式の屋敷で、開国によって諸外国と植物の輸出入によって財を成した男によって作られたものだという。
やり手であったようで、明治を少し過ぎたころでも日本の植物は西洋においてはまだ珍しいもので、興した会社はよく栄え、事業は一代にしてそれなりの規模の財閥になるほどまでになっていた。
そのようなわけで、件の屋敷は当主の趣味と、栄えた元となった珍しい花や樹木、それに古くから親しまれた花なども集められていた。特に、春になると様々な色の躑躅が屋敷の周りで咲き誇り、少し離れた道の向こうからもその赤紫がよく映えていた。その後も初代から二代目三代目と代が変わった後も勤勉でよく働く当主の下で事業はより多岐にわたり、財を成していったという。
しかし、数年前今の当主が細君とともに旅行の帰りに海難事故で亡くなり、その当時大きな話題になった事があった。
残されたのは、女ばかり六人の子供たちだけである。
当時の新聞や雑誌や口さがない噂好き達の大方の予想を裏切り、娘たちは群がる突然増えた親戚たちの手に遺産を渡すことはなく、事業は粛々とそれぞれの会社で行うことを取り図った。女子供風情の浅知恵と、苦々しく思う者たちも多くいたようで、そこからしばらくは親戚間での会社の金の横領を訴えたの、娘の一人が言い寄る見合い相手に切りかかったのとかなり世間を騒がせたような話題に事欠かない有様であった。

話はそれから更に数年たち、先代が亡くなった当時まだ女学校にいた四女のりんが、卒業してから数か月がたった頃だった。

夏至の頃 本邸

その日、数年ぶりに家族会議を開いたりょうは、相変わらず飄々とした様子であった。
屋敷の洋間に置かれたオーク材の磨き上げられた円卓に、ぐるりとめいめい座った五人の姉妹たちは、りょうが話始めるのを待った。
ただ、ここ最近家に帰ることも稀であった事や、新聞などでも喧伝されていた恐慌の話から、集まった姉妹たちがそれがあまりいい話題でないことをある程度予感していた。
「で、もう面倒だからさ、さっさと前置きとか良いから話せよ」
りくが促すと、りょうは軽く笑って頷いた。
「いやー……お姉ちゃん色々頑張ったんだけどさ……。やっぱちょっと厳しいわな。とりあえず、会社の方は何とかやってくれているから、潰れるってことはなさそうなんだけど……。ちょっと色々整理しないとって話になっててさ」
りょうはいくつか書類を出して、テーブルに置いた。
「横領していたあの親戚からの賠償とかは望めないの?」
りょくの問いに、りょうは難しいわな――と肩をすくめた。
「すぐに現金が得られるわけじゃないし、あの感じだと全部資産は海外に逃がしてるわな――。それにお金の問題もあるけど、こんな状況で働いてくれている人たちの手前、うちらが最初にきちっとケジメつけないと」
「そうにゃね、時代が変わっていっているのに、今までと同じようにとはいかないし」
りつはお茶を飲みながら頷いた。
「りょうが言うなら私は構わない。具体的には?」
りんの問いかけにりょうはぱらぱらと書類をめくった。
「とりあえず、不動産関連から見直してるんだけど……。手始めにこの軽井沢の別邸かな」
「夏にしか行かない屋敷だったし、別に大したことないナ」
りなは事も無げに言いながらテーブルに出されていた饅頭に手を伸ばした。
「すぐに売却ってわけじゃなくて、一応うまい事利用できないかはホテル部門が考えてくれてるんだわ。もしそれでも採算合わなそうなら手放すしかないけど。それ以外だとお父さんが買い集めていた美術品とか骨とう品とかかな」
「どうせ俺らじゃ価値分からんし、それは別にいいんじゃねーの」
「うん、一部は美術館とかが欲しがってるみたいだから、その辺もちょいちょいとやっていく感じかな」
りょうは鉛筆で資産の一覧にチェックを入れて行った。
「んじゃ、この辺ちょっとまた相談してみるわ」
りょうは少しほっとしたのか額をぬぐい、書類を手元の文箱に入れた。
「あ、そうだ。軽井沢の別邸さ、まあ多分今年で見納めだろうからせっかくだしみんなで久しぶりに遊びに行こうか」
りょうの提案に、りなは手を叩いた。
「わーいやったナ!」
「いつくらいにする?」
りょくはカレンダーをぱらぱらとめくった。
「りょうとかりくは仕事的にお盆のころくらいしか休めないんじゃない?」
「まあ私はそのくらいに行く感じだけど、先に行ってていいよ。ただなー、管理人とか今雇っていないからすぐに泊まれるかわからないんだけど……」
「じゃあ私が一足先に行って準備しておくにゃ」
りつが言うとりながぴょんと手を挙げて声を上げる。
「りなも手伝うな」
「私も手伝うよ」
「涼しいなら私も行く」
りんとりょくも手を挙げる。
「俺は今依頼されてる分終わらないと盆休み返上になりそうなんだよな……」
りくは肩を叩いてぶつぶつ呟いた。
「作品展に出品するのに依頼受けるのもどうかと思う」
りょくの指摘にしょうがねーだろとりくはむくれる。
「作品展の締め切り勘違いしちゃってたんだものなー。りくちゃん時々うっかりさんだわな」
「時々ってか割としょっちゅうじゃん。まあ、私がその辺管理してあげてもいいけど」
「お前の管理、秒単位だからヤダ……」
りくは青い顔で呟いた。
「じゃ、今日の会議おしまーい。お疲れ様」
りょうが手を叩くと姉妹たちはめいめい立ち上がって洋間を後にした。
りつは体を伸ばすりょうの肩を叩き、大丈夫? と声をかけた。
「平気平気。面倒な事はほとんど他の人がやってくれてるからねー」
りょうは軽く答えたものの、やはり疲れが見て取れる。
「今日は早めに休んだほうがいいと思うにゃ」
「そうするわー。ちょっと一息ついたしね」
二人は洋間を出ると、りなとりょくの賑やかな声がする居間に向かって歩き出した。

大暑の折 軽井沢

りんは日暮れで薄暗くなってきた道を一人歩いていた。

暑いとはいえ、この時期の軽井沢、日が落ちればどちらかというと肌寒い。
薄いブラウスに、木綿のもんぺでは時折吹く風はかなりこたえた。
これは早く用事を済ませないとまずいと、りんはあたりに目を凝らした。
提灯を手に持っているものの、まだつける必要はなさそうで、下駄をからころと鳴らしながら水田の横を流れる川を時折覗き込んだ。
今年で最後の別邸での夏休みに、蛍を見に行きたいというりなに、外に出ないで済むように取りに行こうと考えたものの、りんはどうしたものかと頭を悩ませた。
昔小さいころに父が蛍のいる場所まで一緒に連れてきてくれたことがあったが、それがどこだったか思い出せない。
虫取り網を持ってきたものの、りんは時折森の方に目をやり、光がないかを見ながら少しばかり途方に暮れていた。
記憶を頼りに、りんは水田から離れて足元の悪い森の中に踏み込んだ。
時折野犬と思われる遠吠えがするような気がして、りんはあたりを見渡した。
ふと、ちらちらと奥に蛍の細い光が見えた気がして、りんは思わず歩みを進めた。
「危ない」
後ろから誰かの声がしたと思ったとたん、一歩先の地面を踏みしめる感覚が消え、りんは大きく前に倒れこんだ。
腕を何かに引っ張られたがりんはそのまま下に滑り落ち、尻もちをついた。情けない声を上げて横に転がってきたのはりんを引っ張ろうとした人間のようだった。
「一体……」
「いやーすみません……。そこ、急斜面になってるから声をかけたんですけど……」
間に合わなかったですね、と青年は言って持っていた提灯の火をつけ直した。
「怪我とかはないですか?」
灯をりんに向けて青年は問いかける。
りんは立ち上がろうとして、足首に痛みを感じて押さえた。
「……軽くひねったみたいですね……。お宅はどこですか」
りんは屋敷の住所を教えると、青年はその辺なら知っていると頷いた。
「無理をするとひどくしてしまうので……おうちまで負ぶっていきますよ」
「い、いい。自分で歩く」
「この辺道が悪いので、その足だと朝になってしまいますよ」
青年の言葉にりんは思わず言葉に詰まる。
りんは青年の背中におぶさり、青年はりんに提灯を渡した。
「すみません、灯がしばらくないので……」
「わかった」
提灯の明かりで道が照らされると、青年は二人が滑り降りた坂を周ってわずかに草が生えていない道を進んで森を出た。すでにかなり日が暮れて月がほんのりと水田が続く道を照らしていた。
「あの、このあたりに住んでる、のか」
りんは青年に問いかけた。ろうそくの火で照らされた青年はどこか線の細さがあり、灯のせいかどこか異国の人のようにも見えた。
「……ああ、すみません、名乗ってなかったですよね。わかばといいます。こっちには先生の仕事の手伝いとか諸々で少し前から滞在してるんですよ」
ちらりと振り向いて青年は笑みを浮かべて答えた。

「……私は……りん」
「住所的には別荘地ですよね。避暑ですか」
「ああ」
わかばはそれ以上は詮索はする気はないのか、やっぱり東京は暑いですからねと頷いた。
「でも、なんで虫取り網なんてもって一人で森に入ったんですか?」
「妹が蛍を見たいと……。昔父が教えてくれた場所が森の方だったと思って探したんだが……」
「確かに、あの辺少し前まではきれいな水場があったそうですが……ここ最近水が枯れてしまったので……今年はその場所では蛍は見ることはできないかもしれないです」
「……そうだったのか」
りんはがっかりして肩を落とした。
やがて、別荘が立ち並ぶ通りに出ると、わかばはあたりを見渡し、りんは
「あっちだ」
と指をさした。りんが指さした先にわかばは目をやると、灯のともる屋敷と、その前でうろうろと明滅する灯に気付いた。
「りん!」
わかばが近づくと、提灯を手に屋敷の前で右往左往していたりつがわかばとりんに気付いて駆け寄ってきた。
「帰ってこないから心配してたんだから。いったいどうしたの?」
「ちょっと、その、転んで……」
「りんねえね、大丈夫?」
屋敷から音に気付いて飛び出してきたりなが、おろおろとりんを見上げた。
「軽くひねったようなので、冷たい水とか、用意できますか? それと、包帯とか」
「わかったにゃ、ああ、よかった……。ご迷惑おかけしてしまって……」
「いえ、向かう方向一緒だったので、大したことじゃないです」
「とりあえず、中に入って」
りつは門の戸を開けて、わかばを通した。表側の洋館のドアを抜け、応接室に通すとわかばはりんをソファにゆっくり下した。
「足は動かせますか」
「ああ、ちょっと痛いくらいで」
わかばはちょっと失礼と声をかけてりんの足に触れて、足首の腫れがないか確認した。
「少し腫れてるようですが……冷やして明日痛みが和らげば大丈夫ですね。もし明日ひどいようならお医者さんに診てもらってください」
ばたばたと水を持ってきたりなと、救急箱を持ったりつが応接室に入ってきた。
「これでいいナ?」
「はい、ばっちりです」
不安げな顔のりなに笑顔で答え、わかばはたらいを受け取り、手ぬぐいを濡らして患部に当てた。
「氷嚢とか、氷枕はありますか。その方が効率がいいんですけど……」
「これでしょ」
ひょこっとりょくが顔を出して、氷枕を手渡した。
「どこにあったのにゃ、そんなのあったっけ?」
「昔使った事があった気がしたから」
事も無げに言っているが、スカートの膝部分に埃がついているのに気づいて、りつはよしよしとりょくの頭を撫でた。
「さすがはりょくちゃん。物覚えがいいにゃー」
「別に、これくらい普通だし……」
ぶつぶつと呟いてりょくはじっとわかばの方に目をやる。どうやら彼のやっていることが気になるようでりんが座っているソファの背後に立ってうろうろと眺め始めた。
わかばはてぬぐいをたらいに置いて、用意された包帯を手早く巻き始めた。
「ひょっとして、お医者さん?」
「いえ、簡単なものだけ教えてもらったんで。専門は別なんです」
「ひょっとして学者なの?」
りょくの目が輝いて、わかばを興味深げに見つめた。
「ええ、まあ」
包帯を巻き終えると、わかばは氷枕に水を入れて金具で止めた。
「これでとりあえず様子を見てください」
りつは礼を言い、わかばは手を振った。
「それじゃ、僕はこれで」
わかばは頭を下げて立ち上がる。
それから、少し何か言うか悩むような様子だったが、りなとりんの方に声をかけた。
「あの、もし興味があったら、なんですけど。今度向こうにある教会の夕涼みの音楽祭があるんです。蛍が見られるところも近くにあるので、もしよければ……」
りなはぴょんと顔を上げて目を輝かせた。
「そんな催しがあったのにゃ。初耳だにゃ」
「ええ、もともとは避暑に来ていたカソリックの人だけしか入れなかったんですけど、ここ最近は地域交流の場にしたいという事でだれでも参加できるようにしたそうです。僕、その辺の手伝いもあってこっちに来ているんです」
「カソリックなの?」
りょくの問いにわかばは手を振り
「いえ、そういう訳ではないですけど。留学していたので通訳なんかを兼ねて手伝ってほしいと」
「りゅ、留学? どこに?」
りょくは思わずわかばに詰め寄った。
「いや、あの……英国……ですが……」
「国費留学って事? そんな優秀なの?」
そうは見えないけど、と言いたそうにりょくは上から下までわかばをしげしげと見やった。
「……いえ、国費ではないです。国費だと大体独逸なんで」
わかばは大して気にもしていないのか笑顔で答える。
「いつ頃なのな?」
りなの問いかけに
「来週の土曜の夜の六時から八時です。ちょっとした食べ物とか飲み物もありますよ。もし参加されるのでしたら当日夕方にご案内します」
「りつねえ、りんねえ……」
ちらりとりなはりつとりんに懇願するように見つめた。
「……来週なら、りょうちゃん達もこっちに来ているから、みんなで行こうか」
「りなや姉さんたちがいいなら私は別に……」
りんはそれだけ呟き、わかばに目を向けた。
「色々、その、ありがとう」
「いえいえ。大したことじゃないですから」
それじゃあ、と頭を下げてわかばは出ていき、礼を言いながらりつが一緒に出て行った。
「りん、何ぼーっとしてんの」
ソファの背後から眺めていたりょくは、りんの頬を軽くとんと指でつついて、にっと笑みを浮かべた。
「ふーん、ああいうのがいいんだ」
「何を言ってるんだりょくは」
ため息をつくりんに、脇からりなも畳みかけるようにうなずいた。
「なー、りんねえねってば顔ずっと赤かったなー。わかりやすいなー」
「え……」
思わず手で頬に触れるとほんのりと指先に熱が伝わってきて、りんはあたふたと頬を叩いた。
「にゃー、良い人がいてくれてよかったにゃ……」
戻ってきたりつはほうっと息をついて居間に入ってきた。
「りん、一人でどっかふらついたらだめでしょ。わかば君がいい人だったから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたか……」
「ごめん、姉さん」
「りつねえ、もともとはりなが無理を言ったせいだから……」
りなはりんをかばうように呟いた。
りつは仕方がないと肩をすくめて
「ちゃんと来週わかば君にお礼言わないとね」
「……う、うん……」
りんは妹たちの視線から目をそらし、首をすくめた。
りつはその様子に知ってか知らずかあえて触れず、手を叩いた。
「さてと、お出かけするんだからちゃんとした恰好しないとにゃー。りょうちゃん達に服を持ってきてもらわないと……」
りなはぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ね
「りつねえね、りょくちゃんとりな、もう大人と同じで良いんだナ? ナ?」
りょくも少しそわそわしながら
「そうだよ。もう十三参りとうに終わったし、私たちも本裁ちでしょ」
「そうそう。だから二人の夏のお出かけ着と浴衣、ちゃんと用意してあるんだから。思ったよりも早く卸せるにゃー。私は今の時期だし、あれを持ってきてもらうとして……りんちゃんは何にする?」
りつの問いに、りんは少し悩んで肩をすくめ
「別に特に無いけど……」
りょくは指を振り
「甘いじゃん。勝負時なんだからちゃんと考えないと」
「なー……。りんちゃんいつも地味なのとか縞ばっかりだし……。たまにはお花とかの柄のがいいと思うなー」
「あんまり派手なのは……」
「まあ私もごてごてした最近の好きじゃないけど……。でもりんのは地味すぎ。……あ、そうだ。りくが昔着てたの借りればいいじゃん。ほらあれ、りくが自分で流水紋の刺繍した、桔梗と撫子の柄のやつ」
りょくの言葉にりつもなるほどと頷いた。
「確かに、あれならちょうどよさそうにゃ。りくちゃんが良いって言ってくれればそれで……、それに博多ならそこまで派手じゃないし良いんじゃない?」
「ま、まあ……多分……」
姉と妹たちに気圧されりんは頷くしかできなかった。
「そうと決まれば明日さっそく電報うちに行かないと!」
りつは何か随分張り切った風に腕を振り、明らかに軽い足取りで出て行った。

お盆の折 軽井沢

姉妹たちは和室に集まりバタバタと準備に追われていた。
すでに日はかなり傾き始めており、六人は鏡台を取り合い、腰ひもが足りないと騒ぎながらバタバタ右往左往していた。
「はい、これりなちゃんの。しつけは取ってあるはずだけど、一応見ておいて」
りょうから手渡された長着を、りなは広げて嬉しそうに掲げた。
りなの本裁ちの揚げのない初めての夏の長着は、すっきりとした空色の紋紗に白い鳥が羽ばたいているような抽象柄が描かれた小紋で、帯は紫である。りょくも同じ空色の紋紗だが、こちらはりょくの好みに合わせたのか蔦模様のなかに花喰い鳥が描かれた少しだけ大人っぽい柄に同じ紫の帯が合わされていた。
「いやー、お姉ちゃん選ぶのすっごい悩んだわー」
りょうはりなに長着を着せながら
「りくちゃんがやたらあれこれ引っ張り出してくるんだからねー。いずれは自分で選びたいだろうに勝手にそろえるのもなぁ」
「りくは可愛いもの好きだから……」
横で自分で長着を着ていたりんが苦笑いを浮かべる。
「だってさー、良い色ってなかなかないんだぜ。やったら地味なやつばっかり押し付けてくるしな」
「いい年なんだから落ち着いた色を着ろって事でしょ」
りんは背中に回した紐を取ることが出来ずにいるりくに紐を手渡し
「大体、りくは少し派手好みじゃないか」
「これくらい普通だろ」
りくは羽織っている長着を翻して答える。黒い絽の長着には色とりどりの花が描かれており、そこに物足りないからと自ら一月かけて刺繍でふっくらとした鳥を数羽さしてある。どうしても動物は外せないらしい。
「みんなどんな感じにゃ?」
すでに着替えを終えていたりつが和室に顔を出す。いつもは時流に乗っておろしている髪を、今日はきっちり結わえて、銀の透かし彫りに珊瑚がついている髪飾りをしている。お気に入りの緑地に秋草の絽の長着に絽縮緬の花紋が描かれた白い帯に、長襦袢の流水紋が動くたびに長着からふわりと浮き上がる。
「りなちゃんは、これでおしまい。りょくちゃんは……」
りょうはちらりと一人で着ているりょくを眺めて
「帯直したら終わりかなー」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いやー、だって後ろ捻じれてるよ」
「え、あれ?」
「まだ一人で名古屋は難しいんじゃないかな」
りょうはりょくの後ろに回って捻じれた帯を直し、帯を締めて
「りょくちゃん、後ろに引っ張るからちょっと踏ん張って」
と言いながらぐいっと後ろに帯を引いた。
「きつくない?」
「平気」
帯締めを締めて、形を整えるとりょうは良しと頷いた。
「じゃあ私も着替えるかなー」
りょうは自分の着替えを手早く済ませて、おさげにしている髪をくるっとまとめて鼈甲のかんざしで押さえた。
「はいはい、じゃあみんな準備完了でいいかな」
長女らしく落ち着いた墨色の絽には、流水に芒がさらりと描かれている。白地に菊の花のような柄のつづれ帯は母から生前譲られたものである。
「はー、一運動したわな」
団扇で扇ぎながらりょうは居間に戻ってソファに腰を下ろした。
「間に合ってよかったにゃー」
「さすがに全員で出かけるってなるとほんと、毎回バタつくんだよな」
「最近は殆どみんなでお出かけ出来ていなかったしね」
「最後にこんなにバタバタ準備したのは一周忌の時じゃないっけ」
「そうだったっけなぁ。覚えてないわなあ」
りょうは天井を仰ぎ見て呟いた。
「あの時は正直どれもこれもばたばたしてたし、りょうはあちこち飛び回ってたし、仕方がないと思う」
りんの言葉にりょうは
「まあ、色々経験出来たから悪い事ばっかりじゃないわな。あとは私よりも強い人がいればいいんだけど」
「切った張ったはもう勘弁だぞ……」
うんざりとりくが呟く。
「あれは不可抗力だわな。あれからはやってないから大丈夫大丈夫」
軽く笑う長女を妹たちは思わずお互いに目配せして何も言わないことにした。
ふと、玄関から誰かの声がして、りつが立ち上がった。
「誰か来たみたい」
りつが出ていくと、玄関先でこんばんは、というわかばの声が聞こえてきた。
「お時間大丈夫ですか」
「みんな準備できているから大丈夫。あれ、わかば君。門のところにあるのは……」
わかばはにこやかに
「いやー、皆さんをお誘いしたって言ったら、教授が知り合いから貸してもらったそうです。少し歩くはずだったので、ちょうどいいと思って」
門の前に止まっている乗合馬車をさしてわかばは答えた。
「わあ、馬車だ」
様子を見に来たりながぱたぱたと下駄を鳴らして馬車に近づいた。姉妹たちも居間から出てきた。
「それじゃ、皆さん乗ってください」
わかばは馬車のドアを開けて、踏み台を置いてドアの前に立った。そして乗り込もうとするりなに手を差し出した。
「な?」
「りなちゃん、レディはこういう時は手を取るんだよ」
りょうに促されて、りなは慌ててわかばの手を取って、すました顔で中に乗り込んだ。
りょくは少しぎくしゃくとした動きで、同じようにわかばの手を取ってから中に入っていった。りつとりくは慣れた様子で中に乗り込んだ。
「あ、りんさん。足は大丈夫でした?」
「あ、ああ。次の日特に問題なく……」
「それならよかったです」
わかばに促されて中に乗り込み、りんはふっと息をついた。
「君がわかば君? 私長女のりょうってんだ。妹を助けてくれてありがとう」
「いえ、大したことではないですから」
「なんか、悪いわな。ここまでしてくれて」
「お気になさらず。皆さんが来るのを教授も、楽団の人たちもすごく喜んでいたので。さ、乗ってください」
りょうが乗り込むのを確認すると、わかばはドアを閉めて踏み台をもって御者台に飛び乗った。
客室側から顔を出したりなにわかばは振り返った。
「りなさん、ひょっとして馬車は初めてですか」
「うん、わかば、馬に乗れるのナ?」
「あはは、まあちょっとだけなら。揺れるので舌噛まないようにしてくださいね」
わかばは手綱を引いて声をかけると、馬はゆっくりと進みだした。

ゆっくりとした足取りで進む馬車に揺られて十数分ほど行くと、会場の教会が見えてきた。すでに人が集まっているようで、ざわざわと賑やかな音が聞こえてきていた。
「着きましたよ。降りるのは少し待ってください」
わかばは御者台から飛び降りて、客車のドアを開けてステップの下に踏み台を置いた。
「どうぞ、前から順番に」
乗る時と同様わかばの手を支えに、姉妹たちは馬車からおりた。
「どうぞ、中に入ってください」
わかばは教会の木製ドアを開けて姉妹たちを中に促した。
「おー、ちょうどいい時間に来たな」
わかばが入ってきたことに気付いた青年が、手を振って開いている席を指さした。
どことなくわかばと雰囲気の似た青年で、さっぱりとした短い髪に人の好さそうな笑みを浮かべている。
「皆さんお忙しいところどうも。僕はわかばと同じ研究室の……まあ先輩みたいなもので。さ、こっち座ってください。もうそろっと始めますんで。あ、プログラムもらいました?」
二つ折りになった紙を姉妹たちに渡し、青年はわかばに向き直った。
「あと教授がくればはじめていいかな」
「そうですね」
りんたちは半円形に並べられた椅子に座り、前に並んだ楽団に目を向けた。
「なあ、あのでかいの何?」
りくの問いに
「座っている人の持っているのはセロという楽器です。立っている人のはコントラバスと言って、大きいものほど低音域が出る楽器なんですよ。ちなみに、今回は小さい音楽祭なので、あちらの指揮者が立つ台の僕らから見て左側が主旋律のバイオリン、第一バイオリンなんて言います。で、その横が同じバイオリンですけど副旋律の第二バイオリン、隣の少し大きい楽器がビオラです」
「へー……。初めて見たわな」
りょうは珍し気に眺めて呟いた。
「わかば、そろそろいいかい?」
指揮棒を持った神父が、にこやかに老人とともに中に入ってきた。
「ああ、教授も来られましたか」
わかばは老人を椅子に座らせて神父に頷いた。
「ビールを飲んでいたのに引っ張ってこられてしまってなあ。まったく……」
ぶつぶつと言いながら老人は椅子に座った。
「それでは、皆様集まりましたので始めたいと思います。お忙しいところ集まっていただきありがとうございます。まずは一曲目はバッハの「主よ人の望みの喜びよ」どうぞお聞きください」
神父は手を広げたまま頭を下げ、コミカルな動きでちょこちょこと指揮台に上り、指揮棒を振った。

アンコールの曲が終わったところで、神父は客に向きなおって両手を広げて頭を下げて笑みを浮かべた。
客席にいた人々が拍手をすると、演奏者たちも立ち上がって頭を下げた。
「今日は皆さまありがとうございました。以上で音楽祭は終了となります」
神父の言葉に、わかば達は立ち上がって教会のドアをあけ放ち、客たちはざわざわと席を立って帰り支度を始めた。
「皆さんどうでしたか」
りんたちに声をかけたわかばにりょくは
「まあ、結構楽しかった……かな」
「お、おう。まあまあ」
何故か口元をぬぐうりくに、りょくはハンカチを渡し
「りくちゃん寝てたでしょー。嘘言っちゃダメだわな」
「ナー……。りくちゃんすっごい良く寝てたな……」
「う、うるせーな……」
「聞いたことのない音で面白かったにゃぁ。これ、金属でできているのかにゃ」
りつは机に置かれていたバイオリンに目を向けて興味深そうにつぶやいた。
「ガット線です。羊の腸の筋繊維をより合わせているんです。弓は馬の毛を使ってて、松脂をこの弓につけてこすることで音を出しているんです」
「ずいぶん詳しいな、扱えるのか?」
りんはおっかなびっくり置かれている楽器に目を向け、わかばに問いかけた。
「え、あ、あー……。いや、知識だけというか……」
「嘘言っちゃいかんぞ。お前確か弾けただろ」
わかばの先輩である青年がにやにやと楽しそうな顔で横やりを入れる。
「あれは、酔っぱらっていた時に無理やりやらせたんでしょうが……。そうそう、りなさん、蛍見に行きましょう。この教会の裏手から行けるんですよ」
わかばの言葉にりなはやったーと声を上げてわかばの手を引いた。
「ちょっと待った。ほら、ランタン」
「ありがとうございます」
出入り口に置かれていた大きめのランタンをわかばに渡して青年は手を振った。
「あまり遅くならないようにな。馬車はここに待機させておくから」
「すみません。よろしくお願いします」
わかばはお待たせしてすみません、と姉妹たちの前を小走りで走って教会の裏手の細い道をランタンで照らした。
「この裏の河原に蛍が集まっているんです。ついたら灯はいったん暗くするので、足元は注意してください」
わかばは説明しながら前を歩いて、藪の中を進んだ。
わかばのすぐ横をりなとりょくが付いていき、姉たちがそのあとを下駄の音をさせながらついていく。
ふわりと、りなの目の前を小さな光が横切り、りなは歓声を上げた。
坂を下ってわずかな水音がする小さな淵まで来ると、わかばはランタンの灯を小さくした。ランタンの強い灯が消え、ほんのり月の光が輝いている淵の傍に、明滅する光が見え始めてきた。
「すっごいたくさんいるナ!」
りなは嬉しそうにくるくると周りながら蛍の光を追いかけ始めた。
「りなちゃん、転ぶからあんまり動き回っちゃだめよー」
「暗いんだから危ないにゃ」
後ろから来たりょう達も、ほぅっとため息をついて淵の周りを飛び交うたくさんのホタルを見やった。
りんは、りなに捕まえた蛍を見せてやっているわかばの脇に近づいた。
「……これはゲンジボタルで、日本で一番多くみられるものですね。このあたりでも一番よくみられるものです。ここのお尻の所が光っているんですよ」
わかばが手で包んでいる蛍を、りなとりょくは若干及び腰になってそっと覗きこんだ。
「……光り方は種によって違うそうです」
わかばはそういうと手を放して蛍を開放した。
「なー、逃がしちゃうのな?」
「蛍は孵化してから数週間しか活動できないですからね。眺めるために取るのは可哀想かなと」
「なな、それならしょうがないナ……」
りなは呟いて、空を漂う蛍を見上げた。
わかばは、立ち上がって横にいたりんに、どうですか? と問いかけた。
「……懐かしい。最後にこうしてたくさん見たのは女学校に入る前に、父に連れられてだったから」
「そうですか。喜んでもらえたならよかったです」
わかばは少しはにかんだ様に笑った。
「……りなも、りょくも、こんなに楽しそうなのを見たのは久しぶりだ」
りんははしゃいでいる妹たちを見つめて、嬉しそうに呟いた。
「そうですか、もし明日以降もここに来たいようでしたら、神父様に言っておきますよ。僕、明日には東京に戻るので、案内できませんし」
「え……」
りんは、思わずわかばの方に顔を向けた。
「……帰るのか」
「はい、教授とご懇意の神父様の手伝いだったので。採取作業もあらかた終わっているし、催しも終わりましたから……」
「そう、か」
りんはふっと息を吐いた。気のせいか、ほんのりと首筋を冷たい風が吹いたように感じて首をすくめた。
「ああ、だいぶ寒くなってきましたね。そろそろ、お送りしますよ。りなさん、りょくさん、そろそろ冷えてきたので帰りませんか。灯、つけますね」
「はーい」
「はいはいなー」
ランタンに明かりが小さく灯り、あたりを少し明るく照らし始めた。
「みなさん、それじゃご自宅まで送りますので」
「いやー悪いね。わかば君」
りょうがわかばの肩を叩いた。
かなりいい音がしたので相当痛かったはずだが、わかばはうっと息を吐いただけでどうにか耐えたようだった。
「懐かしいな、蛍。蛍でなんか作れねーかな……。襟……んー、でも虫だしな」
「あまりしっかり作ると虫っぽすぎるからちょっと難しい気がするにゃ」
「んー……そうかなー……」
賑やかな姉妹たちを先導しながら、わかばはちらりとりんの方に目をやった。
「ねーわかば君」
「あ、はい何でしょう?」
りょうがわかばの横に並んで、にこりと笑みを浮かべたままわかばに声をかけた。
柔和な笑顔の女性だが、わかばは何とも言えない圧の様なものを感じて、若干襟元を押さえた。
「……明日帰るんだって? いつくらい? 早いの?」
「え、あ、えーっと……。午後1時頃に来る汽車に乗る予定ですが……」
「あ、そうなんだ。ふーん、じゃあ結構何とかなるかな」
「はい?」
「こっちの話ー」
りょうは手を振って、意味ありげな含み笑いをした。

翌日の昼、りんはぼんやりと庭の木に水を上げていた。
見るからに元気がない様子に、りなとりょくは挙動不審な動きをしてりんの周りを遠巻きに眺めていた。
りょうはしばらく様子を眺めていたが、しょうがないと肩をすくめて庭に降りた。
「……おーい、りんちゃーん」
「何?」
からん、と下駄の音をさせて緩い浴衣姿の姉に目を向けた。妹のひいき目を差し引いても、この姉のうちから自信にあふれた艶やかな姿は羨ましいものだった。
「……ちょっとさー、お姉ちゃんと駅の方までドライブしない?」
「え、りょうの運転……?」
「ちょっとだけだからさー」
りょうはりんの返事を待たず、ぐいぐいとりんの肩を後ろから押して部屋の中に戻った。
「じゃあ着替えてさくっと出かけよー」
りょうは下駄を放って部屋に戻り、りんはしょうがないと呟いてりょうの下駄をもって玄関へ下駄を置いてから着替えをしに部屋に戻った。

夏用の濃紺と白のボーダー柄のリネンのワンピースを着て、日よけに帽子をかぶり、りんは姿見の前で一回りした。
―まあこんなものでいいだろう。
軽く白粉を叩いて紅を引くと、りんはとりあえず出かけられる格好になったと判定して、タンスからサンダルを出して、それに合わせる小さなバッグを引っ張り出してバタバタと玄関に出た。
すでにりょうは外に待っていて、外地から父が贈ってくれた中華式の立襟にすっきりとした刺繍を施したスリットの深いワンピースにジャケットを羽織っていた。
足技が使えるから気に入っていると言っていたのはまさに姉らしい。
りょうは運転席に乗り、りんは助手席に乗り込んで、屋敷から出た。
「そういえば、りんも運転覚える?」
「え、いや、私は……うっ」
舗装されていない曲がりくねった道をかなり大胆に進む姉の運転に舌を噛みそうになり、りんは呻いた。
「……そこまで……いいかな」
「自分で運転できると、結構視野広がるよ。いける場所が増えるし」
りんは一瞬はっと息を吸い込んで姉を見つめた。
「……姉さんは、私に結婚を勧めていたと思うけど」
「そりゃあ、良い人が居れば、って思うからねえ。でも、別に急いでやれなんて、言ってないよ」
「それは……」
「家にこもっているのが嫌なら、ちょっと外に出るのもありだよって話さ。無理強いする気はないよ」
がん、と大きな石でも踏み越えたのか、車体が大きく揺れりんは頭を思わず押さえた。
「よし、間に合った」
「はあ?」
りょうは駅の前に車を止めると、目を白黒させているりんにぽんと何か包みを手渡した。
「ほら、急いだ急いだ」
「え、いや、あの。これ何?」
「お弁当。渡してきてあげて。私たち代表して」
りんは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐい意味を察して徐々に頬を赤くしてパクパクと金魚のように口を開けた。
「悩むより動く方がいい時もあるのよー」
りょうはもう一度手をパタパタと振って、降りるようにりんに言い、りんは慌てて降りた。
りんは、駅の中に入り、停車場の中を見回した。

人はそんなにいない。
汽車はすでに来ていて、今まさに乗り込もうとする人々がぱらぱらと並んでいた。
ふと、見たことのある淡い色の髪がちらりと見え、りんはそちらの方に向かって駆け出した。
カツカツと響く靴音に気付いたのか、わかばが音のする方に目を向け、驚いたようにりんを見返した。
「……りん、さん? どうしたんですか?」
「いや、あの……」
りんは、持っていた包みをわかばに渡した。
「その、昨日は世話になったから、私達姉妹から」
「え、わざわざ? ありがとうございます。お弁当、ですね。大事に食べます」
嬉しそうに包みを両手で持つわかばに、りんは息を吐いた。
「……あ、そろそろ出発なので。みなさんによろしくお伝えください」
「あ、ああ。あの……また」
りんは思わずわかばの服の裾をそっとつかみ
「あの、また会うことは、出来ないだろうか」
りんの問いに、わかばは、思わずえっと声を上げ、少し考え込んだ。
「……それは、あの、りんさんが良いのであれば……。あの……」
発車の合図が鳴り、わかばは慌ててカバンを開けて、名刺ケースを取り出して万年筆で裏に何かを書いて渡した。
「すみません、今これしかなくて……。九月は僕ずっと研究室にいるはずなので……。もしその、よろしければ」
りんは名刺を受け取り、わかばは急いで汽車に飛び乗った。
「九月、必ず行くから……、その……」
りんは手を伸ばして声をかけ
「はい、楽しみにしています」
伸ばしたりんの手に軽く触れ、わかばは手を振った。

やがて花開く君へ

今日もばたばたと賑やかな姉と妹のやりとりを、りんは朝食をとりながら眺めていた。いつも思うが、どうして女というのはこんなに毎日賑やかでないといけないのだろうか。
部屋からスカートのファスナーを半分あげた状態、キャミソール姿という半端な恰好でりょうが出てきて
「りくちゃん、私の服持ってかないでよ、それ今日着るんだから」
「ええ、りつ! あれって乾いてたっけ?」
慌てて畳まれていた服をばさっとひっくり返す姉にりつが悲鳴を上げ
「りょう姉、ちょっと髪ゴム貸してー。また切れちゃったな」
髪を纏めようと悪戦苦闘していたりながりょうを呼び
「ちょっとりな! 私の制服じゃんそれ!」
二階の部屋からりょくが叫んでいる声が聞こえる。
「……にゃー、えーっとりくちゃんの服……あ、ごめんちょっと素材がデリケートだったみたいだからデリケート洗いにしちゃって……まだ多分乾いてないかも」
りつはとりあえずぐちゃぐちゃになった服を片付け、一枚服をりくに渡した。
「私の服着ればいいにゃ」
りくは渡された服を眺めて難しい表情をし
「……りつの、胸んところがでかいから私着ると見えるんだよな」
ぶつぶつ言いながらりつから服を借りてその場で着替え始める。
大体いつも似たような感じだ。
髪がまとまらないから何かないか、服がどこかに消えた、制服をお互い寝ぼけて間違えた、化粧品を間違えて使ってしまったなど枚挙にいとまがない。
以前、自分をうらやましいなどと言っていた同級生がいたが、一日でも立場を変えれば絶望するだろうきっと。
りんはごちそうさまと手を合わせて食器を流しにおいて自分の分を洗い始めた。
「あ、いいのよりんちゃん。私やっておくから」
「忙しそうだし、いいよ別に」
りつにそれだけ言って自分の分だけをとりあえず終わらせ、りんは嵐の去った洗面台に立って歯を磨き始めた。
「行ってきまーす」
りなとりょくがリビングに向かって叫んで外に飛び出し、りょうもバッグを肩にかけて慌ててパンプスを突っかけて出て行った。。
「んじゃ、りつ。後よろしくな」
「はいはいにゃー」
車のキーを持って出て行ったりくを見送り、りつはやれやれと肩を回した。
「毎日賑やかよねー」
「まあ、静かよりはいいんじゃないか」
「そうよね……。りんは学校遅刻しないの?」
「うるさい教師が校門から居なくなるのがあと少しだからもう少し待つ」
口をゆすいで顔を洗って、男の子としては少しばかり長い髪を器用に結ぶ。
おそらくその髪を切ればいいのでは、と思うが、りんが髪を切るのを嫌がる理由を知っているだけにりつは触れない事にした。
それに、少し最近弟の様子が気になっていた。
――これは試しにカマかけてみるかにゃ……
「それだけ?」
「それだけって?」
りつの問いかけに、りんは表情を崩さずに姉を見つめた。
「何でもないにゃー。外で作業してるから、遅刻しないようにね」
りつはりんの肩をとんと軽く叩いて勝手口から出て行った。
少し静かになったリビングで、コーヒーを飲んで時間を確認して頃合いを見てりんも外に出た。
一瞥し、りつが作業をしている様子を確認すると、りんは角を曲がって学校に向かった。その、後ろ姿を見送ってりつはふうっと息を吐いた。
大きくなってからというもの、素っ気ないそぶりが多くなってきているがそれでも姉の目はごまかせなかった。
――あんなに嬉しそうに出かけるなんて……好きな人でも居るのかしら
りつは、そろそろ開きそうな蕾を見つめて考え込んだ。

わかばは鼻歌を止めてふと時間を確認した。
「あれ、もうこんな時間か……」
温めていたスープを器によそい、きれいにテーブルに並べて、良しと頷く。
エプロンをソファにかけてぱたぱたと二階の主寝室のドアを開けた。
一番広い寝室は、主の部屋となっている。どうやら昨日もかなり遅い時間まで何か書き物をしていたのか、机の上には何かの文書と、辞書と文献が海のように広がっていた。この惨状で果たして論文など書けるのだろうか。わかばには分からなかった。
「博士ー。もう、いつまで寝てるんですかー?」
ベッドに転がる物体を一瞥し、わかばはカーテンを引いて問答無用で窓を開ける。ふわりとまだ夏になる前の朝の少しだけ冷たい風が部屋に流れ込んできた。
「……うぅ……。ちょっと寒いよ……」
もぞもぞとミノムシのようにベッドの上で丸まった物体が動き、ひょこりともじゃもじゃの髪が飛び出した。そのままずるっと頭を出し、毛布の中から亜麻色のような色合いの色素の薄い髪色に、眠たさでしょぼつかせた焦げ茶の瞳の青年がのっそりと出てきた。
「もう、とうに朝ご飯の時間ですよ。起きないと、取り上げてりりさんにあげちゃいますから」
「それは勘弁……。もう、ちょっと待って……」
億劫そうに、青年は大きく伸びをして起き上がった。
「おはよー……」
博士と呼ばれた、ほぼわかばと同じ顔立ちの青年はわかばの頭を撫でて、気の抜けた笑みを浮かべた。
「はい、おはようございます。博士」
つられて同じように笑みを向けるわかばに、青年はその言い方はちょっとなぁと言いながらわかばの後ろをついていった。
食事の席に着くと、二人は向かい合って、手を合わせていただきますと声をそろえた。
「今日のご予定は?」
「えーっとね……。遠隔地の研究者と電話会議が……十一時頃にあるかな。多分お昼跨いじゃうかも」
「それなら、サンドイッチとか用意しておきましょうか」
「うーん、そうしてもらえると助かるよ」
悪いねえ、と少し眉を下げて青年は呟く。
「好きでやっている事ですから」
わかばはわずかに、ほっとしたようなくすぐったそうな笑みを浮かべて答えた。
どうやらまだ半分寝ぼけている青年はゆっくりと咀嚼しながら食事をし、わかばは時間が気になるのか時計を時折見ながらスプーンを動かした。
「ごちそうさまです」
先に食事を済ませると、わかばは箒を持って外に出た。
わかばは、大体朝の八時ころになると庭に出てポストをチェックしつつ、庭や家の前の掃除をするようにしている。
どうやら家の向こうに学校がいくつかあるようで、学生たちが通学する様子が見えるからだ。
「えーっと……」
ポストの中を開けると、数枚のはがきと手紙が入っていた。取り上げてすべて宛名を確認し、エプロンのポケットに押し込む。
庭の草や木の葉を掃いていると、ちりん、と自転車のベルが鳴り、弾けるようなかわいらしい声がわかばの耳に届いた。
「おはようわかば!」
「おはようございます。りりさん」
セーラー服姿の少女が自転車を家の前に横付けし、わかばに声をかけた。
「ワカバはいる?」
りりは首を伸ばして家の方に目を向け問いかけた。
「ええ、まだ朝ご飯を食べていますよ。半分寝ているようなものですが」
「あはは、わかばも苦労するよね」
「りりさんは、今日は帰り寄って行かれますか」
「うーん……何もなければちょっと寄ってってもいいかな……?」
そういうものはあまり分からないわかばでも、りりがワカバ――博士を慕っているのは明らかだった。朗らかで明るいこの少女の事を気に入っているわかばとしては、彼女の細やかなお願いは叶えてあげたかった。
「ええ、もちろん。博士も喜びます」
わかばの言葉にりりは嬉しそうに、そうかな、と笑みを浮かべた。
じゃーね、と手を振って自転車を漕いで、角を曲がるりりをわかばは見送った。
この街に越してきたから数か月経つが、りりのおかげでかなり周りともうまく行ってきているようだ。
もっとも、わかばはこの街に来るまでの記憶がほとんど朧気で何も覚えていないのだが。
りりの姿が消えて、さらに少し経ち登校する学生たちの数がまばらになった頃、わかばはふと掃除の手を止めてふらふらと視線を漂わせた。
「……あ」
どこの学校の制服かは分からないが、年代的に高校生くらいだろうか、少し硬い表情を浮かべた学生がふらりと脇の道から出てきた。どうやらそれなりに長い髪のようだが、変わった形にまとめており、ポケットに手を突っ込んで、漫然と歩いてきた。
わかばはあまり見てはいけないと思いつつ、ちらりと学生の様子をうかがいながら箒を動かしていた。
ほんのり、赤みの強い髪色に同じように少し変わった色味の目をした青年である。
ワカバはあまり筋肉がつかないんだよねー、と悲しげに呟くほどに線が細く顔もあどけない印象だが、こちらの青年は歳よりも大人っぽく――あるいはそう見せたいのか――硬い表情をしていた。
青年は何とはなしに、というような様子で家の方に目を向け、少し歩く速度が遅くなった。
庭にはわかばやワカバが育てている研究用の植物や、単純に以前の持ち主が植えたものと思われる低木があり、いずれもわかばが手入れをしていた。今の時期は薔薇が良く咲く時期で、庭の薔薇も小さいながら香しく咲いていた。
青年はふと、誰も見ていないと気が緩んだのだろうか、庭の花を見やり、一瞬だけ表情を緩めた。
本当に一瞬の表情の変化だ。
よく見かける人だと眺めていたわかばは、少し前にその表情の変化に気付いて、何となく毎日様子を眺めるために外に出る習慣がついていた。
学生はふと、こちらを見ている事に気付いたのか視線が動いてわかばと目が合った。気のせいか、わかばを見てさっと顔色が赤くなったようだった。
都合の悪いところを見られて恥ずかしいのだろうと、わかばがにこりと笑いかけようとする間もなく、慌てた様子で青年は家の前を横切って姿を消した。
「……はあ」
またしても、声をかけ損ねてしまった。
何故か少しがっかりしたような不思議な気持ちになり、わかばは思わず息を吐く。
リビングから様子を眺めていたのか、ワカバが庭に降りてきた。
「また失敗?」
「はい……。いつもあそこでお花とか眺めているんで、興味あるならいくつかお渡ししようと思ったんですけど」
ワカバは何とも難しいという表情を浮かべ
「……うーん、まああの年の子は色々とあるからね」
「色々?」
「そ、いろいろ、ね」
大きくのびをしながら部屋に戻るワカバを、言っていることがいまいちわからず、わかばは不思議そうに見送った。

りんは角を曲がってわかばの視界から見えなくなった事を確認してから大きく息をついた。
りんがその家に人が入った事に気付いたのは、実のところつい最近であった。

両親が亡くなって、六人家族の中で一人の男子という事は、今のご時世でもやはり大なり小なり気を張ることが多かった。それはたとえば姉たちが一般常識からするとすこしばかり、相当、かなり強いが、それと世間一般から求められている物は別である。
何より、大きくなってあまり素直に表に出す事はなかったが彼にとって姉妹達はもっとも大事で愛すべき存在だった。
それ以外には正直なところ心に波風を立たせるような物も存在せず、漠然と早く就職した方がいいだろうと考えるくらい、淡白で執着のない人間だった。

ちょうど寒暖の差が激しい春の時期だった。
珍しく体調を崩したりつに、自分はどうすればいいかを悩み不安を覚えていたりんは、学校に向かう途中、ふと、嗅いだことのある匂いに気付いて思わず視線をさ迷わせた。
風が吹いてきた方向へ目を向けると、随分長い間空き家だったはずの荒れ果てた庭がいつの間にかきれいに手入れされている事に気付いて、りんは思わず立ち止まっていた。
――いつの間に、こんなに花が?
花や植物は正直良く分からないが、姉がどれほど手間をかけて植木を育てているかを知っているりんは、わずかに気分が明るくなった。目にとめた花は姉が好きなバラのような花だった。もっとも、似たような花がいくつか並んでいるのでバラのように見える、というレベルでしかりんは判断できないが。
ガタン、とバケツを落としたような音がして、りんははっと音のする方を向いた。リビングの掃き出し窓から家主らしき人物が箒をもって外に出てきた。
りんに気付いた様子はなく、何か口ずさんでいるのか口元が小さく動き、上機嫌に掃き掃除を始めた。
正直、ぱっと見た限りでは少女とも言えるあどけない表情の女性だった。
体が動くたびにふわふわと柔らかな髪が揺れ、サイズが合っていない服が時折体の動きに合わせてきゅっとカーブを描く体の線が現れた。体つきから察するに、少女ではなく、りんと同じか向こうが年上……なのかもしれない。
掃き掃除をしながら彼女は庭の方――りんが立っている柵の方に移動してきて、そのとき初めて家の前に立つりんに気づいたのか、ふっと息を吸うような声とともにりんに視線を向けた。
とん、と突然りんの鼓動が跳ね上がり、頬に赤みが差してきたのか自分でも分かった。
――何で?
戸惑い、思わず凍り付いたように突っ立っているりんを彼女は不思議そうに見つめ、何か言おうとしたのか口を開きかけた。
りんはきっと不審な自分に対して警告を口にするはずと思いつき、慌てて逃げる様に走って角を曲がって彼女の視界から隠れた。
彼女から冷たい言葉を言われるのは嫌だと思う考えが浮かび、冷たい目で見られる事を想像し、りんは思わず頭を抱えた。
その感情が何かは分かっている。姉妹達がよくそういう話をして自分をからかうし、お互い話し合う事もある。しかし、なぜ自分がそうなってしまったのかが分からなかった。

「……はあ」
ため息をついて、りんはベンチに腰を下ろした。
あの家の前を通り、毎朝家主――とりんは思っている――彼女を見かける様になってすでに何週間か経っていた。
最初の一週間は、それがただの思い過ごしと思うために彼女がいそうな時間に家を出た。次の一週間で、顔を見る位なら別に何も問題ないと考え、翌週は立ち止まって花を見る振りをして、更に翌週にはひょっとしたら向こうから声をかけて来るのでは? とわずかに期待するようになっていた。
何をやっているんだ。
りんは自販機で買ったジュースを蓋を開けてぐいっとあおるように飲んだ。
まるでやさぐれたおっさんのようである。
「まーたため息ついている」
隣の中学校の敷地側からひょこっとりりが入ってきた。
「ななー、最近ずっとこんな感じなんだな」
りりの後ろからジャージ姿のままのりなが現れ、同じようにベンチに腰を下ろした。
「別に、ついてないぞ」
嘘ばっかり、とりりは言いながら
「さっきしっかり聞こえたよ。ほら、お弁当」
りりはバッグから可愛らしい柄の包みに入れられた弁当箱をりんに渡した。
「ああ、悪い。……りょくは?」
「りょくちゃんは今日委員会の日だから来られないな」
以前りつの体調が優れないときに作ってもらっていたが、りつが作ることが出来るようになってからも、りりがりんの分も一緒に作るようになって、こうして持ってきてくれていた。どうやらりなと一緒に作ったり、メニューを考えているようで三人の弁当はほぼ同じ物がかわいらしく詰められていた。ただし、りなは自分の分のお弁当を含め買っていた菓子パンをいくつか膝に載せて、パンにかぶりついている。
「いい加減、教室とかで食べれば?」
「……落ち着いて食べられないから嫌だ」
りんは苦々しそうに呟き、包みから弁当を取り出して手を合わせた。
りりは、りなと顔を合わせて肩をすくめた。
実のところ、二人ともよく羨ましいと言われたが、りんはそれなりにりり達の中学や、近隣の高校などでも人気がある。らしい。
幼いころから知っているりりやりなからすると、表情が出やすく面倒事も背負いこむ困った兄、であるが、外から見るとぶっきらぼうながら女子にやさしく――単に姉妹が多いから慣れているだけだが――格好いい、らしい。
今も何か分からないが百面相しているりんを観察しながらりりも自分の分をバックから取り出して、包みをあけた。
「……お前達こそ、友達と一緒じゃなくていいのか。別に付き合う必要ないぞ」
相変わらず、妹たちを気遣うように問いかけるりんに、
「うん、別に気にしないよ」
りりは事も無げに言いながらブロッコリーを口に放り込んだ。
「でも、ほんとにどうかしたの? ここ最近結構ぼーっとしていること多いよね。何かあった?」
「いや、別に……」
もそもそとばつが悪そうに卵焼きを食べるりんの横顔を、りりはじっと睨みつけた。りなは特に何も言う気は無いのか、もくもくとお弁当を食べ終わってデザートのパンに手をつけている。
「んー……その感じ……。だれか気になる人がいるとか」
適当に当たりをつけてみると、りんが大きくむせてせき込んだ。
本当に、嘘のつけない兄である。
そんなんじゃない、と慌てたようにジュースを飲んで落ち着かせたりんは、
「……通学路の途中の……家にある花、姉さんが喜びそうなやつだなって思って」
と、言って顔をそむけた。
顔を見られると付き合いが長いだけ、何かバレるとわかっているからだろうが、りりの方からは耳が赤くなっているのが見えてバレバレである。
りなとりりはアイコンタクトをして頷き、ひとまず気づかないふりをしてそのまま話を続けることにした。
「通学路って……えーっと……どの辺?」
りりは地図を頭の中に描きながら問いかけた。
「……この間まで空き屋だったあのちょっと庭の広い……」
「ああ、じゃあわかばの家? ひょっとして」
りりは脳裏にわかばを思い浮かべて納得した。
あの辺りで他にりんが気になりそうな女の人は彼女くらいしかいないはずだ。
ひとまず、今はりんを警戒させないために話を合わそうと、わかばの事は黙っておくことにし、りりはりんに向き直った。
「誰?」
聞いたことのない名前にりんは眉をひそめた。
「少し前に、空き家だった広いおうちに引っ越してきたんだよ。よく遊びに行くの」
「へー……りなちゃん全然気づかなかったな」
「だって、あの辺りなは通らないでしょ。歩きだし。自転車通学してると、あっちの方から行くと駐輪場にすぐ行けるからみんなそっち通ってるんだよ」
りりは、そうだと手を叩き
「今日帰りに顔見せるつもりだったからついでに一緒に行こう。お花も少しもらえるか、私から聞いてみるよ」
「それがいいな! な! りんちゃん!」
有無を言わせない表情で二人に迫られ、りんは思わず頷いていた。

夕方、りりは自転車を引きながらりんと歩いていた。
りなは部活に呼ばれてしまったため、りりとりんだけである。
「なあ、りり。やっぱり、迷惑になると思うからやめないか」
普段学校や外では見せない、自信のなさそうな顔のりんに、りりはため息をついて指をさした。
「情けない! そんなふにゃふにゃな態度でどうするの? りつのためでしょ」
ぐうっと呻くような音を発してりんは黙りこんだ。
正直、心の準備も何もかもが出来ていなかった。そもそもいつも女子から声をかけられる方であったから自分から言うシチュエーションを全く想定していなかった。当然シミュレーションも全く出来ていない。

いや、そもそもりりの言っている人物がりんが見かけた人物かどうかも分からない。はたと気づき、そうに違いないと思って納得しかけたりんは見覚えのある、低い木製のフェンスで囲われた家の前で自転車を止めたりりに、りんは思わずりりの自転車を引っ張った。
りりはそれを無視をして、自転車を柵に立てかけ玄関前に立ち、後ろで何か言っているりんを無視してチャイムを押した。
『はい』
「あ、こんにちは、りりですけど」
『はーい、すぐ開けますね』
女性の弾んだ声が応答し、すぐに玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、りりさん。……それと……あれ?」
顔を出したわかばは、りりと、後ろに立っているりんに気付いて、にこりと微笑んだ。
「あ、こんにちは。いつも前を通っている学生さんですよね」
りんは、思わず首をすくめるように頭を下げた。
「あ、わかばも知ってるの?」
りりの問いに、わかばは知っているというか、と少し首を傾げ
「いつも、家の前を通るときに庭のお花を見ているようだったので……」
そうですよね、と同意を求められて、りんはまあ、とか、はあ、とか呟いた。
「りりさんとお知り合いだったんですね。せっかくですから中に入ってください。博士も喜びます」
りりは、思わず顔をひきつらせたりんを見て
「うーん、今日は二人で来ちゃったからいいや。ただりんがちょっとお願いがあって」
りりは軽くりんを小突き、わかばはりんの方に目を向けた。
「どういうご用件でしょうか?」
まっすぐ目を見つめられて、りんは
「あ……その……」
かあっと頬を赤くした。わかばは不思議そうにりんを見つめたが、ふと思いついたのか
「わかりました、今日の朝眺めていた花を分けてほしい、という事でしょうか」
「え? あ、ああ」
頷いたりんに、わかばはやっぱり、と手を叩いて嬉しそうに
「きっとそうじゃないかと思ってたんです。ちょっと待っててくださいね」
軽い足取りでわかばは庭の奥へ行き、剪定用のはさみでいくつかりんが見ていた花をぱちぱちと切って小さな花束を作って、戻ってきた。
「……今日の朝見ていたお花をいくつか切ったんですけど……、これくらいで大丈夫ですか?」
「あ、あり、がとう……。いや、姉がこういうの、好きだから……その、助かる……」
りんの言葉にわかばはどういたしましてと笑みを浮かべた。
「これくらいなら、いつでも言ってください」
花を受け取ったりんは、どうにか頭を下げた。
「それじゃ、ワカバによろしくね」
りりは突っ立っているりんを再度小突きながらわかばに手を振った。

「それじゃ、りん。明日ちゃんとまともなお礼言ってね、一人で」
りりは言いながら、りんの抗議ともとれる呻きを無視して、自分の家の中に自転車を押して入っていった。
りんはりりが家の中に入ったことを確認してから自分の家の中に入った。手に持った花はまだ瑞々しく、ふわりと華やかな香りがしていた。
――名前、わかば、って言ってたっけ
りんは、思わず大きくため息をついて玄関の戸を開けてただいまと声をかけた。
奥から出てきたりつは
「おかえりにゃー。にゃ? どうしたのりん、その花」
「りりの知り合いが育てて、少しもらった」
要点だけを切り出して答え、りんは無造作にりつに花を渡した。
りつはりんの差し出した花束を受け取り、ほうっと息をついた。
「すごいきれいに咲いてる……。本当にもらっていいものなのかにゃ……くれた人にお礼、言ってほしいにゃ」
「あ、ああ、伝えておく」
りつは、一瞬ぎくしゃくとした動きになった弟に目ざとく気づいていたが、特に何も言わずに上機嫌で花瓶を探しにいった。

「ねえ、りょくちゃん」
「何よ」
二段ベッドの上から顔を出したりなに、机に向かって本を読んでいたりょくは顔を上げた。
「最近のりんちゃん、何とかならないかなー」
りなの相談に、りょくは本を閉じてため息をついた。
「何の話?」
「なー……最近のりんちゃん、ちょっと変だから」
「……あれね」
何かあったのかという点はりりから大体聞いて知っている二人は、こっそりりんの部屋をのぞき見た。
うろうろと檻の中の猛獣のようにウロウロそわそわ動き回るりんに、二人は目配せし合ってそっと部屋から離れる。
「で、何であんな風になってるの?」
「ななー……。えっと、りつねえねにりんちゃんが持ってきたお花、りんちゃんの好きな人からもらってきた物なんだって」
「それは聞いたけど……それが何でああなるの……」
りょくは思わずめがねのフレームをいじりながら呟く。悩むりんを慮ってりりが機転を利かせてわざわざ会話のきっかけまで作ったというのに、状況がよくなっていないように見える。りなも何とも言いがたい表情でベッドに片肘をつき
「どうやってお礼すればいいか分からなくて、もう何日もあの状態なんだなー」
「あほ兄……」
りょくは思わず眉間をぐりぐり押した。
「普通に言えばいいじゃん」
「なー……りりが一緒に居た時の感じだと会話がまともに出来ないらしいナ」
「別に女子と会話できないわけじゃないのに、何してるんだかあの兄は」
「りりが言うには特別な人だと難しいかもねーって」
りょくは鼻で笑って本を脇に置いた。
「とは言ってもうちらでも対案は無いしなー」
「しゃべるのが苦手なら、なんか、お手紙書いてみるとか……。お花渡してお礼するとかすればいいんじゃないかな」
りなの提案にりょくは少し考え
「確かに、とりあえず物に託すってのはありかも。花ならりつにあげたからお返しって感じで、まあ変ではなさそうだし。家にあるお花ならりんもまだハードル低くなるか」
りょくは少し頭の中で問題が無いかを考え、よしと頷いた。
「それなら、アホ兄に話つけてみるじゃん」
りょくとりなはバタバタと音を立ててりんの部屋に向かい、ドアをノックした。
「どうした?」
気のせいか若干目の下に隈があるように見えるりんが顔を出した。りなとりょくは無言でぐいぐいと兄を押して無理矢理部屋の中に入った。
「なんだ一体……」
妹たちに甘いりんは二人にされるまま椅子に座った。
「何だは無いじゃん。兄貴が面倒な事になってるみたいだからアドバイスしようと思ってんの」
「……あのなあ」
額に手をやり首を振りながらりんは面倒そうに二人を見やった。りなはまあまあと手を振った。
「りんちゃん悩んでるみたいだし、りくちゃんに気付かれる前に何とかしてほしいな」
りくの名前に思わずりんの顔が引きつって思わず座り直した。こんな状態の弟などりくからしたら恰好の遊び道具である。もちろん弟が嫌い、などというわけではなく彼女やりょうからすればりんは未だに抱っこをねだっていた可愛い少年なのである。
「で、何を言いに来たんだ」
りんが話を促すとりょくは腰に手を当て兄を指さした。
「お礼に悩むなら、物とかに託してしまえばいいって話よ。会話できないんでしょ」
りょくの話にりんはため息をついて
「それはもう考えた」
りょくは思わずえっと声を上げりなは不思議そうに首をかしげた。
「え、そうなのな? じゃ、なんで悩んでるな?」
りんは口をむうっと難しげに閉じて黙っていたが
「何を贈ればいいか思いつかない……」
二人は一瞬視線を合わせて、ゆっくりとりんを見つめた。
「え、なんで?」
「別にお礼の気持ちなんだから何でもいいんじゃないかな」
二人の言葉に、りんはそういう物なのか? と疑わしそうな顔をした。
「それこそ、花をもらったわけだから、うちで育てている花とか、いいと思うじゃん」
りょくはまだ首をひねっている兄の手を引っ張り
「ほらほら、善は急げって言うじゃん」
「庭の花、りつねえねに聞いてみるのな」
「そうねー……。私花は……そこまで詳しくないし」
「りなも食べられるやつ以外はあんまり興味ないなー」
りなもぽんとベッドから飛び降りて、りんの手を引っ張った。
「ちょ、ちょっとま……」
抗議の声を上げようとしたりんは、じろりと妹たちに睨まれて思わず口を閉じた。
りょくとりなに半ば引きずられるように部屋からでたりんは、庭で作業をしているりつに声をかけた。
「……姉さん」
「にゃ、どうしたの? りん、とりょくちゃんとりなちゃんも」
サンダルをつっかけて出てきた三人に、りつは首を傾げた。
「りんちゃんが、この間りつねえねにあげたお花の人に、お礼にうちのお花あげようかなって」
りなの説明にりつはええ、とりんに目をやり
「まだ言ってなかったの?」
「それは……」
うっと痛いところを突かれて下を向く弟に、よしよしと頭に手を置き
「りんは、ほんと真面目に考えすぎにゃ。昔もホワイトデーのお返しに悩んで知恵熱出したし」
りつの話に思わず妹たちはりんを見上げ、りんは姉さん! と思わず声を上げた。
「それで、結局どうするの?」
「なー、お花もらったからお花で返すのがいいと思って」
「りん、まともに会話も出来そうに無いみたいだし」
弟の代わりに答える妹たちに、はいはい、とりつは頷いた。
「りんは、それでいいの?」
りんは頷いて
「毎日花の手入れを姉さんみたいに楽しそうにしてたから、好きだと思うし、いいかなとは、思う」
庭木の世話をしていたわかばの様子を思い返し、りんは答えた。
「……そういうことなら、わかったにゃー。あの立派なバラと釣り合うものってのは少し難しい気もするけどー……そうねー……」
りつは庭の花々を見ながら
「送りたい相手の印象とかから選ぶといいっていうけど、どういう感じの子?」
りんは脳裏にわかばのイメージを思い浮かべる様に、視線を上方にさ迷わせた。
「……全体に……ふわっとしていて……髪の毛とかなんかふわふわしてて。柔らかそうっていうか……。線も細いし……」
ふと、りんの目にちょうど咲き始めたほんのりピンク色のきれいな花に目を留めた。
「……なんか、こんな感じ……な気がする」
りつはりんが指さした花を見つめ、なるほど、と呟いた。
「芍薬の花なら、女の子が貰ったら嬉しいと思うにゃー。ちょっとまって」
りつはりんが指さした花と合わせて白の花も数本切って、りんに渡した。
「はい。しっかりね」
りんは、ばつが悪そうに一瞬目を伏せた。

半ば追い出されるように出てきたりんは、いつものようなすたすたと躊躇いのない足取りからは程遠い、引き摺るような足取りで歩いていた。
どうやって声をかければいい、から始まり、今りんの頭の中ではありとあらゆるシチュエーションが駆け巡っていた。
角を曲がって印象的な庭と他とは違う建築様式の家が目に入り、りんはいよいよ口から心臓が飛び出そうな気分で家に近づいた。

何というタイミングか、今まさにリビングの掃き出し窓からわかばが出てきていた。
まだ挨拶も決められていないりんは、角から出る所からやり直そうと踵を返そうとしたが、ぱちっとわかばと視線が合った。
「……あ」
りんの所まで声は聞こえなかったが、口の形からそう言っているように聞こえた。
わかばは手を振って柵のそばに寄ってきて、りんは、こうなればやけだとでも言うようにわかばに向き直って歩み寄り、ぐいっとわかばに袋に入れた花を押し付ける様に差し出した。
「……?」
「その、うちの庭にあったきれいなやつ、もし良ければと思って」
差し出された袋を開けて、わかばは声を上げた。
「ピオニーの花、ですか……」
りんは思わず首を傾げた。姉が言っていたのはもう少し和風な名前だった気がする。そう伝えると、わかばは耳をくすぐるような声で笑い、
「……日本語では芍薬ですけど、英語だとピオニーというんですよ。より正確にはもう少し長い名前ですけど……。でもどうしてこれを? バラと違って、時期を過ぎると中々無いんですよね」
いいものですよね、とわかばは花を顔に近づいて香りをかいだ。
「……いや、何となく……。雰囲気が似てたから」
りんはわかばのふわふわと軽やかに揺れる髪と幾重にも重なって咲く芍薬の花を指して言った。
「……ええ、似てますか?」
そうかなーと、まんざらでもないのか口元をかなり緩ませてわかばは笑った。
「どちらかというと、りん、さん……でしたよね」
名前を確認するように問われ、りんは頷いた。
「ああ」
「りんさんの方が似ている気がしますけど」
どこが? と訝し気に眉を寄せるりんに、わかばはこく、と首をかしげて逆に問いかけた。
「ピオニーの有名な花言葉知ってます?」
「……いや?」
思わずつられて首をかしげるりんに、わかばは小さく笑った。
「恥じらい。はにかみ」
りんは、はあっと不思議そうに息を吐いた。
「恥ずかしがり屋の妖精が恥ずかしさのあまり、ピオニーの花びらに隠れ、花も赤く色づいた、という古い民話があるそうです。本当かは分からないですけど……」
わかばは持っていた花の茎を指先で回して
「……ほら」
ピンク色の芍薬の花を一本取りりんの頬の傍に近づけた。
「りんさん、恥ずかしがり屋なんですねー」
そっくりです、とふわりと可笑しそうに、声を立てて笑った。
りんは一拍分の間を開けて意味を理解し、更に顔を赤くした。それと同時に、無意識のうちに口をついて言葉がこぼれていた。
「好きだ」

一瞬、わかばはきょとんとしたままりんを見つめ、沈黙が降りた。少しするとわかばは数回瞬きをし、意味を理解したのか今度はわかばの頬にみるみる赤みが差してきた。
「えっと……」
何か言おうと口を開き、また閉じてわかばはりんを見上げた。
「あ、いや……その今のは……」
りんは思わず手で口を押さえて
「いや、ちが……わないけど、ああ、今日言うつもりは無かったって言うか……ああもう」
頭を振ってりんはわかばの両肩に手を触れ、少し頬は赤いものの真面目な表情に変わり
「い、いきなり言われても困るだろうから、その……今すぐ、いうのは……いいから」
りんはそれだけ言って、踵を返してもと来た道を走って行った。

部屋の中から眺めていたワカバは、わかばが帰ってきたときには何事もなかったように、ソファに座ってお茶を飲んでいた。
「何かあった?」
「え……、あ……」
上の空だったわかばは何となくもらった花束をそっと体の陰に隠して呼吸を整えるように胸を押さえ
「あの、ちょっと猫が通りがかっていたので……」
「……そう……顔が赤いみたいだけど風邪でも引いた?」
「え……えっ? 気のせいですよ!」
わかばはバタバタと自室に戻っていき、ワカバははあ、とため息をついて腕を組んで額に押し当てた。
これが娘を持つ父親なのか、とワカバは心の奥底から安堵ともに寂しさを感じていた。

期末テストが終わった開放感を覚えながら、りんは駅前の賑やかな繁華街を歩いていた。本当は学生たちはうろついてはいけないのだが、今日は誰も気にしないで寄り道をしている生徒たちがちらほら見えた。
姉妹たちに何か買っていっていこうか、と、ふと思いついてりんは繁華街の中を通って、りつがよく買っているケーキ屋の前まで来た。
すうっと冷たい風が吹き抜け、思わず空を見上げた。
そういえば天気予報でところによってはひどい雨や雷が鳴るだろうと言っていた気がする。
姉たちが傘を持っていくか、スカートにするかパンツにするかと論争しながらクローゼットを引っかき回していたのを思い出して、りんは少し悩んだ。最終的に、どうせ後は家に帰るだけだし、買い物をして帰るまでなら大丈夫だろうと判断し、戸を開けようと手を伸ばした。
――あれ?
ケーキ屋のガラス扉にちらりと見知った姿が映ったように見え、振り返った。
どこかに向かうのか、行ってきたのか、わかばは小ぶりのバッグを手に歩いていた。りんがいることには気づかないまま、彼女は角を曲がっていった。
りんは思わず後を追いかけた。
実のところ、わかばからははっきりとした答えをまだもらっていない。
思いを伝えた翌日からわかばは朝庭に出てこなくなり、そのままりんはテスト勉強などで出る時間が変わってしまっていて顔を合わせることがなかったのだ。
特にどうしたいという考えはなかったが、りんはわかばがあまり人通りのない道に入ったことを確認し、後を追いかけて声をかけた。
「わかば」
「え」
わかばは、うわっと声を上げて驚いて、振り返った。
「あ、りんさん。今日は学校は……?」
「期末テスト最終日だから早帰り。何してたんだ」
「博士が封書を送るのを忘れていたみたいで……。郵便局に行ってたんです……」
わかばはそろり、とりんを見上げた。
「あの」
「あの後、何かあったのか」
りんの問いに、わかばは恥ずかしいのか顔を赤くして
「すみません……。その……ちょっと熱を出してしまってて」
りんは思わず驚いた声を上げてわかばを見つめた。
「大丈夫、なのか」
「はい。あの……三日くらいで元に戻ったので……ごめんなさい。ご連絡できなくて」
わかばは頭を下げ、
「りんさんから言われたことをずっと考えてて……それであの……寝付けないというか……頭が熱くなってしまって」
お恥ずかしい、と顔を赤くしてわかばはうつむいた。
「言われたときは頭が真っ白になってしまって……でも……とても嬉しかった。これは、きっとりんさんと同じ……という事なのかと」
「それは……」
りんはわかばの言葉の意味が徐々に脳に浸透したのか、ゆっくりと顔色が赤くなっていった。
「あの、りんさんの事……好きです」
わかばは胸のつかえが取れたような晴れ晴れとした笑みを浮かべりんを見つめた。
「あの、大丈夫……ですか?」
わかばは無表情になったりんに思わず問いかけた。
「ああ、別に、平気」
片言の日本語で、かくかくと頷いてりんは答えた。

ぽた、と大きな雨粒がりんの頬に当たり、りんは思わず空を見上げて呻いた。
「まずい、雨降ってきた」
「本当だ。しかもこれ……」
パラパラと音を立てていた雨粒は、すぐに音が変わって滝のように激しく降り出してきた。
「り、りんさん。とりあえずうちの方が近いので雨宿りしていってください」
りんはわかばに自分の鞄でひさしを作ってやっていたが、わかばに引っ張られるようにして後をついて行った。

かなり急いだものの、二人は上半身がずぶ濡れの状態でわかばの家にたどり着いた。わかばは玄関から廊下、居間など通る部屋のすべての電気をつけながらりんを居間に通して、タオルを数枚持ってきてりんに渡した。
煌々と明かりがついたものの、家の中は気のせいか人気がなく、しんと静まりかえっていた。
「あれ、誰もいないのか」
「はい、今日は博士は会合に参加する必要があるそうで」
わかばはふうっとため息をついて
「本当は私が熱を出した日にやる予定だったそうなのですが……私の看病をするために日付をずらしたんです」
がっかりとした表情を浮かべるわかばにりんは首をかしげ
「まあ、家族なんだし……そこはしょうがないんじゃないか」
「それは……でも、厳密には私博士に保護されただけなので家族かと言われると」
「……双子のように見えるのにか」
りんは思わず呟き、わかばはまあ、と言葉を濁した。
「詳しい事は実は分からないんです。ただ、気がついたら博士が明るい場所に連れ出してくれた……ような、ぼんやりした記憶があるんですけど」
わかばは、濡れたりんを見上げて
「うーん……着替え……博士ので入るかな……」
ブツブツ考え込み、やがて頷いた。
「とりあえず、着替えがあるか見てきますね」
ぱたぱたとわかばは二階に駆け上がって、クローゼットをあさっているのかゴトゴトと天井から音がしてきた。
りんは、わかばの言っていたことを思い返しながら、タオルで髪を雑に拭いた。
余計な事を考えてはいけない。雨で服が張り付いて思いがけず露わになっていたわかばの体の事など自分は見ていない。
思いのほかメリハリがあったという事も考えてはいけない。
「すみません、りんさん」
「う、わっ」
戻ってきたわかばに驚いて妙な声を上げたりんに、わかばは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに手に持っていたシャツをりんに渡した。
「これ、一応……着られるか試してもらえます?」
おそらくワカバのものだろうシャツを受け取り、りんは案内された風呂場の脱衣所に入った。
りんは制服のシャツを脱いで、わかばに渡した。わかばはそれを洗濯機に入れて乾燥をセットした。その間にシャツに袖を通していたりんを見て、わかばはうーんと呻いた。
渡されたシャツはそこまで小さいという事はなかったが、首回りや胸のあたりが若干足りず、第二ボタンあたりは止める事ができなかった。
「やっぱり……博士よりここの筋肉があるからちょっとキツいですよね」
つ、とおそらく特に深い意味はないのだろう――りんの鎖骨から下に指を走らせ、わかばは呟いた。
「乾燥まで時間がかかりますので、お茶入れますね」
わかばは一人百面相しているりんにはどうやら気づかずにそのまま脱衣所から出て行った。
りんは、頭が冷えるのを少し待って落ち着いたところで居間に戻った。
「ちょうどお茶入りましたよ」
わかばはカップをりんに渡してソファを勧めた。
「……まだ雨止んでないのか」
外ではかなり雨音が激しく、時折雷の光が光り、雷の音が響き始めていた。
「はい、さっきテレビ見たら二時間程度で止むような事は言ってたんですけど」
わかばがテレビをつけようとリモコンをとった途端、一際明るく外が光り、直後に地響きのような振動と音が鳴り響いた。
これはどこかに落ちた、とりんが思ったと同時にふっと部屋の明かりが消えた。
「停電……? ここだけ?」
りんは立ち上がってリビングの窓から外を見ると、まだ日が陰る時間ではないがかなり暗く、周りの家々の明かりもすべて消えていた。どうやらこのあたり一帯で停電になったようだ。りんは振り返ってわかばに声をかけようとして、
「……どうした?」
わかばは力が抜けたように床に座り込んで、浅い呼吸をしていた。暗がりで分からないが顔色も悪いのではないだろうか。肩に手を置くとかすかに震えているのに気づいた。
「す、すみません」
引きつったような笑みを浮かべ、わかばは咄嗟にすがるように肩に置かれたりんの手に触れた。
「まあ、結構でかい雷だったから」
わかばは少し首を振り
「暗いところが……どうもだめで」
そういえば家に入るときも電気をすべてつけて回っていた事をりんは思い返した。
「寝るときとか、どうしてるんだ」
「最初の頃はそれこそ博士にくっついてないと眠れなくて……今は明かりをつけたまま寝てます」
わかばはどうもしっくり来ないのか、そろそろそと隣に座ったりんに体を寄せてきた。
「あの……もうちょっとだけ……近づいていいですか」
「…………ああ」
若干の間を置いてから頷いたりんに、わかばはようやっとほっとしたような表情になり、りんの体に少し寄りかかるように向きを変えた。
ふわりとわかばの髪がりんの首や頬をくすぐり、りんは顔がかっと熱くなるのを感じた。
「……その……さっき言ってた」
「はい」
火照りを誤魔化すように軽く咳払いし、りんは言葉を続けた。
「厳密には家族じゃないってのは、あいつが言っているのか」
「いいえ、博士はもっと普通でいい、と言ってくれるのですが……」
「なら、別にいいんじゃないか」
「そうは言いますけど、やっぱり私を引き取った事で、その、責任とか、いろいろどうしても負わないといけないじゃないですか」
「負わせたくないのか」
「……迷惑になりますし、引き取ってもらった事でもう十分なので」
りんは、なんとはなしに天井の方に目を向けてぽつりと
「りりも、最初の頃あんまり馴染まなくて俺の事遠巻きに見てて……。後で聞いたら迷惑になるかも、とか思ってたって言ってたな」
わかばは何か言おうとして口を開き、ふっと息を吐いてりんを見上げた。
「責任は、まあ確かに負う事になるけど……妹たちみたいに兄さんと呼んでくれたのはやっぱり嬉しい」
「そう、なんですか」
「頼られたら、まあ、嬉しい。兄として向こうが扱うって事は、信用とか、頼ってくれていると言う事だから」
りんの言葉をわかばは考え込むように聞き、やがて何かを思いついたのか
「博士も、呼んだら喜んでくれるでしょうか」
「え、兄さん、とか? まあ、あの感じだと喜ばないって事はないと思うが」
りんの答えにわかばは嬉しそうに小さく笑い、りんの肩に頭をぐりっと押しつけた。
「りんさんはすごいなぁ」
「何……なにが」
若干裏返った声に一瞬なり、りんは咳払いして言い直す。
「暗いところに居るのに、今はあまり何とも思わないんです」
「そう……か」
りんは少し躊躇ってからわかばの頭に手を置いて撫でた。

ワカバは急いで玄関の戸を開けて中に入った。案の定、中は暗く静まりかえっている。
「ただいま。ごめん、遅くなって。大丈夫?」
何かあったときのためにと用意していた大きめのLEDランタンを玄関の戸棚から出して明かりをつけ、ワカバはランタンを持って居間に入った。
「え……っと?」
ワカバはどう反応すればいいか分からず、うたた寝しているりんと、隣にくっつくように寝ているわかばをしばし眺めて立っていた。
ちょうど、停電も回復したのか明かりがついて居間や、廊下が一斉に明るくなった。
「……えーっと、お二人さん?」
明るさと、呼ばれた事で飛び上がるようにりんが跳ね起き、りんの動きに合わせてわかばが目をこすりながら起き上がった。
「あ、博士、お帰りなさい」
「ただいま」
わかばの頭を撫でて返事をすると、ワカバは首をかしげてりんを見つめた。
「あの……雨宿りさせてもらってて」
「ああ、あの雨に当たったんだ。災難だったね」
「あの、博士の服貸してしまってるんですけど」
「別にいいよ。でもうーん……」
ワカバはりんを見つめて、何か思うところがあったのか悲しげに首を振った。
「まあいいや。でも……彼の服は大丈夫?」
「ああ! 乾燥が……」
わかばは慌てて洗濯機を見に走って行き、呻くような声を上げた。
「ああ、停電で止まってる……。すみませんりんさん、アイロンかけて見るんで、ちょっと待ってもらえます?」
わかばはばたばたとアイロンを引っ張り出してきて半乾き状態のシャツにアイロンをかけ始めた。
「あの、一応借りた服、洗って返すので」
ワカバにりんは頭を下げたがワカバは手を振って
「気にしなくていいよ。ところで、何もなかったよね……?」
笑顔のままのワカバの問いにりんはこく、と頷いた。
「そんな怒ってないよ。ただ順番は守ってほしいだけで。今日は一人でなくてよかった」
ありがとう、とワカバはりんの肩を軽くぽんと叩いた。

どうにかりんにシャツを返し、帰るりんを見送ったわかばは居間に戻った。
「今日はどうでしたか」
わかばの問いに、ワカバは楽しかったよ、と言ってお土産のお菓子を指さした。
「バタバタしてたから言えなかったけど、りり達が来たらみんなで食べよう。彼もね」
「そうですね」
わかばは頷き、少し間を置いてワカバに声をかけた。
「あの……いいでしょうか」
「何?」
「もし、嫌でなければ何ですけど」
ワカバは広げた学会誌を脇に置いてわかばを見守った。
「りんさんが……言ってたんです。頼ってくれると嬉しいって。……偶にはその、呼んでもいいですか?」
「ん、なんて?」
「兄さ、ん」
ワカバは一瞬きょとんとした表情でわかばを見つめていたが、徐々に相好を崩して
「偶に……だけ?」
「あ、えーっと、時々……」
慌てるわかばに、ワカバはえへへ、と擽ったそうに笑った。
「お兄さんかぁ。僕、一人っ子だったからなぁ」
喜ぶワカバの様子に、わかばは初めてここまで嬉しそうにしているように見え、ほっと息を吐いた。

次にりんに会ったときにこの事伝えよう。明日は来るだろうか。来てくれたら……なんて言おう。

わかばは弾む足取りでキッチンに向かった。

雨に降られたりくはブツブツ文句を言いながら洗濯かごに服を入れようとして、あれと首をかしげた。
りんも雨に降られて濡れたと言っていたが、それらしいシャツが二枚、しかも気のせいか片方のシャツは若干サイズが違うように見える。好奇心に駆られて引っ張り出していると、二階から下りてきたりんと目があった。
「りく、帰ってたの……か」
「んー? さっきな。ところでさー、りん。これ誰の?」
りくはにっと笑みを浮かべて弟の肩をトントンと叩いた。りんは、思わず視線をそらして
「友達……の兄弟のシャツ……借りたから」
「友達なら別にそいつから借りればいいだろ? わざわざ兄弟の物借りないだろ普通」
恐ろしい事に、この姉はこういう時なぜか勘が鋭かった。りくは冷や汗を流す弟ににこやかな顔と、とびきり優しい声音で言った。
「で、そのお友達ってのは可愛い?」